還らなかった父のために


 目次・はじめに

 1. 短歌反論の反論
 2. ある陸軍上等兵の死
 3. 日米開戦は避けられなかったのか
   @日米開戦前 昭和12年〜16年年表
   A日米間対立
   B日米間交渉
 4. 日米開戦に反対した人はいたのか
 5. 昭和の前半は、本当に闇黒の時代だったのか
 番外編 隅田川に架かる重要文化財の橋
 番外編 日米開戦の責任者たち
 6. 太平洋・大東亜戦争とは何だったのか
   @帝国陸・海軍は何をしたのか
   A帝国陸・海軍とは何だったのか
    東條英機の人間関係24人
   B帝国陸・海軍は何故支持されたのか 
準備中
 7. 敗戦の決断は何故遅れたのか
 8. 私の考える昭和天皇論 
準備中
 9. あとがき 
準備中
    日本は何故負ける戦争を始めたのか
 10. 文庫で知る戦争・昭和@
   文庫で知る戦争・昭和A
   文庫で知る戦争・昭和B
   文庫で知る戦争・昭和C
   新書で知る戦争・昭和@
   新書で知る戦争・昭和A
父 櫻井正徳 32歳 昭和18年 

はじめに

 インターネット全盛時代になって、太平洋・大東亜戦争乃至昭和史は、理想論的平和論からマニアックな兵器論、あるいは戦時下などの世相までのホームページが百花繚乱の様相を呈している。今ではいささか安易なブログも多い。近代・現代史は、義務教育では通り一遍で済まされ、受験勉強の現場では敬遠されている、だからこその現象だろう。個人の「戦争の昭和史」なら、焦点の当て方にも拠るが近代・現代史の中の重要な分野に挑戦することになる。
 
 個人の昭和史は、斟酌・推察を繰り返し、余談と蛇足を加えれば恣意的だが、それも可能。単に昭和史関連の読書感想文の域を出ないのではないかと思われてもそれは、その通りだと思う。だから専門家の本格的な防衛論、具体的戦術論にも到底至らない。正義感溢れる戦争否定論を展開しているものも多いが、だからと言って当時の歴史的・軍事的事実さえ隠蔽し、あまつさえ日本を貶める歴史の捏造を垂れ流すのはよくない。以下はいわゆる「終戦」の前年に生まれた者の素朴な探究心を動機として「戦争の昭和史」に挑戦する。“創見”“史観”はない。あるのは「行きたくもない戦争」に駆り出され、
死にたくないのに死んでいった者の代弁者の主張たり得るかの覚悟だ。
 
 私見・私説・史観・読解・見解・解釈と形容する単語は、いろいろあるもののまともな論考と主張するにはおこがましいので「私解」なる“造語”にしてみた。何だ!
私的解釈を縮めたに過ぎないのではないかと言われればそれも正しい。
 
 以下は順に「昭和」と「戦争」への素朴な疑問と関心事項である。定年後の課題・宿題とした読書のほかに、NHKの番組録画などを通して様々な疑問が想起される。
 
 @実父が終戦後、昭和20年11月に戦病死したこと。
 A夏の高校野球が毎年08月15日正午、試合を中断して甲子園全体が頭を垂れること。
 B広島の
原爆碑文「安らかに眠ってください。二度と過ちは繰り返しませぬから」の疑問。
 C旧盆近くなるとメディアに最前線の兵士が語る特集がある。
 D司馬遼太郎が提起した? 
統帥権とは?
 Eなぜ「日米戦争」だったのか、なぜ敗戦の決定が遅くなったのか。
 F軍国主義と米軍沖縄基地問題。
 G靖国神社の政府関係者参拝と中国・韓国の反発。
 H今も語られる戦中戦後の言論統制。
 I今でも喧しい「極東国際軍事裁判」の内容。
 
 小説・文学で「日本史」に親しむなら司馬遼太郎には圧倒される。『坂の上の雲』は、明治時代末期でぎりぎり時代小説の範疇に入るのか。NHKでドラマ化され三年に亘って放映された。ここで最後に描かれるのが「日露戦争」で大日本帝国海軍が描かれた。司馬遼太郎の絶筆は、月刊「文藝春秋」の巻頭言『この国のかたち』の“海軍”だった。私が注目するのは、司馬遼太郎の「日露戦争以後の日本は“統帥権”という魔物に壟断された」との度重なる指摘だった。
 
 司馬遼太郎自身も「太平洋・大東亜戦争」の末期、昭和18年、
学徒出陣・幹部候補生として徴用され、満州に送られ、終戦時には「本土決戦」なる作戦のために栃木県に居たのは有名な話だ。愚かな作戦ゆえに謂わば“九死に一生”を得たことが作家・司馬遼太郎の戦争体験だ。同じことが松本清張にも云える。松本清張は衛生兵だった。この二人の国民的作家は、ノンフィクションでも対談集に於いても「昭和」には積極的に発言した。相互に対談したことはない。松本清張にはずばり『日本の黒い霧』、『昭和史発掘』、司馬遼太郎には『坂の上の雲』のほかに『この国のかたち』など多くのエッセイがあって、それが読書好きに「昭和の狂気」を否応なく記憶させた。二人の大作家の膨大な著書は、戦争・徴兵がその原点だ。
 
 定年後のライフワークだとしてもこれは、殆どパソコンのソフトで作るいわば “作文”のページ。もしかしたら読む奇特な人が居ればと「鍵となる言葉」、キーワードを設定した。これらを探求、解きほぐすような構成にすることがある程度、有効なのではないかと考えた。自分の父親の顛末は、第二章に客観的結果を報告するに止める。その各章のキーワードは次の通り。
 
 ◇はじめに「八人の兄弟姉妹」
 ◇第一章 「寄り添ふごとく刺ししかば」
 ◇第二章 「二等兵と上等兵」
 ◇第三章1「天空のジャッジメント」
 ◇第三章2「ポイント・オブ・ノーリターン」
 ◇第三章3「二人のジェームスと三人のウィリアムス」
 ◇第四章 「数字は嘘つかない」
 ◇第五章 「あなた方に慈悲はないのですか」
 ◇第六章1「馬鹿の四乗がインパールの悲劇を」
 ◇第六章2「軍人は馬鹿だからです」
 ◇第六章3「兵舎のカレーライス」「戦闘機と牛車」
 ◇第七章 「ソ連は必ず攻めて来る」
 ◇第八章 「太平洋はなお広いではないか」
 ◇あとがき「国民の気魄が足りなかった」
 
 私の父は、敗戦後であるのに昭和20年11月10日、中国広西省で正確に言えば戦病死した。翌年には小さな“石ころ”が入った“木箱”が戻ってきたとは、母の証言。「父」の存在を肌身で知らないのは、昔も今も私だけではない。私の母は農家の「
八人の兄弟姉妹」、三男五女の四番目・三女である。七・八番目の叔母は、戦前は少女だった。六人の兄弟姉妹の配偶者を含めて五人が出征して、四人が戦死・戦病死している。一番下の叔父だけが辛うじて北支より帰還、苦学して小学校教員になった。母の二つ下の弟は歳が近く一番親しかったに違いない。この母の面影のある弟も私の父と同様、マラリアに感染し台湾に於いて23歳で死んでいる。

 事実として戦後行く末の無い母は、生家にいつまでも“留まる”わけには行かぬ、と考えたのか、紹介する人があり私を連れて昭和25年、三人の子連れと再婚した。だが繊維品のブローカーで大儲けした義父は、早、私が小学五年生のときに今で謂う個人破産した。“極貧”の生活を余儀なくされたのはともかくとして、結果として法律的に実父の姓を名乗れない現実がある。戸籍上は30年以上前に死んだ義父の養子のままである。二十歳のときのみ実姓を名乗れたらしいが、それを過ぎれば適用されない。気付いたときは40歳を過ぎていた。行政は届け出をしなければ動かない。現代に「大岡裁き」などあるわけもなく、行政の不作為は、その行政当局自体が処罰など無論されない。(この養子と実姓の法律に関しては不確認)

 「私解 戦争の昭和史」はあくまで個人的な「戦争論」なので、冒頭に昭和前半の戦争の呼称について自分の考えを記して置くことにする。ただ単に「太平洋戦争」と言った場合、私の父のように中国大陸で命を落とした者の遺族としては些か違和感がある。私は「太平洋・大東亜戦争」と呼称を二つ繋げたかたちだが、これで通すことにした。いろいろな近代史の本での呼称はマチマチである。ただ現在の空気として「太平洋戦争」と言えば無難だが「大東亜戦争」と言えば好戦的ととられる雰囲気にある。皇室に於いては「先の大戦」と言い、一部には「アジア・太平洋戦争」なる言い方もある。日米開戦の後、東條英機内閣では「大東亜戦争」と命名している。中国大陸が主戦場だった陸軍は「大東亜戦争」と言い、主にアメリカと戦うことを余儀なくされた海軍は「太平洋戦争」と称した経緯もある。つまり日本人の起こした戦争に誰もが納得する呼称が無いのが現状だ。それがそもそも政略も戦略も計算もない無謀な戦争だった証拠でもある。このことは昭和史に詳しい作家・評論家が等しく指摘するところである。
 
 
江藤淳氏は『閉ざされた言語空間』(文春文庫)で詳細にGHQ(連合国司令部)の言論統制を明らかにしている。そこには公にはならないがCCD(アメリカ民間検閲支隊)とそこに雇われた日本人のGHQに対する協力が生々しく語られている。神奈川県知事にもなった長洲一二などが典型的な例である。ここでは「大東亜戦争」の呼称がアメリカの命令で禁止されたのは確かであることのみ記しておきたい。保守派と称される学者が「大東亜戦争」と言って憚らない論拠の一つは、この江藤淳氏の指摘に拠る。

 一般的には「太平洋戦争」がいちばん無難だが、昭和12年、中国大陸における戦闘行為から始まった戦争である。この戦争は日本がアジアを植民地にしようとした帝国主義の発想ではないことが明らかだ。多分に欧米の世界戦略に疎い日本の為政者が武器を駆使する軍人に則られ、その軍人は武器と武器の戦いの戦争に勝算のないまま理論も科学も計算もなく日米開戦へと追い込まれた。その内容は後述するが、最後まで陸・海軍は、世界を相手に別々の戦争を強いられ、引き返す大局観は無かった。陸軍は陸軍の海軍は海軍の機構と面子から最後まで脱却できず、双方が一致団結して知恵を絞ってアメリカに立ち向かったのではないことが明白である。したがって「太平洋・大東亜戦争」と呼称を二つつなげて論述する私の考えが、もしかしたら一番正しい!と云えるのかも知れない。

 私が平成15年に詠んだ歌「銃剣を使ふことなくマラリアに倒れし父の無念さ思ふ」には問題があると、友人のホームページの掲示板(その後、HPそのものが個人的事情で削除された)に書き込まれた。おそらく「銃剣を使ふことなく」の部分に疑義があるのだろう。友人は短歌結社の数少ない女性の友人である。その若い友人は「銃剣を使ったほうがいい」と歌の意味を捉え、暴力の匂いを感じ取ったのだと思う。しかしそれは今の日本があまりにも長閑ゆえの感想に過ぎない。批判を怖れずに言えば「使わせてやりたかった」が私の結論である。その理由は本論で述べる。ひとこと先に申せば戦場では、暴力と正義は紙一重に過ぎない。いざ戦闘になれば自分が殺らなければ自分が死ぬだけである。とは言っても中国大陸進出そのものが結果として間違いだったとは思うが、それは義務教育が教科書で教える後付史観だと思う。

 昭和の時代からのVTR録画の趣味が、偶然ホームページ作成に拍車を掛けた。昭和50年代半ばにVTR機器が一般家庭に普及し始めた。後述するように昭和天皇が昭和64年初頭亡くなり、昭和から平成時代に突入した02月から03月にかけて「NHK・昭和を記録したドキュメンタリー」が12本、深夜に再放送された。SVHSの走りでそれは単なる録画マニアの惰性で録画していたのだが、今改めて見てみると太平洋・大東亜戦争の貴重な画像が満載である。VHSからDVDにダビングしつつ見たが、例えば「二・二六事件秘録―戒厳指令―更新ヲ傍受セヨ」などにはA級戦犯で日米開戦に重要な役割を果たした「企画院総裁・鈴木貞一(100歳で死去。A級戦犯でいちばん長生きした)が好々爺として映っているのである。
 
◇平成元年02月27日〜03月10日録画
 昭和52年01月13日 50分「昭和誕生」
 昭和54年08月15日 60分「
私の太平洋戦争―昭和万葉集
 昭和53年03月09日 50分「東京大空襲」
 昭和44年04月01日 60分「富谷国民学校」
 昭和50年08月06日 45分「市民の手で原爆の絵を」
 昭和54年02月26日 90分「二・二六事件秘録」―戒厳指令―交信ヲ傍受セヨ
 昭和60年12月08日 45分「
日米開戦不可ナリ─ストックホルム―小野寺大佐発至急電
 昭和52年12月08日 50分「ゼロ戦との戦い」―アメリカからの証言―
 昭和57年08月13日 50分「そしてトンキーも死んだ」
 昭和57年09月27日 50分「農民兵士の声が聞こえる 7000通の軍事郵便から」
 昭和55年12月08日 50分「学徒兵・散華世代からの問い」
◇この日はタイで誘拐事件が発生。録画時間がずれて失敗。(今の録画機にはあり得ない)
 昭和55年11月02日 50分「再会―35年目の大陸行」

 私のホームページに「無明庵」と称して「私の戦争論」なるものを起ち上げた一つの動機と云えるものがこれらの録画だった。アナログ仕様だから録画番組からパソコンで“静止画”を切り取ることが出来た。「私の太平洋戦争―昭和万葉集」、「日米開戦不可ナリ─ストックホルム―小野寺大佐発至急電」から触発されて、その画像を添付しつつ最初のページ作りになった。その後は平成3・4年頃録画した「太平洋戦争─日本の敗因1─6」「御前会議」「東京裁判」がある。平成20年夏には、24本もの太平洋戦争関連の再放送があった。すべて録画したのは言うまでもない。

 この戦争論の主な目的に「戦争は何故、早期終結できなかったのか」にあり、後半、そこにも焦点を当てたい。戦争指導層の東條英機内閣が倒れたのは昭和19年07月である。さらに言えば翌年05月にドイツは連合国に無条件降伏をしている。こうした分岐点で何故「終戦」とはならなかったのか。終戦が一年早く或いは三ヶ月早く成立していたなら私の父は死ななかったかも知れないし、何れ病死は避けられないにしても本土帰還は可能だったかも知れない。広島・長崎の原爆はなかったかも知れないし、ソ連の史上稀にみる残酷な日本攻撃や或いは中国残留孤児問題なども無かったかも知れない。

 近・現代史の俯瞰は止むを得ないが、安易に多くの先達の引用は避けたいが、フィリピン戦最前線から生き残った
山本七平氏の太平洋戦争三部作は貴重な証言、マルクス主義史観を土台にする藤原彰氏は、陸軍士官学校出身で少尉、中国戦線で中隊長だった。20歳前後で100人規模の指揮官だ。部下の食糧確保に腐心したとの告白もある。太平洋・大東亜戦争は、近代史の「負の遺産」だと云えるのは識者が指摘するところ。この戦争に到る過程、開戦、終戦処理などには日本人の国民性が表象されているのは間違いがない。もし「日本人論」なる学問を認めるならこれほど材料にこと欠くことはない。近代史の「昭和」に限定すれば正にその探索は、少数派・マイノリティになる。ただし最近耳にする“インテリジェンス”、諜報ともなればこれはまた別の分野でもある。

 戦争論にはある年齢に達すればそれまで培ってきた夫々の“
立ち位置”がどうしても反映する。幸か不幸か左右のイデオロギーには染まっていないのが個人的自慢だ。ブログでは“天邪鬼”を標榜している。小市民的発想に終始して「絶対平和」とかの理想論、「真正保守」とかの恣意的な「大東亜戦争肯定論」には背を向けたい。世の中に自然に存在するかのような絶対平和などはない。戦争は相対的なものだと思う。真正保守などと決めつけられても戸惑うばかりだ。太平洋・大東亜戦争は、感情論・精神論・運命論が、数字・物理・科学を凌駕した。多分あとがきも、これの確認になるだろう。