還らなかった父のために


2 ある陸軍上等兵の死

平成27年04月23日改訂

 私の父は正確に言うと戦病死、歩兵中心の陸軍に於いては歩けない兵士は“置き去り”にされたのが真相。病気で動けない兵士は、軍隊では持て余した。病気の兵士なら担架に乗せて移動しても4人が必要。二等兵なら多分“棄兵”の措置だ。問題は病死が昭和20年11月10日だということ。敗戦後3ケ月弱経過している。これもとやかく言っても仕方ないが「敗戦の決断は何故遅れたのか」の項目で探究してみたい。無事な兵士であっても敗戦後なら中国人民から命を狙われたに違いない。

 多くの市民と同じだったと思うが、父の場合、昭和18年10月26日、徴兵され記念撮影の後、多分“万歳三唱”で送られたに相違ない。徴兵後の所属が「
独立歩兵第二二二大隊第二中隊」とは厳めしいが、二年弱どういう軍隊でどう過ごしたのか皆目解らない。ただそのまま還らなかった。中国広西省での病死であって戦闘行為での死ではない。だが戦病死でも、戦死だから死後二階級特別進級の陸軍上等兵になった。実態は一番下っ端の「陸軍二等兵」である。兵士として特進しても、それは名目上で所謂死に損である。戦後の恩給には高級将校でないとその恩恵に与かれない。母が再婚すれば何の補償もない。国家からの謝罪はない。

 昭和史の書物や映像である程度「太平洋・大東亜戦争」の実態が解ってくると、感情論は抜きにしてこの戦争は随分出鱈目である。家族のため国家のため天皇のための戦争と言うが、昭和史を俯瞰すればそれは嘘である。戦死した家族を持つ者は多くが“
戦争絶対悪”という理想論を設定してそこに逃げ込んでいる、と感じるのが今の私の理解。そこに留まる限り三年半の戦争の実態は見えてこない。そこより少しでも踏み込んで“父の戦死”の実態と原因を探るのがこれから以降の記述だが、この頁は“お涙頂戴”の感情論報告ではないので事実のみ記す。

 中国大陸での戦闘が膠着状態だから、そこから眼を逸らすために、それも戦争をよく知る軍人が選択したのが日米開戦。不意打ちによって初戦に勝利しても、それは勢いだけのこと、実力を発揮したわけではない。すぐ軍事的内容は露呈する。昭和18年04月、「真珠湾攻撃」の責任者・山本五十六が戦死した。もうここで軍部は
敗戦を予期していた筈。だが将来を託すのに徴兵を免れていた大学生にいわゆる「学徒出陣」をさせ、戦争最前線の指揮官として短期訓練をして送り出す。雨の神宮外苑の壮行会と東條英機総理大臣の演出がかかった万歳三唱は、今もTVメディアが必ず放映する。更にこの時期、重要な労働力なのにる工員の市民さえ徴兵した。日本列島は「兵舎」と化した。訓練もままならないのに庶民は、計算できる謂わば消耗品になった。昭和19年07月、東條英機内閣が退陣したのに、ここでも具体的な終戦が考えられた兆候がない。肥大化した帝国陸軍はブレーキがかからなかった。結果として東京大空襲・原子爆弾投下という物理的惨状を呈してブレーキは効いたが“車自体”が壊れた。敗戦決定が一年早ければ父は戦病死せずに済んだ筈だと単純に思う。

 太平洋・大東亜戦争の250万人の軍人・軍属の死は、250万人の家族の悲しみがある。私の母の長姉の夫は、陸軍で輸送船が沈められ海没。次姉の夫は帰還後病死、母の実弟は23歳で、台湾で戦死だ。赤ん坊の私を抱え、生活の術もない20代後半の戦争未亡人が其の後、順風満帆の生活が送れるわけがない。長姉は美容師、次女は「専売公社」勤務、母は再婚の道を選んだ。母子二人の生活の選択もあったのではないか、が今の心境。絵に描いた貧乏生活を余儀なくされた。だが
母の泣き言は聞いたことがない。

父の死に様を当時の上官が、復員後、詳細に手紙をしたため知らせてくれた。母はたいへん感謝していた。再婚しても大切に保管していたようである。だがこれは上官の義務だったようだ。私は母の存命中、その存在を知らされていたが、あまり見てみたいとは思わなかった。平成06年12月11日、母は76歳で、くも膜下出血で死んだ。
風呂敷に包んだいろいろな遺品のなかに以下の「手紙」「写真」「ノート」などがあった。手紙は毛筆で達筆である。4文字くらいが判読不能だが、意味は通じる。中隊長は陸軍士官学校出の中尉、達筆である。

 平成20年、戦後63年もたって戦病死した父の実家の姑と近所のクリニックで顔を合わすようになった。父の兄の
伯父は貧乏な歯医者だったが、弟の戦死に関する書類を金庫にしまってあったらしい。金庫には金めのものは無かったらしい。姑は処置に困ったのが実情か、私に譲ってくれた。その“死に様”の書類の数々を画像として紹介しておきたい。写真と手紙以外の書類は伯父が残していたもの。因みに伯父は「特別弔慰金」は受領していた。書類で見る限り二等兵の価値は三万円である。

       父の出征時の写真 昭和18年10月26日撮影 父30歳・母25歳

 この時、私は母のお腹に宿っている。平成20年現在ここに写っている大人は全員、この世には居ない。前列右の男の子は私の
従兄で現在74歳。従兄の後ろは母の父で曽我只吉。農家だが俳句もたしなんだ。後列中央の白髪の人は父の兄で私の伯父、櫻井孝一。歯科医だった。現在の私はこの伯父にそっくりである。
両親 江の島海岸にて 昭和18年04月15日 赤ん坊は私である 昭和20年01月14日 

父 30歳の頃 撮影日不明 両親 昭和18年09月08日 母と私 昭和22年01月03日

 昭和21年5月、上官より届いた手紙
上部左3枚は父よりの葉書 上部中央は手紙の封書 右の写真は目次に使用
 この上下の書類は左右に分けてスキャンした。陸軍の公式用箋であるらしい和紙の薄紙。今で言えば週刊誌を広げたB4判の大きさ。戦病死の証明書である。昭和19年12月に発病、20年11月に病死したことを連隊中隊長、大隊付陸軍軍医の捺印のある戦病死した事実証明書。内容を読むと徴兵されて一年で発病、二年で戦病死したことが解る。おそらくクスリも食料も満足になく病死するために徴用されたようなものである。フィリピンの奥地で餓死したのではないだけマシなのか。エリート軍人は本国で執務しているだけなので病死することはなく、多くが戦後を生きた。

拝啓
終戦後とは云へ御遺族皆々様にも冷厳なる風塵(ふうじん)吹き捲くる中を日夜の御苦闘如何ばかりかと拝察申上候(そうろう)

扨て甚だ申上兼◆とは存じ候も貴御夫君 故陸軍上等兵櫻井正徳君には、節兵団独立歩兵第一二七大隊として廣西省蒼梧縣梧州(こうせいしょうそうごけんごしゅう)に於て警備勤務中、偶々(たまたま)昭和十九年十二月二十五日「マラリヤ熱」痔疾及胸部疾患の疑に依り、直ちに廣東(かんとん)陸軍病院梧州患者療養所に入院、其後各地の衛生機関の手当を受けつつ、昭和二十年八月三十一日、廣東第百六十兵站(へいたん)病院に後送、其後益々食欲不振になり軍医官一同の手当の効なく漸次栄養衰へ、病状悪化の一路を延り(たどり?)全身衰弱し、遂に同年十一月十日午前八時二十分、肺結核の為め壮烈なる戦病死を遂げさせられ候

其後、同君の遺骨は節兵団の中支転進の為、小生部隊に転籍、其後南支軍司令部経由の上、本籍地地方世話部に御送りせられたる筈に候も、転籍書類の不備に依り留守担当者の姓名不明瞭なる為、戦友関係者其他の手段に盡(つく)して調査致したるも判明せざる為、或は英霊の御帰還も遅れざるかと懸念され候故、地方世話部へ御照会被下(くだされ)ば幸甚まで候

想へば去る昭和十八年十月二十七日應召(おうしゅう)、大陸に出動以来、南支特有の悪疫不毛の地を乗り越へ幾多の辛酸を嘗めつつ作戦に従事、不幸病に侵され、然(し)かも終戦後、病◆されし事は誠に残念に堪へず、遺骨の部下として転入せられし為、何等御世話も申上げられず、聴かば郷に在りては航空機製作工員として決戦兵器の増産に挺身、又家庭に在りては御子息を持つ一家の柱石として精進、今茲(ここ)に同君を失へる御家庭の将来を想ひ浮べたる時、只々御氣毒に堪へず誠に申訳無之(これなく)次第に候

然れども在天の英霊方々の精忠遺烈は必ずや復興日本の礎(いしずえ)として、将又御家の守護として永へる加護下されし事と信じ奉り候

我々復員者一同も護国の神と化せられし方々に対し、其忠誠に報ひ奉度(たてまつりたく)一同とともに誓を新たに致したる次第に御座候(ござそうろう)
復員に先だち、早速焼香申し上度と存候も、先は甚だ失礼乍ら書面を以て御悔み旁々御見舞申し上げ候 草々

昭和二十一年五月十六日

肝第三三二二部隊第二中隊長 陸軍大尉 渡邊辰彌

櫻井正徳御令室様 御遺族様

尚同封の押花は、去る十二月四日廣東集中営に於いて◆部隊慰霊祭の獻華(けんか)に候故御佛前に御?(そな)へ被下度(くだされたく)候

( )フリガナは筆者。◆は判読不能。

テーブルに並べた書類・札
上官から届いた葉書大のカードの表面と裏面
靖国神社合祀証明書、靖国神社の御札とお守り
事実証明書とあるが死亡証明書
 
 「給与通報送付に就いて」という説明が書かれているガリ版印刷の書類
 
徴兵される前に種痘の予防接種を受けた書類 
 
この書類はよく解らない。「給与通報」とある、弔慰金でもあるのか。
これは復員の書類だと思うが、病死なら書き込むこともないのだろう。
見ての通り昭和42年に遺族(父の兄)へ3万円の弔慰金が出ている。
左側は明治神宮、右は戦前の成田山新勝寺のお守り