還らなかった父のために


1 短歌反論の反論

 
A5判
昭和54年発行 講談社
A6判ノビ
平成19年発行 幻冬舎新書
A6判 文庫
平成07年発行 短歌新聞社
A6判 文芸文庫
平成19年発行 講談社

 序文で「戦死した者には抗する術は何も無い」を強調した。そのことが戦争の内実に迫りたい最初の動機だが、この章では我流の少しも上達しない短歌を批判されたことを端緒として「太平洋戦争・大東亜戦争」の導入部としてみる。

 短歌の世界では「来し方」なる言葉がしばしば使われる。過ぎ去った時間のことだが、自分の境遇が中心になるのは自然だ。私の来し方の通過点か終着点かは、判らないが定年・還暦を過ぎてから現今の長閑な社会であればあるほど戦前の太平洋・大東亜戦争の熱狂が何に由来するものなのか思いがゆく。自分に残された時間が少なくなってからの探求心の目覚めは遅きに失したと云えるし「今更、過去の戦争なんて」と往生際の悪さのようにも他人には受け取られるらしい。だからといって「ああそうですか」で終わっては、それも又だらしないことである。

 
仏壇に山百合飾りてたまさかに父の犬死に思ひてゐたり
 銃剣を使ふことなくマラリヤに倒れし父の無念さ思ふ
 垂乳根の母に背負はれ闇市をさまよひし寂しみ忘れられずゐる


 この三首は、私の所属する短歌会の月刊誌・平成15年11月号に掲載されたものである。いずれも戦死した父親を偲ぶ歌である。この二首目の歌に関して、同結社の自己のホームページを持っているご婦人から以下のような感想が「短歌鑑賞欄」にあった。更にそのHPを見た別のご婦人からメールで以下の感想が寄せられた。そこでこの頁では少しくこの二人の婦人に反論を加えたい。以下HPを持っていたのはA婦人、反応したのはB婦人。

≪戦後生まれで戦争を詠んだ歌の鑑賞に自信がない。
昭和二十年に終戦となった第二次世界大戦に父上を亡くされた作者の歌。
作者の父上は、戦地で病死したと聞かされて育った。実戦前だったとも。その事実を作者は「父の無念」と捉えた。その思いは作者を戦後の今日まで苦しめた。
世の中を知らぬ者が何を言うかとお叱りを受けそうだが、あえて言わせて貰いたい。
銃剣の用途は唯一、人の殺傷だ。
父上は人を殺傷しなかったと言うことを誇りにしてはいけないのだろうか。当時なら非国民という負い目もあったのかもしれない。
今はもう少なくなったのだろうが、戦争体験者を見るときに「この人は幾人を殺傷したのだろう。幾人の従軍慰安婦を襲ったのだろう」と思いつつ居た。
与謝野晶子は「君死にたもう事なかれ」で親は刃を握らせて人を殺せと教えたかと詩に書いた。

作者も同じ事を思っておいでではなかろうか。もし自分の父が多くの相手国の人等を殺傷して戦死し、それを「名誉の死」と崇めたてられたならそれを真に受けて父を誇りに思うのだろうか。

反戦を訴え続けることは必要だ。特に何らかの戦争に関わった人等が訴えることには意義が大きい。作者が過ごした父のいない今日までの生活を推し量ることは難しい。しかし病に倒れたお父様が残したメッセージを「無念」と捉えることには異議がある。病は直接恨む事が出来ないが、銃に倒れたなら必ずや相手を、相手国を恨む事だろう。
父は作者に平和のメッセージを残して下さったんだと思う≫

≪あなたのHPを拝見しました。
この歌を取り上げた批評に同感です。私もあの歌を読んだ時から喉に小骨がささったような感じでとても気になっておりました。
父上が南方の戦地でマラリヤに倒れられたことは確かに無念であった、
と思いますが、「銃を使うことなく」も無念であったろうかと……?
むしろ、銃を使わず人間を殺傷しなかったことを父上が良かったと思って亡くなられたかも知れません。今になってはその心情を知ることは出来ませんが、ご子息であるこの方の感情が移入せれて、歌に詠んだ訳ですからやっぱりひっかかるのです≫

 二人のやりとりを読めば、戦後の太平洋戦争へ
無知・無関心の典型例という結論になる。短歌に説明は要らないが、銃剣を使う前に病魔に侵されたのが事実。戦争最前線では命のやりとりも事実。自分が銃剣を使用しなければ、使用されて仕舞うことが2分の1の確率だ。

 A婦人は「戦争体験者を見るとき、何人を殺傷したのか、幾人の従軍慰安婦を襲ったのか」とある。この感想・批評にやはり戦後六十年以上の経過をしみじみ思う。何人を殺傷しようと最前線にある者には、その人数など関係ない。自分が敵を殺さなければ、自分が殺されるだけである。国と国とが戦争になれば戦場では、上官の命令に従うのが全てだ。敵兵を殺したことが罪であれば戦場へ送られた人間は全て大罪人になる。太平洋・大東亜戦争末期、国家が明確な意思表示をしなかったがために昭和二十年三月の「東京大空襲」では江東・墨田では十万人の無辜の市民が亡くなった。TVのドキュメンタリー番組では、その時、爆弾を投下した老いた米軍兵士が繁栄した東京を飄々と歩いていた。多くの人を殺戮した内省は当然あるだろうが、多分に戦争の時代を生き抜いた満足感であった筈。その米軍兵士の周囲を行き交う東京都民は、むろんそんなことは露も知らない。知っても憎悪の眼で見ることも無い。この兵士は一般人を10万人殺した。銃剣使用どころではない。

 A婦人の「従軍慰安婦の何人を襲ったのか」の指摘には、コメントのしようがない。今でもニュースを時々賑わすが、この問題は他の章で触れるが、根本的な間違いがある。平和な戦後に於いていわゆる「軍国主義」を非難するのに格好の材料が「従軍慰安婦」と「特別攻撃隊」である。因みに「従軍」なる言葉を使えば、それは「従軍医師」「従軍看護婦」「従軍記者」であり、慰安婦も娼婦も遊女も居たことは確かだが「従軍慰安婦」との別称は戦後恣意的に造られた言葉である。
慰安婦でなければ生活できない実態があったことにどうして視点がおよばないのか。朝鮮半島はもちろん日本人とて90%が貧民であったことを知ろうとしない。正確な近代史の教育が省かれた典型例だ。

 公式には戦争での250万人の日本人軍人・軍属の死者のうち、七割は広い意味で「餓死」である。つまり「
戦闘行為での死であるならまだよい方だ」とは、多くの識者が指摘していることでもある。だからそうした事実をある程度知ったからからこそ前記の私の歌になったと自分で解説しておく。「太平洋・大東亜戦争とは何だったのか」の項で触れるつもりだが、日本の戦争を象徴する作戦として「ガダルカナルの戦い」「インパール作戦」(この作戦については指摘する本・VTRが多い)が、よく取り上げられる。昭和十九年三月の「インパール作戦」とは牟田口廉也・陸軍中将の、エリート軍人だが、中央から外されて「功を焦る」軍人の面子によって始まった。七万人の兵士が動員され、およそ九割の六万人強の死者が出ている。その殆どは武器・弾薬・食料・医薬品など戦闘に必要な補給の全くない作戦で、映像で見る限り、悲惨などと軽く形容できない現実がある。後にインパール(インド東部)とビルマをつなぐ剣呑な道は「白骨街道」と謂われた。従軍し辛うじて生き残った兵士、また私自身さえ我慢ならないのは、牟田口と上官の河辺正三(まさかず)陸軍大将は、その悲惨な現場を全く知らず、知ろうともせず、撤退を指揮することなく無傷で終戦でもないのに本土へ引き揚げていることにある。この牟田口司令官と上官の河辺正三ビルマ方面軍司令官は罪に問われることなく、戦後昭和四十年頃まで生きているのである。「極東国際軍事裁判」は、簡単に言えば戦勝国のアメリカとの開戦を中心に裁かれているので、日本の軍事作戦の失敗における大量の日本軍人の死には関係なかったことになる。逆に英米に味方したから「無罪」と指摘する昭和史の著書もある。

 私の拙劣な歌よりも、先の戦争には多くの歌人、兵士が秀歌を遺している。特に戦争最前線の応召兵が詠んだものは、事実そのものだけに形容し難く「阿鼻叫喚」としか言いようがないものがある。中国の内陸部に「山西省」がある。北海道の二倍はあるそうで、おおよそ黄土高原であるらしい。北方に「万里の長城」があり、西側より南側を包むように「黄河」が流れる。大正六年生まれで現役の直木賞作家・伊藤桂一氏、短歌会「コスモス」の創刊者・
宮柊二の歌は、余すことなく山西省での戦争の最前線を伝えている。私の長々とした「戦争論」などよりは、たった「三十一文字」の定型詩が戦争の何かを物語っている。そこにあるのは、通り一遍の反戦や批評ではない。軍人・軍属の二百五十万人の経験せざるを得なかったことの集約がある。ここでは『昭和萬葉集・六 昭和十六年─二十年』『兵隊万葉集』『山西省』『私の戦旅歌』から太平洋・大東亜戦争最前線の歌を採録する。以下、五十首はその一部である。後半に宮柊二・伊藤桂一氏の歌は文学者であるゆえに戦場を詠んでも巧みに四季・風土を加味して諦観を感じる。尚ここでは中国・山西省における軍事行動の是非は避ける。

◆『昭和萬葉集・六 昭和十六年─二十年』講談社 昭和五十四年二月発行

◇ものあらふみづしのをみな妻どもも涙して聞けり刻々のラジオ 吉川英治・作家
 みづしのをみな=水仕事の女

◇天にして雲うちひらく朝日かげ真澄晴れたるこの朗ら見よ 北原白秋 歌人
 中国戦線が膠着状態でその原因は「英米にある」は、メディアの主張で、日本列島隅々までも吉川・北原の心境だったに違いない。

◇塩鮭を包みて吊す新聞に「敵艦轟沈」の文字太く見ゆ 小林 忠「アララギ」
 『兵隊万葉集』にも採録されている。新聞メディアがいかに戦争を煽ったかが証明される。

◇大方は米国製なる工作機の耐用期間をわが思ひ見つ 山本広治「創作」
 『兵隊万葉集』にも採録されている。国民の大方は英米との戦争は快哉を叫びつつ本当は不安を感じていたと思う。

◇ともしきをはづかしとせず銀のさじ拭ひきよめて供出なさむ 前田夕暮 「日本短歌」

◇大東亜共栄圏と云へる地図すでに売られて忽ちに無し 山下政一郎「創作」
 兵隊万葉集にも採られている。昂揚心より家族・親戚の応召地域を知って置きたかったのが、多分、真相であろう。

◇敵捕虜を囲み犇めく群衆の憎しみの中に我も混じりつ 峠 三吉 詩人
 国際条約で捕虜を殺してはいけない、取り決めなど軍人すら見て見ぬふりだった。

◇戦闘帽の若き工員がつり皮につかまりて勅喩暗唱してをり 戸田光子「アララギ」

◇明日出で征く湯屋の息子が会釈して下足の札を渡して呉れぬ 駒 敏郎「創作」
 『兵隊万葉集』にも採録されている。映画「母べえ」を彷彿させる。庶民は本当に喜んで若者を送ったのか。疑問は渦巻いていたと思う。

◇戦死せる弟の日記に食べたきもの観たきもの読みたきものありて泣かしむ
  岩波香代子 短大講師
 戦死した最前線の多くが故郷で食べた甘いものを欲求していたのは現実」である。このことを戦後の国民は解らない。

◇匪を斬りて血の滴れる軍刀の切先はにぶく陽に光りたり 田中政蔵「短歌中原」
 匪賊=盗賊
 中国人捕虜を殺害した歌は多い。日本の戦国時代のようだった中国大陸の事情はあったにしても自国の日本の兵士が殺されれば、感情論が先行したことが解る。

◇夜は蚊ぜめの地獄昼は蝿ぜめの地獄地獄地獄地獄 野間 宏 作家
 NHK 昭和五十四年放送『昭和万葉集』に採録されている。映像で本人が吟じているだけに迫力が違う。戦争の最前線を戦争指導者がいちばん知らなかった典型であろう。

◇焼死者をトラックに積む兵卒ら無造作なり荷物扱ふ如く 能重真太郎「一隅」
 ◇『兵隊万葉集』にも採録されている。「阿鼻叫喚」の言葉以外に思い浮かばない「東京大空襲」の現実がある。生死は紙一重の偶然だったであろう。

◇国民の無知なるひとりわれもまたへたな踊りををどらさりけり 石川武美 主婦の友社

◇言葉まで禽獣(けもの)に倣ふ世となりて食ふか食はれるかなどと唱へる
 尾崎咢堂 衆議院議員
 言論人・政治家がいかに軍部に抵抗できなかったことを自嘲気味に歌っている。

◇一線は全滅せりと喚(おら)びつつ熱に狂ひし若き隊長 田中富雄 応召兵
 NHK 昭和五十四年放送『昭和万葉集』に採録されている。とくに南方の最前線の戦場では、気候風土からして戦う状況には無かった。精神に異常を発するのは稀では無かったと云う。ここでも生死の境目は偶然或いは生命力の差であるとしか言いようがない。

◇腹一杯安倍川を食ひたいと言ひし戦友を遮放の山に埋めて来にけり
 渡辺 勇 応召兵 遮放の山=中国雲南省西部

◇密林の長き夜ごろをさめやすく鼠額を超え蜥蜴は脛を這ふ 米川 稔 応召兵

◇爆撃に同じ濠なる四人の友ことごと逝きて老のみ残る 今村 均 陸軍大将
 今村均陸軍大将は名将と称えられている。その理由は項を改めたい。

◇ゆるされぬぜいたくか知らね二日三日しらみの床をかへて死にたし 江口章子「曼陀羅」

◆早坂隆『兵隊万葉集』幻冬舎新書 平成十九年七月発行

◇支那兵の死に浮く水を汲み上げてせつなけれども呑まねばならず
 上原西松『聖戦短歌集』昭和13年
◇をとつひに手を握り合ひて別れたる友の戦死を今日聞く吾は
 加藤正雄『聖戦短歌集』昭和13年
◇十月五日にて日記終れる手帳には幼児の写真はさみてありぬ
 石川  清『聖戦短歌集』昭和13年
◇まる二日もの食はざりし後なれば水粥の味忘れかねつも
 滝澤 巍『聖戦短歌集』昭和13年
◇上陸より二十日に足らぬ日と思へ別人の如く人はよごれぬ
 美彌國樹『聖戦短歌集』昭和13年
◇道に死せる支那兵よあはれ大砲の車にひかれ板の如く寝き
 茂木忠雄『聖戦短歌集』昭和13年
◇銃殺ときめし捕虜兵をたたせたるうしろに光るざくろの花
 広澤真砂三『聖戦短歌集』昭和13年
◇吾が前に少年二人戦ひに死にゆくことを事もなげにいふ
 幸田幸子『アララギ』昭和18年
◇きみ想ふこころは常にかはらねどすべてを捨てて大空に散らむ
 小城亜細亜『雲ながるる果てに』平成02年
◇太き骨は先生ならむそのそばに小さき頭の骨あつまれり
 正田篠枝『ざんげ』昭和22年

◆宮 柊二の歌『山西省』短歌新聞社文庫 平成七年八月発行

◇おそらくは知らるるなけむ一兵の生きの有様をまつぶさに遂げむ
◇血に染みて伏しゐし犬がまだ生きて水すする音暫しののちに
◇自爆せし敵のむくろの若かるを哀れみつつは振り返り見ず
◇亡骸に火がまはらずて噎せたりと互に語るおもひ出でてあはれ
 山西省での生々しい戦いの有り様を諦観気味に歌っている。
◇うつそみの骨身を打ちて雨寒しこの世にし遇ふ最後の雨か
◇磧(かはら)より夜をまぎれ来し敵兵の三人迄を迎へて刺せり

 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

 この三首は短歌には関係ない昭和史の著書に多く採られる歌で暴力とか非暴力などのレベルの話ではない。宮柊二は犯罪者などとは言えない。告白者の苦悩が歌に結実している。

◇胸元に銃剣うけし捕虜二人青深峪に姿を呑まる
◇戦死者をいたむ心理を議論して涙ながせし君も死にたり
◇右頬を貫きし弾丸鋭どくて口より出でて行方わかずとふ
 ◇この三首にコメントはできない。無残・悲惨を通り越している。

◆伊藤桂一氏の歌『私の戦旅歌』講談社文芸文庫 平成十九年八月発行

 この山は死ぬるに寂し水湧かず鳥啼かず樹に雲も逝かざれば
 兵いくた崩れし廟のかたわらにしずかにいます息絶えしまま
 曳光弾馬の鬣(たてがみ)とすれすれに迫りくるなり遮二無二駈くる
 馬は草を食みつつもふと耳を上ぐ聞きそらすほどの遠き砲声
 捕虜にせし支那兵の煙草分けあいてのめばうましも幾日ぶりに
 痩せ果てて臑はみ出だしのけぞれる死体ここにあり脳割られいつ
 業のごとく昨日も今日も相撃てり鴉も棲まぬ山の涯にして
 戦況の激しきなかに友を焼き骨は缶詰の缶におさめき
 山を奪れば山を越えてまた山ありきその山を奪ればまた山ありき
 遂にかのひとも死にたるか夜の更けて馬と鞍のみ帰り来にけり

 大正六年(1917)生まれで現役の作家である
伊藤桂一氏は昭和三十六年『蛍の河』で直木賞受賞、以後戦争最前線に視点をおいた小説を発表、詩やノンフィクションも多い。伊藤氏は昭和十二年から終戦まで七年間も主に中国・山西省で騎兵として兵役に就いた。一旦は昭和十六年、作戦変更につき部隊は解散となり帰国。宇都宮で除隊となり、東京渋谷で母・妹と暮らすも対英米戦勃発で以降、中国戦線も益々激しさを増して昭和十八年、再び応召され又もや中国大陸へ赴く。ここでは伊藤氏の軍歴を詳説しないが「九死に一生」は変わりがない。多くの戦友と愛馬を失っている。文藝春秋・平成十八年九月号での保阪正康氏の連続対談での発言は重い。

<死んでいくのは命令される側で、する側は死なないんです。命令された側から言わせてもらうと、真珠湾攻撃のときに、指導層にせめて「この戦争には負けるかもわからないが、やらざるを得ない戦争なんだ。あなた方が死ぬのなら、我々も先に立って死ぬ。だから一生懸命やってくれ、これが国家の運命なんだ」と言って欲しかった。そういう言葉があれば、死んで行った連中も、気持よく死んで行けたでしょう。>これは最前線の兵士の本音である。さらにこうも言っている。

<戦後の考え方では「
戦争は悪いことだ、それに加担するのはけしからん」となるのかも知れませんが、当時はそういうことじゃないんですね。戦争がいいとか悪いとかではなくて、国が自分たちを必要としている、誰かがやらなきゃいけないのなら、自分たちが防人の役割をするしかない、ということでした。いわば世代としての責任感です。自分がラクするよりも、この危機に付き合うのが男としての任務だと思っていました。>

 この章で強調したいのは、太平洋・大東亜戦争を解釈するとき、国民の大半は
戦後の価値観でしか尺度を持たない。またそういう教育しか受けていない。戦争の内実にはそれが常識のごとく無関心で無気力で知るすべを持とうとしない。だから拙歌の「銃剣」を使う、使わないという箇所に反応してしまう。たかだか六十数年前の戦争である。八十歳代以上であれば男女を問わず戦争に加担を余儀なくされた。今、最も大切なことは、もしもその時、自分がその立場に置かれていたら何ができたか、どのように考えたか、生きたかである。この視点を持たなければ何とでも言える。戦争が「暴力」であるとか、「悪」であるとか云うのは容易い。日本の終戦後、世界に戦争は絶えたことがない。そのすべてが「対岸の火事」として捉えているのが今の日本の実情。平和と戦争を理想論に留まる限りならまた「いつか来た道」だ。