1990年10月2日 「暴動」

(改稿して「〈野宿者襲撃〉論」(人文書院)終章に収録)
 
 この日夕方、7時からの予定の越冬実行委員会会議を前に西成署の横を通ると、20人弱ぐらいの人がワイワイ言っていた。なんだこれとは思ったが、そのまま釜ヶ崎キリスト教協友会の施設の一つにコピーかなんかの用事があって行ってしまった。だが、その30分後くらいの帰り道では、その西成署横の人の数が100近くになっていて、もはや「騒然」という雰囲気になっていた。あとで知ったのだが、釜ヶ崎では顔なじみの(「わんがうまりあ沖縄」で知られる)富村順一さんの飼っていた犬が西成署員に噛み付いたとかで、騒ぎになっていたわけだ。
 そもそもその日の朝刊には、西成署防犯課の刑事が暴力団からの賄賂を受けていたことが発覚して逮捕されたという記事が載っていた。要するに、暴力団対策の刑事が賭博捜査の情報の見返りに金をもらっていたということである。これはもちろんとんでもない話だが(でもこれは多分全国でいわゆる氷山の一角なのだろうが)、それが特に釜ヶ崎で挑発的であったのは、西成署の常日頃からの日雇労働者、野宿者に対する態度がきわめて暴力的かつ差別的だったためである。例えば労働者が路上強盗に襲われて金品を奪われて西成署に訴えに行く。すると警官からは「盗まれるお前が悪い」と言われておしまいになる。人目のないところでの労働者への暴行は常識。ぼく自身、深夜にタバコの火を貸してくれといってきた酔った労働者を、二人連れの警官の一方がいきなり殴り倒したのを見たことがある。そして、街中にはりめぐらされた監視カメラはすべて西成書でモニターされていて、それらはとりわけ労働組合やボランティアを監視している。例えば医療センター前で我々が医療相談などやっていると、監視カメラはその間じーっとこちらの方向だけ向いているし、運動体主催の集団でも通ろうものなら、その後を追いかけて忙しくあっちこっちカメラを方向転換している。そのわりには、暴力団主催のさいころ賭博は路上で白昼堂々と行われているのだが。例を挙げていけばきりのない話だが、こうしたろくでもない警察が(やっぱり)暴力団とつるんでいやがったのかということで、労働者の多くはカチンときていたはずである。
 労働者はどんどん西成署前に集まり始める。仕事が終わって現場からかえってくる時間帯ということで、新聞を手にして「汚職警官、出てこい!」という声が上がり始める。西成署は謝罪するわけもなく、むしろ労働者が西成署を取り囲み始めたはじめたあたりから機動隊をいきなり署の周囲に配置し始めた。むろん、これを見て労働者たちの怒りはますますあがった。
 やがて、労働者の集団は「説明しろ!」「あやまれ!」と、西成署入り口に詰めかけて、中への突入を試み始めた。機動隊はただちに入り口に割ってはいり、労働者の動きを阻もうとする。署の入り口は労働者と機動隊とのもみあいで、労働者と機動隊の楯とのおしくらまんじゅう状態になった。署の周囲は騒然となり、もみあいが決着がつかないので、いったん労働者は引き下がり、また期を見ては「行けー!」と入り口に突入してまたもみあいになる。そんなもみあいと膠着状態が何度も続いて、もはやただ事ではない、引き返せないという緊張が時とともに強まってきていた。「わいろ警官は出てこい」「税金ドロボー」とかいう怒号やヤジが続き、空きカンやビンが時々飛んだりし始めていた。周囲もだんだん暗くなって、徐々に労働者群衆と機動隊とのにらみ合いも煮詰まってきた。
 そして、当時西成署左斜め前には建設中の現場があったのだが、ある時突然、そこから怒り頂点に達した何人かの労働者が、材木や足場財などの資材をつかみ出した。そして、そこからいっせいに雨あられと西成署=機動隊に向かって投げつけはじめた。それを目の前で見て、今まで見たことのなかった事態が今始まった、という思いにぼくはつつまれた。それから、一斉に投げられるありとあらゆるもの、建築資材、ゴミ、石、道路の敷石などが群衆から機動隊に向かって投げつけられ始めた。暴動の開始である。あわてた機動隊は、やがて西成署周辺の空間を確保する形で陣を張り、投石する群衆と対峙する形をとり始めた。労働者側は、押しやられながら、盾を張って道路を封鎖する機動隊に対して、文字通りに雨あられの投石を途切れることなく続けた。これが延々翌朝まで続くことになったのだ。この衝突場面は、機動隊や群衆の移動によって、釜ヶ崎のあちこちの地点で激しく展開されることになった。
 翌日(の10月3日は東西ドイツ統一の日で、それは東西冷戦の終結を告げる日だったが、その時の我々はそれどころではなかった)には労働者が作った自転車によるバリケードが機動隊との間に置かれ、武器はしまいには火炎ビンやでかいガスボンベまで登場し始めた。警察側は各地からの応援の機動隊員を地区内各所に投入し、付近の交通を遮断して、放水車で群衆の鎮圧を図った。この放水は強力で、まともに受けると体ごとふっとぶのだ。機動隊に捕まった労働者は、何十人もが楯や蹴りでいいように暴行され、西成署に放り込まれていった。一方、投石を受けた機動隊員は重傷で意識不明になって救急車で運ばれていったりした。更に、駅が焼かれ、電車も止まり、交通機関はほぼストップした。自転車や自動車があちこちで焼かれて炎上し、それでも消防隊が近づけない有り様だった。市街戦という感じになっていた。
 
 ぼくは見ていなかったが、暴動2日目の3日早朝、いつものように求人にやってきた手配師の車は全部、「自粛しろ」ということで労働者によって追い返されたという。暴動と仕事はまた別だろうと思ったぼくは、ちょっと不思議だった。仕事に行きたい人はいけばいいじゃないか。でも、雰囲気はそういうノリではなくて、明らかに全体が異常なハイテンションになっていた。それにしても「自粛」とは。確かにこの日からしばらく、労働者と手配師との力関係はあからさまに逆転していた。ぼく自身、ハイテンションと言えばハイテンションになっていた。暴動発生以来ほとんど眠れなくなって、明け方まで暴動現場にい続けて、朝になったらどうなっているか心配ですぐ出掛ける、という感じだったのだから。興奮状態の不眠でだんだん体がついていかなくなって、それでウイスキーでも飲めば眠れるかなと思って、生まれて初めて酒を買ってみたりしていた(この時26才だったんだけどね)。暴動初日に利き腕を機動隊に盾でどつかれて動かせなくなっていたが、それでもできることはいろいろあるわけだ。
 しかし、暴動3日目から目立ったことだが、機動隊に投石する労働者たちの中に、見るからに10代の少年少女たちが混ざり始めていた(「少女」はかなり少数だった)。彼らは群衆の先頭に立って石だのビンだの火炎ビンだのをガンガン投げていた。パフォーマンスよろしく周りをもり立てて投げる少年あり、必死な顔をして投石しては機動隊に追っかけられて逃げ回る少年もありだが、一体彼らは何を考えていたのか。運の悪いのでは群衆の前に出過ぎて労働者側の投石が後頭部に当たって救急車で運ばれていく中学生もいた(確か完治した)。この少年少女たち、断っておくと暴走族とかツッパリとかの流れはあまりなくて、大多数はどう見ても普通の中高生だったが、彼ら彼女らについては、釜ヶ崎で活動するキリスト者、労働運動家たちの間でも評価が2分されていた。「彼らはおもしろがって便乗しているだけだ」というのが一方であり、「彼らも警察に対して怒りを持ってやっているのだから仲間だ」というのが一方である。事実、彼ら彼女らは釜ヶ崎の諸問題についてはほとんど何も知らなかっただろう。また、少年たちによる野宿者襲撃は、ずっとそうであったようにこの時期にも多発していた(だが、なぜ少年たちは野宿者へ石を投げ、寝場所の段ボール紙に放火し、エアガンや金属バットで襲うのか? もちろん、一般の市民たちが野宿者を「浮浪者」と呼び、自分の街に野宿者がいるのを必要以上に嫌悪し、公園などの野宿者の排除を行政に要請している状況では、少年たちは単に一般市民の思いを正直に行動に移しているにすぎない。だが、それをするのはなぜ少年たちなのか?)。もしかしたら、投石していた少年たちの中に野宿者を襲撃していた者もいたのかもしれない。だとすればそれは、普段野宿者に投げていた石をこの2〜3日だけ機動隊に投げていただけということになる。また、労働者の多くはこの投石する少年たちを敬遠しながらも仕方なく一緒にいた、という感じだったような気がする。もちろん完全に少年たちに腹をたてている労働者も多かった。だが、仮に少年たち少女たちが便乗していただけだとしても、その彼ら彼女ら以外、誰がこの釜ヶ崎の対警察への暴動に共闘してくれていただろうか。ほとんど誰もいはしなかった。ずっと釜ヶ崎にかかわっていて越冬や夏祭りにも参加していた「釜ヶ崎と連帯する関西学生実行委員会」の面々は確かにいた。だが、彼らも弾圧、特に事後弾圧を警戒して、組織として前面に出ることはあらかじめ回避する決定をしていた(もちろん、それを拒否して前面に出てくる学生もいた)。釜ヶ崎にかかわり続けていた女性グループも、ケガをした労働者のための救護施設を設営していた。しかし、わかる限りではそれぐらいだった。つまり顔見知りだけだったので、いつものように釜ヶ崎の動きは、あれだけ毎日トップニュースとして報道されテレビで実況中継され続けたにもかかわらず、世間からは孤立し続けていた。よく知られたマンガ「カマやん」では、本当は大阪環状線も地下鉄も走っている釜ヶ崎は「孤島」ということになっているが、この度も実態はやはりそうなのだった。海をわたって駆けつけてきたのは少年たちだけだったというわけだ。後に彼らにインタビューしたテレビ番組を見ると、彼らの何人かは、テレビで暴動の様子を見て「これは自分の問題だ」と感じたから行った、と言っていた。暴動は革命へとつながるものだろうか? そして寄せ場の諸問題は、最終的には革命によってのみ解決されるものなのだろうか? しかし、暴動のあと思ったことだが、釜ヶ崎からの視点で言う限り、革命は不可能なのだった。機動隊をはじめとする警察の武力に対抗するものがこちら側にないということ以上に、あれだけの暴動に発展しても、様々な地域や立場の人々がそこに共闘してつながっていくということがない限り、暴動は決して革命には発展せず消滅するしかないのだった。一般的な人々が、寄せ場、日雇労働者、野宿者への差別、偏見、無関心を根強く持っていることは言われるまでもなく明らかだったが、それがこの暴動の際にも働いていたのではなかったか。そもそも、一般的な人々は、なぜ釜ヶ崎の人々があれだけの行動に出たのか、全く理解の外なのではなかったか。
 いずれにせよ、暴動へのこの少年たちの登場は、誰にとっても予想できないものだったが、暴動の消滅とともに彼らも姿を消す。「彼らは仲間だ」と考えた活動家の中で、少年たちに向けて釜ヶ崎についての内容と、いわば共闘の呼びかけとのビラを撒こうという動きもあったが、それが実現する前に暴動は終わってしまった。それまで釜ヶ崎で過去数十年間なかった暴動は、5日間続いたあと自然に消滅した。6日目以降に、何人かの労働者が賄賂事件続報の新聞を手に西成署前で声をあげてはいたが、流れを引き戻すことにはならなかった。自転車や自動車の燃えた残骸が残り、あちこちの道路の敷石がはがされた様子がしばらく残りつつも、労働者は再び仕事に戻り始め、釜ヶ崎は寄せ場としての機能を再開したわけだ。あの異常なテンションはいったんは去っていった。そして、それは後から見ればバブル経済破綻寸前の時期なのだった。以後、釜ヶ崎は他の寄せ場とともに、やってきた大型不況の影響をどこよりもモロに受け、きわめて悲惨な様相を見せていくことになる。つまり失業者、野宿者のひたすらな激増、労働単価、労働条件の下落、そして労働者、野宿者の急速な高齢化という状況がそれである。ホームレスという言葉が登場しようとしていた。

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