思いつくまま書きました。なるほど、と思えば「!」。あれ、おかしいぞと思えば「?」。
勝手な解釈ですので悪しからず。(中には引用したものもあります)


『ウルトラマンと仮面ライダー』
『大魔神』
『星』
『偽』
『親』
『お金の話』
『本物のサンタ』
『表と裏』
『2:6:2』


『ブルース・リーVSジャッキー・チェン』
『無我について』
『信仰について』
『自己とは』
『陰徳の勧め』
『陰徳』1/21更新「戦後の混乱の中で」
『運』
『愛別離苦』


『ウルトラマンと仮面ライダー』
両方とも悪をやっつけるヒーローですね。さてあなたなら、どちらが好きですか?この二つには大きな違いがあります。分かりますか?
仮面ライダーの正体(変身する前が誰か)は、視聴者はもちろんの事ブラウン管の中の者も知っています。一方、時代で言えば先発になるウルトラマン。ウルトラマンの正体は視聴者こそ知るものの、ブラウン管の中の者は誰も知りませんね。変身したウルトラマンが怪獣と戦っている時は、当然ハヤタ隊員は出てきません。大変な思いをしてまで戦ったあとになって、ひょっこりとハヤタ隊員が出てきます。
そしてみんなに怒鳴られます。「どこへ行ってたんだ!この大事な時に!」ハヤタ隊員は、申し訳なさそうにただ謝るだけ。ここに大きな違いがあります。言わばウルトラマンは陰徳の象徴ですね。感受性の強い少年たちはこれを見て育ちます。人知れず良い行いをするハヤタ隊員(ウルトラマン)に、本物の陰徳を学ばさせてもらうんですね。誰にも知られず、誰にも認められずしても、正義の心は自然と膨らんでいくんでしょう。


『大魔神』
佐々木投手ではありません。60年代の大映の特撮映画「大魔神」のことです。当時はあの顔を夢にまで見てうなされたものです。誰も知らない気がつかないと思っても、悪い事をすると大魔神が怒って出てくるのではないかと・・。こうして、子供心に悪を抑える心が芽生えたものです。
「仏の顔も三度まで」とは良く聞きます。では、埴輪の姿から鬼の形相に変わった大魔神は何なんでしょうか?実は、これもやはり仏の姿なんでしょうね。当時はまだ怖いだけの存在でしたが、今ならそれも分かります。埴輪の姿だけなら、世直しは出来ません。仏とは、時には鬼より怖い存在とならないと本物ではないように思います。


『星』
日に生きると書いて星と書きます。「今日はいい一日だった」と言える人は輝きのオーラを放っています。別に苦しい一日でもいいのです。「まだ生きてるぞ!」それを実感出来る人も星になれるでしょう。輝きをなくしてしまうのは、その一日を長い一生の中の一部と錯覚してしまうからでしょう。明日に臨終が迫っているとすれば、今日という貴重な一日を星のように生きられるはず。目の前にいる人にも同じく明日に臨終が迫っていると思えば、きっと優しくなれるはず。『星』という字は「一期一会」を一字に表したものかもしれません。


『偽』
人の為と書いて偽る・偽物という字になります。人の為といえば良いイメージがあるはずなのに、組合すと悪いイメージの字になってしまいます。不思議ですね。そこでちょっと調べてみました。
陰徳陽報
「淮南子」(中国古代、前漢の時代の淮南(わいなん)王が編著した哲学書)に「陰徳あれば陽報あり」とあるのが、この言葉の始まりです。陰徳とは、人に知られぬように施す恩徳。陽報とは、はっきりと表れる報いを言います。後に仏法では、陰徳を積むことが修行の一環とされ、陰徳とは、幸福や名利などの陽報を期待するものではなく、ただひたすらに一切衆生、生けとし生けるもののために功徳を積むことを示しました。
佐藤一斉(さとういっさい:江戸後期の陽明学派の儒者)もまたその著書「言志録」(75陰徳)のなかで、陽報をあてにして陰徳を為すものは偽善者であると説き、坦々と功徳を積む陰徳を範としました。とかく私達は何か良いことをすると人に知ってほしいと思ってしまいます。さらには最初から人にPRする目的をもって善行をなすことさえあります。そういう心がふつふつと沸いてしまうのです。

こうしたことを戒めるためにも、人の為と書いて偽るという字にしたんでしょうね。


『親』
立つ・木・見ると書いて親という字になります。子供が難儀している姿を見ると、そばにいれば手を出して助けてあげたくなります。子供も親がそばにいれば、どうしても親に依存して甘えます。これでは、子供の成長は望めませんね。親というのは、子供に見つからないようにして木の陰に隠れて見ているから親なんですね。こうして子供の成長の妨げにならぬようにするのが本物の親の愛です。


『お金の話』
これは新聞のコラムから取りました。お金と人間性を4つに分けて順番にしたものです。
1番目いいのは「金持ちらしい金持ち」
2番目は「金持ちらしい貧乏人」
3番目は「貧乏人らしい貧乏人」
最悪なのは「貧乏人らしい金持ち」とありました。
「金は天下の回りもの」として、経済社会を成り立たせる道具としたはずなのですが・・・
(1番目の)贅沢は罪の如くの風潮はありますが、消費してもらってこそお金が回るんですよね。(3番目の)お金がないから質素倹約するのは分かりますが(4番目の)お金の流れをせき止める(貯める一方)ことが、実はもっとも罪深い事なんですね。しっかり仕事して稼いで、世の中に還元する事が必要なんですね。ちなみに私は1番目のように見られますが、実は2番目です(笑)。


『本物のサンタ』
話は、「ねえ、パパなんでしょう」と、サンタに尋ねる少年の言葉で始まる。
彼は眠らずに待っていた。
サンタは、無言で首を振り、「(今は誰もサンタを信じやしない・・これも教育のせいなのか・・)」と心の中で嘆いた。
そしてサンタは、少年にこう言った。
「みんなが眠っていてくれた方が仕事はしやすいし、こうやって話していたら、みんなに贈り物を届ける時間がなくなってしまうんだ」

 やがて、少年が作った特大の靴下に、「特別に大きなものをあげるよ」と言って、戦車のプラモデルを入れた。 
少年が本物のサンタである事をまだ信じないので、サンタはわざわざ壁を通り抜けて外に出た。
雪だった・・。
サンタはそりに乗った瞬間、「(しまった!)」と思う。
雪に隠れかけた表札には、孤児院とあった。


[意外な結末の読み方は、人さまざまだろう。例えば、少年の立場では一番欲しいものはもらえず、サンタの立場では、一番欲しいものがあげられなかった。ともに悔恨ではあるが、それは持ち続ける希望の言い換えでもあるだろう。・・(省略)・・]と綴られていた。

「一番欲しいもの?・・」
ピンと来なかった私は、もう一度読み返しました。

そして思わず目頭が熱くなりました。

少年は、誰かから聞いたんでしょう。
「贈り物をくれるサンタは、本当はお父さんなんだよ」と。
「この人がぼくのパパ・・」
孤児院で育った少年にとっては、それは本物のサンタではなく、見たことのない自分の父親がサンタに扮して来てくれたと思ったのでしょう。

サンタが少年の心に気がついたのは、外に出て孤児院の表札が目に入った時だった。その時のサンタは、
「何て事をしてしまったんだ!・・」
と悔やんだという悲しい結末であった事が分かりました。

どうですか、すぐに分かりましたか。深い話ですね。
少年が一番欲しかったのは、「自分のお父さんが来てくれたんだ」という出来事だったんですね。
サンタの反応をも否定し、自分の父親である事を信じて疑わない少年の心を思うと、本当に目頭が熱くなります。

我々はいい事をしているんだと思って、独善に走る事だけには気を付けなければいけません。時にはこのサンタのようになっているかも知れません。相手の心を読み取れる感性が鈍らないように気を付けたいものです。それを示唆するかのようなお話でした。


『表と裏』
物事には、表から見える事実と、陰に隠された裏の部分があります。誤解は、表面的な事実から判断され生まれる物であり、理解は隠れた真実まで見通されてなされるものです。
 たとえば冤罪。物証や状況証拠から判断された罪人が、実は無実であったという話はよくあることです。映画「グリーンマイル」のなかで、大柄の黒人の死刑囚がいました。子供を殺した罪で・・ということでしたのですが、真実は違っていたというストーリーです。その真実を知ってしまった看守達が、冤罪を知りながら死刑を執行しなくてはならないというとても悲しい結末です。今からされようとする死刑執行を、冷たい目で見る被害者たちは冤罪である真実は知りません。冤罪を知る者は看守とその本人と実際の犯人のみ。そればかりか、本当は誰にも知られずに人を助けた身である(冤罪)死刑囚の命をこれから絶たなくてはならなかったのですから、真実を言えなかったトム・ハンクスらが演じる看守達の苦しみは、いかに多くの人々の涙をさそったことでしょう。
 あるいは厳しい親や上司・先輩の類。表面的な部分しか見えていない子供にとっては、そこに隠された深い愛情にまで目が届きません。他人からそれを教えられ、初めて気づくというケースが多いものです。または、自分が一人前になって、ようやく気づいたというところでしょうか。いつまでたってもそれに気がつかない、不幸な人もいることでしょう。
 このように、物事には表面的な部分と裏に隠された部分というものがあるということです。真実を見極めるには、それなりの時間と智恵が必要であると言うことです。簡単に人を表面的な部分だけで判断するのは、とても危険なことです。浪花節とは、こういった裏の世界を認める部分ですから、裏のわかる人には受けるのでしょうね。映画を見ている側の視聴者というのは、その裏の部分を見る事の出来る存在だからこそ、その良さが分かるんですね。


『2:6:2』
組織と個人を秤に掛けた時、どちらが重いか・・いつの時代も、この狭間で苦しんできた人がなんと多いことかと思います。組織というのは、人を生かしもすれば殺しもします。別に人間の命を絶つという意味ではありませんが、それに近い部分はあるでしょう。少数意見というのは、どうしても絶対多数には負けてしまいます。民主主義の恐ろしいところです。絶対数からはみ出ると、村八分という情況が待っていることを島国根性を持つ者は怯えます。度量の広い者は、その少数意見にも耳を傾けます。度量の狭い者は耳を傾けたりもしません。それは、やはり村八分が怖いからです。組織とは、団結という面が大いに求められるところです。どんな組織でもこの組織論が先行すると、必ず漏れる者が出てきます。しかしその漏れた者が間違いかといえば、そうでもない場合があるものです。漏れた者といえば聞こえが悪いですが、実際には脱却した勝利者といえる側面もあれば、組織を変えることが出来なかった敗北者とも捉えられます。
 『2:6:2』という数字は、どういう意味があるのか。これは、割合です。世の中全体で正義を貫こうとする者が2割存在するとすれば、悪が2割、そしてどちらにもつく可能性のある分子が6割いるということです。では、その2割の悪を除去したから平和になるのかといえば、残り8割の中でまた『2:6:2』に存在が分かれるわけです。つまり悪が生まれるということです。逆に2割の正義が滅ぼされたからといっても、同様にまた2割の正義が生まれます。これは全体(マクロ)にだけいえることではありません。個(ミクロ)としても存在します。分かりやすく言えば、一人の人間の中にも「してはいけない」という気持ちと「してはいけないことと知りながら、やってしまえ」という気持ちと、「その狭間で迷っている人格と・・」とでもいえばわかるでしょうか。周りの環境や情況が変わると、これらも刻々と変化してしまいやすいのが人間の弱さです。
 『Xファイル』という物語があります。そこでは、真実を追究する人物像としてモルダーという主役がFBIのXファイルという部署で活躍しています。FBIの組織にとっては、不必要とも捉えられない存在のようにモルダー1人が孤立したような部署です。未知の敵に立ち向かうだけでなく、その組織元であるFBIからも、その部署(Xファイル)の存在を抹消しようとする動きがよく出てきます。そこで、初めは組織側の人間だったスカリーの登場が、物語を面白くしていきます。モルダーを否定していたスカリーが、モルダーと同行して真実を目にするたびに、真実から目をそむけようとするFBIという組織に疑問を持ち出します。そしていつしか、モルダーの純粋な真実を見つける姿に影響され変化していきます。人間は、あたかも大多数の意見が正しいとの錯覚をしがちです。しかし、この世に存在する真実というのは、意外と世間に知らされていないことが多いでしょう。気がついた時には、それにどっぷり浸かって、身動きの取れない状態のことが多いものです。それに立ち向かおうとしても、孤立無援であることがしばしば・・。
 話が長くなってしまいましたが、「ミイラ取りがミイラになる」こともあれば、突き進んでいって、反逆者あるいは右翼左翼に思われてしまうこともあるでしょうが、最後の判断は自分にあるということです。信念という羅針盤が、人生には必要でしょう。



『ブルース・リーVSジャッキー・チェン』

別に、この二人を戦わせたらどっちが強いか・・という問題ではない。ある意味で対照的なこの二人の違いを、私の独断と偏見による観点から見たものである。(左側の写真の右に写っているのがジャッキー・チェン))

「コントラスト」
ブルース・リーは静と動がはっきりしている。それが動きを余計に早く感じさせる。静の部分は凄みと、来たるべき次のステップへの期待を膨らませる。ブルース・リーは、これを日本の歌舞伎からヒントを得たらしい。一方、ジャッキー・チェンの動きやスピードも人間離れしたものがあるが、残念ながら人の目は、その動きに慣れてくる。こうなれば、早い動きも単調さに映ってしまう。
★これは「人間の幅」に繋がる。ジョークばかりを並べていては、軽く見られる。シリアスな部分ばかりでも、堅物のまじめ人間と見られて、面白みも無い。つまり、どちらにも偏らず、しかも、どちらの部分も持ち合わせているのが人間の幅とでもいうのかもしれない。

[強さ]
ブルース・リーのスーパーマン的な圧倒的な強さ。スクリーン上では無敵である。「やれば勝つ」という絶対的な凄みと安心感があった。一方、ジャッキー・チェンの方はというと、映画の中での主役として、初めは負ける。それがあらゆる修行鍛錬を重ね、そして敵を倒すといったストーリー展開ものが主流である。だが残念な事に、長期間の修行のように見せかけても、全ては映画として2時間前後の範囲内に収めることに無理がある。いわばそんな簡単に強くなれるものではない。これではインスタントである。ブルース・リーの修行の世界は映像には映らないが、底知れぬ鍛錬の上に今があるというものを想像させてくれるものがある。これは、映画の技術で、惨いシーンをあえて出さず、視聴者に想像させて、よりいっそうの恐怖感を募らせるのに似ている。どちらかといえばこちらのほうがリアリティーがある。
★これは、努力の部分を陰として表に見せない事でもある。本物は、人知れず努力を重ねている。いかにも「練習しました・勉強しました」という部分を人に認めてもらおうとする根性は、結果が悪くても周りから責められない言い訳のバリアーを張っているようなものである。勝負は勝つためにあるのであって、負けの言い訳を作るためにあるものではない。勝者は、やはり敗者よりも運さえ引き寄せる見えない努力を重ねていたにすぎない。

[雰囲気]
ブルース・リーには近づきがたい雰囲気がある。これはたまらない魅力の一つである。そのオーラが、一瞬の笑顔によって、さらに魅力が倍増される。残念ながらジャッキー・チェンのそれは、ミーハー的である。八方美人に本物は付いていかない。さらにブルース・リーの独特な雰囲気は、怪鳥音という叫び声でさらに増長される。
★これは、人間関係にも言えることである。「近づきやすい人は、離れやすい」が「近寄りがたい人だったものが、ある一線を越えて意気投相し、永遠の友となる」こともある。


[感情移入]
ブルース・リーの闘いの発露は全てにおいて「怒り」が基本。まあ、ジャッキー・チェンの方もそうなのかもしれないが、真剣味が足りないように感じてしまう。その点、ブル−ス・リーの方は、勝者となった後に悲しみが漂い、空しささえ覚える。
★感動するには、心がないと難しい。喜怒哀楽は、言葉以上にボディーランゲージや目から発するところによるものが大きい。その「気」のエネルギーは、心ある人には届く。要は、表現力といった俳優の力量の部分が、ジャッキーを上回っていたのだろう。

[キレ]
鋭さを表現したら、ブルース・リーを上回るアクション俳優は皆無だろう。ヒーローの役割でありながら、一種独特な不気味さと怖さを兼ね備え、正義の味方を忘れてしまう事さえある。この辺が若者に受けるのかもしれない。
★これは、敵味方をはっきりさせてしまうかも知れない。気に入るものは気に入るし、気に入らないものは気に入らないだろう。万人受けを狙っては、結局、万人から支持されないというのは世の常である。

[インパクト]
ブルース・リーは既にこの世にいないという事実。頂点でこの世を去った者は、神格化される。無敵のブルース・リーも間違いなく人間なのである。スーパーマンになりたいと思ってもこれは無理。だけど、人間であるブルース・リーには近づいてゆく事ができる。
★ブルース・リーの映画を当時見た誰もが体中の血が騒いだ事だろう。例文にも漏れず、私もその一人だった。格闘技という一大ブームの火付け役となったブルース・リーに感化された若者は多かったはずだ。時代が不景気になると、どうした訳か、こうした格闘技ブームが押し寄せるという。身体一つで愛する者を何処まで守れるかといった男の本能に火を着けるのかも知れない。今や「K1」や「プライド」が「プロレス」以上に人気を沸かせている。戦後の誰もが苦しかった時代にも、力道山が現れた。「巨人・大鵬・玉子焼き」といった言葉が懐かしいが、最近外国で人気を得ている日本のスーパースターも多い。ヒーロー不在の時代に、名選手は育ちにくいが、元気の無くなった日本に、喝を入れるのは誰になるのか!
やっぱり、アントキの猪木か・・・



突然のリンクを介入させます。
今、書きあげている長編大作を紹介致します。
BLACK LIST
著者:東道武志
平成24年6月25日


『無我ついて』

「空と縁起」については、現在、執筆中ですので、ここで語るのは避けますが、「無我」について、若干述べてみたいと思います。よく知られているように、「無我」とは、サンスクリット語の「アンアートマン」の漢訳です。「アンアートマン(anatman)」は「アートマン(atman)」(個我、魂)の否定語です。「アートマン」とは、インドの正統的宗教であるバラモン教(後のヒンズー教)の教義にでてくる、きわめて重要な概念で、人間の個体に内在していると信じられている、肉体の崩壊後も生き残る人間の不変の本質のようなものです。バラモン教では、このアートマンが輪廻転生すると信じられています。したがって、アートマンは、インドの伝統的宗教にとって、きわめて重要なものですが、ブッダはこれを真っ向から否定して、アンアートマン(無我)を主張しました。人間が死んだのちにの生き残って輪廻転生するとと信じられているアートマンなどないと主張したのです。

われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。

これが、ブッダの思想のもっとも基本的な教えの一つである「無我」の思想です。「無我」の思想は、単に、自己中心主義を否定しているのではありません。ブッダはバラモン教の教えである魂の輪廻説を否定したのです。後代の仏教はやがてバラモン教(ヒンズー教)の教えを再び導入してしまいますが、魂の輪廻説を否定したブッダの「無我」の思想は、いくつかの禅の伝統にはまだ生き残っているように思えます。


信仰について

キリスト教のような宗教と大きく異なって、ブッダは、「信仰を棄てよ」、と教えました。

ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。

ブッダは人間の知識の届かない神秘的なことがらへの言及はさけました。祈祷や呪文や神への捧げものや宗教儀式や運命判断など、まったく無意味であることを説きました。

たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に大きな石を投じたとするがよい。そのとき、そこに大勢の人々が集まり来たって、「大石よ、浮かびいでよ。浮かび上がって、陸に上れ」、と祈願し、合掌して、湖のまわりを回ったとするならば、汝はいかに思うか。その大いなる石は、大勢の人々の祈祷合掌の力によって、浮かびいでて陸にあがるであろうか。……

たとえば、ここに一人の人があって、深き湖の水の中に、油のつぼを投じたとするがよい。そして、つぼは割れ、油は水の面に浮いたとするがよい。そのとき、大勢の人々が集まり来て、「油よ沈め、油よ沈め、なんじ油よ、水の底に下れ」、と祈りをなし、合掌して、湖の回りを回ったとするならば、なんじはいかに思うか。その油は、人々の合掌祈祷の力によって、沈むであろうか。……

そのような、祈祷したり、神に捧げものをしたり、呪文を繰り返したり、胡麻を炊いたりして、神秘的な力によって何事かなそうというような夢事から目覚めて、何が人間の非苦の要因であるか(縁起の理法)を究明し、その要因を取り除く道を見つける人のことを、目覚めた人(ブッダ)と呼んだのです。


『自己とは』

 「明治の文明開化で学問教育が普及し、誰もが本を読み、仏教を学ぶ人も増えた。が、信心がわからぬと嘆く人が多いのはなぜか。その一番決定的な訳は、自分自身を見つめる内観、自己省察が抜けているからだ。自分を見つめるなら、愚かで能無しの暗愚無能の自分、昔から言われる罪悪生死の凡夫の自覚に至る。それは位、やり切れないと人は言うがそうではない。明るい、和やか世界、恭順和楽の天地に出られる」(大意)といって、こんな例え話を引いて解き明かします。

 家中喧嘩ばかりしている家の主が、隣の、皆が仲良く暮らす家の主に、その秘訣を尋ねたら、「我が家は愚かな悪人ばかりなので、仲がいい。お宅は賢い善人ばかりだから争うんでしょう」という。翌朝、仲のいい家で馬が暴れて大騒ぎしている。ところがそこの主も細君も老人も若者も皆が、「私が悪かった。私が至らぬばっかりに、私のせいだ」と言い合う、ほのぼのと暖かい家族らの信和の姿を眺め、「なるほど。愚か者で悪人ばかりいると仲良くいく。善人ばかりだと、自分はいい子で他ばかり責め裁き、争いになる。我が家も悪人家族にならなくちゃ」と頷いた、と。

「自己とは何か」。それを満之はまず、相対有限(自力)の自覚と解き明かします。次に、本来世界、仏の境界を絶対無限(他力)といい、二つの一体こそ真の自己だとします。相対とは、そう対立し、有限とは限界を設け、縄張りを仕切って、自己と他者を差別対立させているさま。自と他を分け、いつでも「自分が正しい、自分が賢い、自分は善人。悪いのはお前」「なんでも自分の思い通りになって当たり前」「結局自分さえよけりゃいい」のところに立っている。人間、放って置いたら、果てしなくこの方向へ暴走して止みません。が、それは通らぬ話、道理に外れた有り方、と仏教は「まず間違った自分に気付け」と呼び掛けます。

 そういう自己を見つめる目こそ、仏教の眼目ですが、それは厳しい、見の痛む課業ですから、私たちは避けたい、逃げたい、触れたくない。だから、いつでも仏教から、いや、私から「自己とは何か」の一点が、見失われ、抜け落ちるんです。この厳しい自己糾明を親鸞は「難中の難これに過ぎたるはなし」と『正信偈』で述懐し、満之は絶筆「我信念」で、「自力の無功なことを信ずるのが必須条件だが、甚だ骨の折れることだ」と告白しています。

◆自己とは何ぞや これ人生の根本問題なり     清沢満之

 「仏教は自己を明らかにする道」と言う。だがその場合、自己とはどんな自己をいうのか。

 決して社会から切り離した抽象的な自己のことではない。無数の関係の総合体を生きる歴史的、社会的存在としての、具体的なこの自己なのだ。

 だから究極的なものから自己を知らされることは、社会と分断した自己反省のたぐいでもなければ、逆に自己から切断した社会批判のそれでもない。

 自己の姿を社会の上に見出し、社会の姿を自己の上に見ることなのだ。自己は内なる社会であり、社会は外なる自己だから。

 その意味で、真の自己批判は同時に社会批判となり、社会批判は同時に自己批判に回帰する。それが「仏教は内観の一道」と言われる「内観」の意味だ。(同朋大学名誉教授・池田勇諦氏)

人に優劣をつける世界を越えて

 私たちは、人間に優劣をつけるのがあたりまえの世界に生きています。学力、経済力、容姿…。それが、自分と他者との距離を広げ、自分と自分の間に断絶をもたらします。人を恨んだり、自分を卑下しながら生きていくことは本当につらいことです。仏教を学ぶことは、この断絶を乗り越えること。自分自身と出会い、受け入れることです。

 自分自身をまるごと受け入れることができるならば、縁あって共に生きる他者を認めることもできるでしょう。

本物の宗教とは、決して神秘的なものではない。そして、決して辛い現実からの逃げ場ではなく、この世のいかなる現実をも引き受けて生きていける力を与えてくれるものだと、私は思う。


陰徳の勧め−試される公益心−

ドイツのある王様が、誰も見ていない夜中に、市街の真ん中へ、そっと大きな石を置いて帰城した。

翌朝、酔っ払いの軍人が、その石につまずいて頭を打って倒れた。

「誰だい、こんな往来に石を置いたやつは。馬鹿野郎、気をつけろ」

散々、悪口を言って立ち去る。

暫くして、馬で駈けてきた紳士が、間一髪で大石に突き当たろうとして、立ち止まった。

「ああ危ない。もう少しのところでこの石にぶつかって死ぬところであった。悪戯するにもほどがある」

ブツブツ小言を言って去っていく。

また暫くすると、一人の農夫が、荷車を引いて通りかかった。

「なんだい、こんな大きな石を置いて。危なくて通れやしないじゃないか」

不平たらたら、石を蹴って通り過ぎた。

かくして、誰一人、この石を取り除くものはいなかった。

1ヶ月後王様は、市民をその広場に集めて訓示した。

「実はこの石は、私が置いたのである。しかし今日まで誰一人として公益のために取り除こうとするものはいなかった。これは私の治政の欠陥だろう。今日この石を私が取り除こう」  王様自ら、石を動かした。

するとその下に『この石を片づけたものに与える』と記した袋があった。

宝石と金貨20枚が、その中に入っていたという。

 あれをみよ  み山の桜  咲きにけり  まごころつくせ  人知らずとも


陰徳

1を無限に縮小しても零にならぬ如く、一つの言動も、一旦発せられたる以上永久に消える事はない。
善因善果、悪因悪果となって、必ず我が身にかえる。
我が幸福、子孫の繁栄を願う前に、人の見ざる所、報いを求めざる所に善因を積まなければならぬ。これを陰徳という。
而して陰徳の最たるものは、天地の道を行じ、人を導いてこれを行なわしむる事である。

好きな音楽に接すると、元氣づけられたり、氣持ちをリラックスさせてくれます。音は空氣を振動させる単なる振動エネルギーですが奏者の氣が込められているので私達に心的影響を与えます。同様に一つの言動も心をもったエネルギーですので、一旦発せらると相手に影響を与え、また、エネルギーである以上物理の法則「エネルギー保存の法則」に従うので永久に消えることはありません。必ず巡り巡って、善因善果、悪因悪果となって己に帰ります。
私達は、無意識に、自己を取り巻く社会的・物質的環境を好ましいものに変え、子供を育て、その幸福を願います。それが生物として子孫を残していく自然の営みであることは間違いありません。しかしややもすると天地より与えられた分度以上に欲を出し、それが悪因となって不要な争い事を引き起こしてしまうのも、また事実なのです。ですから、私達は努めて、この利己心をしっかりと見据えて、この欲を大欲に昇華させ、「万物を育む」という大きな心、霊性心を満足させる喜びを得る経験を増やしていくことが必要なのです。その経験を増やすことを陰徳といいます。陰徳は、いわば「天への貯金」という善因です。
では具体的に、どういう経験を積むことが陰徳になるかといいますと、答えは簡単です。今私達が得た「氣付き」、すなわち心身統一の素晴らしさを伝え、天地より与えられたあるがままの己に氣付いてもらい、共に主体的な人生を歩むことであります。さあ病氣悲運に嘆く人は大勢います。只今から一人でも多くの人に伝えていきましょう。

補足
陰徳陽報

「淮南子」(中国古代、前漢の時代の淮南(わいなん)王が編著した哲学書)に「陰徳あれば陽報あり」とあるのが、この言葉の始まりです。陰徳とは、人に知られぬように施す恩徳。陽報とは、はっきりと表れる報いを言います。後に禅家では、陰徳を積むことが修行の一環とされ、陰徳とは、幸福や名利などの陽報を期待するものではなく、ただひたすらに一切衆生、生けとし生けるもののために功徳を積むことを示しました。
佐藤一斉(さとういっさい:江戸後期の陽明学派の儒者)もまたその著書「言志録」(75陰徳)のなかで、陽報をあてにして陰徳を為すものは偽善者であると説き、坦々と功徳を積む禅家の陰徳を範としました。

天への貯金

 これを藤平宗主は端的に「施して報いなきを、王者の徳」または「天の銀行への貯金」と表現しております。前者の意味は、国の繁栄と人民の幸福など世のため人のために尽くす施政を行い、個人としての名声や見返りを求めない王者の徳のこといい、後者は、相手を立てず、人の見ざるところ、人の聞かざるところに黙々と善根を積む、いわば天の銀行に陰徳というお金を積むことをいいます。「天の銀行」では自分の都合で勝手にお金を引き出すことはできませんね。

喜捨は今を生かされている感謝の心で
昔、釈尊は一軒一軒の家の前に立ち、一椀の糧を乞いながら道を説き、民衆は尊い釈尊の修行を助けるため、心から喜んで食べ物を供養したそうです。これが禅家の托鉢として今に伝わっております。托鉢は修行者にとっては自己の殻を破るための行であり、同時に施主に離欲の功徳を植え付けものです。これを喜捨、布施といいます。
とかく私達は何か良いことをすると人に知ってほしいと思ってしまいます。さらには最初から人にPRする目的をもって善行をなすことさえあります。そういう心がふつふつと沸いてしまうのです。葬式のときの「お布施」もそうです。良い戒名をもらうため何十万もの布施をする。受け取る側もその金額の多寡で判断する。どちらも見返りをベースとした金銭のやりとりとなっています。
本来の布施は、施す人、受け取る人、施物の三つが空、無相、清浄であることをいいます。それぞれに一分だにのこだわりがあってはならないということです。いわば母親が子に為す愛と同じです。将来老いたとき世話になるから子の世話をするのではありません。無私の愛です。
ここに、下村湖人の「心窓をひらく」にある「お母さんのかんじょう書き」という文章があります。進君という男の子が、朝学校に行く前、「進のかんじょう書き」をお母さんの机の上にを置いて行きました。

一 市場にお使いに行きちん     十円

一 お母さんのあんまちん      十円

一 お庭のはきちん         十円

一 妹を教会につれて行きちん    十円

一 婦人会のときのおるすばんちん  十円

     ごうけい  五十円   

                   進

       お母さんへ

お母さんは進君の貯金箱に五十円を入れ、翌日、進君が朝食を食べる席の机の上に、次のかんじょう書きを置きました。

一 高い熱が出てハシカにかかったときの看病代    ただ

一 学校の本代、ノート代、エンピツ代     みんなただ

一 まいにちのおべんとう代             ただ

一 さむい日に着るオーバー代            ただ

一 進さんが生まれてから、今日までのお世話代 みんなただ

                     ごうけい ただ 

                     お母さん

進さんへ

進君はこれを見たとき、胸がいっぱいになり大粒の涙をこぼしそうになり、泣くのをぐっとこらえ、それからは大好きなお母さんのために、どんなお手伝いもし、こんな素晴らしいお母さんを与えてくださった神様に心から感謝しました。という文章です。
進君はこの経験から改めてお母さんへの感謝の心を持ち、見返りのないお手伝いを喜捨することができ、お母さんもまた、この経験から見返りのない愛を進君に喜捨することが子供の心の成長に不可欠であることを実感したのです。このように感謝の心をベースとした、こだわりのない清浄なやりとりを本来の布施というのです。
陰徳もしかりです。相手は天地です。天地の心にこだわりはありません。そして、天地に今私は生かされているのです。喜怒哀楽を表現できます。太陽の恵みふとしたときに「ありがたい」と感じることもできます。人の親切に感謝することもできます。地球の美しい自然を見る目も与えてもらっています。芸術を創作する感性を与えられています。心臓も呼吸も免疫系も休まずに働いてくれます。宇宙の虚空をさまよう単なる塵にならず人に生まれ、心を持ち、愛を感じることができることは、本当に奇跡に近い程、素晴らしいことなのです。かけがえのないことなのです。天地に生かされて頂いていると表現したほうが適切かもしれません。「頂いている」のです。この「頂いている」という感謝の心が本当に実感されるとき、己へのこだわりが無くなり、自他との境界がとれ、はじめて「施して報いなき」善行、坦々と縁に応じ霊性心に従う行い、すなわち本来の陰徳を積むことになるのです。
日頃からの「感謝の心」が本当に大切です。ともすると日常に埋もれ忘却してしまい、与えられるものは皆、当たり前のこととしてしまう私達です。なんでも自分自分になってしまう私達です。でも氣が付けばいいのです。「見返りの心があるな」と感じたらその時点で「頂いている」と思い、「一点」と心身を正していけば良いのです。何回も繰り返しです。その繰り返しが貴重だと思います。さあ「人の見ざるところ」の行い、「報いを求めざるところ」の行いを今只今から実行してみましょう。「臍下の一点」をアドバイスするだけでもいいと思います。とにかく「陰徳」、只今よ
実行してみてください。


戦後の混乱の中で

 たった1度のまごころの実践が、その後、終生といっていいくらい相手を動かしつづけることがあります。 これは佐賀家庭裁判所の調査官・舌間一葦氏の、かつての勤務地・宮崎県延岡市での話です。

 氏は仕事の関係で時々帰宅が遅くなることがありした。その夜もいつもどおりの道を家に向かって歩いていましたが、大瀬川の橋のたもとまで来たとき、堤防に向かって合掌をする1人の老婦人に気づきました。初めはさして気にとめなかったようですが、月に一度は出会うので、この人は気がヘンなのではないか、と思うこともありました。しかしそれから1年が過ぎ、2年が過ぎてみると、何かしら真剣な姿として映るようになりました。

 ある日、舌間氏は思い切って、何をしているのですか、と聞いてみました。その染谷ミツという老婦人は次のような話をしてくれました。
「──私は3人の男の子を抱えて戦争未亡人になりました。空襲で焼け出され、掘っ立て小屋に住み、和裁仕立てで細々と生活していましたが、食べ盛りの子どもゆえに、着ることはもちろん、食べることにも行き詰まりました。一家心中を考え、昭和21年2月14日の寒夜、母子4人、空腹に耐えつつ川端にしゃがんでいました。

 そのとき、飢えと死相を見ぬいたのか、行きずりの復員服姿をした農村青年らしい人が声をかけてくれました。精も根もつき果て、生きる望みを失った私たちの様子を知って、その方は、妹さんの嫁ぎ先に持参する途中の、当時としては貴重な米1升を差し出し、『妹にはまたやる機会がある。今生の見おさめに3人の子に腹いっぱい食べさせてやってくれ』といい残すと、今来た方角の堤防に、名も告げずに、自転車で走り去っていかれました。時計はなかったものの、10時ごろかと思われました。

 死出の旅路で巡り会った見も知らぬ人の情けが身にしみ、帰って1升の米を全部炊き、20余りのおむすびをつくって子どもたちに食べさせようとしました。すると子どもたちが『明日のためにおかゆで我慢する。今いっぺんにおむすびを食べてはもったいない』といって、1個もとろうとはしませんでした。そこで初めて、“明日”ということにハッと気づき、おむすび4個をおかゆにして母子4人ですすって食べました。そのとき、死神につかれていた心に光が走り、生きるんだ! と思いました。そう思うと同時に1つの知恵が浮かびました。このおむすびをおかゆにしても1週間ともつまい、結局は死ぬしかない、それよりこれを元手に増やすことだ、と」

「あくる日の朝、駅前のヤミ市におむすびをもっていくと、またたく間に高値で売れました。そのお金をもって田舎でお米を仕入れ、またおむすびを売るということを繰り返しました。そうするうちに3人の子になんとか食べさせる余裕ができてきました。ほかにもいろいろなものを町と農村に行商してお金を得ました。やがて遺族年金ももらえるようになり、十数年後には子どもを全部大学にやり、家も新築しました。今では子どもたちも東京と大阪で立派に暮らしています。

 この幸せは、ただ1度しか会わなかった、闇でよく顔も分からぬ、名も知らぬ人のおかげです。その恩を忘れぬために、30年近く、毎月14日の晩10時ごろにこの場所にきて、今も印象だけは鮮明に残っているその後ろ姿が消えた跡に、感謝の祈りをささげているのです。──」

 舌間氏は大いに感動し、今なお50代で生きているかもしれない当時の青年、そしてこの老婦人の、
恩を売ることも、恩返しを求めることも、恩返しの行為を分かってもらうこともない互いの無償の行為に、人間の真実と善なるものの原点、美の極致がある、とつづっています(広池学園出版部発行『れいろう』52年9月号「心に残る話」)。そして最後の文章を舌間氏は次のように結んでいます。

「この老女は昨年死んだ。しかし、今もどこかで、誰かにより、このような陰徳がつつましく行われているに違いない。そう信じると私の心は豊かになり、生きていることに安らぎを覚えるのである」
 報いを求めない真実の心──まごころは、砂ばくのような世の中にオアシスのような潤いをもたらします。


『運』

 人として生きていく上で、運をつけていくこととは、具体的にどうすることなのかを子どもたちに伝えるエピソードである。

以下、エピソードを述べる。

1 オリンピックのファイナリストには実力差はないが、運の強さの違いはある
田口信教という水泳選手を知っていますか。
1972年オリンピック、ミュンヘン大会、平泳ぎの代表選手です。
100メートル男子平泳ぎで金メダル、200メートル男子平泳ぎで銅メダルをとりました。


以前、先生は田口選手の講演会で話をお聞きしました。
田口選手は次のように言います。
「オリンピックのファイナリストになれば誰が金メダルになってもおかしくはない。実力の差はない。しかし、金メダルになる人間は、いつも金メダルになる。そして、8位になる人間はいつも8位である。
実力差はないのに、不思議とこうなる。
実力以外の何かが、そうさせるとしか考えられない。」

また、次のようにも言います。
「金メダルと銀メダルでは、天と地ほどの差がある。
一般の人にはわからないと思いますが、たとえば、日本で一番高い
山は富士山ですよね。では、2番目に高い山は?

世界で一番高い山はエベレスト山です。では、2番目に高い山は?
このように、1番と2番では違うのです。
世界一位と世界二位では、有名さも、その後の経済活動などにも
差が出てくるのです。それで、オリンピック選手は金メダルを目指します。
しかし、本当に「運」としかいいようのないことが起きるのです。
ゴールのタッチが爪の差で、金メダルと銀メダルに決まってしまうこと
も、たくさん見てきました。」さらに言います。

2 田口選手が実行した運を強くする方法
「そこで、オリンピック選手になってから、どうしたらこの「運」というものを身につけるのか考え、実践しました。そして、金メダルをとったのです。」
田口選手は、どのようにして運をつけてきたのでしょうか。
彼は、オリンピックの代表選手の合宿所の生活のことを話してくれました。

それは一言で言えば、「善い行いをする」ということです。
ただし、田口選手がすごいのは、ただ善い行いをするのではなく、

人に知られないように善い行いをする

ということだったのです。
彼は、毎日、誰にも知られないように、合宿所の皿洗いを続けたそうです。合宿所のおばちゃんに見られそうになっても、うまくごまかしました。それから、落ちているゴミも人に知られないように拾ったそうです。
まわりをキョロキョロしながら、人に知られないようにサッと拾ったそうです。
このようなことを昔から次のように言います。

陰徳

「いんとく」と読みます。陰はかげです。徳とは善い行いのことです。
つまり、は、人に知られない善い行いのことです。
先生はこう思います。同じ善いことをするのなら、人に知られないほうがいい。
なぜか?
人に知られた善い行いのご褒美は人から来ます。「ありがとう」と言ってもらって場合によっては、御礼の品も受けますよね。人から直接ご褒美をもらったので、そこでお仕舞いです。

しかし、陰徳を積めば、ご褒美はおてんとう様から来ると思うのです。
陰徳は人が知らないので、人からはご褒美はもらえません。
だから、おてんとう様が、その人の「運」として貯金してくださると思うのです。


『愛別離苦』

「どうして人を殺してはいけないの」他愛も無い質問だが、生徒のこんな質問にも答えられない先生が多いと言う。というよりも、なぜこうした疑問を持つのだろうか?

戦後の復興から、文化住宅や集団住宅が多く立ち出した。人口過密都市には住居地を地上から上空に求められ高層マンションが乱立した。こうした住居は、たいていペットを飼うことは禁止されている。

昔なら、たいてい犬や猫がよく飼われていたものだ。そうした愛玩動物を子供の頃から見慣れた人間は、可愛がることを知っている。動物もそれに反応し愛される人間になついてゆく。そしていつしか寿命あるいは事故や病気などで命を落とす。愛したペットとの永遠の別れは本当に辛いものである。仏法ではこれを「愛別離苦」と呼び、四苦八苦の一つとされている。こうした経験を持つ人間は、命の尊さと儚さを思い知らされる。

一方、ペットの飼えないマンション住まいの子供たちは、動物を知っていても直接愛情を掛けることが出来ない。テレビゲームに熱中しては、登場人物が死んでもゲームオーバーから、ゲーム再開となれば、また蘇る。これで情緒という大切なものを培われるべき時に、バーチャルの世界にのめりこんでいって、本物の現実と仮想現実との境目が分からなくなってくる。

偏差値偏重の学歴社会は、IQを追い求めEQがおざなりになった。EQとは心指数ともいい、情操教育の事である。知識を追い求め、学業ばかりがよくても、結局競争社会の中にあって情操教育が培われる場が失われた。本物の命との触れ合いは、何物にも変えがたい情操教育である。

また、もう一つ大きな問題がある。核家族化されたことである。そのため祖父や祖母との日々の接触なくして、臨終を迎える。そこには愛別離苦と言われるほどのショックはなく、不存在感も普段の生活での共有空間が無いため、忘れられるのも早い。こうした事が身近な死を遠のかせ、命というものへの哀愁をなくしてしまわせている事だろう。

また、強烈な愛別離苦の体験をしていない人間は、その辛さに対する免疫も持たない。そのため、その苦に近づかぬよう、命との接触を避ける。引きこもりも命との触れ合いが少なかったために起こるのではないだろうか。

命の尊さを知らずに育てば、命を奪う行為さえも罪悪感を麻痺させてしまうのではなく、元々持つ事さえできないわけだ。「虐待」という行為は、ストレスを抱えた現代人が、その矛先を弱いものへと向けることで発散しているに他ならない。完全な畜生界である。