フリーターに未来はない?

 



 そんなことを考えていたら、「フロム・エー」(2001年3月6日号)巻頭に村上龍の「フリーターに未来はない」というインタビューが載っている。
「危機感って言うのは持ってた方が得なんですよ。案外彼らが気づいてないのは、技術やスキルがない、あるいは能力が無い人間は、とりあえずこれから年取っていったときに、コキ使われちゃうんですよ、誰だってできるような仕事しかできない人って言うのは、人の命令きなきゃなんないし、嫌なこともやんなきゃならない。親だっていつか死ぬわけだからね。だから、それでもいいのかっていうことですよ。」「いい大学やいい企業に入ったってしょうがないんだっていう時代になって、今までの価値観やフレーミングが壊れたら、ずっと教師や親が言ってたことはもう崩れたんだっていうことで努力をしなくなる人が大量にでてきたりする。あるいは、これからは競争社会の時代になるって言われたら、じゅあオレはアンチ競争社会の世界で生きるために、サラリーマンはやめて田舎でトマトを作ろう、とかね。それってみんな逃げてるだけですよ」。
 村上龍の「フリーターに未来はない」ということの意味は、「フリーター層の一部は野宿生活化する」というより、フリーター層は「アンチ競争社会の世界で生きる」が、それは逃げてるだけで、「技術やスキルがない」から、結局は企業などに安く「コキ使われちゃう」だけでいいことは何もない、ということのようだ。つまり、フリーターはもっと努力してスキルを磨いて競争社会に生きろ、ということか。
 とはいえ、村上龍の言うことは、約3分1の「正規雇用志向型」フリーターにはあてはまらないだろう。この層は、仕方なくフリーターをしているだけなのだから。また、技術やスキルを磨いているはずの「夢実現のための」フリーター層にも、一応(?)あてはまらない。とすれば、この批判は「モラトリアム型フリーター」(この層も大半がいずれ正規雇用に就くつもりでいる)に向けてということになる。だが、この層こそ「何を目的にしたらいいのかわからない」のだから、「スキルを磨いて競争しろ」という批判は、いまいち具体的には届かないような気がする。大体、「競争」ってそんなにいいものなのか。
 更に言えば、企業の正規雇用は今や高学歴者に絞られている。そして、非正規雇用労働者であるフリーターは比較的「低学歴」層なのだ。そして現在、個人の学力が親の地位・学歴の再生産という形で二極分解し続けていることは、なんだかんだ言っても明らかなようである。「いい大学やいい企業に」入る「競争社会」は、上層の方でのみ参加できる超激烈なものになったのだ。そうした現状にあって、二極分解の片方の層が、将来の「競争」のための努力をするのを早めに切り上げて、むしろ状況に合わせて「今を楽しむ」方向に価値を見いだすようになったのは当然の推移かもしれない(これは「まったり」とか言われている)。そしてこの層は、多くの場合やがてフリーター層に吸収されていく。
 しかも、1970年代以降の産業構造の変化によって、基幹産業は第2次産業から教育・情報・金融・サービスといった第3次産業に移行した。これら第3次産業での末端の現場労働者は、相対的に多く女性によって担われる。そして、これらの産業では、常用労働者に対して相対的に高い水準の知識と情報を要請することになる。この結果、高度な知識や技術を持たない若い男性は失業にさらされやすくなってきた。つまり、競争社会から降りて生きるフリーター激増の一因は、かなりの程度まで日本社会の構造的変化によるものだ。したがって、個々のフリーターに精神的にハッパをかけてどうなるものでもない。
 もちろん、村上龍はフリーターに「サラリーマンになれ」と言っているわけではない。また、「サラリーマンには未来がある」と言っているわけでもない。むしろ、「フリーターには未来はない」のだったら、「サラリーマンにも未来はない」のだろう。例えば、フリーターになる若者が社会問題とされているが、ではサラリーマンになる若者の方はどうなのか。「いい大学やいい企業に入ったってしょうがないんだっていう時代になって、今までの価値観やフレーミングが壊れた」時に、「いい大学やいい企業」に安住している若者層に、それ以上の未来が開けているとも思えない。三和銀行グループ・モビットのコマーシャルで、桃井かおりが「自分を磨かなきゃ生き残れない時代なのよ」と言っている。では、「技術やスキルがない、あるいは能力が無い人間はコキ使われちゃうんですよ」と言う村上龍の言わんとするのは(まさか)そういうことだろうか。確かに、そのコマーシャルみたいに例えば英会話教室に通ったりするフリーター、サラリーマンも増えているだろう。しかし、そんなふうにして個々人が生き残りや上昇戦略を考えていけばそれでいいのだろうか。
 村上龍の言っていることは、個人の生き残り戦略のすすめみたいにも感じられる。だが、多分その言わんとすることは、いい学校→いい会社という従来の枠組みでもなければ、それに対する単なる否定や退却(「田舎でトマトを作」るみたいな?)でもない、別の社会の枠組み、価値観が必要だ、という点にあるのかもしれない。もっとも、村上龍はここではそんなこと少しも言っていないが。
フリーターについて、小倉利丸が「フリーターや高い離職・転職率は、学歴のない若年労働者階級による組織されざる階級闘争なのである」と言っている(「新しい下層と組織されざる階級闘争」⊂「寄せ場」13 号/2000年5月)。
「寄せ場労働者と関わってきた私達は、労働者が階級的な文化や価値観を持つこと、とりわけ資本の搾取を見抜き、労働へと駆り立てる構造にたいして、労働者の生活と文化を防衛し、労働者固有の創造性を生み出すためには、生活総体を含む対抗的な価値観が非常に重要であることを知っている。フリーター層がそうした資本から自立した固有のライフスタイルを構築できるかどうかは未知数とはいえ、高学歴のホワイトカラー層とは明らかにことなるライフスタイルと労働観をもっていることだけは確かなのである。こうした階層の増加を失業の危機とだけとらえることで、一体どのような新しい闘いが組めるというのだろうか?(…)フリーターという選択は、階級的な労働市場の構造のなかで、若者たちが、資本からの自由を最大限に撰びとろうとするために自然発生的に生み出してきた労働文化であり、仕事よりも生活重視という若者の労働観、生活観も、労働のもたらすなんの自由も創造性ももたらさない行為への否定的な傾向が現れているといえる」「離職、転職は資本が強いる労働環境に対する個人レベルでの抵抗の一つの形態であり、フリーターとしてのライフスタイルは、経済的に必要な限りで賃労働には従事するが、できる限り資本の管理から離れていたいという欲求の現れであるともいえる」。
 小倉利丸は、フリーターの「なんの自由も創造性ももたらさない」労働への否定、「仕事よりも生活重視」というライフスタイルを、資本からの自由を最大限に選びとろうとする姿勢と評価して、それを「組織されざる階級闘争」と言う(もちろん、ここでも正規雇用志向型フリーターは話が別である)。もしそうだとすれば、世間で「フリーターは社会から逃げている」などといわれるのとは反対に、フリーターこそ従来の社会のあり方に対する闘争、あるいは変革の火種を持った新たな階級だということになる。しかし、細かい点についてだが、ぼくはやや違う印象を持っている。確かに、フリーターの増加は「自然発生的に生み出してきた」「組織されざる」、個々バラバラに行われている「闘争」であるかもしれない。しかしそれは資本に対する闘争というよりも、正規雇用=会社に対する忌避行動なのではないだろうか。


 事実、(正規雇用志向以外の)フリーターが忌避しているのは「資本」ではなく「会社」、より正確には会社への正規雇用と言える。多くのフリーターは、社会を避けているのでもないし、また賃金労働を避けているのでもない(したがって、資本を避けているのではない)。単に、「会社」にまつわる「なんの自由も創造性ももたらさない」あれやこれやの物理的、精神的拘束を避けているのである。
 実際、フリーターはサラリーマンと同等かそれ以上の時間を労働し、おまけにその多くはいろいろな職を経験しているのだから、労働についても社会についても同年齢のサラリーマン以上に経験を積んでいるとさえ言えるはずである。その意味では、フリーターがサラリーマンとちがうのは、「正社員」として働くかどうかという労働に対するアプローチの仕方だけなのだ。すると、フリーターを批判して例えば「社会から逃げている」と言う人は、社会と会社を同一視しているのである。つまり、広く行われている会社にまつわる様々な慣行にハマっていくこと、要するに一つの会社にまるまる所属することを「社会人になること」だと誤解している。しかし、正規雇用志向以外のフリーターは、まさにそういう「会社」=「社会人」システムを、言い換えれば「自分らしさ」を失わさせるような組織一般を拒否しているようにも見える。
 一言で言えば、アルバイトが単なる時間の切り売りだとすれば、会社員になることは(特に日本では)どこか自分の身柄を会社に売るようなところがあるからである。一般に、会社員は組織の一員として「会社のために」働くことを期待されているし、実際に今まで多くの会社員はそのように労働してきた。しかし、「会社のために働く」という理念は別に自明ではない。例えばコンビニで働くフリーターは、「セブンイレブンのため」や「ローソンのため」に働いてはいないし、そもそもそんな義理もない。また、企業から企業へ自分の技術を売り歩て生きるある種のスペシャリストも、もちろんそんな理念は持っていない。つまり、「会社のために働く」という理念は、会社組織と自分の人生が「運命共同体」的にある程度一体化している場合にのみ意味を持つ。当然、これは「終身雇用」「年功序列」「企業内福祉・厚生」が特徴とされる日本の企業について非常によく適合した。しかし、もちろんこれは超歴史的なものでも普遍的なものでもない。
 例えば、かつて日本では「お国のために働く」という理念が存在した。商売をやるのも、医学をやるのも、文学をやるのもそれは「お国のため」だ「お国のために」有益だ、という確信が広く共有されていた。しかし、この理念が機能するのは、当然「国家」と自分の人生とが運命共同体的にある程度一体化している時に限られる。例えば、それは戦時であり、発展途上時であり、要するに「非常時」である。しかし、今やこの一体性は「終わりなき日常」を生きる我々の中で明らかに希薄化している。事の善悪は別として、国家と自己の運命との一体感覚はリアリティを失ったのである。それと同様に、「会社のために働く」という、かつて強く人々の間に生きていた理念もまた急速に衰えた。それは、現在のフリーター世代とその親の世代を比べれば明らかである。
 もちろん、サラリーマンが「会社のために働く」ことを期待されるとしても、個人の生活の中で「会社」の存在が一部にすぎないということも確かだろう。事実、大半の会社員は出世競争などには無縁で、適当に働いてそこそこの暮らしができればそれでいいやと、それこそ「気分はすっかりフリーター」でいるかもしれない。「会社のために働く」なんてことを真面目に信じる人間は、もはや「お国のために働く」人間並みに少数派なのかもしれない。しかし、それぐらいなら、最初から労働は「時間の量り売り」と割りきって、時間的にも責任面でも最小限のバイトだけしてあとは自分の時間を確保する、つまり「会社と自分とは別」、というのは労働というものに対して明快かつ正直な考え方なのかもしれない。
 あるフリーターがネット上の「フリーターズ・フォーラム」に「会社のために働くという気持ちは別になかった以上、サラリーマンになろうとは思わなかった」という書き込みをしていた。ではその場合、彼は「何のために」労働するのだろうか。働くことのインセンティブを、かつては「お国のため」に求めることができた。しかし、そうした理念は今やほぼ存在しない。最近まではそれを「会社のため」に求めることもできた。だが、上の書き込みに見られるように、これもまた急速に失われ始めた。となると残るのは「家族のため」ぐらいだろう。だが、独り者が多くて親がまだ元気なフリーター世代にとっては、下手をするとこれも怪しい。となると、残るのは「自分のために」働くということだけである。結局、「自分のために働くだけだったらフリーターでもいいや」というのが現実に近いところかもしれない。インセンティヴの如何によって労働形式の選択が変わることは、結婚や出産を機に(「家族ができた」から)多くのフリーターが必死になって「正規雇用」を求めることからもよくわかる。
 要するに、若年労働者のかなりの層にとって、働くことの意味、いわば労働のインセンティヴは、「国家」「資本」「家族」から遠く離れて「自分のため」だけになってしまったのだ。かつては「国家」「家族」「資本」が社会そのものとして機能し、とりわけ第2次産業について「資本」との一体的な関係が「社会人」の証とされていたが、その結合は相対的に意義を失った。言い換えれば、我々が労働を通じて一体性を自明視していた「社会」「共同体」の感覚は、徐々に「国家」「会社」「家族」から乖離し始めている。
 小倉利丸は、フリーターには「労働のもたらすなんの自由も創造性ももたらさない行為への否定的な傾向が現れている」、そして「フリーターとしてのライフスタイルは、経済的に必要な限りで賃労働には従事するが、できる限り資本の管理から離れていたいという欲求の現れであるともいえる」と言うが、実際には、多くのフリーターはめい一杯「なんの自由も創造性ももたらさない」労働を資本の元でやっている。ただ、(正規雇用志向型以外の)フリーター層は、労働のインセンティヴを「会社のため」や「お国のため」には求めず、ただ「自分のため」だけに求めるようになった、そしてその「気持ちに正直に」生きるようになった、という現実があるのではないか。
 しかし、「会社のため働くという気持ちは別になかった以上、サラリーマンになろうとは思わなかった」フリーター層が、「会社」にまつわる「なんの自由も創造性ももたらさない」諸々の物理的、精神的拘束から離脱し始めているとすれば、それは「会社」という共同体へのボイコット運動だったとは言えるはずである。この何十万単位の若者による自然発生的な、組織されざる「会社」正規雇用忌避行動はこの10年の間に急激に成長している。では、この運動は現在行われている他のどんな運動に最も関係が近いだろうか。
 おそらく、この点でフリーターに最も近いのは、「不登校」という学校忌避行動なのだろう。
(もちろん、200万フリーターがそうであるように、15万の「不登校」児童・生徒も、「学校への抵抗」という面だけでひとくくりにはできそうにない。例えば、現在の不登校の一部は「ひきこもり」へ至る可能性が大きいかもしれない。それは、フリーターの激増が「会社正規雇用からの自由」という面だけでなく、幾つかの要因が重なって成立していると考えられるのと同様である。したがって、以下のフリーターと不登校の関係づけも、あくまで一面的なものである)。


 フリーターの激増と、文部科学省発表で現在15万人といわれる不登校の増加とはおそらく相当の血縁関係がある。「いい学校へ行っていい会社へ」というきまり文句があるが、不登校というこの自然発生的で組織されざる学校忌避行動は、言い換えれば学校ボイコット運動だからだ。ちょうど(正規雇用志向型以外の)フリーターが単に「会社」を忌避しているだけであって「労働」や「社会」を拒否しているのではないように、かなりの不登校の生徒たちは「教育」や「勉強」を否定しているのではない。また、「社会」を拒否しているのでもない。ただ、「学校」を拒否しているだけだからである。
 つまり、彼ら彼女らは、学校にまつわる「なんの自由も創造性ももたらさない」諸々の物理的、精神的拘束を避けようとしている。つまり、かつては相対的に社会に適合していた学校の「物理的、精神的拘束」が、もはやその適合性を持ちえなくなっている。言い換えれば、不登校は、よく言われるように「世の中から逃げている」どころか、フリーターの「会社」拒否と同様、社会性と自分らしさを失わさせる現在の学校に対する防衛反応とさえ言えるはずである。
 しかし、単に「学校」を拒否しただけで、社会そのものを拒否したかのように見られてしまう、つまり「学校=社会」という理念が生き続けているという点でも、不登校とフリーターとは互いに関連している。つまり、学校へ行かないというのは、本当は塾をやめるとかバイトをやめるとかいう程度のことかもしれないのに、不登校になると彼ら彼女らは、まるで自分の存在を否定される(「人間としてダメです」みたいな)かのような周囲の反応に出くわしてしまう。そしてこれは、フリーターへの「いつまでブラブラしているの」「いつまでもこんなことじゃダメなんだから」風の職業差別とよく似ているわけである。
 近代の「学校」の存在意義は、国語=共通語教育に代表される「国民化」としての装置、そして「資本」への準備段階としてあったとされている。知識注入、集団行動の訓練などを通して、学校は近代的「国民」と、近代的企業へ就くべき「労働者」の育成を行ってきたという。この点について、東京大学前学長としての蓮見重彦の言葉を引用する。
「このように、資本主義が帝国主義的な段階にさしかかった時期のヨーロッパで近代的に組織化された高等教育の機関を、わたくしは『第二世代の大学』と呼んでおります。中世のギルド的な組織から始まり、ルネサンスを通過しつつも緩慢な発展形態にとどまっていた18世紀までの大学を『第一世代の大学』呼び、19世紀以降の大学との違いをきわただせるためであります。実際、『第一世代の大学』の学問体系の基礎をなしていた『神学』や『形而上学』の超越的な真理の概念は、産業革命とともに都市に集中し始めた功利的な市民層の階級的上昇意識にはほとんど無効だったからです。事実、国民国家の軍事的、産業的、かつ商業的な発展のためには、より世俗的な価値の認識とそれを支える実践的な技術の国民各層への拡大が不可欠であり、その財政的な責任は国家がになうべきものとされました。/今からほぼ百年前に整備され始めた東アジアの大学は、こうしたヨーロッパの『第二世代の大学』の実践的な功利性を、やや誇張したかたちで導入した組織だということができます。その整備は『第一世代の大学』の伝統とはいっさい無縁に、近代社会の下部構造の整備をめざす国策として推進され、国力の増強に貢献すべきものでありました。それは、道路や鉄道や通信網の整備、駅や橋や市役所や工場の建設、農業の規格化などとほぼ同時に進行し、本質的にそれと異なるものではありませんでした。(…)。日本においては、ある意味では、大学と産業とが、国家の間接的な統制のもとに、当初から緊密に連携していたといえるかもしれません。」(「私が大学について知っている二、三の事柄」)。
 つまり、近代日本においては「産業資本主義」と「国民国家」と「学校」が「緊密に連携して」いた。そのことが、「学校」=「社会」という極端な一体化を生む。「今からほぼ百年前に整備され始めた東アジアの大学は、こうしたヨーロッパの『第二世代の大学』の実践的な功利性を、やや誇張したかたちで導入した組織」であり、そこでは一般的な「社会」概念の中核が、「国民国家」と「資本」とによって強固に形作られていたからである。(ところで、蓮見重彦がここで言わんとするのは、この「第二世代の大学」にはすでに未来はなく、それは「第三世代の大学」へと変化しなければならないということにある。「わたくしが四年前(1997)に東京大学の総長に就任したとき、この(第二世代の大学の)相対的な成功の延長線上にもはや日本の大学の未来はないと判断せざるをえませんでした。『第三世代の大学』という概念を提起しましたのも、そのためであります。そのときわたくしがかかげた理念の一つは、まさに、そうした19世紀的ともいえる『国民国家』の大学という枠からの脱却にほかなりません。そのため、わたくしは『性別』『国籍』『年齢』による差別を大学から一掃するという目標を定めたのであります」)。
 こうして、「企業」の中で労働することは、「学校」の中で学ぶことと似る。近代日本において「資本」=「国民国家」=「学校」が「緊密に連携して」社会を構成したことが、未だに強固に人々の行動様式に刻まれ生き続けているからである。言い換えれば、「会社」に属さないことと「学校」に行かないこととが似る。事実、不登校の子供たちに対する非難は、フリーターに対するそれと実によく似ている。「不登校の子供たちは逃げている」、「努力が足りない」、「社会に出れば嫌なことはいっぱいあるのだから、これくらいでくじけてはいけない」「学校は社会性を養う場なのだから、逃げることは許されない」など。これらは、学校ではなくこどもの方に問題を求めるという点で一致する。どんなに嫌なこと、許し難いことがあっても、決してそこから「逃げずに」耐えなさい、それが社会だ、という考え方である(事情はちがうが、セクハラに対して女性に我慢を強いるとのまったく同じ論法)。この論法は、学校と社会が一体化した場合にのみ妥当するが、もちろん問題は、もはやそのような同一化が適当かどうかという点にある。
 「不登校」はかつて「登校拒否」と言われたし、また、むしろ「学校拒否」と呼ぶべきだとも言われた。おそらくその「学校拒否」という言葉が、その姿勢に関してフリーターの「会社拒否」に対応するだろう。例えば、多くのフリーターにとって働くことの意味が、「お国のため」でも「会社のため」でも「家族のため」でもなくなったとすれば、こどもにとって学ぶことの意味も、「お国のため」でも「いい会社に入るため」でも「家族のため」でもなくなってきたのだ。学習のインセンティヴが消滅した以上、学校に行く動機付けも学習意欲も当然に低下する。「学力崩壊」「学級崩壊」の要因の一つはここにあるかもしれない。また、フリーターが激増し、かつそこそこ生活できているのを見れば、「無理して嫌な勉強をしなくても、フリーターで十分生きていける」と誰でも理解するだろう。そうすれば、多くの低学力層の「受験競争意欲」つまり「勉強意欲」も当然に消滅するわけで、そのような「(悪?)循環」もすでに成立しているはずである。
 このように、近代日本国家の元で連携し、成功を収めてきた「学校」と「資本」は、今、「社会」との一体化を相対的に失い始めているように見える。90年代に進行した不登校とフリーターの増加はその一つの証である。しかし、不登校の場合とフリーターの場合とは、実は事情が大きく異なっている。それは、不登校が、学校にとってはその意に反する危機状態であると言えるのに対して、フリーターの激増は、むしろ企業側の思惑と一致するからだ。つまり、資本は現在、正規雇用労働者を学歴差別、女性差別的な形で限界まで絞り込もうとしている。フリーター層の増加は、その資本の傾向と、結果として歩調を合わせてしまっている。つまり、「資本からの自由を最大限に撰びとろうとする」といわれるフリーターは、現実には資本によって都合よく使われているだけでしかない。不登校の児童・生徒は学校には特に貢献していないが、フリーターは十分会社のために、献身的なまでに働いてしまっているからである。


 「フリーターズ・フォーラム」の掲示板を見ていると、サラリーマンがフリーター批判の書き込みをして、それに対してフリーター側からサラリーマン批判が展開されるというような光景がたまに見られる。
「(フリーター)人間に入門すべきは、あなたのような人ではなく、むしろサラリーマンの連中ですよ。彼らは、資本というものに寄生しなければ「心理的」に生きていけない。でもあなたは、たとえ資本に寄生しなくてはならないにしても、心理的には自由です。「地位などには無関心」というあなたの言葉には、実に久しく聞かなかった本物の人間の響きがある」。
「(フリーター)わたしはサラリーマンになろうと思ったことは1度もありません。せっかく生まれてきたのだから生きるに値する生活をしたいとおもっています。サラリーマンの人はもっと自分の人生について真面目に考えたほうがいいと思います。それは生に対する冒涜です。」
「(サラリーマン)○○さんの考えは恐ろしいな〜、っていうか世間を知らな過ぎ。サラリーマン=自分のやりたい事をやってないっていう考えが笑える。皆、会社の歯車にされて嫌々働いていると思っているんですか?」「上の方の総合職クラスになると自分のやりたい仕事をばりばりやって仕事を楽しんでる人たちも多い。それを無視してやる気の無い落ちこぼれのサラリーマンだけを対象にして生きる事への冒涜?? 笑えます。俺は今の自分の仕事めちゃめちゃ楽しいし、思いっきり自分の力を試す場を与えられて、凄い充実してる。その上高い給料をもらえるんだから全く言う事無し、そのお金を使って趣味も十分に楽しめる。十分に人生を謳歌できてる自信はある。俺から言わせれば、フリーターの方が生への冒涜だよ。簡単な誰でもできる仕事をして満足してる、大して頭は使わない、何の専門的能力、知識も身に付かない、そういう人たちがサラリーマンを批判して良い気になってるのが信じられない」。
「(フリーター)あなたはまだ、お若いようですね。それは世間一般で言う「勝ち組」の理論。世の中を知らなさすぎます。東京上野のサンヤなり大阪アイリン地区を一度見に行くことをすすめます。こんな独善的な人間が増えるのも・・・今の日本の象徴か? 色々な人間、色々な人種、色々な考えというものが世の中にはあるのですよ。」
「(サラリーマン)世間をしらなすぎ、それは勝ち組の意見だ! 独善的、サンヤのどやがいをみろとの意見がありましたが、そもそも勝ち組、負け組という分け方をしてる時点でおかしいのでは? 基本的にそう言う風に分けたがるのは負け組と自分で思ってる人たちですよね? 大企業、一流企業にいってる奴は自分が勝ち組なんて思ってませんよ。自分の能力ならば当然! 今までやってきた結果だ! と自信を持ってるだけです。いわゆる勝ち組の人たちは相応の努力をしてるし、苦労も経験しています。負け組みといわれる人々は、もうこれ以上はどうしようもないって限界を感じるまで努力をしたと言いきれますか? 中途半端な努力で良い気になってませんか? 努力に勝る天才なしという言葉があります。正にそのとおりだと思います」。
 さて、「あいりん地区」(←行政用語)、あるいはフリーターの人たちは「負け組」で努力が足りないみたいな考えにはもちろん同意しないが、それはともかく、サラリーマンとフリーターとのこうした対立は、極論から極論へという不毛なものには見えないか。なぜなら、本当は両者のちがいは単に労働形態のちがい、労働へのアプローチのちがいにすぎないからである。それをもって、「生の冒涜」や「勝ち組、負け組」を云々するのはそもそも飛躍がある。
 ただ、この対立には、相当の価値観の相違がある。「地位には無関心」で「金よりも拘束されない自分の時間」を重んじる価値観と、「専門的能力」によって高い地位・収入を獲得することを重んじる価値観との相違である。もちろん、この両者は別に共生不可能ではない。ただ、後者の「一流企業にいってる奴は自分が勝ち組なんて思ってませんよ。自分の能力ならば当然!今までやってきた結果だ!と自信を持ってるだけです」という「競争原理の公平性」への信奉が、社会性と人間性を失わさせる「独善」でしかないことは上の発言からも確かだが。
 それに対して、フリーターはそうした競争原理や「会社」正規雇用にともなう諸拘束からは確かに自由であるように見える。ただ、そうだとしてもフリーターは「資本」そのものにはサラリーマン同様に拘束されている。確かに「フリーターは、たとえ資本に寄生しなくてはならないにしても、心理的には自由」だが、それはただ「心理的に」、つまり気持ちの上だけで、日雇労働者層がそうだったように、フリーター層は資本による景気の安全弁、つまりいつでも使い捨てできる安上がりな資源として使われているにすぎないからだ。その場合、「自分の時間」を重んじようとしても、サラリーマンよりもフリーターが収入が少ない上に「自分の時間」も確保できない、という事態に追い込まれうる。というより、すでにそうなっているのではないだろうか。
 小倉利丸の言うように「フリーターという選択は、階級的な労働市場の構造のなかで、若者たちが、資本からの自由を最大限に撰びとろうとするために自然発生的に生み出してきた労働文化」であるのかもしれない。ただ、その「資本からの自由」は、現実には「会社(正規雇用)からの自由」なのだ。もちろん、不登校の激増が結果として日本の学校の硬直性を浮き彫りにしたように、フリーター層の激増は、会社=社会という近代以降の日本の労働状況の中に別の可能性を作るのかもしれない。
 しかし、その「会社からの自由」がそのまま資本のしかけた罠だとすればどうすべきなのか。フリーターはその労働のスタンスを維持していくためには、会社を拒否する「消極的自由」つまり「心理的には自由」だけでは不十分なのだろう。それと同時に、資本の罠に対して抵抗する何らかの「積極的自由」つまり「社会的自由」を作り出していく必要があるのだろう。つまり、安上がりな非正規労働者の増加という雇用の硬直化とそれに伴う階層の二極分解を推進している資本と国家に対して、何らかの形で抵抗していく必要があるのではないか。例えばファイナンシャル・プランナーの伊藤宏一の試算によれば、フリーターで生涯を過ごした場合、夫婦共稼ぎでこどもも住宅も車も持たなかったとしても、年間の収支は常にゼロに近く、しかも50代半ばで確実に家計は破綻するとされている。そしてすでに言ったように、このままであればフリーター層のかなりの部分は、今までの日雇労働者と同様、野宿生活化する可能性が高いからである。


 言い換えれば、フリーター層の激増という「自然発生的に生み出してきた」「組織されざる階級闘争」を、従来の国家や資本とは別の選択肢を開いていくようなフリーター層の主体的な闘争に転換する必要があるのではないか。そして、政府と資本への抵抗のためには、当事者であるフリーター層自身の、この問題に対する意識化と、社会的に力を持ちうる何らかの連帯とがある程度必要になるだろう。フリーターが被る差別や抑圧、例えば同じ仕事なのに正社員と比べて時間単位の賃金が少ないという「労働時間差差別」、アルバイト情報誌でも明白な「35才まで」みたいな「年齢差別」、社会保険などの保証が薄い「身分差別」を、遠い場所の知らないフリーターの場合にも、自分の問題として共闘できるような方法が必要なのだ。だが、そのフリーター層のつながりうる「フリーター意識」というのは、どの程度あるのだろう?
 例えば現段階で、ネット上でフリーターのページは2000年11月にできた「フリーターズ、フォーラム」一つ、そしてフリーター労働組合は同年12月にできた「首都圏青年ユニオン」一つだけである(その後、ニュースタート関西などがある)。一方、フリーターの数は現在150万〜344万とされている。それに対してこの数字。ぼくはそれを知ってあまりの少なさに驚くのだが、この集まりの悪さというか「フリーター意識のなさ」は、異常ではないだろうか。
 というか、そもそもフリーターは「フリーター」という枠で自分たちをくくることに意味を感じていないのかもしれない。実際、「正規雇用志向」フリーターはフリーターとしての連帯なんて考えるつもりは多分ないだろう。また、「夢を追う」フリーターは自分の夢で精一杯、そして「モラトリアム型」フリーターはもしかしたら自分の趣味や生活が第一で、フリーターの社会的問題についてはあまり考えないのかもしれない。つまり、フリーターどうしとはいえ、職種も職場も、動機も目的もバラバラなのだ。そうなると、結局フリーターは組織の拘束からフリーなアルバイターの総称という前提に戻る。要するに、共通するのは「フリーター」という名前だけということだ。
 それに、そもそもほとんどのフリーターはフリーター生活を自分の人生の中で一時的なものと思っている。近い将来は正規雇用労働者(あるいはその配偶者)になると思っている。さらに、同僚は小遣い稼ぎの高校生や大学生、あるいは主婦だったりと、前提からしてバラバラだったりする。そんな中で、フリーター層の労働条件や社会的立場の諸問題について「共に闘おう」なんて気にはなれないのかもしれない。
 しかし、仕事仲間の状況もバラバラで、しかも個々人から見ればフリーター時代が(仮りに)一時的だとしても、ほぼ間違いなくフリーター層およびパート等の「不安定就労層」は今後も数百万の規模で拡大し続ける。「正規雇用・フルタイム」労働者と、「非正規雇用・不安定就労」労働者の二極分解が拡大していくのである。それに対して個々人がフリーター層の問題に無関心だとしても、結果的にフリーターは「生かさぬよう、殺さぬよう」に使われ続ける。そしてこの不安定就労問題に関しては、「正規雇用志向型」フリーターも、「夢追求型」も「モラトリアム型」フリーターも、当然ながら完全に同じ立場に立っている。
 そして、フリーターの連帯は経済的な観点だけではなくて、政治的な観点からもおそらく意味があるはずである。フリーター層の多くは、大きな不安と孤独を抱えていると言われている。会社という強固な社会的存在からの離れていることによる中ぶらり感、そしてそれとともに、正規雇用の不可能性、自分の夢の実現不可能性、そして自分の社会的存在の決定不可能性など、フリーターは不安定な現在と将来を抱えすぎるほど抱え込んでいる。もちろんどんな職層の人にも不安や孤独感はあるに決まっているが、ここで言うのはフリーターが今持っている会社正規雇用からの「自由」と引き替えにした不安と孤独である。不登校と同時進行しつつある「会社」(正規雇用)離れは、「会社=社会への帰属」という神話の崩壊を意味している。そして一つの神話の崩壊は、多くの場合、別の形の神話を呼び起こす可能性を持っている。
 こうした状況からありえる可能性は、一つには民族的、国家的共同体への帰依である。フリーター層が経済的弱者として二極分解の一方に固定し、現状と未来への閉塞感をつのらせていったとき、しかも彼ら、彼女らが集団を作り得ず、分散したバラバラの状態でいる続けるとき、そんな閉塞状況を何らかの形で一挙にうち破ってくれそうな共同体へ同一化するということはありえることかもしれない。そして、その共同体が不満の矛先を、例えば「外国人」や「社会的弱者」などに向けていく場合、たいへんやばいことになる。不満の他者への投影と攻撃が、とりあえずの集団の一体感と解放感を与えるというパターンである。それは多くの場合、民族的・国家的共同体の暴力への一体化という形をとるだろう。個人的な悩みや閉塞感はその中で一挙に雲散霧消し、自分個人を越えた共同体の中で自己の存在意味が鮮烈に確認される。もちろん、ここでの民族国家という「連帯」は、想像的「血族」による無批判な一体感であって、ディスカッションの結果によって成立するはずの近代社会とはまったく無関係なものだ。そして「暴力」と「血」の圧倒的なリアリティも、手続きを踏んだ上での権力行使というよりも、そうした統制を破壊する、ほとんど幼児的な弱肉強食的世界観への退行である。
 これは極端な話だろうか。だが、新たな社会的連帯と自由が構想され実現されない限り、最悪の例は常に生じうるのかもしれない。多くのフリーターにとっての「働くことの意味」は、「お国のため」でも「会社のため」でも「家族のため」でもなくなり、その意味で、労働を通しての「共同体」への帰属意識は消滅しつつある。そしてフリーター層がただ「自分のため」だけに働くとすれば、そうした内向的な生活スタイルの行き詰まりは、容易に想像的「血族」による無批判な一体感へと先祖帰りする危険を持つのではないか。つまり、従来の形での「社会への帰属」による自己確認が失われたとすれば、新たな「連帯」「結合」が構想され実現されない限り、暴力的な血族的集団性に抵抗できない孤立した「自分」しか残らないのかもしれない。
 小倉利丸の「新しい下層と組織されざる階級闘争」によると、「学歴のない若年層の社会集団が、資本主義に反対し、ナショナリズムに反対する自生的な組織を形成することができていない。(…)労働者階級の若者たちの中に、愛国主義や民族差別意識を醸成するような集団や文化が存在するのは資本主義国のどこでも見られることだが、しかし同時にまた、こうした階級的な利害をナショナリズムにより回収する運動を否定し、断固として資本主義への批判と国境や民族を越えた階級的な連帯や、多様な文化や価値観を許容し、自由と解放の闘争を押し進める創造的な集団性もまた見いだされることが多い。ところが、日本では、右翼に対抗する若者の集団性が決定的に未形成なように見える」。
 そしてフリーターについて言うなら、右翼に対抗するものも含め、フリーター層の集団はまだどこにもほとんど存在しないと言うべきなのだ。とりわけ資本にとって、これほど都合のいい状況があるものだろうか。もちろん、これほどに集団が存在しないことは、あらゆる可能性がほぼ手つかずで残されていることも意味している。2000年末に、ネット上のフォーラム、そしてフリーター労組が生まれたことは、その試みの一つを意味するのかもしれない。
 例えば、フリーター層が作りつつある労働と生活の新たなスタイルは、「日本の経済力」「親の資産」「資本の正規雇用労働者絞り込み」「不安定就労労働者としての最低限の労働条件」といった幾つかの前提の上で成り立っている。言い換えれば、それは従来の「国家」「資本」「家族」の前提(余力)の上に成り立っているわけである。そして、その中で最も脆弱でもろい部分こそ、言うまでもなく「不安定就労労働者としての」労働条件なのだ。その最ももろい部分での闘争が、フリーター層にとって、その「自由」の確保のための最優先課題として浮上することがありうる。重要かつ緊急な課題の一つとして、「多業種日雇労働者としてのフリーター」問題があるということを知らしめていく必要があるはずだ。そしてこの点で、フリーター同様に、組織的拘束の少ない、分散した状態だった日雇労働者層の作ってきた今までの様々な運動は参考となるかもしれない。
 例えば、100万〜300万フリーターが一時的にでも連帯すれぱ、それはただちに恐るべき脅威になるはずである。現実の例で言えば、争議中のチェーン店について「わたしはここへは行きません」「関連商品もボイコットします」というネット上の呼びかけがある。これに応じてフリーター(に限らず誰でも)がその企業に対するボイコットを実行するとすれば、それは強大な社会的武器になる。購買ボイコットと同時に、「ここでは私は決して働きません」という労働ボイコットもありえる。それは、たとえ「自然発生的に生み出された」「組織されざる」ボイコット運動だとしても、「意識的に生み出した」「組織された」旧来の闘争方法と比べてさえ、十分な社会的圧力を発揮できるはずである。これは、釜ヶ崎のような旧来の寄せ場で言えば、ケタ落ち飯場や手配師を労働者が自然発生的に労働ボイコットするように、運動体がビラ等で情報宣伝することにあたる。日雇労働者の組合組織率は1%にも満たないが、自然発生的な集団行動を促すにあたって、組織的かつ意識的な情報宣伝は寄せ場では相当の力を持っていた。


 フリーターには未来はあるのだろうか、ないのだろうか。疑いなく、現状のままならフリーターの経済的状況については明るい展望はあまりない。多業種日雇労働者としてのフリーターは、すでに一般からの様々な差別・偏見にさらされており、さらに資本による学歴差別、女性差別、労働時間差差別、年齢差別の対象として、高学歴のフルタイム正規雇用労働者に対して不当に低い賃金に押し込められ続けている。また、近い将来に多くのフリーターが正規雇用労働者になろうとしても、それが現実に可能かどうかは疑わしい。こういった諸条件が重なる結果、現在多くの日雇労働者がそうであるように、相当数のフリーターの生活が経済的に破綻し、意志に反して野宿生活化する可能性がある。こういった問題は、なんとしても解決しなければならない。
 この点で、日雇労働者やフリーターといった不安定就労層にとって避けるべき悪しき目標が、階層分化の拡大と野宿者増加を見せる(そして日本が「構造改革」によって追随し続けようとする)アメリカ・モデルであることは疑いない。「努力した企業、個人が正当に報われる機会均等社会」「能力主義・成果主義、市場原理主義を主体にした経済・社会システム」。しかし、それは一部の中核・正規雇用労働者と周辺・不安定労働者との格差を拡大し、数十万に及ぶ野宿者を出し続けてきた。
 それに対抗する現実の「解」の一つは、フリーターでいたい人が一生フリーターでい続けられるような条件作り、一つにはいわゆるオランダ・モデルが実行したような広範囲なワークシェアリングである。それは、正規雇用とアルバイトとの労働時間差差別を解消し、両者の法的扱いを平等化する。その場合、労働者は、自分の収入と自由時間との組み合わせの様々な選択肢を持つことができる。フリーターかサラリーマンか、正規雇用か不安定就労かという対立は、「正規雇用」内の労働時間の違いとして消えるわけである。
 だが、これは再び寄せ場で言えば、春闘などによる賃上げ(労働時間差差別の解消)、日雇健康保険や日雇雇用保険などの諸セーフティネットの獲得(法的立場の平等化)などにあたる。この点についても寄せ場の運動は、十分とは言えないまでも、ある程度の成果をあげてきた。その他にも、各種ボランティアによる福祉活動の充実は、特に寄せ場ではきわだっていた。にもかかわらず、日雇労働者にとって最も好条件だったバブル期でさえ、寄せ場から野宿者、路上死は絶えることはなかったのだ。
 これは主に、日雇労働者が「景気の安全弁」として不況期にまっさきにクビを切られるという事情によっている。つまりこのことは、フリーター層にとって期待されるワークシェアリングは、解雇における不平等を廃止し、それを(その企業の)労働者全体の労働時間短縮によって代える徹底した段階まで進まなければ妥当な解決策にはならないことを示している。その意味で、不安定就労=フリーターの「層」としての危機は、日本経済の浮き沈みに連動して永続的に続くだろう。
 そして、更にこの点で問題は、ワークシェアリングがどれだけの大きさの問題の「解」になっているかということかもしれない。例えばそれは、なんだかんだいっても豊かな先進国である日本経済の国内問題の緩和策にすぎないのではないか。ワークシェアリングが「正規雇用・フルタイム労働」と「非正規雇用・不安定労働」の対立を「正規雇用」内の労働時間の程度差に解消するものだとすれば、それは資本の内部に、フリーター層が新たな(よりマシな)形で取り込まれることを意味している。しかし、それが資本の「補完と延命」ではないという保証はどこにもない。小倉利丸は「フリーターや高い離職・転職率は、学歴のない若年労働者階級による組織されざる階級闘争」だと言ったが、そのとき「組織されざる階級闘争」の主体は「正規雇用・短時間労働者」として資本に「正規」に吸収されることになる。それは例えば、グローバルな資本主義がもたらす「南北問題」「環境破壊」に抵抗するものでは全くない。また、資本と連動した「市場原理」「競争原理」に代わる原理を提出するものでもない。少し意地悪く言うなら、そこでは「自分の時間」を重んじる閉鎖的な生活スタイルと、「競争原理」を重んじる「独善的」生活スタイルが中和されるにすぎない。
 (「正規雇用志向型」以外の)フリーター層は、現実としては資本によって「使い捨て」可能な低賃金労働者でありながら、資本から「心理的には自由」なのだと言う。確かに、このフリーター層の多くは、競争原理や会社正規雇用にともなう諸拘束からは自由なのかもしれない。しかし、この層がワークシェアリングによって資本との「正規」の一体化に帰着するとき、「自分のために働く」という閉鎖的な生活スタイルが「競争原理」や「正規雇用」にともなう諸拘束と一体化してしまうことになる。それは、確かに「よりマシな」形態なのかもしれない。しかし、これは可能性ある未来をもたらすものなのだろうか。


 ここで、問題を形式的に簡略化して考え直してみよう。
 雇用をめぐる競争社会の状況は、「いす取りゲーム」と喩えることができる。
「いす取りゲーム」とは、人数に対していすの数が足りなくて、音楽が止まると一斉にいすを取り合う、あのゲームのことである。そして、 この比喩の場合、いすとは「仕事」を指している。
例えば、ゲームでプレイヤーが5人、いすの数が4つだとしよう。そうすれば、4人がイスを取り、1人がいすからあぶれることになる。さて、ゲームでいすをとれなかった人は「自分の努力が足りなかった。自業自得だ」と思うかもしれない。けれども、いすの数が人数より少ない限り、プレイヤーの行動の如何に関わらず、必ず誰かがいすからあぶれる。仮りにそのあぶれた人が次のゲームでうんと努力すれば、今度は他の4人の誰かのいすがなくなってしまう。また、考えてみれば、5人全員が今の100倍、1000倍の努力をしたとしても、1人がいすからあぶれるということでは全然変わらないではないか。そして、仕事がなくなれば、収入がなくなり、いずれは家賃も払えなくなり、最後には野宿に至るというのは当然な話だ。要するに、「失業」であれ「野宿」であれ、それを真に決定するものは、個人の努力ではなく数の問題、つまり構造的な問題なのである。
 ここで、ゲームにおける「いす」を「正規雇用=正社員」、「いすからあぶれる」ことを「不安定就労」と考えれば、「いす取りゲーム」をフリーターの激増の譬えと考えることもできる。いすの数が参加者の数より少ない限り、必然的に一定数の不安定就労層が発生する。これももちろん構造的な問題であって、プレイヤーの行動=個人の努力とは100%関係がない。努力すれば全員が「いす」を取れる、ということはあり得ないからだ。そこから見れば、「いわゆる勝ち組の人たちは相応の努力をしてるし、苦労も経験しています。負け組みといわれる人々は、もうこれ以上はどうしようもないって限界を感じるまで努力をしたと言いきれますか? 中途半端な努力で良い気になってませんか?」というような「負け組自業自得論」(あるいは「野宿者自業自得論」)は、「独善」という以上に完全なナンセンスである。
 さて、アルフィ・コーンの「競争社会を越えて」などにある議論だが、ゲームには「競争原理」のものと「協力原理」のものと2つに分類される。「競争ゲーム」は、相手が勝つか自分が勝つかという(ゼロサム)ゲームであって、相手が失敗することを目的にゲームを行う。テニスや将棋・チェスが典型である。それに対して「協力ゲーム」は、競技者全員が協力し合って結果を高めることを目的とする。「蹴鞠」が良い例である。
 「いす取りゲーム」は前者の「競争ゲーム」の一つと言うこともできる(注1)。ところで、このゲームは、本質的に欠陥をはらむものでありながら、それを廃棄することは困難であるように見える。そこで、この競争原理から成る「いす取りゲーム」と平行して、別の規則のゲームによる別の「いす」を作り出してしまえばどうか。あるいは、「いす取りゲーム」と同時に、場合によっては同じ「いす」を使ってでも別のゲームを展開させてしまうとすればどうか。つまり、「競争ゲーム」としての「いす取りゲーム」と平行して、別の「協力ゲーム」を展開させ走らせるという可能性はないだろうか。


 簡単に言えば、「いす取りゲーム」を前提とする限り、解決策は絶対に3つしかない。「1・人を減らす」「2・いすを分け合う」「3・いすを増やす」の3つである。(注2)
 まず、「1」の「人を減らす」はもちろん無理(ただし、数十年のちには、少子高齢化のために日本全体として「人手不足」になることが確実視されているが)。「2」の「いすを分け合う」は、ワークシェアリングである。「3」の「いすを増やす」は、仕事を増やすことであり、具体的には「景気の回復」、ニューディール政策で有名な「公的就労事業」、その他に、社会的貢献と収益性を両立させようとする「社会的起業」、他に生産協同組合、NPO、NGOの設立による就労などがある。
 例えば、ワークシェアリングは「いす取りゲーム」の譬えの中でのいすの「わかちあい」と言うことができる。それは、「いすと参加者の数」という構造自体を変えることなく、そこでのゲームの規則を変化させる方法である。つまりそれは、従来と全く同じ構造の中で、全員の協力によってどれだけの人数が座れるかを試みる「協力ゲーム」の一種なのである。
 「いすを分け合う」ワークシェアリングの利点は、参加者がいすを求めて「100倍、1000倍」の努力を払うような無駄な競争をせずに、全員があっさり(協力して)座ることができるということにある。「必ず何人かがいすからあぶれる」という不公平さは、これによって解消される。
 だが、先に言ったように、ワークシェアリングは資本の内部にフリーター層が新たな(よりマシな)形で取り込まれることを意味する。つまり、この譬えにある「いす」自体、日本の市場経済内部のものでしかない。だとすれば、その中で「わかちあい」をいくらしても、原理的に何も変わらない。それは「会社」に代わる共同性の形式ではなく、むしろその内部での「わかちあい=協力」だからである。
 事実、フリーターによるワークシェアリング待望論は、「自分の今の生活スタイルを守る」ものとして言われることがある。しかし、その守るべき「自分の生活スタイル」は、従来の「国家」「資本」「家族」にある程度依存した上で成り立っているのではないか。日本という豊かな「国家」、経済的な援助を行う「家族」、そして雇用を行う「資本」の余力の上にである。さらに言えば、それらの生活スタイルは、資本による世界的な南北格差と環境破壊の上に立って作られているのかもしれない。そうした「自分の生活スタイルを守る」ことは、あくまで衣食住足りた狭い社会での現状肯定でしかないようにも見える。従来の「国家」「資本」「家族」に依存した上で「自分のため」だけに働くという生活スタイルは、現状の世界への批判と変化の展望を持てない限り、保守化し、退嬰化することになるのではないか。
 その意味でも、ワークシェアリングはとりあえず(当座)の、日本経済内部の(局地的な)解決策にすぎないだろう。では、ワークシェアリングが「当座の局地的」な解にすぎないとすれば、そうではない「永続的でグローバル」な解をどう考えればいいのだろうか。少なくとも、「中期的で対外的」な解をどう考えればいいのだろうか。 

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 ここで、もう一つの問題がある。それは、「協力」が「競争」とくらべて倫理的に優越するかということである(例えば、アルフィ・コーンの目的は「協力」が「競争」に倫理的にも効率的にも優越するということの証明にある)。むしろ、「協力」は「競争」とは互いに「補完」関係にあると言うべきではないか。
 エスピン=アンデルセンの「福祉資本主義の3つの世界」(1990)や柄谷行人他の「NAM 原理」(2000)にある議論だが、近代国家における「共同体」あるいは広義の「福祉」のあり方は、「資本=市場」「国家=行政」「家族=共同体」の3つの極によって規定されている。「資本」が競争原理によって成立するとすれば、「国家」は税の「再分配」、「家族」は「相互扶助」を行っている。つまり、「資本」の競争原理に対して、「国家」は所得「再分配」機能(公的サービスや生活保護などの公的セーフティネット等)を行い、「家族」は無条件の「相互扶助」を行う。そしてそれらが、国家内部、血族内部での「共感」「同質性」にもとづく経済的「協力ゲーム」の一種であることは疑いない(近代日本では、資本内部ですら「会社内部の厚生・福祉」という「協力ゲーム」が充実していた)。
 そして、「再分配」と「相互扶助」の協力ゲームは、競争ゲームに基づく「資本」活動と相互補完している。「家族」は「資本」活動から得た賃金で家族の維持と養育にあたり、同時に労働力を再生産する。「資本」の活動によって階級的、階層的な矛盾と限界が露わにされてくると、「国家」による再分配がそれを補完する。「家族」の機能がほころびを見せてくると、「国家」がその補完(保育園、介護年金…)をリードする、などなど。つまり、「国家」「家族」内部の「協力ゲーム」は、資本による「競争ゲーム」と倫理的に同等であり、むしろ互いに「補完」関係に立って社会関係を作り上げる。
 つまり、「競争社会」への抵抗としての「協力ゲーム」を示すとすれば、それは「国家」「家族」内部のゲームではありえない。言い換えれば、「競争」からの逃避は、無批判な「国家・家族の一体感=協力」へと帰着する危うさを持っている。しかし、「競争社会」への抵抗としての「協力ゲーム」が「国民国家としての一体性」や「家族の一体性」へと帰着してしまうのでは「未来はない」だろう。なぜなら、失業にさらされやすく、家族からも切り離され、国家からも放置されてきた寄せ場の日雇労働者と野宿者が「国家」「資本」「家族」の矛盾点と限界点を集約する存在であったように、今、フリーター層をはじめ、多くの人々が「国家」「資本」「家族」の矛盾と限界に直面しつつあるからだ。ほころび始めた「国家」「資本」「家族」の中に、不安定就労層を再び押し込めることに「未来」はありうるだろうか。むしろそれらとは別の可能性が必要なのではないだろうか。その逆に、「競争社会」への抵抗としての「協力ゲーム」は、従来の国家、資本、家族への「闘争としての協力ゲーム」(=共同闘争)として、つまり、従来の「ゲームの規則」に立たない者どうしの協力として考えるべきなのではないだろうか。
(ここではあまり区別して使っていないが、「競争社会」の「競争」と、市場における「競争」とはもちろん意味が異なる)。

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 「いす取りゲーム」を前提とする限り、解決策は絶対に3つしかない、「1・人を減らす」「2・いすを分け合う」「3・いすを増やす」の3つである、と言った。
 そして、「いすを増やす」つまり「仕事を増やす」ことの例として、「景気の回復」、ニューディール政策で有名な「公的就労」、その他に、社会的貢献と収益性を両立させようとする「社会的起業」、NPO、NGOの設立による就労などを挙げた。これらの「いすの創出」は、それぞれどのような意義を持つだろうか。
 例えば、「景気の回復」によっても確かに「いす」は増える。しかし、「永遠の好況」というものがありえない以上、当然ながら景気の回復の待望は文字通り「当座」の解決策にとどまる。しかも、景気変動の度に「景気の安全弁」として使い捨てを強いられてきた日雇労働者の歴史を考えれば、景気変動は正規雇用労働者に一方的に有利なものとなることは明らかである。そして、「景気の回復」によって得られる「いす」が、依然として従来の日本経済内部の「いす」でしかない、ということが問題として残る。
 そして、「公的就労」もまた「いす」の創出となる。しかし、これは国家による雇用であって、その意味では資本と労働者との間の雇用関係とは意味が異なる。つまり、それはむしろ国家による再分配の一例なのである。経済学者の小野善康がよく言っていることだが、生活保護が労働なしの「再分配」であるのに対して、公的就労は労働を伴う再分配なのである。
 例えば、野宿者対策のために「公的就労」の実現を行政に求めると、行政は常に「それをする予算がない」と答える。だが、行政が憲法第25条「生存権・国の社会的使命」すなわち「(1)すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」「(2)国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」を遵守するのなら、行政はどっちみち困窮した人々に「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ための生活費を支給しなければならない。それぐらいなら、失業者を雇用し、市場に任せては実現困難だが将来的に必要とされるハード・ソフト両面の事業を行政の手によって行うというのが合理的である。
 もちろん、「公的就労」をはじめとする社会保障が行政による再分配である以上、その強調は「国家」の必要性の強調へとただちにつながるだろう。それは、ワークシェアリングが資本による労働者間の再分配であって、それだけなら「資本」の必要性の強調につながるのとパラレルである。
 しかし、ここでは、そもそも日本は先進国なみの「福祉国家」であったことなど一度もなかったという事実を考えるべきなのだ。例えば、社会保障給付費総額の対国民所得比を国際比較すると、日本は先進諸国に対して一貫してきわめて低い水準にあり続けている。一般に、福祉国家としての日本の特徴は、生活保障が「国家」によってではなく「家族」と「会社」によって担われてきた点にあるとされている。累進課税をはじめとする日本的な再分配は、所得格差を一定以内に収めることにはかなりの程度成功してきたが、失業層に対する保証についてはほとんど無効だった。「国家あるいは行政は、生活に困った人に対する社会保障を用意している」という前提は、「憲法第25条」および「生活保護法」の存在によって規定されているが、現実には日本は先進国の中でも「国家」による生活保障が一貫してきわめて弱い。その弱さは、とりわけ野宿者問題において集中的に示されている。しかも、今まさに、今まで機能してきた「家族」と「会社」の生活保障能力が急速に低下しつつあるのである。そうした状態の中では、「国家は失業・野宿の責任を取れ」という形で国家による「再分配」を求めることは、必要かつ妥当な戦略と言うべきなのだ。国家でなければできない事がある以上、たとえそれが(ワークシェアリングと同様)「両刃の剣」であろうと、現実の状況を鑑みた上でわれわれは「使えるものは使う」。

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 とりあえず有効な選択として、上にワークシェアリングと公的就労を挙げたわけである。それらはそれぞれ「資本」と「国家」による再分配の一形態であって、日本「国家」「資本」内での「協力ゲーム」の導入と言える。
  しかし、さきに言ったように、ワークシェアリングは資本の内部にフリーター層・失業者層が新たな(よりマシな)形で取り込まれることを意味する。つまり、そこでの「いす取りゲーム」の「いす」自体が、日本の市場経済内部のものでしかない。むしろ、ワークシェアリングと公的就労という従来の「国家」と「資本」の再利用=リサイクルは、従来の「国家」「資本」「家族」の枠を離れたより広い「協力ゲーム」へのきっかけとして考えるべきではないだろうか。そこで、「ゲーム」の解決策として、資本の外に新たな「いす」を作り出してはどうかという考え方があるわけである。
 「国家」と「資本」のリサイクルの先に来る「新たないすの創出」の例として、社会的貢献と収益性を両立させようとする社会的起業(ソーシャル・ベンチャー)、生産協同組合、NPO、NGOの設立による就労などを挙げた。それが、市場原理による日本国内での労働以上に、世界的な南北問題や環境問題をはじめとする様々な社会問題に接続しえることは確実である。競争原理に基づく資本への抵抗が、「国家」と「家族」を越えた質的、量的にグローバルな「わかちあい=協力ゲーム」にまでいくべきだとすれば、これは望むべき方向である。
 もちろん、社会的起業、生産協同組合、NPO、NGOはそれぞれいくつもの利点と問題点を持っている。ここで一つだけ例を挙げると、それはNPO、NGOの行政化、産業化という問題である。例えば、アメリカ全土ではホームレス支援のためのサービス拠点が2万1000あり、4万のプログラムが提供されているが、そのうち州、郡、市の直接事業は14%、NPOが85%だとされている(1996年)。それほどにNPOの活動は活発なのだが、言い換えれば、これらNPOは行政の資金援助と引き替えに、いわば社会保証制度を民間で肩代わりしているという面がある。行政と民間団体のネットワークによって、社会保障制度の拡大と多様化が行われているわけである。そして、ホームレス支援NPOでは、その中で膨大な専従スタッフや事務作業を抱え込んでいく結果、予算の大部分がホームレス当事者に行き渡らずNPOスタッフの人件費に消えていくという、NPOの「ホームレス産業」化が問題とされることがある。そして、これはある程度まで、日本でも進行している現実である。
 NPO・NGOは、多くの分野で将来、こうした「ホームレス産業」と同型の問題を抱えていくのかもしれない。つまり、従来の一元的・硬直的な国家の手法が、NPO、NGO、ボランティア団体とのネットワーク化によって「多様性と効率性」の両立を図り、新たな形で延命していくわけである。企業がすべてを「自社」の正社員の元で行う一元的管理システムから、アウトソーシングに見られるような外部とのネットワークによる「発注と評価」というシステムへと移行しているように(これはフリーター激増の一因である)、国家は社会のあらゆる領域を自らの手で一元的に統括するスタイルから、その機能の一部をNPO、NGOへの委譲し、その結果を「評価、管理」するというスタイルへと移行しつつあるように見える。
 だとすれば、NPO、NGOの発展は、われわれにとって「両刃の剣」となる。それは、新たな形態の「国家」の管理、つまり社会のあらゆる多様な細部にまで張り巡らされる新たな国家「管理」の一翼を担うことになりうるからだ。
 しかし、それが「両刃の剣」であるのなら、われわれはむしろその可能性に賭けるべきなのかもしれない。世界的な社会構造の変化の中で、従来日本で機能し続けてきた「国家」「資本」「家族」は、その機能と意義を大きく揺らがされている。その結果として、「国家」「資本」「家族」は新たな社会構造に対応するための変容を自ら招き寄せている。つまり、バブル崩壊後の資本の正規雇用絞り込みは、若年層の「会社正規雇用」離れと一致してフリーターの激増を生んだ。それと同様に、行政の民間団体とのネットワーク化は、ボランティア活動の活発化と時期的に一致して、NPO、NGOとの新たな共同作業を模索しつつある。それらNPO、NGOをはじめとする民間団体は、安上がりな民間官僚組織となるのか、あるいは従来の行政とのネットワークの中で、事実上のイニシアティヴを持って社会をリードしていくのかという、二つを両極とする可能性を常に持っている。それは、社会構造の変化の中で現れた、可能性と危険性なのだろう。
 その場合、二つの可能性のどちらに傾くかは、「国家」「資本」「家族」への抵抗のあり方にかかってくるだろう。ちょうど、失業にさらされやすく、家族からも切り離され、国家からも放置されてきた寄せ場の日雇労働者と野宿者が、「国家」「資本」「家族」の矛盾点と限界点を集約する存在であったように、今、フリーター層をはじめ、多くの人々が「国家」「資本」「家族」の矛盾と限界に直面しつつある。そして、日雇労働運動、野宿者運動は「健全な社会からこぼれおちたホームレスを社会復帰させる」というものではなかった。むしろ、日雇労働者、野宿者に対する社会の不当な差別と闘い、さらには寄せ場という「日本の縮図」から日本社会そのものの構造を撃つというもののはずだった。「国家」「資本」「家族」の矛盾と限界に直面しつつ、そこからどのような変革が可能かということが常に問題だったのである。フリーター層が直面しつつある問題も、おそらくここに集約されるだろう。「健全な社会からこぼれおちたホームレスやフリーターを社会復帰させる」という方向ではなく、不安定就労層、野宿者を生み出し続ける社会のシステムそのものこそを問い、変革するという方向が必要なのである。
 事実、 「行政」と「資本」と「家族」の変容による矛盾と限界を、日雇労働者・野宿者の現状はまざまざと見せてきた。その意味でも、よく言われるように「釜ヶ崎は日本の縮図」である。だが、その従来の「協力ゲーム」=「競争ゲーム」の補完関係からはじきとばされた最底辺の「寄せ場」では、実は多様な「闘争としての協力ゲーム」=「共闘」が展開されていた。例えば、80年代に外国人労働者が日本で不当な低賃金重労働や契約違反、そして暴力事件に遭っていたとき、寄せ場の労働者・活動家は、「これは自分たちの問題そのものだ」として救援・連帯活動を開始した。また、神戸・淡路震災の際には、多くの釜ヶ崎の労働者が「自分たちは経済的な人災で住居を失ったが、震災の被災者は天災によって家を失った」として、炊き出しなどのボランティアに参加した。また逆に、西成署刑事の汚職に始まった90年釜ヶ崎暴動のとき、機動隊に暴行されながら闘う労働者たちの姿をテレビで見た多くの少年たちが、「これは自分の問題だ」と言って、暴動に参加しに全国から駆けつけてきた(これについては別に触れる)。「資本」からも「行政」からも、そして「家族」からも切り捨てられた底辺としての釜ヶ崎は、それまで予想もしなかったような形での様々な「闘争=協力」「連帯」の新しいきっかけを生んできた。それら質的、量的により「深く」「広い」協力もまた、ありうべき「日本の縮図」ではなかったか。それらの多くは単発的で局所的ではあったが、その中の幾つかはこれから中期的かつ対外的なものに育っていく可能性もありえるのかもしれない。
 従来の寄せ場の日雇労働市場としての機能喪失(そして野宿者の激増)と同時進行したフリーターの激増によって、あらゆる職種にわたる不安定就労形態の拡大が実現した。それは、あらゆる職域、地域にわたる日雇労働市場化、つまりアルバイト情報誌と携帯電話を軸にした日本全土の「寄せ場」化であり、フリーターは現実として多業種日雇労働者だからである。したがって、寄せ場という日本の縮図から「国家」「資本」「家族」の矛盾と限界を越えるという課題は、フリーター層の拡大とともに継続されていく。日雇労働者層とフリーター層との「これ(不安定就労と野宿)は自分の問題だ」という「連帯」は、質的により広い共闘であり、新たな「日本の縮図」でありうるはずである。

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 最初に引用したように、村上龍は「これからは競争社会の時代になるって言われたら、じゃあオレはアンチ競争社会の世界で生きるために、サラリーマンはやめて田舎でトマトを作ろう、とかね。それってみんな逃げてるだけですよ」と言う。「サラリーマンはやめて田舎でトマトを」作るのが、「逃げてるだけ」かどうかは知らない。ただ、「アンチ競争社会」とは、むしろ「競争社会」に対する抵抗の一つの方法と考えるべきだったのかもしれない。「競争社会」への拒否感がフリーター層に強いとしたら、それは「社会からの逃避」や「向上心のなさ」というよりも、競争社会を否定する「協力社会」への適応の可能性において考えるべきなのかもしれない。問題は、むしろ、その「協力」の行方にある。それは、「愛国主義」や「家族主義」内部の「協力」へと回収されてしまうのか、あるいはそれらを批判するより深く広い「闘争としての協力ゲーム」に至るのか。
 「いい大学やいい企業に」入る競争は、上層の方でのみ参加できる超激烈なものになった。その中で、二極分解の片方の層は、将来のために努力するのを早めに切り上げて「今を楽しむ」方向に価値を見いだすようになりつつある。この撤退は、「まったり」とも言われている。しかし、「働くことの意味」が「国」「会社」「家族」のためから遠く離れて「自分のため」だけになったとすれば、その「自分のため」だけに働くスタイルの行き詰まり感は、想像的「血族」や「国家」への無批判な一体感へと先祖帰りする危険を持っている。「まったり」というスタイルは、その危険に対して抵抗できるものなのだろうか。むしろ、「働くことの意味」は、もはや「国家」「資本」「家族」を相対化する新たな「社会」像の中で求められるのではないのか。
 日本における経済格差が将来フリーターを中心に激化することは疑えない。しかし、枠にはまらない「自由」を得たフリーターが現時点で求めているものは、経済的な闘争などではないのかもしれない。むしろ多くのフリーターが求めているのは、学校、会社のような退屈な、閉じられた世界の対極にくる濃密な時間、生の実感、そして予想外の出会いを伴う(メル友みたいな)コミュニケーションの機会なのかもしれない。その「濃密な空間」とコミュニケーションは、民族的、国家的共同体の中で得られるのだろうか。それとも、質的、量的により「広い」グローバルな「わかちあい=協力ゲーム」へという方向で求められるのだろうか。その双方が今、萌芽状態にあり、未知数である。
 「フリーター層は社会から逃げている」と言われている。しかし、上に言った意味で、フリーターが社会と労働との新たな姿勢を作り出していく可能性はある。そしてそれは、今は手つかずの形で残されているはずである。


注1
しかし、実際には「椅子取りゲーム」は「競争」の比喩として適切とは言えない。つまり、音楽が止まったときに椅子を取り合うあのゲームは、その勝敗をほとんど「偶然」にまかせている。「椅子の前で足踏みする」、「人を暴力で押しのけて座る」といった違反行為がなければ、椅子取りゲームは体力や学力にほとんど関係しない、むしろ非常に公平なゲームと言える。その意味で、椅子取りゲームは「くじ引き」をゲーム化したものに近い。われわれが椅子取りゲームをしたとき感じる一種の爽快感は、この「公平」さのためなのだろう。
「競争社会」の比喩としては、本当は「椅子取りゲーム」よりも「ビーチフラッグ」の方が適当だろう。後ろ向きに腹這いになり、スタートの合図とともに遠くの旗を取り合うあのゲーム。これは明快に体力の「強い者」が勝つゲームである。しかも、現実社会に当てはめて考えれば、スタート地点自体、すでに格差が作られている。つまり、家庭において「資産」がある、あるいは両親の「学力」が高いこどもが、その後の学力競争に関してかなり有利であることはよく知られている。つまり、ある人は旗の10b手前、別の人は15b、別の人は20bにいて、そこからスタートするという具合である。こうして、ある程度以上スタート地点から遠のいた参加者たちの多くは、最初から「競争」をあきらめて「今を楽しむ」(「まったり」)方向に向かうことになる。
以上のような事情にもかかわらず「椅子取りゲーム」の譬えを使うのは、ひとえにその「わかり易さ」のためである。そして、より重要な点として、失業や野宿に陥るのは「たまたま」だったのではないか、何らかの要因がたまたま重なれば誰でもそうなる可能性があったのではないかということを暗示するためである。つまり社会における「偶然」性の問題を示す意味がある。

注2
「いす取りゲーム」の解決策には、他に「いすを取らない」という方法もある。つまり、「労働の拒否」である。
例えば、すが(漢字が出ないな)秀美が「重力02」で言っている。

「僕は基本的に、パラサイトしてしまえばいいという立場です。そういう意味でだめ連はいいと思うんだよね。仕事しなければいいんだよ。」
「(大杉)それはルンプロですらないということですか」
「ルンプロだけれども、親に限らず誰かにパラサイトすればいいだろうと。」  

「労働の拒否」による価値の創造というアイデアは、例えばイタリアにおける1968年を理論的に捉えようとしたネグリにも見られる。
ところで、日本とイタリアの共通点の一つは、先進国の中では「家族」の絆が極めて強いということである。
西ヨーロッパ各国は、若年層の高失業率によって、未成年を含む若年ホームレスが極めて多い。(例えば、2002年10月のBBCの記事によれば「スコットランドでは、毎年1万6000人が25才前にホームレスになる。毎年約6万人のティーンエイジャーが学校を離れ、同時にその多くが家を出るため」)。
これに対して、イタリアやポルトガルでは、若年層の高失業率にもかかわらず、若い層のホームレスは少ないという。なぜなら、家族の扶助を受けているからである。イギリス、アメリカなどでは、若者は学校を出たら家を離れるのが社会常識とされている。仮に若者が野宿生活に至ろうとも、実家に帰って「世話になる」という発想は少ない。
もちろん、そのどちらがいいかは微妙な問題である。例えば、多くの日本人から見れば、イギリスのような事情を見ると、「親は何をしてるんだろう。こどもがホームレスになっても気にしないのだろうか」と思うだろう。一方で、多くのイギリス人からすれば、日本のように「親がいつまでもこどもを無条件に扶養する」のは、すごく気持ち悪く見えるに違いない。(その意味で、日本では若年の野宿者はイギリスやアメリカほどには増加しないだろう)。
問題は、かくも「家族の相互扶助」が強固に残されているイタリアや日本のような国で「仕事しなければいい」「親に限らずパラサイトすればいい」という発想が持つ意味である。日本では、「仕事しなければ」基本的に「家族の相互扶助」しか頼れない。「国家」「資本」による失業対策はきわめて手薄いからだ。したがって、「仕事をしない」選択は、そのまま「家族」の更なる強化につながる可能性がきわめて高い。(ネグリにおけるドゥルーズの影響は明らかだが)「アンチ・オイディプス」なんて話では全然ないわけである。
つまり、国家、資本、家族への闘争という観点からすれば、このような発想は論外である。「労働の拒否」が意味を持つのは、資本への労働ボイコット運動としてだろう。


  2001.3.6〜2002.5.30 修正2003・7・8〜7・22




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