特別編 『昭和天皇独白録』 にみる 日米開戦の責任者たち

 今では多くの近代史家によって昭和天皇その人が、唯一「日米開戦」を止められた筈と認識されている。だが真の責任者はいわゆる輔弼(ほひつ・政治家)と輔翼(ほよく・軍人)。そこで無謀な戦争を回避すべきなのに、当時の日本の実態を具体的に進言しなかった、出来なかった面従腹背の人物を抽出してみる。昭和天皇の前では直立不動で、官僚的タテマエの発言しか出来なかった制度と実情は理解できる。だから正直に自己の考えを伝えられないのも理解する。それならば昭和天皇その人が一番の責任者ではないか、と指摘されそうだがそれは正しくない。大日本帝国憲法下の統治権・統帥権を意図的に触れない感情論的主張は、無責任の謗りを免れない。感情論に終始すれば客観的事実が見えて来なくなるのは必定。

 昭和史の太平洋・大東亜戦争の実態を知ろうとすると、専門家であれ素人であれ昭和16(1941)年12月の「日米開戦」への端緒が重要で、以後の戦争そのものの実態は別問題。ただこれは重複するが夫々の「
立ち位置」によって見解・総括は異なる。だが日本が物理的に負けると判っていて大国アメリカに戦争を挑んだのは何故なのか、後世誰しもが思うこと。「外交的に追い込まれたから仕方が無い」で済まされる問題ではないのがこれも共通認識。無謀な日米開戦への経緯と関わりある人物をここでは忖度・斟酌して個人の意見を表明する。むろん独断と偏見。個々の政治情勢・軍事情勢の推移、政治家・軍人の錯綜を事細かに出版物から引き出して指摘しても、既に言い尽くされた感がある。それこそ戦前の昭和史の実態と事実は、立ち位置に拠って百花繚乱の様相を呈している。主観的感情論にしても客観的専門論にしても夫々の判断は尊重されるべき。

 ここでは『
昭和天皇独白録』(文春文庫・以下独白録)に登場する人物を基本に据える。これは日米開戦時、外交官だった寺崎英成が、戦後、天皇の御用掛を務めていて側近3人と共に聴いたもの(昭和21年3月〜4月)。開始される「極東国際軍事裁判」を見据えたものとの現代史家・秦郁彦氏の指摘が的を射ていた。同様の英文がGHQに報告されていた。内容は、昭和天皇の弁明とも取れるが、戦争責任が天皇に及ばないことは、その時点で確認済で、記憶だけの率直な告白であると理解が可能。したがって天皇の指摘が正しいか正しくないか判断すのは引用者の問題だ。

 「独白録」では軍人、政治家に対する正直な告白もある。東條英機、嶋田繁太郎、岡田啓介、米内光政は評価が高く、松岡洋右、平沼騏一郎、宇垣一成、小磯国昭、近衛文麿などは酷評されている。弟宮である秩父宮・高松宮との関係にも触れている。徳富蘇峰には触れていないが冒頭の「米欧の日本人排斥問題」などに関連する言論人と解釈して取り上げる。

 結論を先に言えば誰ひとりとして「
さあアメリカと戦争をしましょう」などと天皇に進言、国民に表明した人は居ない。天皇には開戦理由を説明したに過ぎない。軍事・外交日程が内閣で決められ、その「閣議決定」という事実のみが“臥薪嘗胆”とはならず、外交交渉打ち切りが自然承認され「日米開戦」に移行しただけだった。全体の空気に異を唱えることは憚られ、夫々の政治家・軍人が拱手傍観したに過ぎない。「ハワイ真珠湾攻撃成功」にメディア・国民は熱狂した。

 大日本帝国陸軍・海軍は、日米開戦から終戦まで別の戦争をしていた。開戦も終戦も責任者を特定することは困難である。アメリカに勝つ見込みなど到底有り得なかった。以下の軍人・政治家・言論人12人は、筆者の私が、個人的に“日米開戦責任”が重いと思う順番に私的解釈した。

@
杉山  元 参謀本部総長(大本営陸軍部)
 
永野 修身 軍令部総長 (大本営海軍部)
 杉山は終戦後09月ピストル自殺。永野は日米開戦には反対。両者とも
元帥で典型的な陸海軍軍人。
A
木戸 幸一 内大臣
 天皇を補佐、秘書的存在。
日米開戦責任を問うなら最も罪の重い政治家。面従腹背の典型的人物。
B
近衛 文麿 総理大臣
 連合国本部へ出頭命令があり服毒自殺。
貴族の誇りは全うした。終始陸軍軍人に翻弄され続けた。
C
松岡 洋右 外務大臣
 ヒトラー、スターリンとの会談で自信を持つ。ルーズヴェルトとの
頂上会談で決着しようとした。
D
東條 英機 陸軍大臣・総理大臣
 海軍のことは解らない陸軍の典型的軍人官僚。「
町内会長程度のオジサン」は司馬遼太郎の指摘。
E
嶋田繁太郎 海軍大臣
 帝国海軍は「日米戦争に勝てない」ことを知悉。天皇の縁戚・
伏見宮博恭王には逆らえなかった。
F
大島  浩 駐独日本大使
 今で言えば「ドイツおたく」のような陸軍出身の外交官。
ヒトラーに心酔、ドイツ勝利を信じた。
G
白鳥 敏夫 駐伊日本大使
 外務省主流外の革新派のリーダー。
イタリア大使を経験。軍人と結託して日独伊三国同盟に邁進。
H
徳富 蘇峰 言論人
 蘇峰は、明治・大正・昭和を生きた言論人。国民に
精神論的愛国心を鼓舞。戦争の客観性は軽視。
I
宇垣 一成 外務大臣(昭和13年)
 三月事件の陰の首謀者。
三度、首相に推されるも陸軍の横槍で頓挫。宇垣軍縮が最後まで響いた。
番外編 
米内 光政 総理大臣(昭和15年)海軍大臣(7回)
 「日米戦争」には最後まで否定的だったが、
陸軍を阻止出来なかった。昭和天皇の期待に反した。

@杉山 元(すぎやまはじめ)
【明治13年・1880─昭和20年・1945 陸軍士官学校12期卒 陸軍大将元帥 陸軍大臣】

 杉山は、明治時代末期「日露戦争」に従軍、顔面を負傷、左目に後遺症が残り、茫洋とした風貌だった。人間としては緻密で手堅く真面目だったらしい。だが実戦に向いた将校ではなく実務官僚だった。満州事変開始時の陸軍次官、二・二六事件時の参謀次長さらに教育総監を経て昭和12年「林銑十郎内閣」の陸軍大臣になった。第一次近衛文麿内閣でも留任。盧溝橋事件後、陸軍を代表して強硬論を主張、日中戦争を推進した。当時の参謀総長・石原莞爾は、紛争の不拡大を主張した。だが石原はいわゆる下剋上で部下の武藤章などに論破されてしまう。「五相会議」での杉山はあくまで強硬論だった。ここでは、日中戦争の経緯は省く。日米開戦時は参謀総長、この参謀総長時代の記録は「杉山メモ」として残る。東條内閣退陣のあとの小磯国昭内閣でまた陸軍大臣になった。

 杉山は「
便所の扉」と揶揄された。当時の便所の扉は押しても引いても開いた。つまり中堅幕僚の言いなりだった。定見は無く後述するが「長州閥」の後継者・宇垣一成の覚えめでたい子分に過ぎない軍人だった。二・二六事件以後、名だたる軍人が粛清されたから上に押し上げられたとは専門家の指摘。昭和16年09月06日の御前会議前日に天皇に呼び出され詰問された経緯は後述。「近衛日記」における委細が全てで杉山の頭の中に「日米非戦」の欠片も無い。杉山に同情すべきとしたらそれは中国大陸における「関東軍」の存在。出先機関が本国の大本営・政府を無視して独断専行した実態は戦後、中央を無視する「代名詞」として存在した。現場を知らない軍人が当時の陸軍のトップだったことが日本の不幸だった。軍人として敗戦責任は痛感したらしく昭和20年09月、天皇に「御詫言上書」を残してピストル自殺した。連絡を受けた後、妻も後を追った。

@
永野修身(ながのおさみ)
【明治13年・1880―昭和22年・1947 海軍兵学校28期卒 海軍大将元帥 海軍大臣】
(『私解 戦争の昭和史6 東條英機周囲24人』で紹介)

 永野は、陸軍の杉山同様、海軍の歴史上、一人で海軍大臣・連合艦隊司令長官・軍令部総長全てを経験した元帥。大正2年、米国駐在武官としてハーバード大学に留学。大正9年のワシントン、昭和5年のロンドン海軍軍縮会議に出席、
政治的立場には関わらないという海軍伝統の姿勢は終始変わらなかったようだが、部下の山本五十六と同様、アメリカの軍事的実力は知悉していた。だが満州事変を切掛けとして日本は海軍軍縮条約を脱退。昭和11年、広田弘毅内閣では海軍大臣。この時に山本五十六を海軍航空本部長から海軍次官に抜擢した。対米開戦には山本五十六の「ハワイ航空奇襲作戦」を支持、軍縮条約派に反する艦隊決戦論者を抑えた。つまり海軍は「日露戦争」の勝利の歴史から発想を変えることが困難だった。永野が許可した日米開戦前の昭和16年08月の「南部仏印進駐」はアメリカの日本に対する「対日石油禁輸」の結果を招く。だがこれはソ連進駐に突き進む陸軍の作戦を阻止する思惑だったとの説も今では明らかにされている。参謀本部の田中新一作戦部長はいわゆる「関東軍軍事演習」を試みたがコミンテルン・ドイツ人スパイ「ゾルゲ」に筒抜けで、ソ連は日本が攻めて来ないのを知っていた。つまり海軍と永野の「南部仏印進駐」は深謀遠慮というより解消できない陸海軍の馴れの果てだった。戦後、東京裁判で「真珠湾攻撃」の責任が問われたが、永野は戦死した山本五十六に真珠湾攻撃の責任を押しつけようとしなかった。そこだけは無責任ではないが空しい。

 杉山元も永野修身も近代史・昭和史に興味が無ければ殆ど名を知られていない。だが厳密に法律的解釈をするなら太平洋・大東亜戦争の端緒となった「日米開戦」の責任は極めて重い。ただ杉山は終戦の日から2週間を経て拳銃自殺。永野はA級戦犯に問われ昭和22年に獄死している。したがって今日、近代史の個々の実態は、到底教育現場に持ち込まれることはないから、この二人は知られていないことになるし無関心が現実。この二人は司馬遼太郎が晩年、追求した「統帥権」のまさに当事者だったから
日米開戦そのものを命令した実行者であると云える。

 またぞろここで統帥権と統治権の相違を簡単に触れればパソコンを例にすると解り易い。統治権を司る行政・政府は(用兵・装備)
ハードウェア、統帥権を司る参謀本部・軍令部(軍事作戦)がソフトウェアということになる。実際に戦争を遂行したのは、あくまで「大本営」と言う名の参謀本部(陸軍)と軍令部(海軍)の軍人だった。だから戦後の東京裁判で真に問われなければならないのは、それらの軍部の中枢に居た人達だった。戦争遂行者の中枢の軍人達は今、明らかになっているが、ここでは触れない。

 杉山と永野に共通することは3点。明治13年(1880)生で同齢。共に陸海軍の最高位に上り詰めた元帥だったこと。日米開戦前、共に61歳の彼らは41歳の昭和天皇に呼び出され日中戦争の解決、日米戦争の可否など厳しく問い詰められ、面従腹背の答えしか出来なかった。軍事作戦そのものは、後述する11人のだれよりも責任があり“日米非戦”を奏上すべきだった。だが現代の官僚機構の上下関係に引き継がれるように軍部の代弁者に過ぎなかった。

 永野と杉山のコンビは昭和天皇の怒りを呼ぶ。近衛日記から引用され、日米開戦への絶望的な段階に達していたことが解る。09月06日の前日に二人は
天皇に呼び出された。むろん近衛総理も聞いていたに違いない。詳しい経緯は例えば『指揮官と参謀』(半藤一利・文春文庫)紹介されている。

天皇「もし日米開戦となった場合、どのくらいで作戦を完遂する見込みか?」
杉山「太平洋方面は3ヶ月で作戦を終了する見込みでございます」
天皇「汝は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき事変は2ヶ月程度で片付くと私にむかって申したのに、支那事変は4年たった今になっても終わっていないではないか」
杉山「支那は奥地が広うございまして、予定通り作戦がいかなかったのであります」
天皇「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか。いったいいかなる成算があって3ヵ月と言うのか?」
杉山はしどろもどろだったが、こんなところで永野は当意即妙な返答で持論を展開した。
天皇
絶対に勝てるか?
永野「絶対とは申し兼ねます。必ず勝つかときかれても奉答出来かねますが、外交で対米妥結といっても、一年や二年限りの平和では駄目で、少くも十年、二十年でなければなりませぬ」

以下延々と永野理論を述べたらしいが、天皇は不満だらけだった。だがそれ以上天皇が輔翼の決断を拒否できない仕組みだった。ここで
天皇の責任を問うのは容易い。それが正しい指摘かどうか。

A
木戸幸一(きどこういち)
【明治22年(1889)─昭和52年(1977)政治家・内大臣】
(『私解 戦争の昭和史6 東條英機周囲24人』)

 昭和05年、近衛文麿の推薦で内大臣秘書官長、昭和12年、第一次近衛内閣の文部大臣、昭和15年に内大臣。学習院高校、京都大学では原田熊雄(西園寺公望の秘書)、一歳上の近衛とは同窓生。元老・西園寺公望や元内大臣・牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与した。几帳面な官僚主義的性格の持ち主で天皇の信頼は厚かったらしい。西園寺が辞退した後は木戸が重臣会議を主催して首班を決定する政治慣習が定着。昭和16年10月、近衛文麿が内閣を投げ出した後、後継首相には
東久邇宮稔彦王を推すことが重臣会議で一致。皇族に累が及ぶことを懸念する昭和天皇によって拒否される。木戸の先導で軍人官僚の東條英機を次期首相に推薦。陸軍に精通する東條自身に中枢部を押さえようとしたと解釈されるが、日米開戦必至を見越して東條に首相を押し付けたのが真相。今では「中国大陸撤兵」を譲らない勢力が木戸を脅迫していたとも推理できる。戦後の東京裁判では自らの『木戸日記』を提出。如何に自分が軍国主義者と戦い、非力であったかを述べて判事も被告の軍人さえも呆れさせた。国際検察局の捜査課長B・サケット中佐、後述する実弟の女婿・都留重人などハーバード大学同窓生から助言があった。因みに首席検事のジョセフ・キーナンもハーバード大卒。厳しい尋問をしたのはヘンリー・サケット、膨大な「木戸日記」は翻訳に手間取るのを見越したのか自己弁護に終始した。自己弁護が天皇を守ると思いこんで陸軍省の武藤章などを槍玉に挙げた。NHK特集「御前会議」に、御前会議とは何かと問われ「ガンのようなものであった」との肉声が残っている。判決は大島浩・嶋田繁太郎と同様で≪5対6≫で辛うじて死刑を免れた。多くの陸軍軍人の罪状認定は木戸の証言が根拠になったのが事実。

 私には「日米開戦」に関わる人物で最も罪が重いのは、昭和天皇の側近中の側近「内大臣」だったこの人物だと思う。奏上への許可を握るこの政治家は結論から云えば絵に描いたような“
面従腹背”の人物だった。昭和16年10月、陸軍を抑えきれず近衛文麿が総辞職したときに間髪をいれず東條英機を指名した。これは昭和天皇の希望だったとは嘘で木戸の作り話。木戸自身は、日米開戦はもう避けられないのを熟知していた。開戦を避けられないとみた木戸は、責任は全部、軍部に押し付けるつもりだった。木戸が終始恐れていたのは、自分への暗殺・テロである。以下の書に詳しい。
『昭和史裁判』半藤一利・加藤陽子(文藝春秋)・『われ巣鴨に出頭せず─近衛文麿と天皇』工藤美代子 中公文庫・『近衛文麿「黙」して死す』鳥居民(草思社)

 日米対立は、昭和16年08月の「南部仏印進駐」で石油輸入が止められ、結果として日米開戦への分岐点を越えたが、これを元へ戻すには仏印撤退はむろん日本陸軍の中国大陸からの撤兵がアメリカの条件だった。木戸は昭和12年の「支那事変拡大」の当事者・陸軍統制派の責任が問われることを危惧。統制派は梅津美治郎、杉山元、東條英機等だが、木戸も二・二六事件鎮圧を進言している。ここで問題なのは、木戸が、総理経験者の齋藤実・橋是清の残忍な殺され方を知悉していたからではないかと思われる。陸軍・右翼などに寛容だったのは自分の命が狙われるのを避けたのが真相。それが証拠に終戦の日に「本土決戦」に突き進む右翼に木戸幸一邸は放火された。実弟・木戸小六の娘婿の都留重人、
ハーバート・ノーマン(日本生れのカナダ外交官、戦後ソ連のスパイだったことが判明、後に自殺)と画策して終戦後、近衛文麿に責任を押し付けた。天皇や連合国を抱き込んだ形で保身工作をした木戸幸一こそ、対米戦争を始め、国民に塗炭の苦しみへと誘い!結局日本を焦土とし、大日本帝国を亡国に導いた第一の責任者だと思う。だが本人にその自覚は希薄だった。終身禁固刑だが昭和30年釈放された。昭和52年まで生きた。背の低い(152p)木戸が、背の高い(180p)近衛への劣等感が、そうしたと思うのは天邪鬼で下世話な筆者の想像。

 前記の書の指摘では、天皇への上奏に取捨選択があり、昭和天皇の日米非戦への介入を拒んだのが明白だとの由。ここでは経緯は省くが4点紹介したい。

◆昭和14年頃、天皇は外交大権、統帥大権は自分にあるとの認識で細かい人事まで介入、いわゆる「
天皇親政」を表明していた。だが15年暮、西園寺公望、内大臣・湯浅倉平が病死。昭和天皇の相談役の実権を握る。明治維新の中心人物、木戸孝允(桂小五郎)の孫で永い歴史を誇る貴族出身、近衛文麿への対抗意識が芽生えていたと想像するのが妥当。
◆昭和15年09月の「日独伊三国同盟」を意図的に元老・西園寺公望に報告しなかった。西園寺が反対するのを見越してのこと。天皇の相談役への
報告義務放棄は重大な意図的過誤だった。
◆昭和16年06月「独ソ戦争」が勃発。天皇は日米交渉に重点を移し
三国同盟廃棄を表明したが、もっと欧州情勢を見てからと木戸は助言、ドイツが勝利することが念頭にあった。
◆昭和16年10月、近衛退任の後継に皇族の東久邇宮稔彦決定したが、木戸が縁戚の元首相・阿部信行と謀り東條英機を推薦した。私の推理では
陸軍の脅迫があったものと理解する。

B
近衛文麿(このえふみまろ)
【明治24年(1891)―昭和20年(1945)第34、38、39代内閣総理大臣】

 日米戦争前の総理大臣なのだから『独白録』では東條・松岡と共に多く指摘されている。特に昭和12年の日中戦争開始、昭和15年の「日独伊三国同盟」には、昭和天皇は大いに疑惑をもっていた。近衛文麿の画像すべてに云えることだが、その視線には常に、難問を押し付けられた「なぜ自分が」と感じられ猜疑・懐疑・不信の心情が仄見える。当時としては長身で、平安貴族の血筋でもあるので嫌でも目立つ。元老・西園寺公望のバックアップもあって総理大臣に就任したが「天皇の次に偉い自分が総理大臣なら誰でも言うことを聞く」と簡単に思っていたようだ。しかし昭和10年前後、二・二六事件を初めとして、要人への暗殺などが頻繁、軍靴が聞こえるようになっていった。結論としてどんな政策でも理想は高いが詰まるところ挫折した。後世の判断だがその器では無かった。以下に詳しく記述した。
(私解 戦争の昭和史3 日米開戦は避けられなかったのか3 日米交渉
(ブログ「日日耗日」2011/8/20 日米開戦への道01 昭和史」
(無明庵「ブログ日日耗日」日米開戦への道A)

 近衛文麿には昭和史の専門家にはなべて厳しい論評が加えられている。その頃の強大な軍部の力は、もうすでに天皇でさえ抑えきれなくなっていた。元老・西園寺公望から促されたときも全く総理大臣への意欲は無かった。それが総理大臣に就任したのは、自身の人的交流から決断したに違いないが、大正時代からの社会主義的“上から目線”もあったに相違ない。「英米本位の平和主義を排す」(大正07年・1918)もある。昭和08年からは「昭和研究会」ができて「機会の均等」「分配の均等」の思想が芽生える。軍部を御すつもりが、逆に軍部が明らかに御しやすいから近衛内閣を支持していたと解釈できる。近衛は「日米開戦」の重要な責任者に違いないが、その権威を利用した陸・海軍の上層部に実質的な責任があるのは間違いない。
自分が利用されている自覚がないのがこの人物の最大の欠点。総理大臣に就任してから「大本営政府連絡会議」を設置したのが最大の欠点だとの指摘は肯える。近衛文麿の人となりを著わすエピソードとして多くの昭和史に引用される件と自身の告白がすべてだ。決して拱手傍観者ではなかった。だが現実を打破する強烈なリーダーシップはなかった。

≪近衛公爵は私に向かって「いよいよ仏印の南部に兵を送ることになりました」と告げた。私は「もう船は出帆したんですか」と訊くと「ええ、一昨日出帆しました」という。「それではまだ向こうに着いていませんね。この際、船を途中、台湾かどこかに引き戻して、そこで待機させることは出来ませんか」「「すでに御前会議で論議を尽して決定したのですから、今さらその決定を翻すことは私の力ではできません」との答えであった。「そうですか。それならば私はあなたに断言します。これは大きな戟争になります」と私がいうと、公は「そんなことになりますか」と、目を白黒させる。私は「きっと戦争になります。…」と言った≫(『外交五十年』P209 幣原喜重郎 中公文庫)

 幣原喜重郎は英米を知悉する外交官主流。幣原を終始嫌った松岡洋右も本能的に危険を察知していた。期せずしてエリート外交官も野武士のような外交官も英米の本質を理解していたことになる。知らないというより無視したのは軍人だった。ここも重要なポイントだが「英米可分論」と何とも長閑な観測が軍部を支配していた。思えば日本軍部は開戦から敗戦まで希望的観測とそれに合わせて引き出した数字のオンパレードだった。

戦争前には軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとのゝしられ、戦争が終れば戦争犯罪者だと指弾される。僕は運命の子だ」。また、「人間の一生は棺を蔽うてからでなければ、分らない。いや棺を蔽うて何十年も何百年も経つて後の歴史家が公正に判断してくれるだらう」。そして、「僕は運命の子だ。僕の周囲に今まで去来した数々のいろいろな分子、右といはず左といはずいろいろな人々が僕を取巻いたことが、否、取巻かれてゐたことが、今日の僕の運命を決定したのだ。これは僕の責任でもあり、悲しい現実であるのだ」(『近衛文麿』P228三輪公忠・岩波新書)

「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪へ難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽したのである。その米国から今、犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへそこに多少の知己が存することを確信する。戦争に伴ふ昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語と是等一切の所謂輿論(いわゆるよろん)なるものも、いつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう」(『近衛文麿』P233三輪公忠・岩波新書)

C
松岡洋右(まつおかようすけ)
【明治13年(1880)―昭和21年(1946)第2次近衛文麿内閣・外務大臣】

『独白録』における松岡への評価は厳しい。皇太子時代に馴染んだ英国への感情と第一次大戦を物理的に知る天皇は、つまるところナチス・ドイツは信用ならなかった。ヒトラーに会いスターリンと会談して帰国した松岡に「ヒトラーに買収されたのではないか」(P67)と酷評している。天皇の言い分を否定するのではなく松岡にいささか味方すれば、自分が進めた「日独伊三国同盟」を超えてスターリンと中立条約を結んだので、後は
アメリカ・ル
ーズヴェルトと話を付ければ日米は開戦しなくても済む
との計算があったに違いない。ただこれが松岡の大物ぶった「腹積もり」で、完全に日米開戦に進んでいる世論と軍部を軽く見ていたことである。外交の真の成功は軍部を軽んじてはならないのは、松岡も知っていた筈なのにと思う。「日米対立」から「日米交渉」へ至る松岡洋右の人物と経緯は以下に記述した。
(私解 戦争の昭和史3 日米開戦は避けられなかったのか2 日米対立
(ブログ「日日耗日」2011/8/16 日米開戦への道01昭和史」
(無明庵「ブログ日日耗日」日米開戦への道@)

 ここでは松岡洋右の行動を簡略して記述、人的交錯を再録する。
@大正08年(1919)からの「パリ講和会議」に随員として派遣される。サイレント(沈黙)の日本政府のスポークスマンとして英語の弁舌で力を発揮。近衛文麿・吉田茂を知る。
A政友会の衆議院議員になった松岡は、昭和06年、濱口雄幸内閣の幣原喜重郎外務大臣による「欧米協調外交」を批判した。その演説で有名になったのが「満蒙は日本の生命線」なるフレーズ。満州事変以降よく使われたスローガンになった。
B昭和06年(1931)の「満州事変」の後、松岡は同総会に日本の首席全権として派遣された。その類まれな英語での弁舌で、演説自体は絶賛されたが、結局、国際連盟脱退することになる。ジュネーヴからの帰国途中にローマでは独裁体制を確立していたムッソリーニ首相と会見。
C第二次近衛文麿内閣で外務省トップとして復帰。重光葵以外の主要な在外外交官40数名を更迭、革新派外交官の白鳥敏夫を外務省顧問に任命。有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させた。この「松岡人事」は禍根を残すことになる。

 松岡の思想・行動・性格は、その関わった人物から読み取れる。
松岡の外交的経緯が日露戦争後の日本の歴史と重なる
◇アメリカ西部の地方大学出身であることから劣等感と逆に上昇志向があった。
◇反エリート意識は、逆に長州(山口県)出身であることから本流意識を醸成する。
◇東大法学部卒→外務省エリート官僚の形が明治時代末期に始まっていて身をもって知る。
◇若い頃、肺を病み、身体は弱かった。ベルリン訪問時のドイツ軍閲兵で杖を突いている。
◇異母兄弟があり、実母、アメリカ生活での「ベバリッジ夫人」への感謝の意識が強い。
◇好き嫌いが激しく独善的なのは性格か、軍人、閨閥への反発か。松岡人事に見られる。
◇第一次大戦後の「パリ講和会議」では、寡黙な日本代表団を憂え、世界への発信力を知る。
◇日本陸軍の安易な「南方進出」(昭和16年)に、その皮膚感覚からアメリカの反発を察知する。
◇最初に勤務した経験からか、中国については軍人とは違った世界観から現実感覚が身に着く。
◇三国同盟を推進しても、ドイツを信用せず目的はソ連のスターリンだったことが解っている。

関わりのあった人物
長州出身   伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、田中義一、鮎川義介、木戸幸一
学歴・閨閥  幣原喜重郎、加藤高明、岸信介、斎藤良衛
陸・海軍軍人 宇垣一成、野村吉三郎、鈴木貞一
南満洲鉄道  山本丈太郎、森格、吉田茂
政治家    原敬、後藤新平、浜口雄幸、近衛文麿、廣田弘毅、重光葵、東條英機
英語力    齋藤実、橋是清、新渡戸稲造
松岡訪欧   
ヒトラー、スターリン、白鳥敏夫、大島浩、加瀬俊一

 松岡はその経歴から極めてアメリカ的な経験的、合理的、物理的な思想・行動が見られるが、第三次近衛内閣を追われたころは「八紘一宇」的精神論で、学閥を嫌うばかりに長州・満洲の出自・外交、幣原の頭脳優秀な者を除く英語力を恃みとした。つまり松岡も最後は、タテマエとは云わないが、究めて日本の「村落共同体」的精神性を帯びた実践者だったことが解る。だからこそ反省の意味も籠めて、死の数日前に日本的なものの決別としてカトリックへの改宗、洗礼を享けた。松岡が決して日米戦争を望んでいなかったのは傍証だが確かである。アメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトとの頂上会談での決着を画策したのは、近衛文麿より自分だとの矜持は読み取れる。それが多分に“腹積もり”だった。軍部に抵抗されて「松岡内閣」が実現不可能なのは、これも承知していた筈である。昭和16年8月、事実上、外務大臣を更迭された後、肺結核が再発、4年半病床にあった。最後に見舞ったのが実の姪と後の
総理大臣・佐藤栄作夫婦だった。

D
東條英機(とうじょうひでき)
【明治17年(1884)─昭和23年(1948)陸軍士官学校17期卒 陸軍大将、第40代内閣総理大臣】

 東條は大日本帝国陸軍のことは“重箱の隅”まで熟知していた。憲兵隊を掌握していたので関東軍や陸軍中枢部にコミンテルンの侵入をも察知していたようで、最後まで中国大陸からの撤退を決断出来なかった。日米開戦時の権力者なのに世界情勢や世界条約など知らなかったことが後の「東京裁判」で明らかになり連合国法廷を呆れさせた。その
清廉潔白な私生活に戦後、連合国の「戦略爆撃調査団」も当初は信じられず驚いた。独裁者・ヒトラーが念頭にあったアメリカは拍子抜けだった筈。東條はおろか日本そのものを買い被っていた。「独白録」において天皇の評価が高いのは、真面目で能吏だったことにつきる。以下で詳述した。
(私解 戦争の昭和史6 太平洋戦争とは何だったのかA東條英機の場合)
(ブログ「日日耗日」2013/9/13 日米開戦への道06−1 昭和史)
(ブログ「日日耗日」2012/8/16 日米開戦への道 責任者 昭和史)
(ブログ「日日耗日」2011/6/22 清廉潔白の総理大臣 昭和史)
ここでは「清廉潔白の総理大臣」と記述したブログの要点を記述する。

 70数年も前の話だが、能吏と誰もが評価する「大日本帝国陸軍軍人」がいた。この軍人が兄とも慕う
永田鉄山陸軍少将は、日本陸軍が生んだ最高の逸材で誰もが認めるエリート中のエリートで将来を託された。だが日本の近代史は暗殺・テロの繰り返し、昭和04年には浜口雄幸首相、昭和07年には犬養毅首相が暗殺され、昭和11年には、二・二六事件が起こり、高橋是清・齋藤實元総理が暗殺された。永田鉄山は期待されながら前年の昭和10年、白昼、執務室で惨殺された、51歳。世に云う「相沢三郎事件」、近代日本の不幸はここから始まった。この軍人が生きて居れば「日米戦争」など無かったとも云われている。その永田の子分の軍人が能吏ゆえに陸軍内に地歩を固めていくことになる。

 その軍人は、明治時代末期、陸軍大学に3度も受験に失敗、そこで夫婦で作戦変更、出そうな問題は一年間かかって全て丸暗記、大正元年合格、卒業時は05番以内の「恩賜の軍刀組」といわれる優秀さには、程遠い下位の成績だった。司馬遼太郎は、戦後「村役場の受付で仕事をテキパキとこなす職員、およそ町内のことは犬・猫さえも知悉する町内会の会長さんのような人」と評した。およそ陸軍内のことは、その日のことは人事・機構・出来事を必ずメモした。週末にはそれを項目別にメモし直した。論理明快・数字も確かで陸軍では順調に出世した。

 その軍人は、今の価値で
数10億円の陸軍機密費を私することなく、愛人を囲うわけでなく軍人の鑑で清廉潔白だった。陸軍中野学校の創始者で陸軍省軍務局の岩畔豪雄は、赤坂通いが派手で自分の周囲から遠ざけた。自分の家の女中さんの手を握っただけで、自分の甥を殴りつけた。世田谷区用賀の粗末な木造家屋に子供7人の円満な家庭を築いていた。帝国陸軍に関しては生き字引のような存在だったが、海軍、世界情勢、捕虜扱いの「ハーグ条約」、中国に関する「九カ国条約」、大正時代末期の「ワシントン条約」、昭和初期の「ロンドン条約」など外交的常識は殆ど知らなかった。

 昭和16年まで毎年総理大臣が交代、15代、12人。昭和16年、いわゆるお公家様の「近衛文麿総理」が辞任、明治維新立役者の桂小五郎(木戸孝允)の孫で当時の内大臣木戸幸一は、昭和天皇がお気に入り(実はうそ)の陸軍中将を総理大臣に推薦、大命降下された。謹厳実直・日日是努力でその軍人は総理大臣の地位に上り詰めた。この昭和前半の「大日本帝国陸軍軍人」の鑑のような人物は生涯、一つの誤りを犯した。昭和天皇の「英米との戦争には反対の意向」を護れなかったのだ。陸軍・海軍の中枢部、朝日・毎日新聞などメディアの催促、世論の昂揚を交わしきれなかった。結局「日米開戦GO」を決定してしまった。昭和16年12月08日の前夜、天皇の意向を守れなかったその軍人総理は世田谷区用賀の自宅で、夜中に皇居の方向に頭を下げ「天皇に申し訳ない」とさめざめと泣いた。

 その軍人総理の名は「東條英機」と言った。東條英機は中国戦線での20万人の戦死者・英霊に申しわけないと中国大陸からの撤兵を終始拒んだ。組織の論理で拒めなかった。だが終戦時には筆者の父親を含めて一桁多い310万人の戦死者を出した。東條は、その軍事機構の立場に於いて
日米非戦を試みたことは確かだ。だが詰まるところ現実に眼を逸らし精神論に逃げ込んだのは誰が見ても明らか。東條をはじめとする軍務官僚は「墨で書かれた半紙一枚の事務処理」に於いて優秀だった。そこに戦争最前線の実態、国民の塗炭の苦しみは書きようがない。正確な情報は無いし、あっても隠した。清廉潔白な指導者など役に立たないのはいつの時代も同じだ。

 今日、ウェブサイトの「ウィキペディア」に現れる東條は、A4判サイズで24頁にもなる。それだけ凄い軍人総理だったのではなく日本の戦前の「負の遺産」を証明するからと解釈するのが妥当。我が国では、いつの世も「総理大臣は
軽くてパアがいい」の典型。

E
嶋田繁太郎(しまだしげたろう)
【明治16年(1883)─昭和51年(1976)海軍大将 海軍大臣・軍令部総長】
(『私解 戦争の昭和史6 東條英機周囲24人』で紹介)

 東京裁判で連合国が最も重視したのは「日米開戦」の時点。東京裁判を開始してから連合国は統治権と統帥権の相違を漸く理解した。日本の戦争遂行の真の責任者は、昭和天皇の輔翼、つまり大本営である。この総攬者・天皇に責任を負わすことがGHQの総意ではない。それでは連合国の日本統治は難しい。だから統治権を持つのは行政府の陸軍・海軍なのだから、ここに訴追のポイントが及んだことになる。当然昭和16年の日米開戦時点の陸海軍大臣は、東條英機と嶋田繁太郎。嶋田も結局、木戸幸一・大島浩同様≪5対6
で絞首刑を免れた。東條英機の部下に過ぎない陸軍省軍務局の武藤章が陸軍中将なのに死刑になった。同様に然も昭和12年の総理大臣だった廣田弘毅が死刑になったので未だに論争がある。これはやはり付け焼刃の報復裁判だ。

 嶋田の海軍兵学校の同期が山本五十六。日米開戦時の海軍を語るとき、嶋田と山本を比較するのが一番手っ取り早い。主に軍令部に在籍していたので連合艦隊参謀長、軍令部次長を歴任。鳴田は海軍大臣になるまで、軍政に携わった経験がない。海軍大臣に就任する前の4年間は中央にいなかったのが事実。“海の上の”人で、政治に関わらない典型的な海軍軍人だった。海軍大臣に就任したのは日米開戦直前であり、いかなる理由で日米開戦に至ったのか、事情がよく判らなかったと言うから驚きだ。海相就任の打診があったとき、当初「その任にあらず」と辞退したが、伏見宮博恭海軍元帥の勧告でそれに従った。更に嶋田は大臣になって初めて「日米開戦の決意」を決定した御前会議を知ることになる。
伏見宮博恭王は皇族でしかも実戦経験があって且つドイツ好きだから嶋田が皇族に反旗を翻すはずもない。

 伏見宮から「すみやかに開戦せざれば戦機を逸す」との言葉を聞くと、3日後に海軍省の幹部を呼び「この際戦争の決意をなす、海相一人が戦争に反対したため戦機を失しては申し訳ない」と訳の分からぬ言い分で日米開戦を伝えた。つまり2週間前まで何も知らなかった人が、先輩の米内光政や同期の山本五十六連合艦隊司令長官など海軍首脳が身を張って主張してきた日米避戦論を無視する形で、陸軍の主張する戦争を決意した。以後、嶋田は
「東條の副官」とか「東條の男メカケ」などと椰喩される程、東條首相兼陸相へ協力したことになる。そうして東條が小手先の機構弄りで軍政・統帥の一体化を図った19年2月に参謀総長も兼務すると嶋田も倣って軍令部総長を兼任した。サイパン島失陥によって東條内閣は瓦解すると嶋田も辞任、予備役となった。

 嶋田の言い分を肯定して
戦機を判断したが「勝機」は考えていなかったのは明らか。嶋田と山本は同期で「嶋ハンはお目出度いから」の述懐は後世に伝えられている。海相に就任した嶋田が不戦論を撤回し、陸軍に対して協調的態度を取ったので遂に日米開戦は不可避となったのは事実で海軍の予算の確保が陸軍への同調だったのは知られていない。それがあるからか昭和30年に釈放された後、一切沈黙を守り昭和41年、92歳で死去。

F
大島 浩(おおしまひろし)
【1886年(明治19年)─1975年(昭和50年)陸軍中将 駐ドイツ特命全権大使】

 大島は、陸軍士官学校、及び陸軍大学校を卒業した陸軍軍人。大正10年(1921)、駐在武官補としてドイツに赴任、ナチ党とのあいだに強い個人的関係を築く。昭和13(1938)年に駐ドイツ日本大使に就任、日独同盟の締結を推進し、昭和15年の日独伊三国軍事同盟も強力に支持した。終戦後にはA級戦犯として終身刑に処せられ、昭和30年(1955)まで服役した。詳細は以下に記した。東京裁判の判決では、この大島浩と開戦時の海軍大臣だった嶋田繁太郎、内大臣・木戸幸一の三人は
≪5対6≫という評決で辛うじて絞首刑を免れた。
(ブログ「日日耗日」2011/9/8 日米開戦への道01 昭和史」
(無明庵「ブログ日日耗日」日米開戦への道@)

「日独伊三国同盟」成立(昭和15年09月27日)のときの駐在ドイツ日本大使は来栖三郎だが、実質は大島浩だった。推進者は、外務大臣・松岡洋右だが、ことドイツに関しては
最大の助言者は大島をおいて他にない。当時の外務省は、例えばイタリア大使の白鳥敏夫、友人の鈴木貞一などのいわゆる枢軸派は「悪いのは英米」というメディア、それを素直に信じた世論に抗しきれなかったのか。政治家も外交官も英米協調派は隅に追いやられていた。ドイツ勝利を信じて、その後の“分け前”に与かろうとしたのが本音とも言われている。

 大島は陸軍軍人、明治19年(1886)生、陸軍士官学校は18期、陸軍大学は27期卒。東京裁判で刑死した東條英機は大島より02歳年長だが陸大卒は同期である。つまり勉強は東條より大島の方が優れていたことになる。蛇足だが大島浩を主人公にした本は見当たらない。だが「日独伊三国同盟」に関する著書では必ず名前が出てくる。おおむねアドルフ・ヒトラーに魅せられた、日米開戦においては責任の重い軍人大使だった。誤ったドイツ情報を日本の軍部に伝えていたのは間違いない。

 昭和30年に巣鴨プリズンを出所。以後、数々の誘いを断って沈黙を守った。これは評価するにしても、ドイツ敗戦で逃げたときにオーストリアで連合国によって身柄を拘束され、日本に送還途中所持していた日記や機密文書をニューヨークのホテルの水洗便所に流した。だが大島が日本本国へ送ったドイツ上層部に関する秘密電報はすべて連合国に暗号解読されて、その情報が英米の作戦に有利に働いたというから「お笑い草」である。さらにそれはアメリカ公文書館に残っている。大島は幼少期より、在日ドイツ人の家庭に預けられ、ドイツ語教育とドイツ流の躾を受けた。駐在武官としてドイツに赴いてからは、ドイツ人青年に付いてドイツ語を習った。ドイツの方言で歌を歌うまでになるという徹底したものだったからドイツ語、ドイツ文化は、大島の人生そのものだった。陸大卒後の大正10年以降は、殆どベルリンに駐在、勃興しつつあったナチス党上層部との接触したのは想像できる。大島の性格がドイツ人の気質と相似していたのかと納得する。堅実で勤勉、几帳面で組織愛に満ち、頑固で無愛想、単一的民族国家ゆえの団体行動、規律、遵法精神に満ち、教育水準は高くよく働く。(「昭和史」P245)

 司馬遼太郎も指摘する。≪日本がドイツに傾斜したのは国造りの真最中の明治04年(1671)プロイセン軍がフランス軍を破ってからである。その時からドイツ参謀本部の作戦能力の卓越性を学び、法学・哲学・音楽・憲法までもドイツ傾斜が進んだ。統帥権のもとに昭和前半を壟断する陸軍は、一種の国家病だった。近代国家建国の時に一種類の文化を注入すれば薬物中毒になるのはその後の日本が雄弁に物語っている。ドイツ文化そのものに罪はなく、ドイツを買い被っている軍人は多いが、ドイツをよく知っている人は居なかった≫(「この国のかたち03」P20)大島浩はさしづめ薬物中毒から最後まで抜けきれなかった。ドイツとヒトラーが大好きな、“ドイツおたく”だった。日本が昭和16年12月08日「真珠湾攻撃」が成功して欣喜雀躍しているとき、ドイツ軍精鋭部隊は猛吹雪のなかモスクワを目の前にして撤退を余儀なくされる。
ドイツ情報が緻密であればナチスドイツ崩壊の序章を知らぬわけは無い。個人的好き嫌いを優先して日本の外交を見誤った罪は極めて顕著。

G
白鳥敏夫(しらとりとしお)
【明治20年(1887)─昭和24年(1949)外交官・駐伊大使】

 大正、昭和期の日本の外交官・政治家。日米開戦前の外務省革新派のリーダー的存在、日独伊三国同盟の成立に邁進した。東洋史学者の白鳥庫吉、外務大臣を務めた外交畑の長老石井菊次郎(大正時代の外交官)も叔父。

 白鳥敏夫が今日脚光を浴びたのはネガティブなこと。平成18年に日本経済新聞に報道された所謂「
富田メモ」(冨田朝彦・元宮内庁長官)での昭和天皇の発言。
 ≪私は或る時にA級が合祀され、その上、松岡、白取までもが─筑波(藤麿)は慎重に対処してくれたと聞いたが─松平の子の今の宮司(松平永芳)がどう考えたのか、易々と─松平(慶民)は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ≫

 経緯は省くが“白取”はむろん白鳥敏夫のこと。昭和天皇は終始、当時のドイツに疑念を抱き、皇太子時代に留学してイギリスに親近感を抱いていたのは知られている。「独白録」でも日独伊三国同盟締結に松岡と共に主導したことを厳しく指摘した。昭和天皇は「第一次大戦」の詳細を知悉していたと思われるからドイツを中心とした所謂「枢軸派」を嫌っていた。松岡洋右は天皇に疎まれても後世の判断だが、日米非戦を試みていたことは事実だと思う。だが白鳥敏夫は、その兆候が感じられない。大正時代初期、外交官として最初の赴任地が中国大陸だったことは松岡も同じ。
(私解 戦争の昭和史3日米開戦は避けられなかったのか2日米対立)

 大正09年に外務省内に情報部が設置されて白鳥は情報部員となり、松岡洋右・広田弘毅の歴代部長の下で勤務したというから実務能力も長けていたに違いない。当時外務省で用いられていた「候文」も文書課長時代の白鳥の働きによって廃止されたエピソードもある。白鳥は、満洲事変当時、内閣書記官長だった森恪(もりかく・田中義一内閣では事実上の外務大臣)や鈴木貞一陸軍中佐(後に陸軍中将、東京裁判ではA級戦犯、千葉県出身で白鳥と同郷)と提携、満洲事変(昭和6年)後も「国際連盟脱退」を軍部と連携して
英米に対する強硬外交を推進した。満州事変の石原莞爾や板垣征四郎に影響されたのか、呼応したのか、持論なのか判らないが軍部と連携した形で「連盟」脱退への世論誘導に奔走。そのためだと思われるが、にスウェーデン公使に追われた。だがここで駐ドイツ陸軍武官だった大島浩と組んだかたちで「日独防共協定」成立に奔走、大島が駐独大使になると今度は日独軍事同盟の締結にむけて活躍する。

 日本の出先機関であるべく陸軍が本国の承認をせずに中国大陸で暴れたのは「関東軍」として知られるが、白鳥・大島の外国駐在大使が本国に相談もせずに日独協定に邁進したことで益々昭和天皇には信任されなくなった。昭和11年帰国、閑職だったが言論活動を展開、外務省若手も取り込んで政治の中枢に食い込んで行く。昭和16年、病気のため外務省顧問を辞任したが、翌17年の総選挙に千葉県から推薦候補として立候補、当選して衆議院議員となる。

 白鳥の責任ある地位就任を阻んだのが宇垣一成、松岡洋右だと思う。昭和15年、松岡外相時代は「外務省顧問」。白鳥の言論は叔父の歴史家・白鳥庫吉の影響なのか、日蓮に宗の家系か、国粋主義者でもあり、新興宗教に興味を示したり、松岡を真似たのか亡くなる直前、キリスト教へ改宗した。東京裁判では、日独伊三国同盟への外交姿勢と日米戦争への言論活動が問題視された。裁判では「終身禁固刑」、服役中の昭和24病死。靖国神社では「昭和殉難者」として合祀されたが、昭和天皇が嘆くのは尤もで殉難者とは到底言い難く、終始
日米関係に害を為したのは間違いない。

H
徳富蘇峰(とくとみそほう)
【文久3年(1863)―昭和32年(1957)新聞社社主・言論人】

 筆者が中学生時代の昭和32年、徳富蘇峰死去の新聞記事は記憶している。何しろ生まれが明治維新以前で今では驚きである。明治・大正・昭和の3代にわたる言論人で、オピニオンリーダー、
世論誘導の先駆者の意味合いが濃い。1876年、同志社英学校に入学、新島襄に学ぶ。熊本へ帰郷してからナショナリズムの濃い「民権論」を主張、「平民主義」の思想を形成。この「平民主義」とは、平民的欧化主義で福沢諭吉の「脱亜論」の影響があるのか不明。蘇峰は家系からの影響だろうが青年期から洞察力と先見性を持っていて類いまれな知識人だった。儒教的理想主義とも武断主義と違う道義主義なるものが、欧米帝国主義にあることを理解していた。『第十九世紀日本ノ青年及其教育』(1885)を自費出版、『将来之日本』(1886)をして中央の論壇にデビュー。華麗な文体は多くの人を魅了した。後、蘇峰は1887年民友社を設立、雑誌『国民之友』を創刊、1890年には『国民新聞』を創刊して以後、中央論壇で活躍する。従軍記者として日清戦争を経験。そのあとの「三国干渉」を機に欧州の大国に疑問を呈し国家主義の立場を鮮明する。それ以後、長州閥の山縣有朋や桂太郎とも親交が始まる。日露戦争開始では国民新聞も飛躍的に伸びた。桂太郎亡きあとは時事評論に健筆をふるった。『近世日本国民史』はこの頃から執筆を始めた。

 「独白録」では冒頭に「大東亜戦争の遠因に─加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させる」とある。蘇峰の主張は「排日移民法」が利害の問題ではなく日本人の面目の問題であると強調。日露戦争以来、満州蒙古の権益は日本人が血で購ったとの意識は政府以上に国民に根強く存在していた。満州事変が支持されたのも欧米のアングロサクソンに対する感情論が底流にあった。蘇峰が煽ったのかも知れない。反欧米意識のもと「
白閥打破」を唱え、日本人の自尊心を刺激した。

 昭和以降では『
必勝国民読本』(毎日新聞社)がある。「何故に必勝せねばならぬのか」「何故に我等は必勝するのか」「如何にして我等は必勝するか」という三本立てで、「大東亜戦争」の意義をわかりやすく解説した一編。「大日本言論報国会」日米開戦以後に組織された思想家・評論家の国策協力団体。徳富蘇峰が会長だった。幹部には天皇制国家主義の支持者が多く総力戦体制の一翼を担った。1943年文化勲章も受章。昭和16年太平洋戦争開戦の詔書を添削した。東條英機のあの甲高い精神論の演説は全て蘇峰の添削。

 ギネスブックに最も多作な作家と紹介され、手紙魔で朝食前に20本も書簡を書いたエピソードもある。交友関係は多く与謝野晶子、齋藤茂吉など歌人、鳩山一郎など政治家、後藤新平、伊藤博文、森鴎外、山本五十六など多岐に渉る。昭和20年正月の毎日新聞に国民の厭戦気分を嘆く徳富蘇峰の記事が掲載された。「遠からず帝都の真ん中に敵の爆弾が落下するであろうから、その時を待つのほかあるまい」「これを一大転機として、我が一億皇民の心構えを一回転せずんば、まさにいずれの時を期すべきぞ」。国民の気持ちを引き締めるには東京に爆弾が落とされた方がいいとの発言は弁護の余地がない。その後の東京空襲は悲惨だった。知米派の評論家
清沢洌(きよさわきよし)は蘇峰の言い分に痛烈に批判した。「英米を罵倒し、ゆえに英米を軽侮する言論を展開、戦況が不利になると自分で煽っていながらその罪を国民に着せている」(「暗黒日記」)と批判。「蘇峰が戦争最大の責任者」「この恥知らず」「戦争放火者」と痛罵した。敗戦後、蘇峰は自ら「百敗院泡沫頑蘇居士」と戒名を定め、謹慎生活を送ったが当然だ。A級戦犯だったが高齢で不起訴となる。

I
宇垣一成(うがきかずしげ)
【慶応04・1868年―昭和31・1956年 陸軍士官学校第01期卒、陸軍大将、外務大臣】

 明治33年(1900)陸軍大学卒。日露戦争前後2度ドイツに駐在。大正2年(1913)山本権兵衛内閣時に「軍部大臣現役武官制廃止」反対の立場をとる。大正13年(1924)清浦奎吾内閣の陸軍大臣になる。加藤高明内閣、第一次若槻礼次郎内閣でも留任。大正時代末期は第一次世界大戦が悲惨な結果を招いただけに世界的な「
軍縮時代」を迎えていた。この時代、日本も軍縮を断行。陸軍21師団のうち4個師団を廃止、多くの将校が職を失った。以後この恨み?が尾を引く。宇垣のしたことは経費節減分を戦車、飛行機など装備の充実にあて、軍の近代化を図ったのだから無謀なものではなかった。昭和に入り浜口雄幸内閣(昭和4年・1929)の時、桜会を中心とするクーデター計画「三月事件」に関与、事件後辞職した。その後は昭和11年まで朝鮮総督として、朝鮮半島の軍需工業の育成と農村振興運動に力を注いだ。廣田弘毅内閣(昭和12年)総辞職後、組閣の大命を受ける。現役武官では無かった宇垣は、軍部大臣現役武官制を利用して陸軍大臣を出さないという自らを育てた陸軍に阻止される。翌昭和13年(1938)近衛文麿内閣の外務大臣に就任したが対中国外交にも介入してきた陸軍の「興亜院設置」を巡り対立、辞任した。戦後、公職追放解除ののち昭和28年、参議院選挙に出馬、全国区最高点で当選した。

 「独白録」では昭和天皇の評価は厳しかった。「このような人物を総理大臣にしてはならぬ」の告白はかなり直截的。ことに科学者である天皇は宇垣の“
聞き置く”との言葉が曖昧であると嫌われた。いずれにしても陸軍の軍政家で天皇が辞職に追い込んだ田中義一に引き上げられた宇垣の性向は海軍の米内光政と好対照だった。独白録で天皇自身が三国同盟と混同したらしい!「三月事件」は、陸軍中枢部のクーデターだった。経緯は省くが宇垣陸軍大臣、杉山元次長、小磯国昭軍務局長、永田鉄山軍事課長だった。浜口内閣の総辞職を求め替わって宇垣一成陸相を首班とする軍事政権を樹立させるという目的だったが、陸軍中枢の将校に反対があり実際に兵力を動かす師団長の真崎甚三郎が反対だからだったが真相。そういう真崎は二二六事件の陰の主役だった。

 日米開戦時の参謀本部総長、杉山、昭和19年後半の総理大臣・小磯国昭はいわゆる
宇垣閥で子分だった。宇垣は第三次近衛内閣の総辞職時にも後継首班としてその名が出た。東條英機内閣総辞職のあとも候補に挙がる。昭和10年代、林銑十郎、阿部信行、小磯国昭と陸軍出身で総理大臣として名が残るだけの人物も居る。戦術、戦略に無縁だが外国を良く知る政略家の宇垣を総理大臣にすべきだったと今も語られる。基本的に陸軍の大物で軍部ファシズムの流れに批判的であり、当時中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣の首班登場は期待された。陸軍に抑えの効く宇垣を推したのは元老・西園寺公望だった。日米開戦のときは第一線を退いた予備役だったから開戦責任はない。戦後「東京裁判」を主導したキーナン主席検察官は、米内光政・若槻礼次郎・岡田啓介と共に宇垣を「ファシズムに抵抗した平和主義者」として賞賛し、四人をパーティに招待し歓待している。開戦時の重臣は、清浦、若槻、岡田、廣田、林、阿部、米内、7人の総理大臣経験者だったが実力は無かった。世界を知らない者が政府中枢を占めて世界を知る者が斥けられたのが昭和16年の日本の現実だった。

番外編 
米内光政(よないみつまさ)
【明治13年(1880)─昭和23年(1948)海軍兵学校第29期卒 第37代内閣総理大臣】

 岩手県盛岡生、父親の事業失敗で幼少期は困窮していた。海軍兵学校も海軍大学もとくに優秀ではなかった。だが大正4年ロシア駐在武官時代はロシア語を習得、ベルリンへも駐在、軍縮時代でもあって海軍中枢、中央政界にも無縁で読書三昧、漢籍、ロシア文学、大衆文学も読みふけった。博識だったとの秘書官の証言もある。二・二六事件後の昭和12年、林銑十郎内閣の海軍大臣に就任して海軍大将になる。以後第一次近衛文麿、平沼騏一郎両内閣でも留任。日中戦争が始まると拡大方針に転換し、駐華ドイツ大使・トラウトマンの工作を拒否、「国民政府ヲ対手トセズ」との強硬方針に味方した。中国上海沖の日本海軍艦船が念頭にあったらしい。陸軍の
日独防共協定、日独伊三国同盟には、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに反対して挫折させた。第一次近衛内閣からは陸軍の横暴が顕著になる。平沼・阿部内閣も長続きしない。昭和15年、総理大臣になるが、親英米的であるだけで陸軍やいわゆる革新派の軍人、外交官の攻撃を受け、倒された。このときの陸軍大臣は戦後「東京裁判」でA級戦犯に指定された畑俊六。昭和19年、東條英機内閣瓦解のあと、小磯国昭内閣の副総理兼海軍大臣に復帰。以後、鈴木貫太郎、東久邇宮稔彦、幣原喜重郎各内閣にも留任、戦争終結と敗戦処理のために尽力した。

 「独白録」では天皇側近の木戸幸一、近衛、東條は別にして「米内」の文字は
30数カ所を数える。総理就任も敗戦処理も米内を信頼していたことが解る。「米内内閣はよくやった」「私の味方は米内だった」との記述もあって「ナチスドイツ」が嫌いなのを共有していた。山本五十六については暗殺を恐れるあまり「連合艦隊司令官」として海の上に追いやった。生き残って戦後、米内は「日米非戦」を最後まで貫いて、政権の中枢に居たなら暗殺されていたと述懐している。

 エピソードは数多ある。長身、美丈夫で酒豪、花柳界ではモテた。昭和前半までいわゆる長州閥が軍部、政界を席巻したが東北の“白河以北”は決して人材不足ではなかった。大正時代には原敬、国際連盟脱退時の齋藤実も総理に就任している。後藤新平は西園寺公望に疎まれ、その器なのに首相になれなかった。教育者だが新渡戸稲造、原、米内は盛岡、後藤・齋藤が奥州市出身。昭和14年の「五相会議」で大蔵大臣に訊かれ「
海軍は勝てる見込みはありません。日本の海軍は米英相手に戦争ができるように建造されておりません」と返答。山本五十六が第一線の司令官ゆえに早期決着ゆえに「ハワイ真珠湾攻撃」を計画、実行したのは知られるところ。日米開戦寸前には重臣として問われ「ジリ貧困を避けんとドカ貧にならないように」と発言。米内の言うとおりドカ貧となり、山本が危惧した通り首都東京は焦土と化した。

 昭和19年の小磯内閣では海軍省次官の岡敬純を放逐した。日米開戦を誘導したからである。陸軍の武藤章とともに戦後A級戦犯に指定された(岡は終身禁固刑、武藤は絞首刑)。戦争終結に努力したが本土決戦を譲らない陸軍には手を焼いた。鈴木貫太郎内閣成立以後の5カ月間の経緯はここでは省く。『私解 戦争の昭和史7 敗戦の決断は何故遅れたのか』
 日米開戦時の外務大臣でもある東郷茂徳と米内は結局、原子爆弾投下、ソ連参戦の決定的な物理的敗戦まで待たなければならなかった。原爆投下・ソ連参戦を「
天佑」と表現した米内の言動は簡単には非難できない。終生父親の借金を返済していたとの証言もある。海軍予算を私していなかった証拠。昭和20年12月、宮中に呼ばれた米内は、天皇から直々に「ずいぶん苦労を掛けた、健康に留意するように」と犒われ直前まで使用していた筆、墨、硯箱などが下賜され退出した後、男泣きに泣いた。いい話だがやはり空しい。米内内閣打倒の張本人だった憎むべき当時の陸軍大臣・畑俊六の「東京裁判」証言では庇い続けた。ウェッブ裁判長に軽侮されたが気にしなかった。阿川弘之『米内光政』の最後の部分に畑俊六の記述がある。米内死後12年後、昭和35年、盛岡八幡宮境内に米内の銅像が建立され除幕式が行われた。巣鴨プリズンから仮釈放された87歳の畑俊六が黙々と会場の草むしりをしていたとある。自分を庇ってくれた米内には恩義があるからである。陸海軍の対立を超えた美談のようにも思えるが、それだけ国益には程遠い軍部の対立だったことが解る。