ブログ「日日耗日」 日米開戦への道@

平成25年11月10日作成


 『日米開戦への道』湘南の暇人・日日耗日(ひびこうじつ)ブログより

2011/08/06 昭和16年

今年は2011年、「昭和」で勘定すると86年、70年前の昭和16年12月08日、米国ハワイ真珠湾を日本海軍が攻撃して日米の戦争が始まった。今思えば、随分馬鹿なことをしたと指摘するのは容易いが真実。どのメディアも何らかの検証をしていると思うが、購読する「産経新聞」では、月に一度「日米開戦70年目の検証」を掲載している。02月から07回目、今月は、本日06日「あと4カ月」のサブタイトル。

昭和16年07月26日、帝国陸軍は、南部仏印(当時のフランス領インドシナ、ビルマ・ラオス付近)に進駐。08月01日にアメリカから「石油禁輸」の措置を受ける。当時海軍の艦船には、必須の石油はアメリカから90パーセントを輸入していた。日本軍部はフランス領なら進駐も構わないだろうぐらいの安易な考えだった。前年の「日独伊三国同盟」締結で、もうとっくにポイント・オブ・ノーリターン(歴史的引き返し不能点)を過ぎていたが、ナチスドイツと同盟を結ぶことが決定的な日米開戦へと繋がる。今では解っている事実だが、アメリカは、日本の外務省・軍部の情報などは「
マジック」と謂われて、暗号は解読、日本の作戦はすべて“筒抜け”だった。「それは駄目ですよ」とのシグナルも無かったらしくアメリカ自体が、日米開戦を望んでいたことが明らかである。

個人的だが『私解 戦争の昭和史』を何度も書き直している。平成20年に「@帝国陸・海軍は何をしたのか」で、昭和19年の「インパール作戦」、平成21年に「A帝国陸・海軍とは何だったのか」で「東條英機の人間関係」を推敲して以来、第三章の「日米間対立」「日米交渉決裂」に関わる参考書を二年間かけて読み直した。「日独伊三国同盟」を推進した当時の「松岡洋右外務大臣」がいちばん悪い政治家と安易に思っていたが、真相はやや軌道修正を余儀なくされている。今では政治家で誰がいちばん悪かったと指摘すれば、それは内大臣・木戸幸一なのは間違いない。恥も外聞もなく主に「近衛文麿」に責任を転嫁した。言論人では徳富蘇峰、陸軍では杉山元、海軍では永野修身が日米開戦の責任者。東條英機は、今も昔も変わらない、総理大臣は「軽くてパア」が良かった。木戸幸一は、近衛文麿に責任を転嫁、昭和52年まで生き、徳富蘇峰に至っては江戸時代末期の生まれで昭和31年まで生きた。罰を受けることなく、責任も感じないで存えたことで罪は重い証拠だ。言い過ぎかも知れないが木戸は“
暗殺”を恐れ保身に終始した。そこが伝統と歴史を矜持とする近衛文麿との相違である。

そして日米開戦を何よりも望んだのは、真相を何も知らされなかった国民・世論だった。つまり「朝日」「毎日」新聞には、それを望んでいなくても世論誘導の責任があったのは間違いない。その証拠に、太平洋・大東亜戦争の主要な画像は、その殆どが朝日・毎日新聞に
著作権があるのは否定できない。


2011/08/10 ポイント・オブ・ノーリターン

このブログで御厚誼頂いている関西の方から質問がなされたので可能な限り、筆者が知る限りにおいてその設問に応えてみようと思う。それが自分の勉強・確認にもなる。

日米戦争に至る日本が≪「引き返し不可能地点」まで来てしまった
元凶は誰(複数)なんでしょうか?≫が設問である。この日米開戦のポイント・オブ・ノーリターンはおおよそ次の事変が考えられる。

@昭和16年07月29日 南部仏印進駐
この時点ではもう明らかに後戻りできない感がある。南部仏印はフランス領インドシナ、当時のビルマ・ラオスでシンガポールは近い。アメリカとの対立は、当初はイギリスだった。
A昭和15年09月27日 日独伊三国軍事同盟締結
昭和12年の「日独防共協定」を発展させたもの。英仏と対立するナチス・ドイツと手を組む、協定は今日では考えられない。「ユダヤ人虐殺」が解るのは戦後のこと。アメリカの本音は“無法者”のヒトラー、ムッソリーニのファシズム国家と提携する日本にはもう妥協する余地は無い。
B昭和12年07月07日 盧溝橋事件、日中全面戦争
「満洲国」をウィキペディアで検索するとA4で16頁にもなる。日本は、事実上、傀儡政権を創ってからは後に引けなくなった。10万人の英霊・戦死者を出したのが撤兵できない陸軍の理由。関東軍の暴走ではあるが、帝国と云いながら貧しい日本全体が富を求めて大陸へ進出した。むろん国策だが貧しい農民を中心はこれに応えたのは間違いない。これは国策。軍部だけの責任ではない。中国人・朝鮮人への侮蔑は明治時代からである。
C昭和06年09月18日 満洲事変
関東軍の暴走によって有無を言わさず、新国家を造ってしまった。ひとこと弁明すれば中国は、今では広大な国家だが、当時は謂わば「群雄割拠」の状態。日本民族のような単一民族ではなく、漢民族・朝鮮族・満洲族・モンゴル族など統一された国家ではなかった。孫文の革命は志半ばだった。関東軍作戦主任参謀の石原莞爾と高級参謀の板垣征四郎の謀略により事変は引き起こされ政府は追随した。蛇足ながら文化勲章受章者で指揮者の小澤征爾はこの二人から名を頂戴している。

私には「三国同盟」が、ポイント・オブ・ノーリターンだと思われる。この分岐点超えた元凶の日本人10人ほど挙げてみたい。昭和15年・16年は、一人の政治家乃至は軍人がリードしたわけでは決してない。あらゆる責任は、現今の日本と同じく権限が縦割り状態で、唯一決断できる昭和天皇は、大日本帝国憲法でがんじがらめにされていた。厳密に当時の憲法に照らせば天皇の「終戦の決断」こそが重大な憲法違反になる。

昭和61年04月、NHK特集で「ドキュメント昭和」なる特集があったらしい。私はこれを見ておらず録画もしていなかった。これが後に角川文庫で9冊出版されている。第一巻の『理念なき外交「パリ講和会議」』のP222の画像である。「パリ講和会議」とは大正08年・1919年、第一次世界大戦の終戦処理だった。日本も世界の5大国として参加したが、サイレント・パートナー(沈黙する人・沈黙せざるを得ない人)だった。文庫本の見開きだから画像は不鮮明である。

     

前列左から3人目が松岡洋右、6人目が重光葵、8番目が吉田茂、中段右から10人目が近衛文麿、前列折目の右側が全権代表・西園寺公望(第12代総理大臣)、左が牧野伸顕(大久保利通次男・吉田茂の岳父)。随行団の若手は、昭和になってから節目に存在する外交デビューとなる。

2011/08/11 日独伊三国軍事同盟

日独伊三国同盟とは、1940年(昭和15年)09月27日に日本・ドイツ・イタリアの三国で締結された同盟関係。いわゆる第二次世界大戦時の枢軸国と呼ばれた。1937年(昭和12年)の「日独伊防共協定」を具体化し、アジアにおける日本の後の「大東亜」の地位とヨーロッパの独伊の覇権の相互確認で、他国から攻撃されたら相互に援助すると取り決めもなされた。

ナチス率いるドイツと対立するイギリスやオランダとの関係が悪化し、アメリカの対日感情も悪化することに懸念はなかったのか、当時の世界情勢には軍部を中心に甚だ無頓着だった。軍部の主流は、国力はそっちのけの帝国主義的発想で、何としても中国本土や東南アジアでは、一等国の地位を目指した。昭和06年の「満洲国成立」は、日本の為政者、軍部がソ連の共産主義革命に怯えたとのある種の理由は存在していたのは確かだ。ナチス・ドイツは、日本の思惑などどうでもよく、ヨーロッパ戦線におけるアメリカの参戦を牽制する意味合いが濃かった。三国はイギリス・スペインなど欧州の主流に比べると植民地獲得が少なく、それぞれの国情が一致したに過ぎない。よく考えれば、日本が遠く離れたドイツやイタリアと軍事同盟を組んでも得するものは無かった。

締結以前、昭和14年には、英米協調派が少なからず居た海軍には反対が多く、米内光政(海軍大将・総理も経験)・山本五十六(海軍中将)、井上成美(しげよし・海軍少将)のトリオは、実利のない条約には猛反対で「条約推進派」を怒らせた。だが昭和14年・1939年、ドイツのポーランド進撃に始まる大勝利が、日本の陸軍はおろか海軍、外務省、国民までも熱狂させた。前年の昭和13年にはナチス親衛隊の“ヒトラーユーゲント”が来日。張り切ったのが朝日新聞、日比谷公会堂で「歓迎講演会」など文部省と共催して大いに盛り上げた。この新聞の罪は重い。今は意図的に触れない。“厚顔無恥”はここに存在する。

日本は、既に日中戦争で莫大な戦費を費やしており、蒋介石政権を支援するアメリカと対立しつつあった。「日独伊防共協定」を発展させ、アメリカを牽制することで、日中戦争を有利に処理しようとしていた。日本がアジア太平洋地域の英仏蘭の植民地の支配を事前にドイツに了解させる意図もあった。ドイツが完全に勝利することを無邪気に疑わなかったことになる。それが希望的観測になるだろうと疑う人も多くいた。

2011/08/16 日米開戦への道01 
松岡洋右

「日独伊三国軍事同盟」を推進した第一人者は、「松岡洋右」。昭和15年(1940)07月22日に成立した第二次近衛文麿内閣で、近衛に請われて外務大臣に就任した。内閣成立直前の07月19日、近衛が、松岡、陸軍大臣・東條英機陸軍中将、海軍大臣・吉田善吾海軍中将を別宅「荻外荘(てきがいそう)」に招いて行った「荻窪会談」で、松岡は、軍部になびいている外交のリーダーシップを強く要求。自らの強い信念とそれまでの大人しい外交に大いに不満を持っていたからである。結論から云えばその唯我独尊的な“松岡構想”の思惑が外れ失敗に終わることになる。だがどんなに主義主張、リーダーシップ、外交理念があっても日米対立の解消は松岡一人では無理だったことが解る。なぜなら外務省主流がものの見事にサボタージュした。

昭和15年・16年頃の「日米間対立」「日米間交渉」は「私解 戦争の昭和史」で現在推敲している。ここでは先に10人ほどの政治家・軍人などの重要点を列挙すると、それが「日独伊三国軍事同盟」だけでなく太平洋・大東亜戦争の≪ポイント・オブ・ノーリターン≫にもなる。
(この項は
『私解 戦争の昭和史』「日米対立」の記述と重複します。)

松岡洋右は、明治13年(1880)、現在の山口県光市室積出身。国東半島も臨める瀬戸内海沿岸。生家は≪今五≫(今津屋五郎左衛門)の看板を掲げる廻船問屋で四男だった。≪今五≫は幕末の長州藩の下級武士のスポンサーで高杉晋作や山縣有朋などを支援していた。父親が事業に失敗し破産したこと、父親の親戚が渡米して成功を収めていたことなどから13歳で渡米する。だが留学とは名ばかりで苦学してアメリカ西部のオレゴン大学法学部を明治33年(1900)に卒業する。母親の健康状態悪化などを理由に明治35年、九年振りに帰国。直木賞作家で元・読売新聞記者の三好徹氏によれば、帰国せず東部のコロンビア大学、ハーバード大学に学んでいれば、松岡の「二流のトラウマ」はなく、日本の近代史は変わっていたかも知れないとの指摘もある。後年、松岡が元勲・山縣有朋に「今五」の倅であることを告げると山縣の別荘・目白の椿山(ちんざん)荘(文京区関口)に招かれ上座に置かれてもてなしを受けた。この時から松岡は、二流のトラウマを乗り越えるべく長州出身の選良意識が芽生えたのは当然。

松岡はアメリカ西部の二流大学“夜間部”出身だが頭脳は極めて優秀、明治37年(1904)に外交官試験に首席で合格した。このことは、まだ明治時代末期なのに、もうすでに≪東大法学部卒・いわゆる各省庁のキャリアが主流≫を、松岡は感じ取っていた。キャリアは頭脳優秀だが、現実の外交には、松岡には、ひ弱で役立たずに思われた。その矛先をひとり挙げれば、戦後、昭和20年10月より半年間だが総理大臣にも就任した幣原(しではら)喜重郎である。幣原は大正時代末期から何度か外務大臣に就任。妻は三菱財閥創始者の岩崎弥太郎の娘だった。東大法学部卒・華麗な閨閥で、イギリス勤務のときは、本場で英語の個人レッスンを受けた。流麗な英語を駆使し、“欧米協調外交”を展開する幣原に松岡には欧米流の外交官を真似しただけの「鹿鳴館」もどきにしか映らなかったとは多くの先達が指摘する。

ここでは近代史で知られている松岡洋右に関する事項を4点に絞る。
@大正08年(1919)からの「パリ講和会議」には、随員だが報道係主任として派遣され、サイレント(沈黙・おとなしいの意味)パートナーと揶揄される日本政府のスポークスマンとして英語の弁舌で力を発揮。初代総理大臣・伊藤博文の息子により紹介され、同じく随員であった近衛文麿とも出会う。近衛は全権代表の西園寺公望の将来を託した単なる随員だった。この会議には戦後の総理大臣・吉田茂、外務大臣になった有田八郎・重光葵もおり、吉田茂の岳父・牧野伸顕も代表の一人だった。

A松岡は、南満洲鉄道勤務のあと政友会の衆議院議員になった。昭和06年(1931)01月(満洲事変が勃発するのは09月)、濱口雄幸(はまぐちおさち・昭和05年11月、「特急つばめ」に乗るために東京駅に来たところを狙撃される。翌年死亡)内閣の幣原喜重郎外務大臣による「欧米協調外交」を批判した。その演説で有名になったのが「満蒙は日本の生命線」とのフレーズ。満洲事変以降よく使われたスローガンになった。たとえば「龍角散」のキャッチコピーに引用され「咽喉は身体の生命線、咳や痰には龍角散」がそうである。濱口雄幸の暗殺はその後、五・一五事件の犬養毅、二・二六事件の高橋是清・斎藤実(さいとうまこと)両元首相の暗殺とエスカレート。総理大臣暗殺が戦争をもエスカレートさせたことは十分立証されている。

B昭和06年(1931)の「満洲事変」の後、国際連盟は「リットン調査団」を派遣、その報告書が09月に提出。ジュネーブ特別総会での採択を待つ。松岡は同総会に日本の首席全権として派遣された。その類まれな英語での弁舌で12月08日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。「十字架上の日本」と解釈できる内容。演説自体は絶賛の拍手を浴びる。だが翌年02月24日、行われた総会で「満洲国は認められない」との報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=タイ)の圧倒的多数で可決。松岡は予め用意の宣言書を朗読して退場。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を決意する文言はないが、昭和07年03月08日に日本政府(斎藤実内閣)は、脱退を決定(同27日連盟に通告)。翌日の新聞には『連盟よさらば/連盟、報告書を採択、わが代表堂々退場す』の文字が一面に大きく掲載された。満洲事変以降は、新聞・雑誌メディアは、ナショナリズム一辺倒だった。とにかく「満洲事変」の報道で新聞は大いに売れたのである。傷心して帰国した松岡は逆に「英雄」として迎えられた。演説のあと、ジュネーブからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは独裁体制を確立していたムッソリーニと会見。アメリカ・オレゴンに寄り、東洋の少年・松岡をも分け隔てなく接して育ててくれたオレゴン時代の大恩人ベバリッジ夫人の墓を詣で、墓を造り直してもいる。

C第二次近衛文麿内閣で20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰。重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、「革新派外交官」の白鳥敏夫を外務省顧問に任命。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させた。このいわゆる“
松岡人事”は、ことの是非はともかく今でも歴代外務大臣では、最低の大臣として記憶されているらしい。であれば外務省は、人事・序列が世界情報より重きを為すことになる。このあとの日米開戦通告の遅れなどは殆ど「外務省中枢」のサボタージュと云われている。今も昔も役人自身の人事は国益より優先である。

        

「日独伊三国軍事同盟」は昭和15年(1940)09月27日成立し、松岡は翌年昭和16年(1941)03月13日、ドイツ・イタリアを歴訪、ヒトラー・ムッソリーニと首脳会談を行い歓迎を受ける。帰途モスクワに立ち寄り、04月13日には「日ソ中立条約」を電撃調印。シベリア鉄道で帰京する際には、スターリン首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあう場面もあった。松岡ならずとも有頂天になるだろう。この訪欧の最大の眼目が、スターリンとの会談だった。いわゆる松岡の外交構想は、「大東亜共栄圏」(このフレーズも松岡が公人としては初)の完成を目指し、ソ連と「不可侵条約」を結んでいるドイツと共に“ユーラシア枢軸構想・四国連合構想”を完成させ、米英との勢力均衡を土台にして、アメリカ・ルーズヴェルト大統領と日米交渉をすることだった。そのことが日米対立を解消すると松岡は真剣に考えていた。これは急進派の筆頭・白鳥敏夫の構想。共に英語力抜群の「肝胆相照らす」中だったのが考えられる。(画像は日ソ中立条約調印)

だが帰国する前に正規のルート以外で「日米交渉」が行われていた。今でも信じられないことだが外務省のサボタージュで浮き上がっている海軍大将・野村吉三郎駐米大使らの「日米交渉」も進まなかった。むろん米国国務長官コーデル・ハルには、信用できないと相手にされなかった。松岡の「四国連合構想」も、松岡ひとりの腹芸の域を出なかった。違うルートでアメリカ政府と交渉しようとしていたからである。独ソ戦争が勃発すると松岡は締結したばかりの「日ソ中立条約」を破棄して「対ソ宣戦」することを閣内で主張。近衛文麿や軍部の「南部仏印進駐」を閣内で一人だけ強行に反対した。近衛は07月16日内閣総辞職し、松岡外相を更迭した上で第三次近衛内閣を発足。唯我独尊の松岡も「南部仏印進駐」が対米英戦争の原因となることを察知していた。それが証拠に訪欧時にヒトラーに何回となく催促されたのにイギリス植民地の「シンガポール攻略」だけは拒否していた。エリート外交官の幣原喜重郎とは意図的に対立せざるを得なかったが、この「南部仏印進駐」だけは、アメリカの対立が決定的になるのとの考えは共通している。

松岡は、自分がアメリカへ乗りこんで決着させる日を夢見ていたが、昭和16年12月06日、「日米開戦」を知り「三国同盟は、僕一生の不覚であった、死んでも死にきれない」と周囲に漏らし涙を流した。外相更迭の頃から「結核」に倒れて昭和20年、敗戦の頃は別人のように痩せ細っていた。A級戦犯容疑者として連合国GHQの命令により逮捕されたが、結核悪化のため極東国際軍事裁判法廷には一回しか出席できなかった。昭和21年06月27日、東大病院で病死、66歳。辞世の句は「悔いもなく怨みもなくて行く黄泉(よみじ)」。すべて日本的なるものへの決別の意味もあり、臨終のわずか数時間前、カトリックの洗礼を受けた。洗礼名は「ヨゼフ」。

松岡洋右は学歴・閨閥に関係なく能力のみで、当時サイレントにあった日本の外交の舞台に踊り出て、本音で日本の立場を考慮したことを評価する。失敗に終わったが、今も昔も日本の外交官はエリート意識の強い官僚で、日本の国益を考えた外交努力は二の次である。仕事はマニュアル通りで情報・諜報に関しては北朝鮮にも劣る。当時の外交官は、世界の情勢を把握しているのに軍部に逆らえない役立たずだった。少なくとも松岡は、それを打破しようと己の能力に賭けたのは間違いない。

実妹・藤枝の子が「佐藤寛子」、寛子は従兄の佐藤栄作と結婚。栄作の兄は岸信介。義理の甥の二人は東大法学部卒。戦後、兄弟共に総理大臣になったが松岡は知る由もない。最後に病床を見舞ったのは若き佐藤寛子・栄作夫婦だった。

主要参考書
◇『松岡洋右』三輪公忠 中公新書
◇『松岡洋右─夕陽と怒濤』三好徹 人物文庫

2011/08/20 日米開戦への道02-1 
近衞文麿

「日独伊三国同盟」が締結されたときの政権は「第二次近衛文麿内閣」。ここでは近衛文麿とはどんな人物で、どういう風に「太平洋・大東亜戦争」に関わったのか、知りたいと思う。およそ近代史・昭和史の書物に「昭和天皇」と「近衛文麿」の名が無い書は、見つけることが困難なほどの政治家である。近衛文麿に関する重要事項を列挙しただけで長文のブログ記事になる。昭和史において避けて通れない事項は「見出し」に止め「暗殺されても仕方がない」と覚悟した昭和16年09月の“アメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルト─近衛文麿、頂上会談”に思いがゆく。

近衞文麿は、明治24年(1891)生れ。昭和20年(1945)12月16日、GHQ出頭命令当日の深夜服毒自殺。出自は遠く藤原鎌足まで遡る。平安時代の「藤原忠通」がはっきりした祖先だが、天皇家を「近く」に居て「衛(まも)る」ところから、近衛姓を名乗る。いわゆる五摂家の筆頭格である。ただ江戸時代上期に近衛信尹(のぶただ)に子が無く107代・後陽成(ごようぜい)天皇の第4皇子を養子にする。つまり近衞家の第30代目当主だが、後陽成天皇の12世子孫にあたる。

ミュージカル『異国の丘』の主人公・近衛文隆は長男。終戦間際、中国大陸に居てソ連軍に捕まりシベリアに抑留され、昭和31年帰国寸前病死。誰が考えても粛清である。次男通隆は、近衛が青酸カリ自殺したとき隣室に居て防げなかった。大正12年生まれで元東大教授、健在である。次女・温子(よしこ)は23歳で早世するが、秘書でもあった熊本・細川藩末裔の細川護貞との間に二人の子を成す。長男は平成05年、79代総理大臣に就任した細川護熙、次男は護輝。忠てる(火+軍)と改名して近衛家を継ぐ。妻は三笠宮家の長女・やす子(宀+心+月)。長男の忠大(ただひろ)は、「宮中歌会始」などで朗詠する姿が見られるが、近衛文麿の曾孫になる。「近衛家の戦争」(平成16年放送・録画)を見たが、曾祖父に貌がよく似て居て英会話も堪能である。同時出演の日系五世が、日本語が喋られないのは情けないことではある。(忠てる・やす子は“文字化け”)

近衛文麿は、第三次まで内閣を組織するが、とくに二・二六事件のあとの4年間に総理大臣を任され、国家予算の70パーセントを費消する軍部は最後まで抑えきれなかった。本人にしてみれば「天皇の次に偉い自分の云うことは誰もが承知する」と安易に考えていた。この点が評価の分かれるところだが、いわゆる日本の軍国主義者は、中国本土の「関東軍」のように昭和天皇・大元帥の「日米避戦」の思惑さえ無視した。今日では出先機関の暴走は「関東軍」と揶揄される。日本の軍人は「軍事攻勢が富国」を最後まで信じて疑わなかったことになる。近衛文麿は今では殆ど軍人ですら「性善説」を絵に描いたような接し方なのが解る。うまく行かなければ人を説得するのではなくそれを避けて他を模索して、それも失敗することを繰り返したように思う。

◇大正07年(1918)に、論文「英米本位の平和主義を排す」を執筆。
◇学習院中等科時代の木戸幸一(内大臣)・原田熊雄(西園寺公望秘書)と友人となる。
◇昭和08年(1933)政策研究団体「昭和研究会」発足。「ゾルゲ事件」の尾崎秀実(おざきほつみ)も参加していた。
◇昭和12年(1937)06月04日に、元老・西園寺公望の推薦で、第一次近衛内閣を組織した。就任時の年齢は45歳。
◇昭和13年(1938)01月11日、御前会議でドイツの仲介による「トラウトマン工作」を参謀本部が求める方針だった。しかし関東軍の暴走を止められず、近衛は01月14日に和平交渉の打切りを閣議決定、01月16日に「爾後國民政府ヲ對手(あいて)トセズ」の声明を国内外に発表、講和の機会を閉ざす。
◇昭和15年(1940)07月22日に、第二次近衛内閣を組織。09月23日、北部仏印進駐。09月27日に「日独伊三国軍事同盟」を締結。
◇昭和16年(1941)07月18日に、第三次近衛内閣を組織。07月28日に「南部仏印進駐」を実行。これに対するアメリカの「対日石油全面輸出禁止」等の制裁により日本は追いつめられる。09月06日の「御前会議」で
「帝国国策遂行要領」を決定。アメリカ、イギリスに対する交渉期限を10月上旬に区切り、要求が受け入れられない場合、アメリカ、オランダ、イギリスに対する開戦方針が決定される。
◇昭和20年01月、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を上奏、戦争の早期終結を唱えた。

近衛文麿政権末期の昭和16年09月06日の「御前会議」が最も重要で、近衞はようやく日米首脳の頂上会談による解決を決意し、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーに極秘のうちに会談を申し込む。腰の重い、なにごとも決意できないでいる近衛にも「日米開戦」が現実味を帯びたことを認識したに違いない。事態が切迫していることを察知したグルーは、直ちに首脳会談の早期実現を要請することを本国に知らせた。だが、このあと度々叙述することになるがアメリカは暗号解読技術「マジック」で日本の軍事的、政治的方針などすべからく承知していたことになる。日本政府は陸海軍の随員、郵船会社の「新田丸」の徴発など、近衛文麿の命を賭した計画の「近衛書簡」をアメリカ側に提出した。ところがこの内容がアメリカのメディアに洩れてしまう。天の邪鬼を気取った私のような素人でも、どう考えてもこれはアメリカ政府の意図的な情報流失としか考えられない。情報が伝わった日本のメディアと右翼、世論までもアメリカと戦わずして屈服するのか、と非難轟々となるのは自明の理。今では殆んど理解されないが、当時は「日米避戦」など非国民以外なにものでもなかった。児玉誉士夫が「新田丸」に乗るため横浜港へ出向く近衛文麿一行を、多摩川にかかる六郷橋に爆弾を仕掛けて暗殺する計画があったらしいが真偽は不明。軍部を説得できない近衛は辞任するしか方法は無かったことになる。

この項の参考書
◇『近衛文麿─「運命」の政治家』 岡 義武 岩波新書
◇『あの戦争になぜ負けたのか』 半藤一利・保阪正康他 文春新書

2011/08/21 日米開戦への道02-2 
近衞文麿02

前回、近衛文麿の政治履歴を大づかみで叙述したが、今回は昭和史の書に著わされているエピソードから、その人となりを眺める。近衛文麿とは、軟弱でいい加減な性格で総理大臣には相応しくない人、むりやり総理大臣を押し付けられて気の毒だった人、果ては「共産主義者だった」などの指摘もある。

◇評論家・村松剛氏は、戦前戦後、大蔵大臣を務めた賀屋興宣(かやおきのり)に近衛文麿とは、どんな人物か問うている。賀屋の返事は≪あのひとは自分がハンコを突くと責任が発生するということが、どうしても呑みこめなかったのですよ。何しろあの家は、平安朝いらい駆けったことがない≫(『新潮45・昭和63年12月号・追悼昭和文化革命』P64「戦争と狂気の世紀に生きて」)村松氏も指摘するように、当時は公家出身者は「長袖族」と云って、急いで歩くことができない、転じて非常時は何も役に立たない、との認識があった。つまり文法的には可笑しいが「駆けった」ことがない、の指摘は、大蔵官僚の賀屋興宣にしては云い得て妙である。

◇近衛文麿の人となりを著わすエピソードとして多くの昭和史に引用される件である。≪近衛公爵は私に向かって「いよいよ仏印の南部に兵を送ることになりました」と告げた。私は「もう船は出帆したんですか」と訊くと「ええ、一昨日出帆しました」という。「それではまだ向こうに着いていませんね。この際、船を途中、台湾かどこかに引き戻して、そこで待機させることは出来ませんか」「「すでに御前会議で論議を尽して決定したのですから、今さらその決定を翻すことは、私の力ではできません」との答えであった。「そうですか。それならば私はあなたに断言します。これは大きな戟争になります」と私がいうと、公は「そんなことになりますか」と、目を白黒させる。私は「きっと戦争になります。…」と言った≫英米を知悉する外交官・幣原の予言は的中する。松岡洋右も本能的に危険を察知していて期せずしてエリート外交官も野武士のような外交官も英米の本質を理解していたことになる。知らないのは政治家・軍人だった。ここも重要なポイントなのだが「英米可分論」と何とも長閑な観測が軍部を支配していた。思えば日本軍部は開戦から敗戦まで希望的観測とそれに合わせて引き出した数字のオンパレードだった。ここに企画院総裁・鈴木貞一の無責任論が存在する。(『外交五十年』P209 幣原喜重郎 中公文庫)

◇近衛の古い友人、山本有三(作家)の晩年の手記の秘話である。近衛が昭和12年、最初の大命降下(総理大臣になれと云う天皇の命令)の頃、≪彼は、弟の秀麿といっしょに、軽井沢へ、自動車で行ったことがあります。その日は、あいにくの吹き降りだったので、中仙道では、行きちがう車もなく、歩いている人にも、ほとんど出会いませんでした。車は狭い街道を、どろ水をはねあげながら、本庄から高崎へ向かって走っていました。と、遠くに、黒い、何かが見えたと思っているうちに、道ばたに、車を避けていたおばあさんと、小さい女の子を、またたくまに、追い抜いてしまいました。近衛は、とっさに車をとめさせ、やがてバックを命じました。「あのおばあさんと子ども、どこまで行くのか、聞いてごらん」近衛がそういうと、運転手は不服そうに『あの、ばあさんにですか?』『とにかく、尋ねてみたまえ。』『車がよごれますがねえ。』『そんなことは、どうでもよい。』……ふたりは、かぶっていた雨よけのゴザをぬいで、車に乗りましたが、雨はすでに着物にまで滲みとおっていたようです。おばあさんは、くだくだしく礼も言わず、そのまま運転手の横に、娘といっしょに、腰をおろしました。この年寄りの動作は、飾りけがなくて、そこに自然の美しさを見たと、秀麿は言っています。もとより、おばあさんは、この車の主が、誰であるか知るはずがありません≫(『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』P161 工藤美代子 中公文庫)

このエピソードは近衛の性格と心情を如実に示す。自分が、華族出身の身分を疑問に思い「機会の平等」を言い、後年、共産主義者に見紛われるような「分配の平等」を言った。この書は、近衛の私生活まで描ききっている。近衛秀麿は異母弟で指揮者。

◇保阪正康氏は3000人もの戦争関係者を取材している。昭和天皇が倒れた昭和63年秋、細川護貞に取材している。前回、記述したように、細川は近衛の秘書にして近衛は岳父。子・護煕は平成05年、総理大臣になる。保阪氏は肝腎なときの近衛の弱さを執拗に追及した結果が次のようなものだった。あまり話したくはなかったらしい。≪「あのころ、その昭和16年10月半ばのことになるわけだが、近衛さんはひどい“痔”に悩んでいたんだね。痛くて痛くて、たまらないらしく、医者に診てもらっても、すぐには痛さはとれなかった。それに耐えながら、執務をしていた。陛下のもとに上奏にいかれた帰りなどでは乗用車の座席に座っていることもできずに、前かがみになってね、痛さに耐えていた。お尻を少しだけ椅子に乗せるという状態でしたね≫痔疾の痛さは、なった者でないと解らない。筆者も経験済みである。

≪日米開戦か、外交交渉か、と東條英機に詰めよられながら、近衛は、痔の痛さに耐えながら、その不快さに人間味を丸だしにして、東條と衝突していた。近衛にすれば、肉体の痛みは、開戦をひたすら主張する東條の強硬論でさらに倍加したはずであった≫近衛は後継首相を決める重臣会議を欠席する。それすら責任回避・逃避と執られたらしい。≪岡義武の『近衛文麿』にも「近衛は病いを理由として欠席したが、この会議において木戸は後継首班として東條を推し、重臣多数はこれに賛成した」と書かれているに過ぎなかったのだ。「病いを理由として」というのは、…実は、痔であった、と私はわかったのである。…近衛の痔の痛さは言語に絶するものであったのだろう≫(『昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』P205 保阪正康 講談社文庫)

近衛文麿は戦争責任者である、との決めつけはやや酷である。唯一の元老の西園寺公望や政治家の主張・姿勢を拒否する軍部、世相の期待は、近衛文麿総理を待望した。事実上、宮廷bQで近衛は、軍部に都合のよい人物に映った。第二次近衛内閣でも、当然本人も軍部も日米開戦など望んでいない。結果として成り行きとして日米開戦に至ったのが現実かも知れない。最後に近衛文麿の歎きと遺書を紹介。いずれも“『近衛文麿─「運命」の政治家』岡義武 岩波新書”からの引用。(この本は絶版になっているがネットで古本が流通)

「戦争前には
軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとのゝしられ、戦争が終れば戦争犯罪者だと指弾される。僕は運命の子だ」。また、「人間の一生は棺を蔽うてからでなければ、分らない。いや棺を蔽うて何十年も何百年も経つて後の歴史家が公正に判断してくれるだらう」。そして、「僕は運命の子だ。僕の周囲に今まで去来した数々のいろいろな分子、右といはず左といはずいろいろな人々が僕を取巻いたことが、否、取巻かれてゐたことが、今日の僕の運命を決定したのだ。これは僕の責任でもあり、悲しい現実であるのだ」(『前述書』P228)

「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪へ難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽したのである。その米国から今、犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへそこに多少の知己が存することを確信する。戦争に伴ふ昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語と是等一切の所謂輿論(いわゆるよろん)なるものも、いつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。」(『前述書』P233)近衛文麿の画像すべてに云えることだが、その視線には常に、難問を押し付けられた「なぜ自分が」と感じられ猜疑・懐疑・不信の心情が仄見える。

2011/08/30 日米開戦への道03-1 「
統帥権(とうすいけん)」とは何か。

国民的作家・司馬遼太郎が晩年(平成07年02月死)エッセイで度々取り上げたのが「統帥権」と「土地問題」である。(『この国のかたち4』文春文庫)バブル経済における「土地問題」も重要だが、司馬遼太郎が統帥権を声高に語るのはそれなりの理由がある。自身も学徒出陣で徴用されたからである。昭和18年11月、大阪外国語学校を仮卒業。翌年04月に、満洲四平の「四平陸軍戦車学校」に入校し12月に卒業。生死を分けたのは、戦車学校で成績が良かったからである。つまり愚かな「大日本帝国陸軍」の更に愚かな「本土決戦」作戦によって戦闘も経験せずに済んだ。昭和20年、栃木県佐野市に小隊長として配属されたからである。作家になってから折に触れて追及する統帥権は、帝国陸軍の戦車の愚かさを通して経験的・合理的・科学的にこれでもかと徹底的に明らかにした。『歴史と視点』(新潮文庫)に詳説されている。

司馬ファンなら誰でも知っている「大日本帝国陸軍の愚かさ」をここでは一つ紹介する。司馬は陸軍少尉としてこの地で終戦を迎えた。エピソードは昭和20年05月の敵上陸の想定演習の件である。≪敵上陸を想定しての演習があった。そのとき、たしか高崎経由で南下する要路だったと思いますが、東京からの避難民が大八車に家財道具を積んで逃れてくる。当然ながら混維が予想されるので、交通整理はどうなるのか聞いた。すると、大本営から指導にきていた東北人の少佐参謀がずいぶん考え込んだあげく「轢き殺して行け」と言った。『司馬遼太郎対話選集6・戦争と国土』P45≫つまり国民の生命を守る筈の軍隊が、アメリカとの決戦しか頭には無く、戦車隊としては組織の都合を優先したわけで、司馬遼太郎でなくても怒りが湧く。当時の国道など今の県道以下で舗装もされていなかった。いざ戦争になったら自分たちの戦術・戦闘以外は、国民の命にさえ思考力が及ばなかったことにある。

当時の「大日本帝国憲法」では、統帥権と統治権は次の通り。
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム

戦前の大日本帝国憲法下でも三権分立は存在した。議会・内閣・司法(大審院)である。だが今日のように主権在民でなく主権は天皇にあった。第03条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とある。(「ヘカラス」は“べからず”だが、昔の公文書は濁音が省かれている。)従って内閣・行政は政治家が輔弼(ほひつ)、軍部は輔翼(ほよく)と云って天皇に信任された者が責任を持ち政治・軍事を遂行した。憲法上、天皇はいわゆる「無答責」だった。つまり統帥部とは、天皇が持つ統帥権を付与された機関であり、軍事の最高機関だった。

昭和史で多くの識者に指摘される軍部の「省部」とは、
◇陸軍省・海軍省 = 軍事の予算・編成
◇統帥部 = 戦術・戦闘・作戦

とくに統帥部は、陸軍は「参謀本部」で責任者は、参謀総長、海軍は「軍令部」で責任者は、軍令部長だった。この統帥部の作戦部・作戦課は、陸軍大学・海軍大学を優秀な成績で卒業した一握りの軍人のみが担当していて秘密主義だった。陸軍・海軍大学とも年度卒業者50人のうち1割の5人は「恩賜の軍刀組」と云われ、天皇から軍刀が下賜された。ここに云わずもがなの特権意識が芽生える。現今の「東大法学部卒」「国家公務員上級職」取得といったところか。この統帥大権は大元帥の天皇ゆえに、行政側の内閣総理大臣さえ介入することは許されなかった。よく知られているA級戦犯として処刑された東條英機でさえ統帥部には一切口出しは出来なかったことにある。この謂わば“縦割り”責任の弊害が日米開戦へ導くのである。このメカニズムを知らないからこそ、昭和天皇は「敗戦の決断」が出来たのだから「開戦の決断」も阻止出来た筈、との安易な判断となる。

参考書
◇『あの戦争とは何だったのか』保阪正康 新潮新書
◇『統帥権と帝国陸海軍の時代』秦郁彦 平凡社新書

2011/09/03 日米開戦への道03-2 “統帥権”とは何か02 「
統帥権干犯(かんぱん)問題」

昭和61年、1回45分間、12回に渡り「昭和への道」が放送された。(NHK教育TV)司馬遼太郎が、殆どメモも無しにテレビカメラの前での一人語りだった。録画したがVHSの走りで3倍モードだったので画像も音質も悪くまことに残念の極みである。これはNHKブックスで書として残っている。初回放送の言葉は強烈なものだった。

≪日本という国の森に、大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をボンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。この魔法はどこから来たのでしょうか。魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をするということになりました。≫

むろん「魔法の杖」は、“統帥権”にほかならない。だがこれも「統帥権の独立」「統帥権の行使」など、その法的根拠や歴史を語るだけで何冊もの本になる。ここでは統帥権が独り歩きする「統帥権干犯問題」を知ることによって軍部が政治を乗っ取っていく端緒となったことの概略を記したい。だが干犯問題があろうと無かろうと統帥権も統治権も天皇にあったことにある。「統帥権」は政府から独立していたため、総理大臣といえども直接介入できないことが、軍部の暴走の口実となった。そのことを軍人に知らしめたのが、政争に明け暮れる政治家そのものだった。

「日露戦争」のあと大正時代になると明治維新を成し遂げた元勲も表舞台から消え、いわゆる「大正デモクラシー」で原敬(はらたかし)内閣が成立する。大正時代末期には、高橋是清、犬養毅、加藤高明の3人が中心となって、護憲三派を形成、「第二次護憲運動」が始まる。大正14年、第24代内閣総理大臣・加藤高明内閣で「普通選挙法」が成立する。だが就任1年半で加藤が病死したことから暗雲が漂い始める。普通選挙法と抱き合わせで「治安維持法」が施行される。この時は大正15年・昭和元年である。昭和に入って三度も大命降下(天皇から組閣を命令される)のあった宇垣一成(うがきかずしげ)が陸軍大臣で行ったのはいわゆる「宇垣軍縮」と言われる軍人の大量解雇だった。人件費を減らし兵器を近代化するのが本心だったようだ。日米開戦前の「アメリカ憎し」と同じで、世相は軍縮ムードだった。関東大震災にも見舞われて、大日本帝国と云いながら国の経済が下り坂だったからかも知れない。宇垣軍縮の恨みは、軍部に根強く敗戦まで付きまとう。

大正時代から昭和初期「原敬」「浜口雄幸」「犬養毅」「高橋是清」「斎藤実」の5人のその時の現職、或いは元総理大臣が暗殺されて命を落とす。更に軍部に拒否されて総理大臣になれなかったのが宇垣一成、昭和10年、暗殺された永田鉄山も陸軍では、世界を見渡せる優れた軍人であり、共通するのは“軍縮”である。どの昭和史の書だか忘れたが、この軍縮で軍人の仕事を奪われて失業したことが軍部の底流にあった。その不満を吸収したのが“統帥権干犯問題”である。

いわゆる「統帥権干犯問題」は第27代総理大臣・浜口雄幸(おさち)のとき、昭和05年(1930)に起きる。第一次世界大戦後の国際的な軍縮ムードの中で行われた「ロンドン海軍軍縮条約」調印をめぐる政争である。このとき財部彪(たからべたけし)海軍大臣が出席して補助艦総トン数は、対英米比率70%での妥結調印の方向で政府の了承を受けるべく連絡する。03月27日、浜口首相はこれを受け、統帥権を持つ最高司令官たる昭和天皇に決裁・許可をもらった。ここでは長くなるので省くが海軍の「艦隊派」(世界との協調を重んじるのは「条約派」)は、海軍軍令部長などが拡大解釈し、兵力量の決定も内閣が関与すべきでないと主張した。浜口雄幸は立憲民政党総裁である。

昭和05年04月下旬に始まった帝国議会では、与党・浜口を野党が攻め立てた。立憲政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎だった。現在の民主党、元首相・鳩山由紀夫の祖父である。軍令部の反対意見を無視した条約調印は「統帥権の干犯である」と政府を攻撃。この騒動は、民間の右翼団体をも巻き込む。昭和天皇は、これを裁可して「ロンドン海軍軍縮条約」は批准した。だが天皇が裁可したのに11月14日、浜口雄幸は右翼の青年に東京駅で狙撃されて重傷、浜口内閣は翌年、昭和06年04月総辞職。浜口は08月に死亡。この頃の幣原喜重郎外相の協調外交は完全に行き詰まった。戦後、総理大臣になる鳩山一郎は、統帥権そのものではなく対立する与党の総理をやっつける意味合いが濃かった。城山三郎『男子の本懐』は浜口雄幸、大蔵大臣・井上準之助がモデル。

東京駅・中央口通路・10番線の真下あたりの円柱に「遭難碑」がある。昭和が“魔法の森”に迷い込んだのは、このときからだと思う。ポイント・オブ・ノーリターンの高々10年前のことである。

◇参考書
『日本の歴史24・ファシズムへの道』大内力 中央公論社
『太平洋戦争、七つの謎』保阪正康 角川oneテーマ21

2011/09/06 日米開戦への道03-3 統帥権とは何か03 
軍部大臣現役武官制

「統帥権独立」の源流として明治時代末期、政党政治に移行する過程で政治家が「統帥権」を手に入れ軍が党利党略に利用される可能性を恐れたことにある。恐れたのは明治維新を成し遂げた江戸末期の下級武士の云わば命を掛けて明治国家を形成した伊藤博文・山縣有朋ら元勲だった。この元勲・藩閥が政治・軍事両面を完全に掌握、軍政(行政)軍令(軍事)運用をしていた。従って後世に統帥権独立をめぐって起きたような問題が顕在化しなかった。軍人出身の政治家でも政治と軍事のバランスはとれていた。ただしそれは「日露戦争」までだった。司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いた「日露戦争」は、ここまではあくまで欧米の植民地にはなりたくはないとの日本の防衛だったと主張する。ロシアの南下が死活問題であったのは、現代の我々が否定出来ない。

昭和の時代に入り、統帥権が一人歩きし始めたのは、前回、前々回の通り。軍事のことは、天皇が持つ統帥権を付与された機関で「統帥部」には何も口出し出来ない実態を叙述した。これをフォローするような軍部絶対の政治情勢を確実にした制度が「軍部大臣武官制」で、これを知らないと、軍人の政治への跳梁跋扈は語れない。更にこれが「軍部大臣現役武官制」になるとこれも詳説するなら一冊の本になる。平たく現在の日本国憲法で云えば、防衛大臣が現役の自衛隊の制服組でなければならない、と云った処か。現在の憲法では66条02項で「内閣総理大臣は文民でなければならない」と定められている。だが戦前の大日本帝国憲法では統帥権も統治権も天皇にあった。

第04条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ(総攬=政事、人心を掌握すること)

因みにHPの「首相官邸・内閣制度」を検索すると≪明治憲法は、内閣総理大臣について特段に規定することがなく、天皇を輔弼する関係においては、内閣総理大臣も「国務各大臣」の一人として、他の国務大臣と同格だった。内閣総理大臣は「内閣官制」によって、「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(第02条)と定められていたが、この「首班」とは、いわゆる「同輩中の首席」を意味しているにすぎなかった≫とある。主権が天皇にあるのだから総理大臣は、輔弼の筆頭でしかない。

軍部大臣現役武官制とは、軍部大臣(陸軍・海軍)の資格を現役の武官(軍人)に限る制度。現役武官であれば文官、予備役・退役軍人も宛ら“お呼びでない”。つまり内閣総理大臣が単なる代表で現在のように他の大臣の罷免権などないから組閣に軍部の合意が事実上必要。逆に云えば軍部が内閣と対立したなら軍は、軍部大臣を辞職させて倒閣を行うことが容易。この歴史はむろん明治33年(1900)、山縣有朋首相の主導で、「軍部大臣現役武官制」を規定した。大正デモクラシーの時代、「現役」は削除されたが、再び軍部の影響力が強まったのは、二・二六事件から派生したものである。昭和11年、軍部大臣現役武官制は復活する。これに屈したのは第32代総理大臣・廣田弘毅(ひろたこうき)だから後世、評判が悪い筈である。都合三回組閣した近衛文麿も最後まで軍部の専横を防げなかった。防げないのではなく、そういう仕組みの憲法だった。軍部大臣が現役なのは、統帥部の用兵・作戦に見合う行政の側の編成・予算にも十分に反映される。

「軍部大臣現役武官制」の制定の実態もやはり元凶は実質、陸軍の創設者・山縣有朋の軍事優先の政治のたまものだろう。明治から大正時代になる頃は「第二次西園寺公望内閣」だった。公家出身の西園寺は、日露戦争で疲弊していたのか、緊縮財政による国家財政再建や行政整理を理由に陸軍による「二個師団増設」の要求を拒否した。これを不満とする陸軍は上原勇作陸軍大臣が辞職。陸軍は後任の候補を出さず、軍部大臣現役武官制のために、第二次西園寺内閣は総辞職する。むろん山縣の差し金だろう。初代総理大臣・伊藤博文に目を掛けられて政治家になった西園寺と生粋の軍人の山縣とは年齢こそ違うが政敵だったことは想像できる。山縣有朋は「統帥権独立」も「軍部大臣現役武官制」も特定の政治家によって軍部がいいように使われるのを嫌ったからと云われるが、西園寺が念頭にあったのかどうかはよく解らない。いずれにしても大正11年に山縣は死に、藩閥政治は終わり、西園寺は昭和15年、最後の元老として死ぬ。両者とも日本の軍部が日米開戦をして無様な負け方をしたのを知らない。とくに山縣有朋は「陸軍士官学校」「陸軍大学」卒業のエリート軍人が日露戦争以上の多くの死者を出して陸軍を壊滅せしめたのを、草葉の陰で歎いているに相違ない。

◇参考書
平成15年10月号『文藝春秋・父が子に教える昭和史 岡崎久彦』
『昭和の歴史06 昭和の政党』 粟屋憲太郎 小学館文庫

2011/09/25 日米開戦への道04-1 
参謀本部&軍令部01

統帥権と統治権は前述した通り。ここでは統帥権を実際に動かした「参謀本部」「軍令部」とは何か知り得る限りで叙述したい。だが、後付けの感情論で戦前の軍国主義の象徴で「国民を苦しめた産物」と決めつけるのは容易い。明治維新後の富国強兵の国是は、極東の貧しい一島国が欧米の植民地に成らなかったのに大きな役割があったのは否めない。だがそれ以上に日本国民・アジア全体に多大な惨禍をもたらしたのも事実である。

 大日本帝国憲法 第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

統帥とは≪軍隊を統(す)べ率(ひき)いること。英語では指揮(コマンド)すぎず、統帥権も最高の指揮権(supreme command)と形容できるだけのことである。英米では統帥権は国家元首に属する。むろん統帥権は文民で統御される≫(司馬遼太郎『この国のかたち四P135』)

大日本帝国憲法では「統治権」も「統帥権」も天皇にありながら実際には天皇から付与された輔弼(内閣)と輔翼(軍事作戦)が最大の責任者。この軍部当事者は自分たちの組織の存続ゆえに天皇の「日米避戦」の考えを折々の上奏で誤魔化して無視したのも事実。外務大臣や総理大臣でさえ口出し出来ないのは、実際、近衛文麿を初め多くの政治家が困り果てた。歴史に刻まれているが、総理大臣33代「林銑十郎」、35代「平沼騏一郎」、36代「阿部信行」、41代「小磯国昭」など歴代首相に名を残して居るだけの人物で重要な政策など皆無。特に林・阿部・小磯などは予備役で云わば一丁上がりの軍人だ。世界を見渡せる実力ある陸軍大将「宇垣一成」首相就任を阻止するためだけの組閣だった。昭和天皇から昭和12年に「大命降下」があり、その後、16年、19年と重臣より二度の推薦があった。統帥部の頂点は大元帥の昭和天皇である。統帥部のエリート軍人は忠君愛国・臣道実践など見せかけに過ぎない。不忠の臣ばかりと断定して間違いがない。

昭和15年(1940)09月時点
参謀本部総長 閑院宮載仁親王
参謀本部次長 沢田茂
参謀本部作戦部長 富永恭次

軍令部総長 伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)
軍令部次長 近藤信竹
軍令部作戦部長 宇垣纏(うがきまとめ)

昭和16年(1941)10月時点
参謀本部総長 杉山元
参謀本部次長 沢田茂
参謀本部作戦部長 田中新一

軍令部総長 永野修身(ながのおさみ)
軍令部次長 伊藤整一
軍令部作戦部長 宇垣纏


2011/09/30 日米開戦への道04-2 
参謀本部&軍令部02

前回、昭和15年・16年当時の統帥部(参謀本部・軍令部)の人事を叙述したが、違うところは日米開戦が近付くと、華族・宮様の総長は交代している。これは宮中の都合に他ならないが、統帥中枢部の戦争への高揚を危険視していたからである。中国戦線はもはや泥沼だった。軍令部総長の「伏見宮博恭王」は単なるお飾りでなく日独伊三国同盟に実質GOサインを出した宮様である。問題は昭和16年になってからの参謀本部総長・杉山元、軍令部総長・永野修身の二人だが経歴を記す程では無い。敗戦後20年09月に杉山夫婦は責任を感じてピストル自殺。永野はA級戦犯だったが、判決前に病死している。死者に鞭打つのではないが、両総長も中枢部の突き上げを抑えられる人物ではなかった。

敗戦後「極東国際軍事裁判」通称、東京裁判で明らかになったことだが、昭和天皇の前で重要な政策・軍事を報告して決裁を求める「御前会議」があった。国民には知らされてないことで、メディアも同罪である。この御前会議の内容は別項で記述した。事実上はセレモニーだった。

あらゆる昭和史の書で触れられるのが昭和16年09月06日の御前会議である。ここで直接政治・軍事に命令を出せない仕組みの大日本帝国憲法の範囲内で、昭和天皇は日米開戦反対の意思表示を間接的に表現した。だが政治家も軍人も結果として昭和天皇の意向を従えなかった。そのときの御前会議の最後に天皇が、明治天皇の御製を読み上げた。それが天皇の精一杯の抵抗だった。

 
四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ

 四方(よも)=世界 はらから(同胞)=人類 波風=対立・戦争

近衛文麿首相は、米国ルーズヴェルト大統領との“日米頂上会談”に固執しているうちに09月03日「帝国国策遂行要領」が決まる。昭和天皇は「これをみると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉をかかげている。何だか戦争が主で外交が従であるかのごとき感じをうける」と納得しなかった。急遽、09月05日夕刻、杉山参謀総長、永野修身軍令部総長が呼び出される。同席した近衛文麿の『失はれし政治』に書かれている有名なくだりがある。(半藤一利著『ドキュメント太平洋戦争への道』P292〜295)毎度玉虫色の上奏だが、さすがに天皇も危機感を抱いたに違いない。軍事作戦の専門部門であれば、外交など添え物である。ここは孫引きになる。

天皇 日米に事おこらば、陸軍としてはどれくらいの期間にて片付ける確信があるか。
杉山 南洋方面だけは三カ月で片付けるつもりであります。
天皇 杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき陸相として「事変は一カ月くらいにて片付く」と申したように記憶している。しかし四カ年の長きにわたり、まだ片付かないではないか。
杉山 支那は奥地がひらけており、予定どおり作戦がうまくゆかなかったのであります。
天皇 支那の奥地が広いというなら太平洋は、なお広いではないか。いかなる確信があって三カ月と申すのか。
杉山は答えられず永野がそばから助け船をだした。
「統帥部として大局より申し上げます。今日の日米関係を病人にたとえれば、手術をするかしないかの瀬戸際にきております。手術をしないで、このままにしておけば、だんだんに衰弱してしまうおそれがあります。手術をすれば、非常な危険があるが、助かる望みもないではない。……統帥部としては、あくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は、思いきって手術をしなければならんと存じます……」
二人の統帥部の長の不満足な、矛盾した説明に対して、天皇は大いに不満だった。そこで天皇は訊ねた。
「それでは重ねてきくが、統帥部は今日のところは外交に重点をおくつもりだと解するが、それに相違ないか」両総長は「そのとおりであります」

天皇は納得しなかったが、それ以上は追及しなかった。できなかったのが正解か。元勲・西園寺公望の方針は、天皇は「君臨すれども統治せず」だった。ただし西園寺は前年15年に死去している。内大臣・木戸幸一は天皇の発言要請を押しとどめている。ここに木戸幸一の最初の重大な過誤があった。木戸は天皇の「君臨非統治」の方針もさることながらテロによる自分の命の危険を察知していたのが、今では明らかになっている。

2011/10/05 日米開戦への道04−3 
参謀本部&軍令部03

「参謀本部」と「軍令部」について2回にわたり叙述したが、考察と云える内容ではない。殊に統帥権(とうすいけん)の全貌は、歴史・解釈・事実と多くの専門家が具体例を挙げて著わしている。何度も述べることになるが、統帥権はやはり司馬遼太郎が自分の軍隊生活を通して叙述・発言したので圧倒的な迫力があった。『司馬遼太郎対話選集』『この国のかたち』(文春文庫)、『司馬遼太郎の考えたこと』(新潮文庫)に詳しい。ここでは統帥権を行使した「大本営」と「帷幄上奏(いあくじょうそう)権」について記す。

大本営(だいほんえい)とは、明治26年(1893)に設置された天皇直属の最高戦争指導機関のこと。当初は参謀総長が陸・海軍の作戦を指導、陸軍優位の形態となっていたらしいが、明治36年(1903)、条例が改正され、参謀総長と軍令部長が陸・海軍対等の形態になった。日露戦争は宮中に設置されて作戦指導がなされた。また日中全面戦争に於ても昭和12年(1937)大本営令を制定した。大本営は戦時にしか置くことができない筈が、ここが軍国主義の故か、修正して“事変”(戦争ではないとの意味のこじつけである)の際にも設置を可能にするためだった。だが誰もが異を唱えなかったのかどうかは不明。大本営は宮中に設置され、太平洋戦争終末に至るまで存続する。然しこれは、対立する陸・海軍間を調整するためだけの機関だった。大本営設置に伴い「大本営政府連絡会議」が設けられたが、これを提唱したのは第一次近衛内閣である。近衛文麿にしてみれば、統帥部の専横に首相が逆らえないなら、こうするしか方法は無かった。

帷幄上奏(いあくじょうそう)とは、明治憲法下で、軍機・軍令に関して内閣から独立して行われた上奏を云う。軍機とは“軍事機密”、軍令とは“軍事命令”である。参謀総長、軍令部長、と陸・海軍大臣が行った。帷幄とは、軍を指揮し作戦をめぐらす本陣のことで、時代劇映画などで見られる戦国時代の合戦の家来に囲まれる武将のシーンを思い出す。陸・海軍を統帥する大元帥である天皇に対して、軍事の専門機関が行う上奏であることから戦陣に因んだ。この帷幄上奏は、明治22年(1889)制度化され、軍機・軍令に関する事項は、内閣を経ずに直接上奏、裁可の後、内閣総理大臣に報告することとなる。一般の大臣は、統帥部よりも陸・海軍大臣よりも、こと軍事に関する限り何も言うことは出来ないことになる。太平洋・大東亜戦争の時代、軍事費は、国家予算の70パーセントだから大蔵大臣など何も抵抗できなかったことになる。「Yahoo!百科事典」参照。

ここでは私の知る限りにおいて
戦前の内閣・軍部の対立を記述する。

@陸軍省・海軍省 ⇔ 統帥部
 前者は
予算・装備、後者は用兵・作戦
A統帥部陸軍=参謀本部 ⇔ 統帥部海軍=軍令部
 いずれ叙述したいが作戦の擦り合わせなど皆無に等しかった。
B陸軍 ⇔ 海軍
 日米開戦時は、開戦責任のなすり合いだった。現実の開戦責任は
海軍
C陸軍「統制派」 ⇔ 陸軍「皇道派」
 
統制派→国家総力戦における戦争 皇道派→天皇中心の思想で精神面に重きを置いた。
D海軍「条約派」 ⇔ 海軍「艦隊派」
 条約派→国際条約を順守する戦力保持 艦隊派→日露戦争を踏襲、艦隊決戦中心。
E外務省「枢軸派」 ⇔ 外務省「英米派」
 
枢軸派→ドイツ・イタリアと同盟 英米派→英米と協調。
F長州・薩摩出身 ⇔ 他県出身
 明治維新を成し遂げた毛利・島津、山口県・鹿児島県が主流派を形成。
G現役軍人 ⇔ 重臣・元勲
 現在の官僚制度にも十分反映している。実権を持つ現役は元総理の重臣さえ無視した。

対立は内閣と統帥部だけではない。それぞれの機構と部署、出身と思想から「他国との戦争に勝つ」との目的から外れ、機構・部署・出身の単位と感覚で対立関係がクローズアップされる。なべて内側の論理と倫理で対立、そこにエネルギーを割くほかはなく相対する国のことには、考えが及ばなかったことになる。情報・諜報は無いがしろにされた。司馬遼太郎が厳しく指摘するように「日本人の地理的隔絶性における民度(国際的比較能力)の低さが、夜郎自大の軍部」を産んだことになる。哀れなのは貧弱な武器・装備・食糧で戦争最前線に立たされた一般人中心の日本兵である。どこで戦うか知らされないまま輸送され、現地に着くまで少なからず輸送船が沈められ水没、相手の情報も不確かなまま突撃を強要され多くが即死・怪我・病死・餓死した。戦闘で命を落としたのではなく餓死・水没の事実が多数報告されている。

2011/09/08 日米開戦への道05 
大島浩

「日独伊三国同盟」成立(昭和15年09月27日)のときの駐在ドイツ日本大使は来栖(くるす)三郎だが、実質は大島浩だった。むろん三国同盟の推進者は、気宇壮大ともいえる世界戦略の持ち主の外務大臣・松岡洋右だったが、ことドイツに関しては最大の助言者は大島浩をおいて他にない。資料も少なく調査不足だが、当時の外務省は、軍部の圧力もあったのか「英米協調派」よりドイツ・イタリアとのいわゆる「枢軸派」が主流を占めていた。昭和13年当時の「第一次近衛内閣」のイタリア特命大使だった外交官の白鳥敏夫は、昭和15年当時は外務省顧問だった。枢軸派は、大島と白鳥が大いに関係しているに違いない。「悪いのは英米」と報道したメディアとそれを素直に信じた世論で、政治家も外交官も英米協調派は隅に追いやられていた。昭和16年「真珠湾攻撃通告の遅れ」などは、今では外務省英米派のサボタージュと疑われて久しい。白鳥は元々外交官出身だが、大島浩は陸軍軍人である。明治19年(1886)生、陸軍士官学校は明治38年(1905)18期、陸軍大学は大正04年(1915)27期卒業。極東国際軍事裁判(東京裁判)で刑死した東條英機は大島より02歳年長である。だが陸大卒は同期である。つまり勉強は東條より大島の方が優れていたことになる。蛇足だが「陸士」20期卒と云えば、ほぼ明治20年生まれとの事実がある。昭和史の書で「大島浩」を主人公にしたのは見当たらない。だが「三国同盟」に関する著書では必ず名前が出てくる。おおむねアドルフ・ヒトラーに魅せられた、日米開戦においては責任の重い軍人大使だった。誤ったドイツ情報を日本の軍部に伝えていたからである。東京裁判の判決では、この大島浩と開戦時の海軍大臣だった嶋田繁太郎、内大臣・木戸幸一の3人は≪5対6≫との評決で辛うじて絞首刑を免れた。インドのパル判事と元々「死刑」の概念が無いソ連さまさまである。昭和30年に巣鴨プリズンを出所。以後、数々の誘いを断って沈黙を守った。言い訳をしなかったのは評価するにしても、ドイツ敗戦で逃げたときにオーストリアで連合国によって身柄を拘束され、日本に送還途中ニューヨークのホテルで所持していた日記や機密文書を水洗便所に流した。「頭がいい」にしてはやることは日本人的で単純。だが大島が日本本国へ送ったドイツ上層部に関する秘密電報はすべて連合国に解読されて、その情報が英米の作戦に有利に働いたとの指摘もあるから申しわけないが「お笑い草」である。それが「アメリカ公文書館」に残っている。

大島は岐阜生まれ、育ちは東京、幼少期より、在日ドイツ人の家庭に預けられ、ドイツ語教育とドイツ流の躾を受けた。駐在武官となって初めてドイツに赴いてからは、ドイツ人青年に付いてドイツ語を習い、ドイツの方言で歌を歌うまでになるとの徹底したものだったからドイツ語、ドイツ文化は、大島の人生そのものだった。因みに陸軍士官学校の必修外国語はドイツ語・ロシア語である。陸大卒後の大正10年(1921)以降は、殆どベルリンに駐在、昭和の初めの1926年頃からすでに勃興しつつあったナチス党上層部との接触したのは想像できる。詳しい経歴は避けるが昭和09年(1934)名実ともにドイツ駐在武官に登用される。同時期の駐在イギリス特命全権大使で親英米派であった吉田茂とは対極を成した。その頃からナチス外交部長のリッベントロップと接触。むろん完全にドイツに取り込まれる。

昭和13年、軍人としては予備役(退職)となるが同時に駐在ドイツ日本大使になる。昭和14年の「独ソ不可侵条約締結」で一旦大使は辞任するが、「日独伊三国同盟」締結後、すぐに駐在ドイツ大使に復帰。大島が陸軍中央と提携、枢軸外交実現のために奔走し、ナチス党総統アドルフ・ヒトラーの信任をも得ていたことが決定的だった。「日米開戦への道」は大島の偏ったドイツ情報が多いに働いている。こうした日本人のドイツへの傾斜の理由は、半藤一利氏の指摘は鋭い。日本人とドイツ人の性質が良く似ていると指摘している。「堅実で勤勉、几帳面で組織愛に満ち、頑固で無愛想、単一的民族国家(ドイツはゲルマン民族)なので団体行動、規律、遵法精神に満ち、教育水準は高くよく働く」(『昭和史』P245)

司馬遼太郎の指摘は更に的確である。≪日本がドイツに傾斜したのは国造りの真最中の明治04年(1671)プロイセン軍がフランス軍を破ってからである。その時からドイツ参謀本部の作戦能力の卓越性を学び、法学・哲学・音楽・憲法までもドイツ傾斜が進んだ。統帥権のもとに昭和前半を壟断する陸軍は、一種の国家病だった。「当時の陸大出でドイツ留学しない軍人は有力な部員・課員になっていない」とドイツ偏重の情実を指摘。近代国家建国の時に一種類の文化を注入すれば薬物中毒になるのはその後の日本が雄弁に物語っている。ドイツ文化そのものに罪はなく、ドイツを買い被っている軍人は多いがドイツをよく知っている人は居なかったと紹介している。(『この国のかたち03』P20)≫大島浩はさしずめ薬物中毒から最後まで抜けきれなかった。

陸軍出身のドイツ駐在大使・大島浩は、世界のなかの日本の国益は考えられず、さながら“ドイツおたく”だったのではないか。なぜなら日本が昭和16年12月08日「真珠湾攻撃」が成功して欣喜雀躍しているとき、ドイツ軍精鋭部隊は、猛吹雪のなかモスクワを目の前にして撤退を余儀なくされる。ナチス・ドイツ崩壊の序章に日本軍部は見て見ぬふりだったのではないか。

これも蛇足ながら戦後、晩年の大島浩は、筆者の住む平塚の東隣の茅ヶ崎市に在住。平塚市には近衛文麿内閣秘書官の富田健治、西隣の大磯町にはある時期、木戸幸一、あるいは吉田茂も過ごした。

◇参考書
『昭和史』半藤一利 平凡社
『昭和の歴史05 日中戦争』藤原彰 小学館文庫


2011/09/12 日米開戦がなぜ避けられなかったのか

今、ポイント・オブ・ノーリターンを「日独伊三国同盟」に於いて、これに関わる政治家・軍人・事項を叙述している。だがHPで御厚誼頂いている方から、≪「日独伊三国同盟」や「日米開戦の真実」も重要だと思いますが「日米開戦がなぜ避けられなかったのか」が最大の疑問です。≫

これは極めてシンプルな設問である。私は「ポイント・オブ・ノーリターン」そのものが“日米避戦”の真実だと思う。だが、そこに関わる軍人・政治家を説明しようとするとどうしても数行で済ませられない内容に満ち満ちているので、自分では解っていることだが、長文になってしまい昭和史の読書で知ったエピソードも増える。まだ4項目だが、ここで中間報告として「日米開戦がなぜ避けられなかったのか」の最大の責任者をここで要約してみたい。

@
松岡洋右
最盛時には百万人を超える軍部を抑えることは、
一外交官にできるわけは無いのを熟知していた松岡は、ソ連のスターリン、アメリカのルーズヴェルトの世界の二大巨頭と話し合いで決着しようとした。ヒトラーの親衛隊を閲兵したことで、その思いを強くした。英語はペラペラだがむろん松岡にそんな力は、制度的に無理である。昭和16年にはすでに肺を病んでいた。通常の外交ルートはすでに破綻していた。
A
近衛文麿
「天皇の次に偉い自分が
総理大臣なら誰でも言うことを聞く」と簡単に思っていたようだ。しかしその頃の強大な軍部の力は、もうすでに天皇でさえ抑えきれなくなっていた。軍部は近衛を御しやすいから近衛内閣を支持していたようにも解釈できる。近衛文麿は「日米開戦」の重要な責任者に違いないが、その権威を利用した陸・海軍の上層部に実質的な責任があるのは間違いがない。自分が利用されている自覚がないのがこの人物の最大の欠点であるのを誰もが指摘する。
B
統帥権
大日本帝国憲法では「統治権」も「統帥権」も天皇にあった。しかし実際には天皇から付与された
輔弼(内閣)と輔翼(軍事作戦)が最大の責任者である。とくに軍部当事者は自分たちの組織の存続ゆえに天皇の「日米非戦」の考えを折々の上奏で誤魔化して無視した。陰で“「秩父宮」も居るのだよ”とのブラフもあったように思う。外務大臣や総理大臣でさえ口出し出来ない「統帥権」の源、昭和12年からは≪大本営≫と呼ばれた。昭和12年に出来た「大本営政府連絡会議」で決定された事項には、天皇にも拒否権は無かった。
C
参謀本部&軍令部
統帥権は、司馬遼太郎の「魔法の杖」との指摘で先頃では知られている。これは実際、太平洋戦争で「九死に一生」を得たものでないと解らない。簡単に云えば統帥権を行使するのが参謀本部&軍令部。統治権は行政側で、予算、装備、人員。統帥権を持つものだけが“
戦争作戦・戦争遂行”を成し得た。
D
大島浩
“ドイツ大好き”軍人の典型で、
アドルフ・ヒトラーに心酔。誤った情報を最後まで軍部に送り続けた。戦後は少し反省?したようである。アメリカの大嫌いなナチス信奉者で責任は重かったが、結果として東京裁判では“5対6”で辛うじて絞首刑を免れる。蟄居してもドイツ語の書籍が手放せなかった。
E
東條英機
いつの世も「総理大臣は
軽くてパアがいい」の典型。大日本帝国陸軍のことは周囲が重箱の隅も突つけないほど熟知していた。憲兵隊を掌握していたので関東軍や陸軍中枢部にコミンテルンの侵入をも察知していたようで、最後まで中国大陸からの撤退を決断出来なかった。陸軍のことのみで、世界情勢や世界条約など知らなかったことが後の「東京裁判」で明らかになり連合国法廷をを呆れさせた。その清廉潔白な私生活に、アメリカの「戦略爆撃調査団」も当初は信じられず大いに驚いた。
F
嶋田繁太郎
日米開戦時の海軍大臣である。この海軍軍人も信念はあやふやで、当時の軍令部総長「
伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)のドイツ好きを阻止できなかった。伏見宮は日露戦争にも従軍している。誰も伏見宮に逆らえなかった、のではなく責任を回避した。嶋田も東京裁判では“5対6”で絞首刑を免れる。
G
外務省
外務省高官の
サボタージュ・不作為は、昭和15年、松岡洋右のいわゆる「外務省人事」で多くの主要国駐在大使を更迭して反感を買ったことにある。外務省自体が、翌年「日米交渉」を阻止するのに、このとき松岡の「上海事件」以来、知己の海軍軍人・野村吉三郎を駐米大使の言うことを聞かない。101歳まで生きた加瀬俊一は、松岡の欧州訪問に同道したが「真珠湾攻撃無通告」ではあくまで出先機関の責任と言って憚らなかった。実際は外務省本省の責任であるのは明白。
H
朝日新聞&毎日新聞
大正デモクラシーから昭和初期は、メディアはリベラルだった。軍人が制服で町も歩けず、嫁の来てもなかったほど“軍人は嫌われた”経緯がある。それが一変したのは「満洲事変」である。事変勃発をラジオ放送に出し抜かれた新聞は慌てた。詳説は省くが新聞は満洲事変の号外に次ぐ号外で、びっくりするほど部数を伸ばした。メディアや産業は、
戦争は確実に儲かるのである。これは今も変わらないのではないか。
I
木戸幸一
筆者は「日米開戦」に関わる人物で最も罪の重いのは、昭和天皇への確実な情報を意図的に取捨したこの「内大臣」だと思う。昭和16年10月、陸軍を抑えきれず近衛文麿が総辞職したとき、間髪をいれず東條英機を指名した。実はこれは昭和天皇の希望だったと云われて久しいが、多分それも木戸の作り話だと思う。木戸自身は日米開戦はもう避けられないのを熟知していた。陸・海軍中枢部は、“やる気マンマン”だった。開戦を避けられないとみた木戸は、責任は全部、軍部に押し付けるつもりだったようでもある。「木戸幸一」の項目で仔細に叙述したいが、木戸が終始恐れていたのは、
自分への暗殺・テロである。

特別編 昭和天皇
昭和天皇に「戦争責任」があったかどうか、これも永遠のテーマである。「あったか、無かったか」で単純に問われれば、それはあったと指摘できる。だがその
「戦争責任」とは何か、の設問がすでに曖昧模糊としている。開戦責任・継続責任・遅い終戦決断・国民を苦しめた責任・道義的責任といろいろある。今では100%有り得ないと解るが、日米戦争に勝ったら責任はあるのかないのか?「太平洋・大東亜戦争の全面的責任は昭和天皇にある」と声高に言う人は、昭和史を知らないのと同義語だと思う。

この項目「日米開戦がなぜ避けられなかったのか」の結論は、

@メディア・国民世論の日米開戦支持
A陸・海軍中枢部(佐官クラス)の開戦画策
B陸・海軍上層部の責任回避
C木戸幸一における昭和天皇への決断封じ
D外務省の不作為


によって日米開戦は避けられなかった、と今のところ思われる。「日米避戦」の“歴史のif”は確実に存在した。「しなくてもよかった戦争」は、今では誰でも解る。