終章



【なにはさておき量子論 終章】

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私の気の向くままに書き進めてきた量子論であるが、最後に内容をまとめておこう。そうしないと、この読み物で何が言いたかったのかが、頭に残らない恐れがある。

   (1)電磁波であったはずの光がとびとびのエネルギーしか持たない。(プランク
   (2)水素原子電子は、ある決まった軌道しか取り得ない。(ボーア
   (3)位置運動量は同時には決められない、また時間とエネルギーも同様である。(ハイゼンベルク
   (4)電子は、時空間電磁場にする。(ファラデー
   (5)真空とは、あらゆる素粒子の負エネルギー状態で満たされている。(ディラック
   (6)あらゆる粒子は、観測されるまでは、波動関数という幽霊波である。(シュレーディンガー
   (7)波束の収縮光速度を超える。
   (8)この宇宙のあらゆる力は、それを媒介する仮想粒子によって発生する。

1942年、第2次世界大戦のさなか、イギリスの情報部はデンマークからの秘密通信により、ニールス・ボーアがドイツに連れ去られるとの知らせをうけた。イギリスはただちにボーアに対し渡英するようすすめる。
しかしボーアは迷った。中立国デンマークの理論物理学研究所は、曲がりなりにも機能を果たしている。若い研究者達を見捨てるわけにはいかない。彼は度重なる勧告を辞退して戦時下の研究所に通い続けた。

1943年8月29日、コペンハーゲンにドイツの戒厳令がしかれるに及んで、さすがのボーアも国外脱出の決心をした。スウェーデンのストックホルムを経由し、さらに軍用機の火薬庫に身を隠したボーアがイギリスに着いたときは、酸欠で失神状態であったという。

ボーアはイギリス在住の学者仲間あるいは政治家達に迎えられ、彼らの相談役になった。しかし、その彼とは無関係に、アメリカではマンハッタン計画が進行し、1945年8月、日本の広島、長崎に原爆が投下され、第2次大戦は終了する。この報告に科学者たちの思いは複雑であった。連合軍に幽閉されていたハイゼンベルクも、内心は「原爆は不可能」と考えていた(らしい)から、さぞかし驚きの念にうたれたことと思われる。

「相対論」には、華がある。知名度の高さというべきか。対して量子論は、内容が一般の人には解らない、という理由で疎遠である。人物中心に話を進めて来たこの読み物は、年代も話題も私がランダムに選択した。しかし、一通りの人物と話題は登場したのではなかろうか。(と思っているのは私だけ?)
極微の世界を見て、その特殊性を考えるのが量子論である。量子論がほぼ完成の域に近づいた第2次大戦のころに比較して、戦後は、量子論を用いて調べて行く対象が飛躍的に増え続けているのである。

その例を示そうとしたのが、最終章の「量子忍法」であった。今日、工学的に広く利用されている、金属や半導体の電子の様子などは、量子論なしには全く語れない。現代物理学の基礎は、量子論の基にできあがっていると言い切ってもよい。

特に物質の究極的要素を探し求める「素粒子論」の発達はめざましいものがある。そして素粒子の研究が壁につきあたるたびに、本当に量子論は正しいのか、という批判をあびた。しかし量子論は不死鳥のように甦った。はじめは、電子・陽子・中性子の3種しかなかった素粒子は、今日300種以上あると言われる。なんと原子の数より遥かに多いのである。これをどうやってまとめるかが「素粒子論」であり、あくまでそれを研究する手段は量子論なのである。

科学の進歩の激しい現代において、量子論は、ものの究極をみつめる思考として、きわめて本質的、普遍的である。戦争に翻弄されつつも幾多の先人達のつくったこの見事な理論体系に、我々も改めて驚嘆の目を向けたいのである。そして、量子論が決して我々に関係のない遠い学問などではなく、ごく身近な存在と感じてもらいたいのである。

   本章のエピソードは、都筑卓司氏著「10歳からの量子論」を参照いたしました。

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