第6章 相対性・浪漫


【わかっても相対論 第6章 相対性・浪漫】

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1.双子のパラドックス

この章からは、もう理解を忘れて、相対論で、おもいっきり遊んでしまおうと思う。

とりあえず、有名な「双子のパラドックス」を提示する。
「双子のパラドックス」を話そうとすると、まず出てくるのは「ウラシマ効果」である。「ウラシマ」とは浦島太郎のウラシマである。

「ウラシマ効果」は、SFでも、頻繁に使われている。「猿の惑星」(リメイクのほうは私は知らない。チャールトン・ヘストンが出たオリジナル版である)でも、背景には、この「ウラシマ効果」がある。

つまり、光速に近い速度で宇宙旅行をして来た人は、あまり年をとらないのに、地球では、とてつもない時間が過ぎている、ということを言ったものだ。「ウラシマ効果」とは、言い得て妙である。外国の童話にも、これに類する話があるそうである。

さて、この「ウラシマ効果」ってのは、真実なのであろうか? ものすごく速いスピードで宇宙旅行をして帰って来ると、地球では、何百年、何千年も過ぎ去るという事である。

「ウラシマ効果」が「双子のパラドックス」のキーワードである。「パラドックス」とは、日本語で「逆説」であるが、要は、なんかおかしいぞ、という話のことだと思えばいい。

「ウラシマ効果」が正しいということを前提において考える。しつこいが、高速度(光速度にかなり近い速さ)で、宇宙旅行をして地球に帰って来ると、地球では、自分より遥かに時間が過ぎている、ということが正しいとする。すると、次のようなことを言う人が出てくるのは当然のことである。

特殊相対論では、自分と相手の立場は同等のはずだ。双子の兄弟がいて、弟が地球に残り、兄が宇宙旅行に出るとする。すると地球の弟が宇宙の兄をみて、兄の時間がゆっくり進むことは理解している。だが、同じ相対速度なら、兄が弟を見たって、弟の時計が遅れて見えるはずだ、それが、特殊相対論の結論であったはずだ。極端なことを言えば、兄に対して、地球と弟が反対方向に宇宙旅行をして帰ってきても状況は変わらないはずだ。その時は弟の方が歳をとっているのか?

ところが、「ウラシマ効果」が立ちふさがる。現実に会ってみると、弟の方が、年をとっている(どころか、場合によっては、弟は既に故人になっており、弟のひ孫に出会うかもしれない)、というのが真実だと主張するのだ。

どちらかは誤りのはずである。さて考えてもらいたい。

一言いいたい!





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2.ウラシマ効果

さて、種明かしである。
簡単に言うと、前項で書いた、「高速度(光速度にかなり近い速さ)で、宇宙旅行をして地球に帰って来る」という設定は、実は、特殊相対論だけでは語れないのである。
キーワードは、「加速」。「加速」が入って来ると、これは一般相対論の話になる。「等価原理」を思い出そう。「重力質量」と「慣性質量」は同じ、すなわち、「重力」で引き合う力と、「加速」による見かけの力は、区別できないのである。

えっ、兄が乗ったロケットは、どこで「加速」してるんだ? と思う人、ロケットは、地球を出発して地球へ帰って来るのだ。すくなくとも、どこかで引き返さなければならない。とすれば、光速に近い速さから減速し、いったん止まって、また光速に近い速さまで加速しなければならない。これは、地球を出発した直後、光速に近い速さまで加速するとき、及び、地球へ帰還して、光速に近い速さから減速するときも同じだ。

従って、加速系では、歪んだ時空間内をロケットは走る。近似的に慣性系とみなせる地球から見たとき、歪んだ空間を走るロケット内の時間はゆっくり流れる。

たしかに、ロケットは途中で光速に近い慣性系になり、このときは、特殊相対論を適用できるが、相手が光速に近い場合、一般相対論による空間の歪みのための時間の遅れは、特殊相対論による時間の遅れの効果を遥かに凌ぐのである。

「加速」するとき、と「減速」するときで、一般相対論による歪み効果は打ち消し合うのではないか? と、思った人がいるかもしれないが、加速であれ減速であれ、慣性系の地球から見れば、それは「加速(速度の変化)」なのであって、それを地球から見れば、時間は遅れる。

次の問題。

これは純粋に特殊相対論の問題である。

地球から10光年離れたところにA星があるとする。
いま、光速の99.9%の速度で、Bロケットが地球の横を通り過ぎたとする。(だから加速はない)
さて、Bロケット内にいる人にとって、地球から、A星にたどり着くまで、どのくらいの時間が必要だろうか。

一言いいたい!





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3.相対論マジック

ローレンツ因子を計算してみよう。

   γ=1/√(1-v2/c2)

の”v”に、”0.999c”を入れてやればよい。光速のX%という言い方をすれば、光速cはこの式内で、約分されて消えてしまう。

   γ=1/√(1-0.9992)≒22.366

である。
ロケットに対して地球とA星は静止していると考えると、ロケット内から見た地球〜A星間の距離は、ローレンツ因子で割ったものとなる。従って、

   星間距離(光年)=10/γ=10/22.366=0.447(光年)

この距離を、ロケットは、光速の99.9%で走る。
光速は、1光年/年という速度である。
従って、

   星間を走る時間(年)=(距離)/(速度)=0.447/0.999=0.448(年)≒164(日)

約164日で、10光年を走ってしまう。
なんか変? 光ですら10年かかる距離を光速の99.9%で走るロケットは、たった半年たらずで走ってしまう。
「距離の縮みだけを考えて、時間の短縮は考えていないではないか」と思う人、もう一度思い出してほしい。距離や時間が変わって見えるのは、あくまで相手だ。ロケットにとって、星間距離は、相手だ。だから縮む。しかしロケット内の時間は、ロケット内の人にとっては、変わらない。従ってこれが真実であり、特殊相対論の結論だ。
だが、地球にいる者にとっては、星間距離は縮まないし、ロケット内の時間が遅れて見える。だからロケットは10年以上かかってA星に到着する(というか、A星の近傍を通り過ぎる)。これで何の矛盾もない。

勘違いしないで欲しい。特殊相対論だけで押し通すと、地球にいる者は、二度とロケットに乗っている人に会うことはできない。光速の99.9%の相対速度で、遠ざかり続けるだけである。加速運動(引き返す)をとらなければ、現実に両者の違いを突き合わせて比べることはできない。それが特殊相対論だ。

さて、光速の99.9%で走ると、周りの星間距離は1/22.366に縮んでしまうのであった。これは、地球とA星だけの話ではない。ロケットに対し、静止系と見なせる宇宙の星々は、全てこの割合で縮んでしまう。これは何を意味するか?
光速の99.9%で走っているロケットから外を眺めて見ようではないか。何が見える? そう宇宙が1/22.366に縮んで見えるはずである。
はっ?何じゃそりゃ、と思う人、想像力を働かせよう。全天の星々は、全部自分の真横へ集まって来るように見えるだろう。光速の99.9%くらいなら、まだ全天が1/20程度だから、まだ宇宙は楕円球に見えるだろうが、もっともっと光速に近づけば、急速に宇宙は自分の真横に集まって行き、極限の光速では、全てが自分の真横にあり、宇宙の厚み(?)は、進行方向に対してゼロになる。

これはもはや進んでいるとか、いないとかいう状態ではない。だから、物質は光速になれないのである。(もし、ロケットが加速していたら、この現象は、もっと顕著に見える事だろう。横方向から来る光は、加速度を含んだドップラー効果により、プリズムを通したように別れて虹色になるとの説もある。)このとき周りの宇宙は、自分の真横に全て存在するのであり、前方に「特異点」はない。前方も後方も宇宙の外である。

光に持たせた時計は進まない。なぜなら、自分が進む方向への距離は常にゼロだからだ。したがって、光の立場に立てば、宇宙は存在しない。時間空間も感じられないからだ。光として生まれなくてよかったねえ。

一言いいたい!





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4.重力場の量子化

アインシュタインは、重力場を幾何学で記述し、その結果として重力あるいは加速による力は、「空間が曲がっていることによる錯覚である」と表現し、その曲がった空間に身をゆだねている物体の行動こそが自然なのである、と言ったのであった。

ところが、量子力学における「近接力」の考え方では、捉え方が異なる。この辺の統一がなされていないので混乱するのではないかと想像する。よって、この項では、量子力学が重力をどう見ているのかを述べてみる。これは、アインシュタインとは別の考え方である。

第5章の2.項『「場」とはなにか?』で書いたことの続きと思ってもらいたい。
今度は電磁場ではなく、重力場というものを考える。難しくない。電磁場と話はほとんど同じ。

重力場は、「質量」を持つ物質が発する仮想粒子が作る、と考える。この仮想粒子を、「重力子(グラビトン)」と呼ぶ。そして、仮想重力子が飛び交う場所を重力場というわけだ。間違わないでほしいのは、質量を持つ物体が、重力子を放出するわけではない。あくまでも仮想重力子を呼吸しているのである。従って、仮想重力子の飛び交う場に質量を持ってくると、重力が働くところを重力場と定義する。

ここで、ちょっと道草。電磁波を発生させる方法を知っているだろうか? 例えば電波。ラジオでもテレビでも良いのだが、原理としては、以下の様にして、電波を発生させる。

空中に張った針金(これをアンテナと呼ぶ)の両端の電圧をめまぐるしく変える。そうすると、針金を構成する金属内の電子が、激しく揺さぶられる。電子は、荷電粒子だから、仮想光子を身にまとっている。これが激しく揺さぶられると、仮想であった光子が電子について行けずに空間に放出される。この仮想から実態に変わった光子が電波である。


話を戻す。同じ事が、仮想重力子にも言える。
膨大な質量を持った星が、激しく揺さぶられる(星が揺さぶられるとは、どんな現象じゃ!と驚くかもしれないが、連星というものがあって、大きな質量を持つ星が互いの重心の周りを巴になって回っている星がある。このとき、その星は、ものすごい加速度運動している。)と、星の質量について行けなくなった仮想重力子が、実態となって飛び出す。これが重力子であり、重力波である。

光子それ自体は、電荷を持っていない。だって持っていたら、光自身が仮想光子を発生させて収拾がつかないでしょ。同様に重力子は、質量を持ってはいけないことになる。質量を持たない、ということは静止質量がない、すなわち光同様に、どの慣性系から見ても一定速度で走るしかない、というところまでは予言できる。そして、それが光速に等しいことも予測できるが、まだ観測されていないため、あくまで推定である。

そもそも、重力の及ぼす力の弱さは、電磁気力と桁違いである。
えっ感覚的には、重力のほうが強く思えるって? いいえ絶対そんなことはない。なぜなら、重力というのは、質量が地球ほどあって、やっと空気を引きつけていられるほど小さい。(月は、質量が小さくて大気を持てない。)
それに対して電磁気力は? 原子は、電子と陽子が同じ数あってできている。だから原子一個はちょうど電気力がプラスマイナス打ち消しあって見た目には電気を感じない。ところがほんの少しバランスを崩してやっただけで、人間が目に見える大きさで、物がくっつき合ったり、反発したりするのだ。その力の違いは、重力は、電磁気力の10-40倍である、という程の小ささである。
だから、この重力子は、未だ発見されていないのだ。

質量はエネルギーと同じだと言った。したがって、重力はものすごいエネルギーからほんのちょっとしか出てこない。これに対して我々が電磁気力を体感するのは簡単だ、電磁石でかなり大きな鉄のかたまりをぶら下げることができる。

電磁場と重力場の大きな違いのもうひとつは、力の種類である。電磁場には、引力・斥力があるが、重力場には引力しかない。なぜであるかは、神様にしかわからない。

一言いいたい!





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5.ビッグバン

さて、いよいよ宇宙の話に入って行く。ここからが相対論の醍醐味と言ってもよい。
但し、ひとつ注意事項。この章に入ってからは、相対論で遊んでしまえ、ということで、あまり理論的展開にこだわらずに書いてきたが、ここからは、その傾向がさらに顕著になる。なんったって相手は宇宙なのだ。まだまだわかっていない分野である。私の話の脱線もあるかもしれないが、それ以上にまだ未検証の分野である。ここに書くことは、いろいろな説がある中のひとつ、であると思ってもらいたい。

もともと一般相対論は、二つの方程式(第5章、3.項)を解くことによって得られるものである。しかし、「連立偏微分非線形方程式」だから、解くための初期条件の与え方により、結果はかなり違ったものになる。

当初、アインシュタインの「重力場の方程式」には、『宇宙項』なるものがあった。この『宇宙項』をとってしまうと、この宇宙は、とても不安定になり、今の形状を維持していられなくなるのだ。アインシュタインは、この宇宙を静的なものとするために、『宇宙項』を導入した。

ところが、ハッブルという人が、宇宙の星々を観測し、そのドップラー効果から、この宇宙の星は、全て(例外なく)地球から離れつつあることを発見したのである。この意味するところはなにか? 地球が、全ての星々の中心にいるのか? これでは、あまりに話ができすぎである。
風船の表面は2次元の曲がった空間であるが、風船が小さいときに、その表面に一様にマジックインクで星を書く。そして風船をふくらませる。すると風船の中のどの星から見ても、全ての他の星は自分から離れつつあるように見える。これと同じ理屈で、この宇宙空間は、境界のない有限なもの、ということが想像できる。つまりどの星にとっても自分が宇宙の中心である、ということだ。

それが、離れつつあるのだから、この宇宙は膨張していることになる。つまりこの宇宙は、静的ではなく、膨張する宇宙だったのだ。アインシュタインは、この事実を知って、直ちに、『宇宙項』を取り去ったという。

この宇宙は膨張していることが確かになった。とすると、時間を遡ると、宇宙はもっと小さかったことになる。それを極限まで突き詰めれば、宇宙は一点に収斂してしまうことになる。この宇宙の(質量を含む)全てのエネルギーが、一点に集まってしまうのだ。逆に見ると、宇宙は、一点(小さな小さなエネルギーの塊)が膨張してできたことになる。
このエネルギーの塊が膨張をはじめた初期の宇宙は、さぞものすごいものであったろう。で、この宇宙のはじまりを、ガモフという人が「ビッグバン」と名付け、これが定着してしまった。この宇宙は、ビッグバンに始まり、それ以来膨張を続けている。

考えてもみてほしい。この宇宙の全てが一点にあったのだ。それは、エネルギーの塊であり、分子や原子、いやあらゆる素粒子も存在しない、とてつもないものである。当然質量なんてなかったものと思われる。
誰だって聞きたくなる。ビッグバンの前は、どうなっていたんだ?

物理学者は答える。その始まりには、時間すらなかった、と。「時間がない!」とほうもない物言いである。
これはどう考えても、物理学者の言い訳としか思えない。でも、空間が一点に収斂しているのに時間が定義できるか? と物理学者は言い返す。それを言われると、なにも言えなくなる。私だってよくわかんない状態である。

とにかく最初にビッグバン(だけ)があったのだ。聖書にいわく、「初めに光りあり」と。これはビッグバンのことだ、という人もいる。

とにかく宇宙は膨張をはじめた。そして今の宇宙がある。

一言いいたい!





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6.宇宙の果て

宇宙の果てを考えよう。「果て」にはふた通りの考え方がある。

   (1)宇宙を移動して行ったら、どこかに果てはあるのか?(空間的な果て)
   (2)いつか、この宇宙が終わることがあるのか?(時間的な果て)

まず「空間の果て」について考える。前項で、「この宇宙空間は、境界のない有限なもの」と、私は書いた。ここで「境界のない」とは、どういう意味かを再度検討する。

ちょっと想像するのが難しいのだが、風船の表面(これは2次元)を3次元空間に拡張して考えてもらいたい。2次元である球の表面にいる生物は、どこかを出発点にして、真っ直ぐに(測地線=大円)歩いて行くと、いつかは元の場所に戻って来る。これは理解できると思う。つまりこの2次元空間(球の表面)は、有限(の表面積)なのに、境界がない。

これと同じことを宇宙空間でも考えると、宇宙のある点を発した光は、限りなく広がって行くが、長い長い時間の後に、元の場所に集まってしまう言うことだ。つまり空間が曲がっているので、光は巡り巡ってもとの場所、つまり、この宇宙は有限の体積を持つ空間であるが、境界はない、ということである。
これは、この宇宙の外というものが、仮にあったとすれば、そこは空間ではない、ということだ。

次に「時間の果て」を考えよう。前回、「この宇宙は膨張している」と、私は書いた。とすれば、考えられる宇宙の結末は二つ。
一つ目は、いつまでも限りなく膨張し続ける、ということだ。但し、有限の宇宙が膨張し続ければ限りなくその密度はゼロに近づく。そのうち、夜空には、星が輝かなくなる、と想像される。但し、その時まで地球があれば、の話だが。

二つ目は、今は膨張しているが、どこかでこれが収縮をはじめる、ということだ。「輪廻」という東洋的考え方から行くと、こちらの方が納得しやすいと思う。つまり万有引力が、膨張する力をどこかで上まわり、そのうち星々は近づきはじめ、それはどんどん加速し、最終的(?)には、この宇宙は、一点にまで縮む。

私の主観は、二つ目の説を好む。一点に縮んだ時を、「ビッグクランチ」と呼ぶ。「ビッグバン」の反対だ。ところが、これで宇宙は終わらない。ビッグクランチは、再び、ビッグバンに繋がる。この膨張・収縮が繰り返される、というのだ。

誰もこの全てを観測する者はいないので、あくまで、これは理論にすぎない。現在宇宙がどのくらいの加速度で膨張しているのか、そして宇宙の質量密度がどのくらいであれば、膨張が収縮に転ずるかの値というものが計算されているが、近年までこれはぎりぎりどちらかわからないものであった(らしい)。ところが、中性微子(ニュートリノ)と言った方がわかるかもしれない)が質量を持つことが、最近判明し、この宇宙はどうも収縮しそうだ、という話が出てきたのである。

余談
2006年現在、最新の観測によれば、この宇宙は、曲率ゼロの平坦な宇宙である、という説が有力視されて来ており、そのばあい、宇宙は絶対零度に向かって永遠に膨張を続ける、というシナリオになる(そうだ)。私個人的には、採用して欲しくない説である。


何はともかく、私の好きな説を纏めてみると、
   (1)この宇宙は、空間的に閉じている。(有限で、境界がない)
   (2)この宇宙は、時間的に閉じている。(膨張と収縮を繰り返す)

ということになって欲しい。

若干この意味とは、異なるのであるが、閉じた時空間アインシュタインの方程式を解いて、予言した人がいる。その人の名は、ド・ジッターという。かなり笑えますね。時間的にも空間的にも閉じた宇宙を提唱した人が、ド・ジッターだなんて...

一言いいたい!





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7.ホーキングの宇宙

ホーキング以前の宇宙は、あくまで、ビッグバンに始まりビッグクランチに終わるものであった。何を言いたいかというと、ビッグバンの始まりの瞬間と、ビッグクランチの終わりの瞬間は、あくまで、「無限大」が跋扈する極めてへんてこりんな時空間であった。何が無限大? エネルギー密度が無限大、時空間の曲がりが無限大、時間空間が定義できない、という妙な瞬間である。これを数学の言葉で「特異点」という。数学では許されても、物理はそんなへんてこりんなものを許さない。

ここに登場したのが、車椅子の物理学者、ホーキングである。

だが、ここからの説明は、それこそ「絵にも描けない」話になる。みなさまの精一杯の想像力を発揮していただくしかない。
膨張宇宙を話したときに、球の表面を例えに使って、これを3次元空間に拡張して、「有限だが境界のない」空間を想像してもらった。今度は、地球に似た球形を考えてもらって、その緯度線(1次元)を3次元空間と考えてもらいたい。そして北極から南極へ向かう地軸を時間としてもらいたい。そうすると、北極点がビッグバンになる。そして、緯度を南下して行くにつれ宇宙は膨張する。赤道で最大になると、今度は収縮に転ずる。このへんうまく想像してね。そして、南極点がビッグクランチである。
このモデルでは、北極点で始まり南極点に終わる宇宙を考えたわけだが、よーく見てほしい。北極点も南極点も、球面上では、なめらかな点のひとつにすぎない。特別扱いする必要はない、というのがホーキングの主張だ。
ホーキング以前のモデルでは、南極と北極がとんがっていた(特異点だった)のである。

数学的には、「経路和」というものを使って表現する。(この「経路和」を編み出したのは、ファインマンという人で、この人は図を描いて物理問題を解くことが得意であった。このあたりの挿絵は、彼に描いてもらうしかないかもしれない。が、彼ももうこの世の人ではない。)

地球をモデルにした説明は、比較的わかり易かったと思うが、ビッグバンの前、ビッグクランチの後はどうなってるんだ、という疑問は残る。実は、ホーキングは、ビッグバンの前、ビッグクランチの後は、虚時間であると言ったのだ。このことにより、宇宙の始まりと終わりを「特異点」ではなくしたのである。

なんだか、私には、特異点より不思議な例えではないかと思うのだが...
実は、ここから先は、ホーキングが言ったわけではない。あくまでホーキングは、宇宙の始まりと終わりは特異点ではない、と言ったのみである。

虚時間であってもよい。ただ物理では、そんな虚時間は、経験することはできないのだから、次のように考える。
ビッグクランチの瞬間に、頭の中で地球儀をひっくり返してもらいたい。南極(ビッグクランチ)は特異点ではないのだから、するっとそこを通り過ぎて、実時間に沿って跳ね返る。と、それがビッグバンになる。考えやすいですね。私はこの説を支持している。

他にもいろんな説があるぞ。

虚時間にとけ込んだ宇宙には、距離(空間)というものがなくて、初めと終わりが繋がっていたってかまわない。ちょっと暴利暴論のような気もするが、そう考えても良い。だから虚時間を経て、ビッグクランチがビッグバンに繋がっている、という説。

もっとすごい説があり、虚時間の海からは、いくつもの宇宙が生まれ(ベビー・ユニバース)、消えてもかまわない、という人もいる。我々の宇宙とは事なる宇宙が、無数にあっても良い、というのである。虚時間の海からは、泡のようにどんどん宇宙が生まれては消える...

ここまで来ると、何を言ってもかまわない、と言う気がしてくる。ただし、プロの物理学者は、数学的裏付けをもって、各種のモデルを作っていることをお忘れなく。好きかってな説で通用する訳ではない。

なんといっても、宇宙モデルは、実験による確認が不可能である。

次回は、宇宙の「膨張期」と「収縮期」になにが起こるか、を考える。

一言いいたい!





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8.マックスウェルの悪魔

うーむ、相対論の話で、「マックスウェルの悪魔」まで登場するとは、自分でも思っていなかった。だんだん物理のどんちゃん騒ぎのようになってきたぞ。

熱力学の第1法則が「エネルギー保存の法則」だと言えば、即座に理解してもらえると思う。では、熱力学の第2法則とはなにか?

ぱっと答えられる人、いるだろうか。いたら手をあげて。ほうほう、結構手が上がった。

では、問いを変えてみよう。もし熱力学の第1法則しかなかったら、何が起こるか。あら、手が上がらないね。

   (1)ストーブの上でヤカンの水が凍る。
   (2)50度のお湯2リットルが、0度の水1リットルと100度のお湯1リットルに別れる。
   (3)地上の石が、何もしてないのに、上空へ飛び上がる。


上記、三つの例は、どれも「エネルギー保存則」には違反していない。

   (1)ストーブの炎の温度が少し上がって、ヤカンの中の水の熱を奪えばよい。
   (2)普通は、0度の水1リットルと、100度のお湯1リットルを混ぜれば、50度のお湯2リットルになるわなあ。
   (3)地上(大地)から熱を奪って、石が位置のエネルギーを得ればよい。


ところが、こんなことは現実には起こらない。これを言ったのが、熱力学の第2法則。

でも、熱力学の第2法則って何なのだろう。本当にそんな法則が存在するのか? もしかしたらこれを破る現象が起きないか? という事を考えたのが、マックスウェルという人。これは、電波も光も電磁波だ、と言うことを発見したあのマックスウェルと同一人物である。彼は、次のような小人を考えた。

50度のお湯2リットルがある。そのいれものの間に仕切りを作る。で、その仕切りに小さな扉をつける。小人は、その扉の開け閉めだけができる。それ以外のことはできない。扉の開け閉めは非常にスムーズに行われるので力を要しない。従って小人は別にエネルギーを使って、仕事をするわけではない。

さて、50度のお湯2リットルと言っても、水の分子を一個づつ見れば、様々な速さを持ったものの集合である。速く走っている分子もあれば、遅く走るものもある。ただ、その数が膨大なので、平均して、お湯2リットルになっている。ここまではよいだろうか。

小人は、とても小さくて、水の分子一個一個を見分けることができる。そこで小人は、次のことを行う。
仕切の右から走って来た分子が速ければ、扉を開けて、その分子を通す。左から来た分子が遅ければ、扉を開けてその分子を通す。
行うのはこれだけである。さっきも言ったように、小人は仕事をしているわけではない。

しかし、その結果何が起こるか。仕切りの右は遅い水分子、左には速い水分子が集まってくるだろう。これは、とりもなおさず、右側の温度が下がり、左側の温度が上がることになる。つまり最初に言った(2)が起こる。

エネルギーも使わずにこんなことをしてしまう小人をマックスウェルは「悪魔」と呼んだ。

この宇宙には、様々なエネルギーがある。しかしエネルギーには、質の善し悪しがあるのだ。だいたい次のように言える。

位置のエネルギー > 運動エネルギー > 熱エネルギー

なぜ、上記のようなことが言えるのか? それは、ほうっておけば、上記の逆が起こらないからである。空中にある石は、手を離せば、落下する。このとき、位置のエネルギーは、運動エネルギーに変わって行く。そして、地面にぶつかると、石は停止して、周りの地面の温度を多少上昇させる。これが最初の(3)である。普通にはこれの逆は起こらない。

違う温度のものを接触させておいておくと、熱はかならず、暖かい方から冷たい方へ移動する。これが上記の(1)である。

ところが、マックスウェルの悪魔が存在すると、エネルギー保存則を破らずに、これが起こってしまう。

ちょっと脱線するが、次の内で、最も効率の良い発電手段はどれか?

   (A)火力発電
   (B)水力発電
   (C)原子力発電

答え。(B)の水力発電。えっと思った人、上記三つのうち、(B)の水力発電だけが、熱を使わずに発電している。火力は当然として、原子力発電だって結局は、発熱したエネルギーで、蒸気を発生させ、それでタービンを回している点では同じだ。熱エネルギーは一番質の悪いエネルギーだから、エネルギー効率も悪い。


ある日のことである。朝目が覚めたあなたは、朝日の差し込む寝室から外の木立と青空を眺めて、こんな天気のいい日は、のんびりと散歩でもしたいなあ、と思う。まあ一日くらい会社を休んだっていいだろう、と考え、休みを取る。普通のことである。ところが「マックスウェルの悪魔」は、非常に沢山いて、日本中の全ての会社員の耳元でこうささやく。「こんな天気のいい日に働くなんてバカだよ、お前一人くらい休んだって大丈夫だ、今日くらい休みなさい。」
かくして、日本中の会社員は全員会社に出てこない。とんでもない日が発生する。
てなことは実際にはない、こんな悪魔はいないから、これが自然に起こる確率は、限りなくゼロである。しかし完全にゼロではない。

なんとなく、もやもやした気分になるだろうが、上記の社会現象も、熱力学の第2法則と言ってもよい。

熱力学の第2法則は、「マックスウェルの悪魔は存在しない」という法則である、が、これでは、いちいちこの話をしないと理解してもらえないので、数学的に表される数値を用いて、「エントロピー増大の法則」という。エントロピーとは、「でたらめさ」のことである。つまり自然は、確率的に起こりやすい方向へと遷移し、その逆は起こらない、という法則である。

延々と、お前は何の話をしているのだ、とお思いのみなさま、宇宙の膨張と収縮の話をしようと思うと、この知識が必要なのである。

一言いいたい!





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9.反転する宇宙

この項では、宇宙がビッグバンに始まり、ビッグクランチで終わるという説に基づき、膨張期と収縮期で何が違うのかを考察する。

現在、我々は膨張する宇宙にいる。これは、観測により確かめられている。つまり、ビッグバンを北極、ビッグクランチを南極に例えた場合、我々は、北半球のどこかにいると言うことだ。

膨張宇宙で起きていることで、もし収縮期になったら変わると思われるもの、それは前回述べた、「熱力学の第2法則」だ。

断言してしまったが、一緒に考えてもらいたい。
今、膨張する宇宙では、熱力学の第2法則により、「でたらめさ」が増している。これは確かなことだ。珈琲に入れたミルクは、だまって見ていれば、自然に拡散して、珈琲と混じり合って、褐色の液体になる。どう考えてもこの逆は起こらない。だから、喫茶店では、珈琲とミルクは別々に出てくるのである。
さっき、だまって見ていれば、と書いたが実は、だまっていようが、いまいが、珈琲に注いだミルクは、「マックスウェルの悪魔」にしか、分離した状態にすることは困難だ。

これとは逆に、収縮する宇宙では、「でたらめさ」が、減少する、とは考えられないだろうか?
つまり、珈琲にミルクが入った液体は、だまって見ていると、自然と珈琲とミルクに分離する。
これを仮定すると、縮小宇宙では、あたかも時間が反転するかのような世界になる。おそらく、熱エネルギーは運動エネルギーとなり、運動エネルギーは位置のエネルギーとなる。まるで映画のフィルムを逆回転したようにこの世界は動く。いったいそんな宇宙に生きる生物は、どんな体験をするのだろう。

土塊がだんだん人間の形に集まって行き、腐敗した状態がだんだん細胞の形をなし、やがて年老いた人間が生まれる。そして、時を経るにつれ、徐々に若返って行き、その記憶はそれに伴い徐々に失われ、最後に赤ん坊がだんだん細胞統合して行き、最後は卵子から精子が離れていって、人間の生涯は終わる......




なるほど、とうなずいているあなた、そう、あなた。
嘘である。真っ赤な嘘だ。
許してもらいたい。

仮に、「熱力学の第2法則」が、逆になっても、絶対、フィルムの逆廻しの現象は起こらない。なぜか、それは、万有引力万有斥力に変わらないからだ。当然である。万有引力があるからこそこの宇宙は縮小に転ずるのであり、これが収縮期になったからと言って、万有斥力になったら、そもそも宇宙は縮まない。

実は、万有引力を引き合いに出さなくとも、膨張宇宙と収縮宇宙どちらでも「熱力学の第2法則」は成立すると私は思っている。だって、宇宙が収縮を始めたって、「マックスウェルの悪魔」が生まれるわけではないだろう。

そもそも、人間が時間を時間として認識するのは、「熱力学の第2法則」があるからではないのか。不可逆過程が存在するからこそ、人間は、時が経ったと思うのではないか。結果の前に原因があるからこそ、時間が時間として認識されるのではないのか?
因果は応報なのである。遊んで暮らしたからこそ、キリギリスは冬になって、蟻に泣きつくのである(最近では、働きすぎた蟻が、貯め込んだ食料のために巣の中を自由に動き回れなくなり、空腹のキリギリスたちに助けてもらう、という話もあったようだが)。どうころんでも、結果の後に原因が来ることは考えにくい。

物理的な「時間」は別にしても、少なくとも「人間」にとっての「時間」とは、そういうものであると思う。原因の結果としての「記憶」が蓄積されるからこそ、「時間」が存在する。

というわけで、宇宙が膨張から収縮に転じても、よほど気を付けて宇宙観測をしていないと、人間はそれに気付かないと思う。ある日突然七時のニュースで「ついに宇宙の膨張が止まり収縮に転じたことが確認されました!」という放送があるかもしれない。但しそのニュースは、我々の世代ではありえない(と思うが...)

さて、次章はいよいよ、ブラックホール

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