3 日米開戦は避けられなかったのかB 日米間交渉

日米間交渉 ─近衛文麿内閣の一年間─

 
前項では『日独伊三国同盟』締結を記述したが、当時はそういう政治的選択が、アメリカとの対立を避ける方法として考えられた。ドイツ・イタリアとの「枢軸国」と称される全体主義のファシズム国家と手を結ぶのが、アメリカとの対立を避ける有力な手段としてどういう動機と経緯でそうなったのか判然としない。松岡洋右の独創ではなく白鳥敏男など当時の外務省・ドイツ派の総意だろう。今の日本は、衛星放送の発達でリアルタイムで世界の隅々まで他国の日常生活すら知ることができる。当時は通信事情も完璧でなく海外渡航すらままならなかった。戦後の親米経済で生活豊かな、ひたすら戦争忌避の教育を受けた者としては、アメリカを牽制する意味が敵対することになってしまった感覚は到底解らない。しかしその認識の落差は、ただアメリカの情報が手薄だっただけとは言えない。

 総理大臣が近衛文麿、外務大臣・松岡洋右、陸軍大臣・東條英機では、まとまる意見もまとまらないと思うが「三国同盟」に眼に見える形で邁進したのは、軍部の中堅幕僚だったのは今では知られている。その少壮軍人は、陸軍で言えば陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学とドイツの戦術と言語で鍛えられている。その中で国策を動かした一握りのエリート軍人は、自ら学んだこと以外は結局無視することになる。言ってみればアメリカの本当の「政治・世相」には甚だ無頓着なのではなく想定外だった。彼らには与えられたエリート意識をもって「アメリカと一戦交えたい」との感情論しか頭にはなかった。いわば戦争をすることが職業の人たちゆえに合理的計算は無かった。軍の組織以外の人間は“地方人”と呼んでいた事実がある。アメリカを敵と思うのなら敵の実情をよく知ることが不可欠と思うのに、当時の日本は、中国戦線が思わしくないことがアメリカ・イギリスの妨害との感覚としか思えなかった。それは何も軍人だけに限らない。むしろ朝日・毎日新聞をはじめとするメディアが率先して「アメリカ何するものぞ」との報道姿勢だった。

 松岡洋右は、昭和15年07月、外務大臣に就任。明治16年(1883)生、東京帝大学法科卒の満州国外務局長、満州国参議などを歴任した大橋忠一を外務次官として外務省の人事を断行。外務省の秩序を著しく乱した軍人偏重の人事で、外務省主流のいわゆる“サボタージュ”を生む元凶となる。大橋は戦後、衆議院議員になる。
 結果として、後世の解釈だが“日米交渉”は頓挫する。虚しいが「上海事件」以来の野村吉三郎は努力する。松岡は海軍軍人を頼った。

◇アメリカ大使 堀内(ほりのうち)健介 → 野村吉三郎(海軍大将・戦後ビクター社長)
◇フランス大使 澤田廉三(英・仏語堪能)→ 加藤外松(昭和17年フランスで不審死)
◇イタリア大使 天羽(あもう)英二(中国協調派)→ 堀切善兵衛(政友会代議士・慶大教授)
◇ドイツ大使 来栖三郎 → 大島浩(陸軍中将・ヒトラー信奉者)
◇ソ連大使 東郷茂徳 → 建川美次(陸軍中将)
◇中国大使 阿部信行(陸軍大将・36代総理大臣) → 本多熊太郎(外交評論家)
◇ブラジル大使 桑島主計 → 石射猪太郎(在米経験豊富)
◇トルコ大使 武富敏彦 → 栗原正

 この項ではいわば風雲急を告げる日米間の対立を解消するべく立ち上がった人々もいる事実を記したい。昭和15年9月27日、日独伊三国同盟はベルリンで締結された。この夜、日本の外相官邸・ドイツ大使館では盛大なパーティが開催された。日本ではお祭り気分だったが、アメリカや欧州に居る日本人には、その危険性は十分に判っていたらしい。この年5月から第二次大戦が始まり、ドイツは向かうところ「敵無し」だった。三国軍盟締結の昭和15年9月には、英国ロンドンはドイツ軍の猛爆を受けていた。連日、日本の新聞の派手な報道でドイツが今にも欧州を席巻するのではないかと思われても不思議はなかった。イギリスにして見れば、以前「日英同盟」を結んでいて、日露戦争でも協力した国日本が、あろうことかナチス・ドイツと手を組んだのである。イギリス側の資料によれば日独の提携によってイギリスの外交政策ががらりと変わった。(『昭和史が面白い』P102)政略の長けたイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、当時は重い腰を上げないアメリカを完全に自陣営に引き込む政策に転換した。

 この項ではおおまかに以下6点の事項で日米交渉をみる。
(1)日米諒解案
(2)ハル四原則
(3)日米首脳頂上会談
(4)日本政府外務省甲案・乙案
(5)アメリカ暫定案
(6)ハル・ノート手交

 日米交渉は昭和15年11月末、アメリカから民間の二人の神父が来日、日本側の官僚出身者と非公式の折衝が始まる。日米国交打開策を携えて来たその案とは「アメリカ・ルーズヴェルト大統領と日本の近衛文麿首相が、太平洋沿岸のアラスカあたりで会談し、一気に日米両国の懸案を解決する」との計画で(『昭和史』P339)その前提条件として、日米の敵対関係を整理解決するとの内容だった。ドラウト・ウォルシュ両神父は、おもて向きはカトリックの布教だが、本当の目的は日米緊張を和らげることだった。(左から岩畔、ドラウト、野村、ウォルシュ)
 この神父を派遣したのが当時アメリカ政府の郵政長官・ウォーカー。ウォーカーはアメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトの選挙参謀を務めた。この大統領は2期8年の不文律を越えて1940年(昭和15年)11月6日三選されていた。二人の神父が訪ねたのは井川忠雄で、近衛文麿と知己の人物。(『日本の歴史25』P212)井川は、陸軍省軍事課長・岩畔豪雄(いわくろひでお)を紹介し、岩畔は軍務局長・武藤章に引き合わせる。むろん傲岸不遜な松岡洋右外務大臣にも、近衛文麿首相の命令があり渋々会談に加わった。

 昭和42年発行の『日本の歴史25』では、これが常識だった。ところが『文藝春秋平成21年01月号』では、作家・西木正明氏が“真っ赤ウソ”であることを発掘、克明に記した。今も昔も自国以外の政治状況・軍事状況を探ることは、民間人とて十分に考えられる。(第4章では日本の陸軍主計将校・新庄健吉を紹介した)二人の神父、とくにドラウトは「日米対立」を和らげるどころか逆に煽る結果をもたらした。ここに展開するのが“
二人のジェームスと三人のウィリアム”。主役は、ウィリアム・ワイズマン、当時55歳で(『文藝春秋 平成21年01月号』P327)国際投資銀行「クーン・レープ商会」共同役員。ワイズマンの目的は「大英帝国」の国益だった。ワイズマンは日本に来ていない。他、関わる人物は以下の通り。詳しい経緯は、単行本になっているらしいので割愛する。ただ人物は錯綜するので“二人の神父”との関わりにおいて“日米交渉”に立ち入らないと近衛文麿と松岡洋右の“離反”を理解できない。

ジェームス・ドラウト(1897生)カトリック・メリノール教会財政担当
ジェームス・ウォルシュ(1891生)カトリック・メリノール教会・アジア担当司教
◇フランク・ウォーカー(不明)アメリカ政府・郵政長官、ショービジネス富豪
 メリノール教会は「クーン・レープ商会」で資産を運用。教会の存続を支えていた。富豪のウォーカーが、元大蔵省の井川を通して神父を派遣した。

ウィリアム・ワイズマン(1885生)クーン・レープ商会役員、BSC(英国安全保障調整局)初代局長(右画像)
ウィリアム・スティーブンソン(不明)イギリス側連絡官、英国安全保障調整局創設者
ウィリアム・ドノヴァン(1883生)弁護士、アメリカ側連絡官、戦略情報事務局創設者

 二人の神父の「日本行き」を画策したのがワイズマン。簡単に云えば、日本へのスパイ行為のプロデューサーである。ワイズマンがイギリス・チャーチル首相の意を汲んで、アメリカの“対日参戦”を強いた。昭和15年(1940)ドイツ空軍の爆撃でイギリス・ロンドンは喘いでいた。情報の乏しい日本ではドイツの勝利が信じられていたことになる。
◇アーサー・マッカラム(1885生) アメリカ海軍海外情報部極東部長、日本語が堪能
◇ルイス・シュトラウス(1896生) クーン・レープ商会、ユダヤ系ドイツ人、米国共和党議員
 この一連で、日米両国では、軍人としてマッカラムが報告を受ける最高位。

◇井川 忠雄(1893生)前・産業組合中央金庫理事
◇岩畔 豪雄(1897生)前・陸軍省軍務課長
◇武藤  章(1892生)昭和15年時・陸軍省軍務局長
◇野村吉三郎(1877生) 昭和15年時・駐米日本大使
◇若杉  要(1883生)昭和15年時・駐米日本公使

 この「日米交渉」のシナリオは、ドラウト・井川・岩畔の合作。だが民間人の“試案”だった。松岡に抜擢された海軍上がりの野村大使などは頻繁に本国とやり取りを交わしていたに違いない。外務大臣の松岡は、神父などは最初から無視、外務所本流の若杉公使は、民間人・井川を無視した。井川の同期の近衛首相、陸軍の責任者・武藤もいっとき心を躍らせられた。昭和16年06月のドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」で、ドラウトも井川もその役目を終えた。
 後述するが、ドラウト・ウォルシュ両神父は、昭和15年秋に来日、役目は終えて帰国したが何と翌年夏に、密かに日本の箱根・富士屋ホテルに宿泊していた。日米情報戦の世界は複雑だ。

(1)日米諒解案
 この会談の成果がまとまるのは翌年の4月だが、日米が衝突を避けるのではなく、既にルーズヴェルトは、日本との戦争を覚悟していて謂わば時間稼ぎでもあったようだ。日本流に言えばタテマエとしては、ルーズヴェルトは自国を戦争に巻き込むのは慎重だったが、年末の『炉辺談話』なるラジオ放送でアメリカが「民主主義の大兵器工場」になるといわばホンネを宣言したからである。(『日米戦争と戦後日本』P20)フランクリン・ルーズヴェルトの生家は中国との貿易、とりわけ陸軍用に麻酔のアヘンを納めて巨大な利益をあげたとある。(『文藝春秋・平成19年11月号』P133)中国大陸で傍若無人な振る舞いの日本が許せなかったのではなく日本の軍隊が撤兵しないのは、織り込み済みで民間人の神父は、日本の政情、軍事事情、民情など具体的な感触を探りに来たのだと思う。アメリカは、ナチス・ドイツの欧州戦略に何とか介入したかったに違いない。

 欠員だった駐米日本大使に日米打開のために、海軍大将の野村吉三郎が赴任する。しかし陸軍・海軍・外務省三者共にこの頃は、対米強硬派が主流を占めていた。何とかまとまったのは翌年16年4月である。アメリカの当事者コーデル・ハル国務長官は、以下に述べる基本原則の下に日米交渉案として外交ルートに乗せてもよいと述べた。特に日中問題に関しては和平を勧告するとの言い分。松岡外相は、英会話が下手でも野村は、上海事変以来の海軍出身の人物。信頼するしかなかった。ともあれあくまで民間レベルで次のように合意した。
 @中国の独立A日中間に成立すべき協定に基づく日本軍の撤退B中国領土の非併合C非賠償D門戸開放方針の復活E蒋政権と汪政権の合流F中国領土への大量移民の自制G満洲国の承認。(『日本の戦争』P435)

 この「日米諒解案」をめぐり昭和16年4月、野村吉三郎駐米大使とコーデル・ハル国務長官の会談が行なわれた。ハルの受け止め方は、あくまでいわゆる「ハル4原則」が基本、政府間レベルの交渉事項ではないと思っていた。野村はこの原則を無視したのか、重要でないと思ったのか、前述の項目をアメリカ政府案のごとく日本政府へ打電した。アメリカのアドバルーンとは思わない希望的観測だ。野村は原則を無視、交渉を早く始めたいがためだったかも知れない。ハルはこれが交渉のスタート程度の考えだった。次に述べる「ハル四原則」は日米開戦まで終始変わらぬ原則だった。この諒解案をアメリカの正式なものとして受け取った日本軍部は無邪気に喜んだ。この辺のニュアンスは、よく解らないが陸軍にとっては「賠償金を払わなくてもよい」とのニュアンスは重要な意味を持つ。日清・日露戦争勝利の賠償金で近代日本が潤った事実により富国強兵が成ったからである。今から思えばアメリカの「満洲国」承認など本当に信じたのか。

(2)ハル四原則
 ハルの原則とは@各国の領土保全と主権尊重A他国への内政不干渉B通商上の機会均等を含む平等の原則C平和的手段による変更のほか、太平洋の現状を変革しないことである。(『ハル・ノートを書いた男』P25)現在の世界の政治常識では当然のことである。
 アメリカの基本はここに集約されている。即ち@は日本の中国からの撤兵Aは日本が承認していた王兆銘政権の否認Cは武力南進の否認である。これは大正10〜11年(1921〜22)、日本が中国も交えて米英仏などと作った太平洋の軍縮と平和維持の枠組、いわゆるワシントン条釣体制確認であり、中国に対する『九ヵ国条約』の遵守であり、世界新秩序大東亜共栄圏の否認でもあった。アメリカ側からすれば、前年の「三国同盟」締結の時から、拭い去らない対日不信感がある。日米開戦に至るまで終始、日本の中国侵略が念頭にあったことになる。ところが日本は敗戦後の極東国際軍事裁判で明らかになることだが、昭和16年10月中旬に成立した東條英機総理大臣に代表されるように、軍人出身の政治家はそうした国際条約すら知らなかった。あくまで陸軍軍人は陸軍の利益、海軍軍人は海軍のことしか念頭になかった。

 この項は半藤一利著『昭和史』・須藤眞志著『ハル・ノートを書いた男』・藤原彰著『昭和の歴史・日中全面戦争』などを参考書にしているが、これらの書に限らないが、共通するのはアメリカの“マジック”と称された暗号解読の指摘である。この頃、日本政府の海外の大使館とのやりとりはすべて筒抜けだった。(『昭和史』P346)マジックとはアメリカの暗号解読組織からもたらせた日本の情報そのものである。日本の海外への暗号が解読され始めたのは前年の昭和15年秋かららしい。しかしどんなにアメリカが情報に長けているにせよ、天文学的確率という複雑・難解な暗号を解読するのは至難の技で、日本外務省が使った暗号機の仕組のデータが漏れていたとの見解も否定できず、この謎は永遠に解らないらしい。ここでびっくりするような挿話がある。前述したアメリカ政府のウォーカー郵政長官と野村大使は昭和16年11月9日に会談。ウォーカーは「友人の君だから言うのだが、ルーズヴェルトやハルは、日本が近日中に武力行動に出る確実な情報を握っている」と告白された。(『昭和史再掘』P78)これは日本の国策の中心に居る者からの情報だとのこと。11月5日の御前会議で日本の太平洋への武力進出は事実上決定していたからである。これはこれで国家的な犯罪に発展する機密漏洩で大問題なのだが、これでは小国が大国に刃向かう前にすでに完敗していることになる。いずれにせよ敗戦までの日本軍部の機密はすべてお見通しだったのは確実でお粗末である。

 話を元に戻すと昭和12年、盧溝橋事件から始まった日中戦争が膠着状態で既に日本は10万人以上の戦死者を出している。大本営(陸海軍作戦部)とこの時の総理大臣近衛文麿は、前述の中国に対するアメリカの提案に諸手をあげて賛成した。これを受けて政府・大本営連絡会議が開かれ、陸海軍も全く異存はなかった。ここは日米戦争を回避できたかもしれない一つのポイントだったが、これを蹴飛ばしたのが、前項で取り上げた外務大臣・松岡洋右。松岡の考えはあくまで三国同盟に固執し、アメリカの力で中国の蒋介石を牽制することにあった。ヒトラーに歓迎され、スターリンと「日ソ中立条約」まで締結してきた松岡は、見た目には、“力”でアメリカと対決することを選んだ。松岡に見方すれば、アメリカと戦争することではなく、あくまで“外交上”の関係を強調するつもりだった。だが松岡の見通しの甘さはすぐ『独ソ開戦』のかたちで現れる。ここに松岡の致命的な日本のそれは悲劇とも言えるミスだった。松岡は、今度は『ソ連へ進攻すべき』と上奏したりする。自分が世界の覇者からいわば“コケにされた”ことがようやく判った。もう松岡を相手にする者は日本政府にも居なかった。ついでに言えばこの『日米諒解案』を近衛文麿首相も日本の軍部もアメリカの正式な提案と誤解していたらしい。だがあくまで話は民間レベルだった。アメリカは交渉開始らしい構え、日本は交渉妥結が現実を帯びたとの見通しであるのは、両者がテーブルにもまだ着けないのが率直な現実。
 昭和天皇もその日米交渉に言及している。(『昭和天皇独白録』P71・72)天皇は『日米諒解案』『日米首脳会談』『東郷外相甲・乙案』の三点を言い、殊に『日米諒解案』『首脳会談』には期待していたことは明らかである。この天皇の期待に応えられなかった松岡や近衛に対する評価が厳しいのは当然。

 昭和16年(1941)6月3日の独ソ戦の勃発を受けるかたちで7月2日に御前会議が行われる。ここで決められた国策は、南進か北進かに集中され、日本が南部仏印(フランス領インドシナ・現ラオス・カンボジア付近)に手を出せばアメリカは参戦するかが主要問題となった。統帥部参謀総長杉山元は『ドイツの計画が挫折すれば長期戦となり、アメリカ参戦の公算は増すであろう。現在はドイツの戦況が有利なるゆえ、日本が仏印に出てもアメリカは参戦せぬと思う』と報告し、最後には了承される。又海軍中央の強硬派の基本には、英米可分論があった。(『昭和史が面白い』P105)南方に進出して、イギリス・オランダの植民地を攻撃しても、問題はアジアの事情でアメリカは出て来ない、アメリカと戦争する気持ちは無いのだからアメリカと戦争にはならない、との都合の良い認識で希望・願望が最終的な判断になった。この判断の根拠はむろんドイツの戦争の行方だが、駐独大使・大島浩などは殆どヒトラー政権の勝利を信じて疑わなかったのが現実。このときの国策要綱は「南方進出に歩を進め又情勢の推移に応じ北方問題を解決す」とあり、初めて「対英米戦争を辞せず」の文言が追加される。ただしそのくらいの気構えでとの意味だった。参謀本部の強硬な主張で南方進出と共に「関東軍特別演習」(関特演)の実施を決め、満洲方面に大量の人員と武器・物資を動員する。(『日本の歴史25』P222)

 松岡外相を追い出すための第三次近衛内閣が7月18日発足、松岡の俄か仕立ての『北進論』に逆らうかのように28日、日本軍は『南部仏印』領土に進駐する。ここも多くの書が指摘するように松岡外相を追い出す目的の『南部仏印進駐』が目的化してしまったのが真相。(『東條英機と天皇の時代』P253)欧州の植民地に兵を進める、展開するとの戦略に近衛文麿はさすがに危機を感じたのかも知れない。自ら外務大臣経験者の幣原喜重郎を訪ねた。近衛は『南部仏印進駐』を告げる。幣原は『軍の進駐・上陸は、間違いなく戦争になる。兵を引き返すしか方法はない』(『外交五十年』P210)と懸命に忠告した。近衛は「私の力では御前会議の決定は覆せない」と目を白黒させた。これは多くの昭和史に紹介されている。このことをもってして近衛の現実感とそれは誰でも同じだが軍部を説き伏せられない資質を感じる。

 英米にとってシンガポール・フィリピンに近いがゆえに、今言えることは日米交渉の芽を完全に摘んだことになる。手続きを踏み、平和裡に進んだつもりだが、日本の長閑な期待とはうらはらに英米蘭三国は直ちに日本資産凍結、航空機燃料・潤滑油の輸出禁止でこれに対抗。また、米国は英ソ相互援助協定成立のあと、対ソ経済援助にまで踏み切ったのである。以後三回の御前会議は「対英米戦争を辞せざる決意の下に」「英米戦争を決意」「英米戦争決定」と推移する。(『昭和史の論点』P140)陸軍・参謀本部が計画した『関東軍特別演習』(関特演)は、南進によって完全にパフォーマンスなのが見え見えだった。ソ連のドイツ人スパイ・ゾルゲに完璧に内容を盗まれ、ソ連は安心してドイツ戦線に専念、その分完全に英米とは戦争状態に一歩進んだ。ゾルゲに機密を盗まれた『昭和研究会』については、疑問だらけでこの部分を詳述した書にはまだお目にかかっていない。

(3)日米首脳頂上会談
 敗戦後、GHQの戦犯容疑を拒絶、服毒自殺した近衛文麿の政治家としての評価は厳しいが、この頃は確かにルーズヴェルトとの“頂上会談”を希望しており、ここにも避戦のポイントがあった。8月初旬、アメリカの『対日石油輸出禁止』を受けて近衛は深く期するものがあった。陸・海軍大臣に決意を表明。昭和天皇にも上奏。野村大使に打電。駐日大使グルーも母国に進言。しかし結果的に頂上会談が成らなかったのは『南部仏印進駐』が致命的だった。ルーズヴェルトはその頃、イギリス・チャーチルと洋上会談をしていて日本の総理と会うつもりなど無かった。日本に対する原則確認の巨頭会談である。だが近衛は会談のためのアラスカへ赴くために郵船会社の『新田丸』の手配、随員まで決めていた。ところが極秘の近衛の往復書簡は、アメリカの新聞に漏れてしまう。当時の日本では言わば尊王攘夷に染まったかのような世相にあって右翼・少壮軍人・言論人は激昂する。親英米は“迎合・弱腰”であって政治家は命を懸けるに等しかった。日本全体の“英米憎し”最高度に達していたと。横浜へ向かう多摩川・六郷橋や新田丸そのものに爆弾を仕掛けて、近衛一行を暗殺する計画もあった。(『あの戦争になぜ負けたのか』P224)この辺は、アメリカ当局は計算済みだったかも知れない。アメリカは原理原則で、先ず予備会談を提唱する。あくまでアメリカは具体性を求めていた。近衛は切実に頂上会談を臨んだのだが、アメリカにとっては時間稼ぎだった。この極秘会談がアメリカの新聞に漏れたのもアメリカ側の意図的なものだろう。前項でも触れたが、頂上会談は欧州歴訪でヒトラー・スターリンと既に“頂上会談”を成功している気分の松岡洋右は残るはルーズヴェルトである。近衛文麿は近衛で首脳同士が虚心坦懐に話し合えば、対立は解消するものと単純に考えていた。それが自分の役目だと思っていた。“暗殺覚悟”の決意なのでこれは単純に責められない。日米交渉に於いて二つの個性が軍部に内緒でぶつかった。

 9月6日の御前会議の終わった日、近衛首相は、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと会談した。軍部に外交交渉の期限をつけられたことで時間が切迫していることを強調、危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。アメリカ国務省では一応日米首脳会談の検討が一応始まった。当時国務省の対日政策に大きな影響力を持っていたのは、アメリカ政府政治顧問のスタンレー・ホーンベック、ホーンベックは「近衛首相のもとで日中戦争が始まり、三国同盟が結ばれ、南部仏印進駐が行われた」として近衛に対し不信感を露わにした。ハル長官もこうしたホーンベックの意見に同調し首脳会談には消極的だった。しかし、東京のグルー大使は繰り返し首脳会談の実現を訴えた。グルーは、日本は誤算が生んだ危機的な状況から抜け出そうともがいていると述べ、首脳会談が危機打開の最後のチャンスだと訴えた。だがホーンベックは、グルーの意見に反論。妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと主張。ホーンベックとは、どうやらチャイナ・ロビイストで強硬な半日論者であったらしく(『昭和史が面白い』P111)能力と実力でのし上がってきた極めて合理的な考えの現実主義者だった。ルーズヴェルト自身が親中国の姿勢で政府中枢部にこうした対日主戦論者が存在していれば所詮「日米和解」は無理だったかも知れない。こうして10月2日、アメリカ国務省は『日米諒解案』の重要な項目である日米首脳会談を拒否する回答を日本側に示した。この頃のアメリカ政府自体が日米交渉に消極的で戦備充実のための時間稼ぎということがわかる。中国蒋介石の猛烈な巻き返し、イギリス・チャーチルの意向も強く働いたのは後世の情報である。

 近衛文麿は頂上会談が挫折、9月6日の御前会議白紙還元が思うように行かず政権を投げ出す。近衛の別荘「荻外荘」での会談は紛糾、陸軍大臣・東條英機は「日米開戦を避けるための交渉」の現実より9月6日の御前会議で決まった国策に拘って譲らず、日米交渉は暗礁に乗り上げる。この辺が軍務官僚でしかない“物差し”しか持たない日本の不幸だった。急転直下、組閣を要請されたのは英米強行派の張本人・東條英機。軍部の要求は、皇族内閣だったらしいが、昭和天皇及び側近ともこれを拒んだ。開戦必至の内閣に「皇族の総理大臣」などとんでもないことだった。近衛文麿がサジを投げた原因の9月6日の「御前会議」では日米交渉よりも日米開戦に比重が置かれている。これを白紙還元するには、天皇の意志として殆ど信頼出来ない陸軍の中で、最も信頼出来る“官吏”たる東條英機を選んだ。今でも東條英機への総理大臣指名は、内大臣・木戸幸一だと謂われるが、実は昭和天皇の指名だった。だが木戸の“ご注進”があったのは想像の範囲だ。(『東條英機と天皇の時代』P297)

 歴史のイフとして宮中周辺は、司馬遼太郎の言う「町内会の会長さんが務まる程度の人」(『昭和という国家』P151)を何故指名してしまったのか、と言えば近代史に多分に無知な現代人の奢りだろう。それだけ軍部中枢は、強硬で三国同盟離脱も到底、中国撤兵もできなかった。昭和天皇の意志「広く深く考え直せ」のいわゆる「白紙還元御諚」は、何人も無視できない。木戸幸一でなくても日米交渉の一番の問題点は“支那からの撤兵”にあることは認識していた。東條も「首相の立場で改めて考え直す余地が全然無いとは言えない」(『木戸幸一日記・東京裁判期』P464)と後継首相の推薦の理由を言っている。昭和天皇の「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」と木戸に言ったことは有名だが、昭和天皇としては陸軍に抑えの効く東條英機を選んだのは、避戦の最後の賭けだった。(『文藝春秋・平成18年9月号』P270)それでも結論として開戦は防げなかった。近衛文麿との「荻外荘」での会談は、東條英機は終始アメリカとの戦争を欲しているのでなく、当時の最高度の会議の決定を尊重するとの“軍務官僚の手続き”に終始した。日本が戦争になるかも知れないのは多分知っていて事務上の手続きを重んじて近衛文麿を責めた。これを知ると東條は軍人ではなく官僚であることが解る

(4)日本政府外務省甲案・乙案
 東條英機内閣が発足して、当面の課題は、昭和天皇の「白紙還元御諚」の取り扱いである。アメリカとの戦争にどう準備するかいわゆる「項目別再検討」が10月23日から30日まで連日開催された。ここで“臥薪嘗胆”か“戦争”か一週間、議論された。出た結果は「戦争の作戦準備を整えながら外交施策も続行する」との玉虫色。終始「マジック情報」で日本の軍事・外交姿勢をキャッチしていたアメリカにはますます“二枚舌の日本”との感触を深くしたに違いない。11月1日の大本営政府連絡会議の『帝国国策遂行要領』は、
一、帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為此の際対米英蘭戦争を決意し左記措置を採る。
@武力発動の時機を12月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す。
A対米交渉は別紙要領に依り之を行う。
B独伊との提携強化を図る。
C武力発動の直前泰(タイ)との間に軍事的緊密関係を樹立す。
二、対米交渉が12月1日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す。(『日中全面戦争』P406)

 この『項目別会議』は一週間行われたが、26日は何故か行われなかった。緊急を要することなら休んでいる暇はないと思うが、その日の東京日日新聞(現在の毎日新聞)の社説は勇ましい。≪戦わずして日本の国力を消耗せしめるというのが、ルーズヴェルト政権の対日政策、対亜細亜政策の根幹であると断じて差し支えない時期に、今や到達している。われらは見る。日本及び日本国民は、ルーズヴェルト政権のかかる策謀に乗せられてはならない。われらは東條内閣が毅然としてかかる情勢に善処し、事変完遂と大東亜共栄圏を建設すべき最短距離を邁進せんことを、国民と共に希求してやまないのである≫(『昭和史』P66)こんなメディアの修飾語は、今は簡単に非難できない。当時の日本は精神的・感情的“全体の空気”は抗えなかった。物理的な『日米開戦』の予測を言う人物は遠ざけられていた。
 この後は11月5日の御前会議となる。連絡会議とこの御前会議の中間に参謀本部(陸軍・作戦部門)会議で日米開戦を決めていた。戦争をすることしか頭にない、軍事問題を通してのみ日本を任されていると思っているエリート軍人である。外交交渉で“中国撤兵”など考えてはいない。随分頑張ったと思うが、外務省は交渉の期限をつけられてしまい臥薪嘗胆はならなかった。その外交条件がいわゆる『甲案・乙案』の対米交渉案である。

 東條英機内閣となった昭和16年11月5日の御前会議で決定された対米交渉案は、東郷茂徳外務大臣が危機的な日米関係を打開する外交の切り札として提案した。従来の基本的な『甲案』に加えて、東郷の提案は「乙案」と云われる日本の妥協案だった。政策立案したのは外務官僚出身の幣原喜重郎・吉田茂。両者共に戦前戦後に外務大臣・総理大臣の経験者。良くも悪くも「昭和の悪役」松岡洋右は失脚している。二人はあくまで日米避戦の近衛文麿辞任に憤慨していたに相違ない。英米両国を含む欧州をよく知る両者にとって日米の対立は無謀であり、交渉決裂は避けなければならなかった。甲案・乙案ともに在日イギリス大使・アメリカ大使の意向を打診している。中国に大量の軍隊を送っている陸軍・参謀本部には甚だ不満だったが、外務大臣辞任・内閣崩壊を惹起することは、成立したばかりの東條英機内閣では避けねばならない。軍部に「国民を塗炭の苦しみ」に味わわせるなどとは、取りあえずは考えてはいない。「日米戦争」など考えていないのが、今日的視点では無邪気。むしろこの交渉が妥結するのではないかと安易に考えていたようだ。そうした希望的観測・感触が杜撰な戦争計画に発展してゆく。当然、戦後60年以上経過している現代の日本にも、彼らの状況把握のシステム・心理は判るわけがない。この時から「25年間、中国大陸に駐屯」などとの方針は、アジア人への侮蔑・差別とまだ思ってはいない。

甲案
@中国に関する通商無差別問題に関しては「無差別原則が全世界に適用せらるるものなるに於ては」との条件付きで「太平洋全地域即ち支那に於ても本原則の行わるることを承認す」とする。
A三国条約の解釈履行問題については、従来通り「帝国政府の自ら決する所に依りて行動する」とのいわゆる独自解釈にもとづくこと。
B撤兵問題については、中国からのそれは華北および蒙彊(もうきょう)の一定地域と海南島に関しては平和成立後25年駐屯するが、それ以外は2年以内に撤退し、仏印からは事変解決後ただちに撤退する。

乙案
@日米両国は仏印以外の南東アジアおよび南太平洋に武力進出を行なわず、A日米両国は蘭印の物資獲得について協力し、B日米両国は通商関係を資産凍結前にもどし、Cアメリカは日華和平の努力に支障を与えない、との取り決めが成立すれば日本は南部仏印の兵は北部に引き揚げる。(『日本の歴史・太平洋戦争』P254)

 甲・乙両案とも、当時の日本の国民の常識からは考えられない妥協案だった。アメリカに対しては両案が順次、野村大使に送られ提示されたが、前述のように暗号が全て解読されていたので日本の交渉手順は、野村大使より先にハル国務長官、ルーズヴェルト大統領が知っていた。自信をもってアメリカ首脳は、前述の『ハル四原則』の≪各国の主権尊重・内政不干渉・通商の平等・太平洋の現状維持≫4点の原則からアメリカは譲歩しなかった。日本も案は、案として中国大陸からの撤兵など考えていなかった。当時数百万の軍人を動かし、武器・兵器(日露戦争以来の拙劣なものであったが)を多量に保持、国家予算の大半を使い、政治家さえ意のままの軍部には、ここまで譲歩すればアメリカ側も“文句はないだろう”ぐらいにしか思っていた。軍人などよりは遥かに外国の情勢を知る東郷外務大臣は、悲観的だった。何とか「乙案」でまとまらないかとの一縷の望みは持っていた。それが野村吉三郎大使を補足するつもりで駐独大使の経験を持つ来栖三郎(くるすさぶろう)を特派した。だがアメリカにすれば前年、ベルリンで「三国同盟」に調印した人物で不信を与えたに過ぎなかった。ハルは、自身の回顧録で、「この男はうそつきだ」とケチョンケチョンである。それだけナチス・ドイツを承知しなかった。

 日本の外務省が正式に提案したこの甲・乙案が野村大使を通じて手交されたのが昭和16年11月7日、5日には東條英機内閣になって初めて「御前会議」が開かれている。その日から1カ月あとの12月8日が「真珠湾攻撃」によって日米は戦争状態に入る。この1カ月の日米のやりとりは残されている。この日本の提案に加えて何とアメリカ側に『暫定協定案』があったとは近代史の発見である。後の極東国際軍事裁判で東條英機は、これが示されていればと慨嘆した。この1カ月の日米のやりとりは、はっきり言って難解である。箇条書きにして理解する。

◇コーデル・ハル国務長官は疾うに「甲・乙案」を野村大使が提示する前に知っていた。『ハル回顧録』でハルは東郷外務大臣の焦りを感じていた。その焦りの原因すら知っていたに違いない。東郷外務大臣の思惑はともかく、ハルは日本の「南部仏印進駐」で不信感を持っていた。「日本は我々と平和会談をしながら着々と侵略計画もすすめている」(『ハル回顧録』P172)ハル国務長官の主張は一貫して、日本の「タテマエ」「ホンネ」は理解せず信用していなかった。最後まで日本は二枚舌で“うそつき”との理解である。

◇日本政府の甲・乙案は意識的に誤訳されていた。東郷外務大臣の指令では、甲案の中の「日米間の妥結事項」を交渉打ち切りと取られないように「四原則」の文書化は避けるように伝えたつもりが、マジックでは意図的に「四原則」は含ませないようにせよ、と交渉打ち切りのニュアンスにされていた。(『昭和史再掘』P88)これは当時の陸軍省軍務局高級課員・石井秋穂の証言である。石井はこれを戦後になって知った。アメリカの強硬派は、敢えて誤訳させて日本を開戦への背中を押したことになる。このへんが情報戦で既に日本は負けていた。

◇アメリカは実際には日本と戦争になるとは当初は考えていなかったように思う。前述の誤訳の強硬派はあったにしても、ホーンベックに代表されるように交渉が難航しているとは云え「絶望から戦争をしかけた国があったら言ってみろ」(『ハル・ノートを書いた男』P66)とのグルーへの反論に代表される。前年のルーズヴェルト大統領の再選の頃から、日本との戦争を意識していたとしても、あくまでアメリカの眼はナチス・ドイツに攻撃されている母国のイギリスに向いていた。それが性急な日本との戦争を遅らせたようとした動機だ。それが今では幻の「日米暫定協定案」の存在である。この暫定の破棄も極めて象徴的。つまり日米交渉もいわば煮詰まった段階での日本の軍事行動があったのは事実。陸軍長官ヘンリー・スティムソンから、もたらせられた日本軍の「台湾沖の大量の艦船南下」の情報は、戦争行為である。これも日本流に言えば「南部仏印進駐」と同じ考えで単なる物量の移動ぐらいに軍部は思っていた。アメリカ側は、これはあくまで日米開戦の一時的な回避の意味でしか無い。『ハルノートを書いた男』の著者・須藤眞志氏の見解では、暫定案が浮上したのは、日本の野村大使から「甲乙案」を手交されたとき。(『前述書』P100)『ハル回顧録』では「外交的には情勢は殆ど絶望であった。しかしわれわれとしては手段をつくして平和的な解決を見出し戦争を避けたい、あるいは先に延ばしたいと考えた」とある。本当にそう思ったか、どうかはともかく暫定案が国務省で起案されたのは、マジック情報からではないらしい。マジックはあくまで一部の者しか知らなかった。そこへ今度は、財務省から「モーゲンソー案」なるものが出て来る。この辺の経緯はたいへんややこしく解らない。やはりアメリカの眼は完全に母国・欧州に向いていたのは確かだ。この頃、アメリカ政府の中枢にはソ連コミンテルンが忍び込んでいた。この頃、アメリカ政府中枢には、ソ連・コミンテルンが忍び込んでいた。

◇東郷茂徳が野村大使に送った乙案では、日米交渉をあくまで続けるつもりだった。東郷の交渉催促で焦ったのか、特別補佐の来栖三郎大使赴任で張り切ったのか、駐米大使の野村は11月18日、日本政府の承認なしに日本軍は「南部仏印からの撤兵」する、在米日本資産の凍結解除を申し出る。この野村の単独交渉は、東郷にとって大いに不満だったが一概に野村を責められない。日本とアメリカの板挟みにあったようで、日米交渉を成立させようとした野村の行動である。東郷は、東郷でなんとか日米和解のためにアメリカの原則と日本軍部の板挟みにあっているようなものである。野村は11月14日に日本政府にアメリカとの交渉の悲観的な見方を伝えている。(『前述書』P88)「乙案」の手交を訓令した東郷茂徳は、これを「最後的譲歩案」として表現したが、アメリカ側はマジックの訳を「最後通牒」と表現する。これはアメリカにとって日本語の表現と意味とを“最後”との言葉だけでストレートにしか見なかったのか、わざとそういう風に訳したのかは解らない。日本の「甲・乙案」はもう交渉の余地は無いと解釈したに違いない。同じ雑誌『諸君 平成15年7月号・昭和史日本人の共有常識』で、前述の京都産業大学教授・須藤眞志氏は、「甲・乙案」の提示以前の11月5日の御前会議で日米戦争を決定したとの主張。神戸大学助教授・簑原俊洋氏は、東郷外務大臣は「甲・乙案」を提示しても“日米交渉を続ける”つもりだったと主張。両歴史学者の主張は相反するように見えて、私には意見の対立とは思えない。これを日本人特有の“建前”と“本音”で解釈すれば正反対の意見ではない。須藤教授の主張は軍部のホンネ、簑原教授の主張は東郷のタテマエだろう。これでは能力と才能でのし上がってきたアメリカ政府政治顧問のホーンベックなどには、小国の日本が負けるのが判っていてアメリカに刃向かう訳はないとの合理的解釈となる。

◇日本の軍部の情報は、すでに逐一キャッチされていて、情報音痴が日本の悲惨な戦争の結末になっているのが今では常識。しかし最近の研究で東郷茂徳外務大臣は、日本の外務省の暗号解読班がアメリカの中国大使館から中国本土への暗号を解読、このアメリカの「暫定協定案」を察知していたとの説もある。暫定案が最後で削られてしまったので、平和志向の東郷でさえ後述する『ハル・ノート』の内容から「眼が眩むばかりに失望に打たれた」「最早立ち上がるより他はない」と言わしめた。(『諸君 平成15年7月号・昭和史日本人の共有常識』P195)しかし日本の外務省などの機密事項の文書は、終戦と同時に焼却されてしまっている。後年の近代史研究者はこうして敵国のアメリカの国立公文書館などで発掘するしかない。都合の悪いことは隠す日本人の最大の悪癖がここで十分に発揮された。ともあれ東郷外務大臣が「暫定協定案」の中身を知っていたのは、事実として解釈するしかないし驚きでもある。

◇11月22日、東郷茂徳は野村大使へ29日の期限を切って「日米交渉妥結に努力せよ」との訓令を出す。東郷も野村も事態は切迫していても一縷の望みをもっていたことが判る。これは『ハル回顧録』の記述である。東郷の「調印ができなければ、そのあとは事態は自動的に進む」との訓令にハルも覚悟は出来ていたのか。この日「暫定協定案」が英国・中国大使に示される。その後、26日『ハル・ノート』手交の事態になる。東郷が22日の時点で暫定協定案を知っていたかどうかは判らない。(日米では一日の時差がある)29日には、大本営政府連絡会議が開催される。外交の期日をつけることで日米開戦の準備にいそしむ大本営を知っていればこそ東郷をして焦らせたに違いない。

(5)アメリカ暫定協定案
 ハル国務長官は日本の乙案を考慮したかどうかは疑問だが11月下旬、中国・イギリスなどの大使を呼び、暫定協定案を提示し理解を求めた。その暫定案の素案の骨子は次の通りである。(『前述書』P103)これは11月22日案。2日後の24日には細部が詰められる。

@両国とも太平洋地域に領土的野心を有しない。両国は太平洋地域において兵力によるいかなる前進行動も実施しない。
A日本政府は、現在南部仏印に駐留中の兵力を直ちに撤収する。北部仏印に駐屯する日本軍の兵力を1941年7月26日現在の兵力に制限する。その兵力は25000人を超えない。
B米国政府は在米日本資産の凍結を撤廃。同時に日本政府は在日米国資産の凍結措置を撤廃。
Cオランダ、英国政府に対しても同様な処置をとるように説得。
D米国政府は日支問の平和解決を目的とする当事者間の交渉の開始を非友好的な態度をもってみることをしない。
Eこの暫定協定案は臨時的な性格のものにして、三カ月を越えて有効とはしない。

 この暫定協定案に中国・重慶の蒋介石は、アメリカが中国を犠牲に日本と取引をするのではないかと激しく動揺した。そして夫人の宋美齢とともにアメリカ政府の説得を試みた。ワシントンでは宋美齢の兄の宋子文が胡適大使とともに説得工作に当たった。中国の反対は功を奏し、ハル長官はルーズヴェルト大統領あてに、中国政府の反対により「暫定協定案の提出は留保する」との意見書を提出するに至った。ハルが暫定協定案の放棄を決断したのは、陸軍スチムソン長官からもたらされた台湾沖の日本軍南下の情報だった。(『前述書』P112)

 ハル・ノートを作成したのがコミンテルン(共産主義国際組織)影響下にあったハリー・ホワイトであっても決断したのは、コーデル・ハルであり、最後通牒とすべく最終決断したのはルーズヴェルト大統領その人であったらしい。日本が最初にアメリカへ一撃を加えることを願い、又、日本がその期待に応えることを解っていた。交渉を望みつつ「五個師団の数十隻の船が南下」の事実は、戦争か交渉継続か、どちらが建前か本音か解らない日本のやり方でアメリカには理解できなかった。東郷茂徳が在米中国大使館と本国の重慶政府・蒋介石との交信により「日米暫定協定案」を知っていたことは前述の通り。アメリカも公式的に認めないし、日本の拙劣な外交を知悉しつつも「暫定協定案」の内容を日本が解読しているのを織り込み済みとの推測も成り立つ。肝心の日本の軍部では、重用されることは無かったが、極めて優秀な情報将校だった堀栄三の記述は凄い。堀には「堀は」との自分を三人称で著した『大本営参謀の情報戦記』がある。傍受するアメリカの株式市況の薬品会社の株の高騰などから的確に太平洋のアメリカの作戦を「的中ていた」ことは素直に凄いと思う。日本陸軍は、いろいろな方法で昭和11年頃から17年初頭まで米国国務省の一部、国民政府の全部を解読・盗読していたとの指摘も明らかにされている。開戦一カ月後からはアメリカは、暗号を全面的に改定したので霧の中に隠れてしまった。(『前述書』P279)アメリカは、暗号を在る程度読まれることを承知していたのではないかとの凄い情報戦の実態も指摘している。ならば「暫定協定案」をちらつかせておいて最後は、原則に戻って日本を開戦に持ち込んだシナリオだった可能性が高くなる。

(6)ハル・ノート
@中国・仏印(インドシナ)からの日本軍の完全撤兵
A日米政府は中国において重慶(蒋介石)政権以外を認めない
B日米政府は中国における治外法権を放棄する
C第三国と締結した協定を太平洋地域の衝突に発動しない(『昭和史』P375)

 昭和16年11月20日、日本が提示した「乙案」をアメリカが拒否し、同月26日アメリカが野村大使に手交したこの『ハル・ノート』は、前項で述べたようにアメリカの日本に対する、いわば最後通牒、事実上の「宣戦布告」だった。だが日米開戦の原因説としての『ハル・ノート』に疑問を呈するのが前述の須藤眞志教授。ハル・ノートが野村大使に手交されたのは、日本時間の昭和16年11月27日、真珠湾に向かう機動部隊がエトロフ島のヒトカップ湾を出港したのは前日の26日。(『諸君 平成15年7月号』P190)日本の開戦決定がハル・ノートではない、これほど明確な証拠もないだろう。
 日本の軍部はこれを精査することなしに『大本営機密日誌』には「天佑」との言葉さえ使ってアメリカと戦争できることを歓迎した。日本がアメリカと戦争して勝てるかどうか、何の目的で戦争をするのか、どうなったら終戦となるのか、中国大陸の戦線はどうなるか。ひとつとして大局から吟味されていない。これが日米開戦前の曲げようのない事実である。

 戦後太平洋・大東亜戦争を少しでも弁解する人たちの根拠となったのが、このハル・ノートの存在である。終戦時にも外務大臣を勤めた東郷茂徳の告白・東京裁判のインドのパル判事の言葉である。前者はハル・ノートに接して「自分は眼も暗むばかり失望に撃たれた、長年に渡る日本の犠牲を無視し、極東の大国たる地位を棄てよと言うのである。これは日本の自殺に等しい」後者は「今次大戦では、真珠湾攻撃の直前にアメリカが日本に送ったと同一のものを他国に通告すれば、非力なモナコ公国やルクセンブルク大公国と言った欧州の弱小国でさえ、必ずやアメリカに対して自衛の為に武力を以て立ち上がったであろう」。(『諸君 平成15年7月号』P187)前者はハル・ノートの内容をよく吟味したと言えないと須藤教授は指摘。「中国が満洲を含まない、日中戦争では重慶・南京政権を統合するしかないこと、三国同盟は形骸化されていた」後者のパル判事の指摘は「他の東京裁判の弁護士の言葉をパル判事が引用、さらに東郷茂徳が引用したので有名になり、日本の戦争の免罪符のレトリックとして引用され易い」よく考えれば世界を相手に戦争を挑んだ日本と欧州の小国とを比較するのも適当でなく、内容よりは東京裁判で日本を弁護した権威のある人の引用であることが、一人歩きしているらしい。したがってハル・ノートはアメリカの最後通告にしても日本の開戦の理由にはならないと指摘。確かに戦争の準備と避戦の交渉継続が同時進行とは、日本特有の建前と本音の使い分けであり、妥協の産物であることが今となってはよく解る。日本人には理解できても、これではアメリカに誤解されても仕方がない。前述の須藤氏の『ハル・ノート』における中国のなかに満洲を含まないとする説は説得力があり今や定説となりつつある。きちんと吟味すれば、日独伊三国同盟は有名無実と化していて、中国大陸の重慶政府の蒋介石が覇権を握りつつあった。あとは日本軍部の面子の問題で何らこの『ハル・ノート』が最終的な交渉の終わりを意味しなかった。アメリカはあくまで「乙案」に対する原則確認だったが。

 当時の国内情勢だが、外に戦争に訴えるか、内に内乱が起こるのか、二者択一の他はないような切羽詰った状況にあったのは確か。軍部により陰に日なたに圧力があったにせよ昭和16年11月中旬の臨時国会では追加の軍事予算は直ちに可決され、政治家の反対は皆無だった。新聞はこれを受け「一億総進軍の発足」(毎日新聞)、「国民の覚悟に加えて、諸般の国内体制の完備に総力を集中すべき時」(朝日新聞)と対英米強硬の笛や太鼓を鳴らした。(『昭和史』P373)これ以後は、軍部はその期待に応えるかのように推移する。それまで国民に多大の犠牲を払わせ、戦争政策を進めてきた上に日中戦争は解決出来そうには無かった。ならばその責任から逃れるごとく、右翼や全体の空気に押された中堅幕僚は、国民は不満を爆発させ内乱や革命(日本の陸軍内部にコミンテルン同調者がいたとの指摘もある)を引き起こすかも知れないとでも考えたのであろうか、誘い込まれるように日米開戦に向かう。今でこそ戦前の悪の根源とされる大日本帝国の軍人とて対英米戦争が勝利の目算のたたぬ危険な賭けであることを庶民よりも知っていた筈。しかし内乱や革命の危険よりも、敗戦になるかもしれぬ戦争の危険を選択した。内乱の恐れは昭和天皇も『独白録』で言っている。真珠湾攻撃でアメリカには悪名高い山本五十六は、三国同盟締結時に中央を去るにあたり親友の堀悌吉に「内乱で国は滅びない。戦争で国は滅びる。内乱を避けるために戦争に賭けるとは主客転倒もはなはだしい」と言い英米強硬派を嘆いている。(『昭和史』P296)自らの体制の安泰のために、戦争を選ぶとは、それによって国民に強いるであろう更なる犠牲を省みることはなかった。そうでなければ310万人もの死者は出ない。

 日米交渉をテーブルの上に乗せたいアメリカ側の二人の神父、ジェームス・ドラウト、ウォルシュ。井川忠雄の伝手で来日、日本政府の要人と面会したが、目的は頓挫した。日米理解の目的は、西木正明の調査で“日米衝突”のシナリオに沿ったものだったが、これが更にホンモノの日米理解・和解に踏み込んだ事実を証明して見せたのが山口由美氏の探究。(『クラシックホテルが語る昭和史』P35・59)二人の神父は翌年の昭和16年夏、箱根の「富士屋ホテル」に宿泊する。「午六山荘」は農家を移築したもの。ここで近衛を中心とする「昭和研究会」のメンバー、西園寺公一(西園寺公望の息子)、牛場信彦らが密談を凝らしていたらしい。鎌倉に滞在していた近衛と二人の神父が遭遇したことは無かった。「ゾルゲ事件」の探索で総理大臣ですら憲兵の監視があったのは驚きだ。二人の神父が宿泊した「宿泊記録」はホテルの関係者によって故意に消された。二人の神父は、滞在そのものが歴史に残ってないそうである。山口氏の指摘は鋭い。外国人が多いホテルが点在する箱根・軽井沢は米軍の空襲が無かったことは詳細に報告されている。それにしても役目を終えた筈の二人の神父は何をしに来たのか。ウィリアム・ワイズマンの策略を離れて宗教家として本当に日米の衝突を憂えたのなら井川も岩畔も近衛も不満は無かっただろう。

 ここで「日米交渉」のおさらいの意味で、近衛文麿が辞任、ハワイ真珠湾攻撃までの日本政府外務省・在米大使館・アメリカ国務省のやりとりを箇条書きにしてみる。高々1ヶ月弱のことである。

 10月17日 近衛文麿内閣総理大臣を辞任
 10月18日 東條英機内閣成立、陸軍大臣兼務
 10月19日 永野修身軍令部(大本営海軍)総長、真珠湾攻撃了承
 10月23日 陸軍海軍項目別再検討会議
 10月26日 東京日日新聞社説、日米開戦強硬論報道
 10月31日 参謀本部(大本営陸軍)会議
 11月01日 大本営政府連絡会議、日米開戦を事実上決定
 11月03日 グルー駐日大使『日本人全国民ハラキリ』伝える
 11月05日 御前会議、帝国国策遂行要領を決定
 11月07日 アメリカ政府定例会議・日本政府甲案提示
 11月09日 ウォーカー・野村会談、ウォーカーは日本の武力進出を知ると告白
 11月14日 野村大使、東郷へアメリカは日本への譲歩より戦争の決意を報告
 11月15日 来栖三郎大使赴任・臨時国会で島田俊雄議員、日米開戦を督促演説
 11月18日 野村駐米大使、単独で南部仏印撤兵、アメリカの資産凍結解除を提案
 11月20日 野村大使ハルへ日本政府乙案提示(ハルは暗号解読で既知)
 11月21日 東郷、野村へ交渉妥結へ努力するべく切迫した状況を訓令
 11月22日 東郷外相、野村へ29日までの妥結期日を伝達
 11月22日 ハル『日米協定暫定案』英・中国・豪州へ伝達
 11月26日 午前6時連合艦隊択捉島出港・ハルノート手交(日本時間27日午前7時)
 11月27日 大本営政府連絡会議、ハル・ノートを最後通牒と確認
 11月28日 東郷茂徳外務大臣上奏
 11月29日 重臣会議、英米開戦に同意
 12月01日 御前会議、米・英・蘭との開戦を決定
 12月06日 東郷茂徳外務大臣、対米最終覚書を野村大使に発電
 12月07日 ドイツ、モスクワ総攻撃失敗、東部戦線休止
 12月08日 日本軍、アメリカ・ハワイ真珠湾攻撃

 ここまで日米交渉を辿ってきて、日米の認識の相違と誤解は、確実に言えることは日本軍の“中国大陸からの撤兵”問題だ。今でも戦史本で意外に人気のあるのは、東條英機によって予備役に追いやられた“石原莞爾”である。満洲事変と満洲国建国の当事者だが、事の是非はともかく石原は盧溝橋事件から始まる中国大陸進出は終始批判していた。日本の軍部も中国全土を植民地にする野心はもともと無かった。しかし多くの国を植民地にしていた英米両国はそうは取らなかった。太平洋・大東亜戦争は多分に英米両国、とくにアメリカに仕掛けられ、嵌められたことは否めない。しかし日本には戦争の大義名分や戦争終結点などの基本的な政略・戦略はどこにも見当たらない。「自存自衛」などとは、後からの付け足しに過ぎない。そうなると『大東亜戦争』の呼称も疑問符がつく。

 日米交渉の経過・結末のなかにアメリカは国益の原理原則は一貫していた。日本の国益とは為政者が、その場しのぎで自分の所属する組織維持の対処に終始した。国益が考慮されなかったのではなく国益とは何かも考慮されなかった。外務大臣・東郷茂徳が12月8日の開戦日は11月29日の大本営政府連絡会議でようやく知らされたが、攻撃目標が「ハワイ真珠湾」であることに当日知ったのは驚きさえある。内閣総理大臣の東條英機すら海軍の攻撃目標が正確に「真珠湾」との位置を知らされたのは12月7日、つまり前日である。(『文藝春秋 平成18年6月号・新昭和史七つの真実』P272)つまり総理大臣といえども東條英機は「陸軍」のみのエキスパートで、海軍のことには指示できる権限はなかった。あっても遠慮するのが論理で倫理だった。アメリカと戦う以前に政府(行政)と大本営(作戦)、陸軍と海軍が組織として四つ巴に権力を行使していたのである。日本の“戦争理論”はここに集約されている。日本が戦争に訴えた国益とは組織の建前・本音・機密・秘密のなかに翻弄されていたに過ぎない。

 エリート軍人たちは、10数万人の戦死者の犠牲者を出し、多大な投資をしてきた満洲及び中国大陸の権益は絶対手離せないとの頑迷な考えから最後まで抜け出せずにいた。その結果、世界一の軍事大国・アメリカに戦争を挑む羽目に陥り、一桁多い 310万人の戦死者を出した。70%は餓死・病死。こんな軍事作戦だったら小学生でもできる。

この項の参考書
◇『ハル・ノートを書いた男』須藤眞志 文春新書
◇『ハル回顧録』コーデル・ハル 中公文庫
◇『文藝春秋 平成21年01月号』西木正明
◇『諸君 平成15年07月号』「昭和史日本人の共有常識」
◇『文藝春秋 平成18年09月号』「昭和の戦争七つの真実」
◇『日本の歴史25・太平洋戦争』中央公論社
◇『昭和の歴史・日中全面戦争』藤原彰 小学館文庫
◇『クラシックホテルが語る昭和史』山口由美 新潮文庫