第1章 素粒子論とは何か


【わかるまで素粒子論「常識編」 第1章 素粒子論とは何か】

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1.素粒子って。。。何?

『入門編』が曲がりなりにも完結しているのに今更何を言う、と叱られそうだが、この問いは繰り返されなければならない。それは、素粒子の定義、あるいは認識が、人によって異なるものであり、更にそれが決して個々人の過ちではないからである。
さすがに、分子を素粒子だと思っている人はいないと思うが、原子となると、これを素粒子と考えて問題ない人もいるであろう。いや、おそらくこの世の大部分の人は、原子より下のレベルの構造を認識していなくとも、生活に何の支障もないことだろう。そのような人にとっては、原子が素粒子であっていいのである。

しかし、どんな単純なものでも、電化製品を作ろうと思ったら、電子(という粒子)に登場していただかないと、何もできないであろうことは断言できる。つまり、原子は、原子核と、電子という構造を持つことを理解しなければならない。
原子がある規則を持って集合した金属内部には、特定の原子核だけに束縛されない自由電子というものがあり、外部からの電圧によって、これが動き回るのが電流というものである。
このように、電化製品を設計・制作する人にとって、電子は素粒子なのである。必要に応じて、人により、素粒子とは変わるのである。そして、そのことと劣等感とか優越感は無縁である。あなたが、今、何を素粒子であると認識していてもいいのである。誰に恥じることもない。

しかしながら、ここでひとつ提案をしたい。自分の生活に必要か、という要請で素粒子を定義してしまうのではなく、「ある粒子」が、それより下の構造は持たないのか、という疑問を追求する姿勢を大事にしていただきたいのである。これが、健全な好奇心というものであり、人間なんてものは、この好奇心を満たすために存在していると言っていいくらいのものである。

つまり、物体をより深く見ていったら、もうこれ以上の構造を持たないぞ、といういわば最下層の存在は何なのか、という議論は続くのであり、その最下層の「もの」を素粒子と呼ぶのだ。

簡単に言うと、「物体において、これ以上分割できない最小単位」を素粒子と呼ぶ

但し、これ以上分割できない、というのを、どう確かめればよいのか、そもそも、究極の素粒子なんて存在するのか、という疑問が今度は浮上して来ることだろう。最終的には、その辺が究極のテーマになりそうである。

余談
狭義の素粒子として、電子・陽子中性子の三種類を定義していることが多い。一般的な教科書や啓蒙書には、そのように書いてあるものが多いのである。その場合、クォークは、どうも素粒子とは呼ばないようなのだ。わたし的には、これが「素粒子」という言葉の混乱の元であると思っている。だからここで断っておく。この読み物では、陽子・中性子を素粒子とは呼ばない。(現在、電子は素粒子であると認識されている)


一言いいたい!





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2.素粒子を見る

素粒子とは、「物質において、その下に構造を持たない最小単位である」、と定義した。それでは、「これこそ素粒子である」と言うためには、どうやって物質(の構造)を追い詰めればよいのか、ということを考えてみたい。

そこで、原子は物質の最小単位でない、ということを、誰がどのように発見したのかを思い出してみよう。

そう、それを実験的に見つけた人は、ラザフォードという人物であった。(このいきさつは、「なにはさておき量子論 第1章」で説明している。興味のある人は読んでみて。)

ラザフォードは、アルファ粒子を金箔(ある文献には銀箔と書いてあったが、本質的な問題ではない。)へ照射してみたのである。大部分のアルファ粒子は、金箔を何事もなくすり抜けたが、ごく僅かの粒子が、何かにぶつかったかのようにカチンと弾かれた。このことから、原子とは、一様に拡がったものではなく、何か堅い「芯」を持つものだ、ということが分かったのである。

彼は、その「芯」に、原子核という名をつけた。この瞬間に原子核が見えたと言っていい。

さて、ラザフォードのこの実験が何を示しているのか考えてみよう。もったいぶった言い方をするつもりはない。繰り返しになるが、彼は、アルファ粒子で、原子核を見たのである。
この表現を、ちょっと奇異に感じられた方もいるだろう。しかし、我々が、例えば、テーブルの上のリンゴを見る場合と比較してほしい。

太陽から、あるいは電球からのが、リンゴに当たり、そこで反射した光が我々の目に入る。それを我々の目(網膜)というセンサーが検知して、脳が情報処理した結果、そこにリンゴがあると認識する。
ほら、同じでしょう。
ラザフォードは原子に、アルファ粒子を当てた。アルファ粒子は原子核で反射し、それを(アルファ粒子)検出器が検知、結果をラザフォード(の脳)が情報処理して、原子核が存在することが分かった。

話を一般化してみよう。
つまり、「何か」を見るという行為は、「何か」に適した粒子を、「何か」に照射し、その反射を検出器で拾って、情報処理するのである。これが、「何か」を見る、ということだ。
漫然と粒子を眺めていても、本質は見えてこない。能動的に粒子に働きかけなければならない。
それは、別の粒子と相互作用させるということだ。粒子と粒子が「かまいあい」をすることによって、粒子の状態が変化し、それを我々が知るから、粒子の存在を認識できるのである。
だから、粒子が、我々に認識できるということは、何か別の粒子と相互作用する、ということの結果なのである。だってそうでしょう。もし仮に、他の粒子と全く相互作用しない粒子があったとしたら、そんなもの、我々には存在しないも同じだ。それがそこにある、ということを知る手段が無いのだから。

それでは、素粒子を見るために適した粒子とは、何だろうか。
先ほどの例でもあげたように、人間は光(厳密には可視光線)で、物を見る。これはなぜだか考えたことがあるだろうか。実は、太陽から地球に届く光の中でも可視光線が最も強い(降り注ぐ量が多い)のである。偶然、その可視光線が人間に感知できたわけではない。最も強い光線だからこそ、それを利用して情報処理できるように体(目と脳)が進化したのだ。
つまり、可視光線は、我々が、身の回りにある物体を見るのに適した粒子であると言える。

それでは、X線はと考えると、こいつは、人体の透視映像を得るのに使われる。X線は、可視光と異なり、体表面で反射されず、体内へ潜り込む光なのである。
それでは、X線とは何かと調べてみると、可視光線よりも波長の短い光なのだ、ということが分かっている。光の持つエネルギーは、光をと見たときの波長に反比例して大きくなる。簡単に言うと、波長の短い光ほど大きなエネルギーを持つということだ。
つまり、照射する粒子(こいつは波でもある)のエネルギーが大きくなるほど、その粒子は、より物体の奥へ潜り込むことが可能になるのである。

そこで、物質のより微細な構造を知ろうとすれば、よりエネルギーの大きな粒子が必要になって来るのである。

一言いいたい!





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3.粒子の波動性

前項で、「照射する粒子(こいつはでもある)のエネルギーが大きくなるほど、その粒子は、より物体の奥へ潜り込むことが可能になる」と書いた。なんとなく聞き流してしまったかもしれないが、きちんと納得するために、この項と次の項に渡り、それを説明する。

そのためには、粒子と波というものを理解しておかなければならない。この項ではまず、それを取り上げる。
皆さんのイメージでは、粒子と波とは、はっきり別物であるはずである。

粒子というのは、簡単に言えば、粒(つぶ)である。(まんまである。)粒というのは、物質のイメージが強い。そこにある物質である。そのあなたの認識は、大きくは外れていない。

これに対して、波とは、いわゆる物質ではない。「ある状態」が空間を進んで行くもの、を言う。誤解を恐れず言い切ってしまえば、波というのは、粒子の集団の振る舞いがどんどん移動してゆく現象だ。

例えば、「水」というのは粒子である。液体じゃないか、と突っ込まないでほしい。液体だろうが気体だろうが固体だろうが、それは粒子からできている。「水」と呼ばれるものの最小単位は、分子である。記号で表せば、みなさんよくご存じの「H2O」。HとかOとか言っているのは、実は、原子である。「H2O」を、H(水素)やO(酸素)にバラしてしまえば、それはもう「水」ではなくなる。その意味で、「水」とは、「H2O」の粒子からできている。

次に、水面の波を考える。池に石を投げ込んでみればいい。水面は石によって乱され、静かな状態から外れる分子が出てくる。通常より高いところにいる「水」と低いところにいる「水」が現れるということを言っている。
そして、水の粘性により、その「高い」「低い」という「状態」が、隣の水分子へ影響し、その「状態」が移動(伝播)するのが、波だ。「水」という個々の粒子が進んでいるのではないことに注意してほしい。あくまで進んでいるのは高い低いという「状態」なのである。

そういうわけで、粒子と波とは、物理量としては別物である。

そこで、みなさんよくご存じの「光」というものを考えてみることにする。
歴史的ないきさつは別として、みなさんは、「光」を何であると思っているだろうか。

明治時代に、寺田寅彦という物理学者がいた。この人は、夏目漱石と知己があり、漱石は、その著書「三四郎」の中に、寺田寅彦がモデルであろうと思われる人物(野々宮さん)を登場させている。野々宮さんは、地下に籠もって、光線の圧力を研究している設定になっている。漱石が「三四郎」を新聞連載していたのは、1908年のことで、これは、アインシュタイン光電効果に関する論文で、光量子仮説を提唱して三年後のことである。寺田寅彦の助言もあったのだろうが、これはなかなか先見の明がある。

本来の波には、圧力というものはないのである。水面の波によって物が押される、ということはないのだ。水面上の木の葉は、波が通り過ぎるのに従って上下運動はするが、波と一緒に進むことはないのである。(サーフィンは何なんだという突っ込みがあるかもしれないが、あれは浅瀬で波が崩れるために海水の分子がなだれ現象を起こすためなのであって、純粋な波の現象とは違う。)
つまり、光に圧力があるということは、ものを動かす力を持っているわけで、これは光が運動量を持つことに他ならず、つまりは光は、粒子である、ということの証明なのである。

ところが、である。マックスウェルという物理学者がいて、1864年に、電磁方程式というものを発表しているのである。この方程式は、電気が変動すると磁気を生み、磁気が変動すると電気を生む、ということを導き出した。その当時知られていた電波というものが空間を伝わる原理を説明したのである。(つまり、電波という言葉は厳密には間違いで、「電磁波」と呼ぶべきであることが分かったのだ。)
驚いたのは、この後だ。この理論により、電磁波の速さを計算してみたら、それが299792458m/秒であることが判明した。あれ、どこかで聞いたことのある数値だなあ、と思ったら、それまでに測定されていた「光」と同じだと分かったのである。よーく調べてみると、なんと、「光」というのは、電磁波の一種であることが分かってしまったのである。

話は前後しているのだが、マックスウェルにより、「光」は電磁波という「波」である、と1864年に証明された。ところが、1905年になって、アインシュタインは、光電効果で「光」は粒子の性質を持つ、といことを言い出した。

このために、20世紀初頭の物理学会は大混乱になった。「光」は「波」なのか「粒子」なのか、いったいどっちだ、という大論争である。しかし、どう調べても、「光」には、波動性と粒子性の両方があるのだ。混乱ぶりを示すエピソードとして、「月、水、金」は「粒子」、「火、木、土」は「波」と決めようという説まで登場したという。(ちなみに、日曜は、「神に教えを請う」という落ちまでついていた。)

回答は意外な方面から現れた。ド・ブロイというフランス人が、電子は波の性質を持つ、ということを実験で証明してしまったのだ。ご承知の通り、電子とは、発見された当初から、明確に「粒子」として登場した物質である。それが何と、回折干渉という「波」でなければ絶対に示さない現象を起こすことが実験されてしまったのである。

結局、全ての物質は、「粒子」という側面と、「波」の性質を併せ持つ、ということが次第に認められて行った。(量子論の始まりである。)

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4.より微少な世界へ

前項で、「全ての物質は、「粒子」という側面と、「波」の性質を併せ持つ、という話をした。
この項では、それを前提に、より小さいものを「見る」ためには、何をすればいいか、という話をしようと思う。

「何か」を見るためには、「何か」に別の粒子をぶつけて、そこから出てくるものを情報処理するという話は既にした。それは理解してもらえていると思う。
ところが、ぶつけるべき粒子が、実は波の性質も持っているんだぞ、という展開があったのである。

ここで、波の基礎的な性質の話をしておこう。
「回折」や、「干渉」ほど難しい話ではない。「反射」の話である。

ずばり、核心を問うが、波が反射する条件とは何か、という話である。

池の中に棒が立っている。まあ、直径10cmくらいとする。池の端に大きな石を投げ、大波を起こしたと考えてほしい。波は池の表面を伝わって行き、棒のある場所に達したとする。
ここで、あなたは、大波がどうなると考えるだろう。この波は池に大きな波紋を描くほどのものだとしよう。さて、どうなるか。実験してみてほしい。簡単にできる。

結論は、大波は棒を無視する。
つまり、棒なんか関係なく波は進んでしまう。

では、次に棒の近くに指を突っ込んで、小さく揺すったらどうなるか?
いわゆるさざ波が立つ。容易に想像がつくように、棒の後ろへ波は行かない。つまり棒に向かった波は反射されているのだ。このことから分かるように、波長の短い波の方が、波長の長い波よりも小さなものを認識することができる。

もうひとつ例を挙げよう。
空が青い理由を考えてみて欲しい。これを理解するには、可視光線の中でも青いは波長が短く、赤い光は波長が長い、ということをヒントにしなければならない。
極簡単に言ってしまえば、波長の短い青い光は、空気の分子で反射(散乱)されるが、波長の長い光は、空気分子を無視して通り過ぎるから、が答えだ。散乱する光が青いので、空は青いのだ。

と、ここまで読んで、次の疑問を持った人がいると思う。

確か可視光線よりX線の方が波長が短いんだよなあ。あれ? 波長の長い可視光線が体の表面で反射されるのに、波長の短いX線の方が体内へ潜り込むのはおかしくないか?

空が青い説明と全然逆である。いったいこれはどういうわけだ。

ところが、これは矛盾ではないのである。理由を述べよう。
可視光線の波長は、分子や原子の大きさに近いので、分子や原子をある広がりを持った粒と捉えてしまうのである。そして、その広がり(大きさ)が、可視光の反射にちょうどいいのである。X線に比べ、波長が大きいが故に、原子に内部構造があるとは気づかず原子や分子で散乱されてしまうのだ。(簡単に言い切ってしまったが、本当は量子力学を用いて計算しなければならない。その意味では、古典的「波」の反射とはひと味違っているのだが、そこまで突っ込んだ議論はしない。)

ところが、X線くらい波長が短くなると、原子が原子として見えず、原子核電子の間の隙間が見えてしまう。つまり原子ではなく、原子核や電子が見えてしまう。そこで原子内部の隙間を通って、体の内部まで入って行くことになる。(但し、骨を構成するカルシウムのように、原子の周りの電子の数が多くなるとなかなか透過しづらくなるのだが。)

今、書いたことがこの項の主題である。
つまり、より波長の短い光の方が、より小さな隙間を認識できる、というのがこの項の主張だ。そして、波長が短い光ほど、粒子として見たときのエネルギーが大きい。

より微少な世界へ潜り込むためには、エネルギーの大きな粒子(波)を使わなければならないという結論になる。
これが、2項の終わりに書いた、「照射する粒子(こいつは波でもある)のエネルギーが大きくなるほど、その粒子は、より物体の奥へ潜り込むことが可能になる」の理由である。

一言いいたい!





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5.「理論」と「実験」

この章のタイトルはいったい何だったか確認しようとする人が出てきそうなので、あわてて言い訳をする。
そう、「素粒子論とは何か」で間違いはない。
それにしては、ずいぶん外れた話になっているではないか、と感じておられる方の気持ちもよくわかっている。それを承知で、もう少し「外れた」話を続けたい。

実は、「素粒子論」と言うと、それを理論物理の代名詞のように思っている人がかなりいるのではないか、と私は思っているのである。【入門編】を読んでいただいた皆様には、特にそのような印象を与えたのではないかとも危惧している。そこで、「素粒子論」とは理論だけではないよ、とここで改めて言っておきたいのである。

「理論」だけでないとすれば、もう一方に何があるのか。お気づきかと思うが、それは「実験」である。(広い意味で「検証」と言いかえてもよい。)これは、何も「素粒子論」に限った話ではない。物理学では、いかなる分野においても、「理論」と「実験」二つの側面があり、片方だけでは成り立たないのである。

「理論」が予言した現象を「実験」が確認する場合がある。同様に、「実験」が指し示す現象を「理論」が説明する場合もある。逆に言えば、どちらか一方でしか示されない現象というのは、不完全であると言い切ってよい。

「実験」が示した現象というのは、ただそれだけでは、同じ事がまた起こせる保証のないものなのである。もう一度同じ事を起こすためには、必ず「条件」が必要だ。これこれの条件の基で、この現象は起こる、という事実関係のことである。そして、これを取りざたした瞬間に、現象は、「実験」から「理論」へと引き継がれる。
ある現象を、間違いなく再現できる条件を明確にする、ということは、実は、その現象が起こるための「絡繰り」を探る第一歩に他ならない。

逆に、ある「理論」が予言しただけの現象は、それが「実験」的に確認されるまでは、どんなに高く見積もっても「仮説」でしかない。いや、もっと言えば「理論物理」とは、常に「仮説」である、という謙虚さを持つことが必要だ。

ひとつ例を挙げよう。アインシュタインが提唱した「相対性理論」である。
多くの人が誤解しているので、ここは強調しておきたいのだが、「相対性理論」というのは、アインシュタイン個人が、一から作り上げた「理論物理」ではない。実は、「光速度不変」という実験事実を説明するために作られた「仮説」なのである。

余談
こんなことを書くと、「相対論は間違っている」と主張する人々のことを思い出す人がいると思うので、補足しておく。
「相対論は間違っている」(と主張する)人々は、「相対論」を「仮説」だなどとは、これぽっちも考えていない。「『相対論』という現代の物理学会が認めている理論物理が間違っていて、私の主張する理論こそ「相対論」を超えて正しい」といいたいだけの輩である。


閑話休題
なぜ、これを強調したいかと言えば、現代物理学会は、「相対論」ですら、「仮説」である、という姿勢を持ち続けているからだ。「相対論は間違っている」人々は全然理解していないが、「相対論」の「検証」は、今でも続いている。「相対論」に矛盾する現象が「実験的」に見つかった瞬間に、「相対論」に代わる新しい理論探しが、すぐに始まるだろう。そんな事実が「実験」で見つかっていないからこそ「相対論」は生き続けているのだ。

「実験物理」を軽々しく扱わないでもらいたいのである。「素粒子論」における、いわゆる素粒子探しは、「理論」においてのみ行われているのではない。より根源的な粒子を「見よう」とする「実験物理」にこそ、本質があると言ってもよい。そこを間違って欲しくなくて、「より小さい素粒子を見る」手段の話をしてきたのである。

一言いいたい!





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6.素粒子探し

この章の結論を言っておこう。
素粒子論とは、素粒子を探すことである。

前項で言ったとおり、「素粒子探し」には、「理論」「実験」の双方が不可欠である。
但し、現実には、現在の「素粒子探し」は、どちらかと言うと、「理論」が先行しているきらいがある。実験物理がさぼっている訳ではない。実は、「理論」を検証するための実験設備の精度(というか規模)が、実態に追いついていないという現実があるのだ。

まず、「素粒子を探す」には、どうすればいいか、を整理しておこう。
あなたの前に、一個の石があるとする。この石が、究極には何からできているか知ろうと思ったら、あなたは何をする?
最初は、金槌を持ち出して、石を割るだろう。石は細かい破片になる。この破片の一個一個が、石を構成する物質であることは確かだ。更に砕いて行くと、石はもはや破片というより、粉になる。
粉の一粒は、小さくなりすぎて、目では見えなくなる。そこであなたは、顕微鏡を持ち出して、粉状の石を観察する。(現実には、非常に薄い石のスライスを作って観察するだろうが、まあ同じ事だと思ってほしい。)
しかし、顕微鏡という裸眼以外のサポート器具を用いても、可視線で物を見るには限界がある。大体、可視光の分解能(2点を判別可能な限界)は、200nm(ナノ・メートル)と言われている。1nmは、(10-9mである。)いかに性能のいい顕微鏡を用いても原理的に、これ以上の細部は判別できないのだ。これは可視光の波長が、その程度の長さだからである。

そこで、どうするか。例えば電子顕微鏡というものを使用する。電子として見たとき(粒子の波動性を思い出して)、その波長は極めて短く、分解能は、0.1nm(10-10m)程度になる。これで、原子レベルの大きさが見えることになる。

原子まで見えたら、それでOK。もういいよ、と言わずに、原子は何からできているか、を考えたとき、ラザフォードは、アルファ線を用いて、原子は芯(原子核)を持つことを突き止めた。アルファ線とは、ヘリウムの原子核であるから、原子核を見るためには、原子核が必要だったと言いかえてもよい。

振り返ってみよう。やっていることは、要するにより小さい金槌で、物質を叩いている、ということだ。常識で考えた通りで問題ない。小さな物を観察しようと思ったら、より小さな「もの」で、そいつを叩いてやらないと、そいつが何者か分からないという訳だ。

さて、もう一つ思い出してもらいたい。小さい「もの」というのは、簡単に言えば、波長の小さい波である。そしてそれは、大きなエネルギーを持つのであった。逆に言えば、エネルギーの大きな波を使わないと、より小さいものを叩くことができないのだ。

「理論」は、様々な基本粒子(素粒子かもしれないし、そうでないかもしれない。)を予言する。しかし、その基本粒子を実験で確認するためには、より大きなエネルギーが必要になるのである。

「素粒子論」とは、新粒子予言「理論」と、新粒子確認「実験」設備の双方なのである。

以下、次章  一言いいたい!