U

                                                       
 とはいえ、「ホットロード」は「性」の問題について語る物語だったわけではない。もともと「ホットロード」は、和希の「暴走族」の体験を語る物語だった。そして、そのほとんどは「族」での和希と春山との物語になっている。「ホットロード」は、「春山洋志 16―18」「宮市和希 14―17」という二行と、「あたしたちの道は ずっとつづいてる」という二人の姿で最後のページを閉じる。そうして見れば、「ホットロード」は一貫して和希と春山の物語であるように見える。つまり、「ホットロード」は主人公たちが恋愛関係を作っていく「ラブストーリー」として描かれている。
 ただ、和希と春山は何度も「別れ話」が出たというように、「ホットロード」の中で決して単調な関係をたどったわけではなかった。実際にこの2人の関係は、物語の中で少なくとも一回か二回の大きな変容を経ながら作りあげられている。しかも「ホットロード」は、その2人の関係の変化を中心に語ってはいない。むしろ2人の関係の最も大きな変容は、物語の結末近くにならなければやってこないのだ。言い換えれば、「ホットロード」の物語のほとんどで、和希と春山はその「ラブストーリー」と同時に、ある意味で恋愛以前の関係の中に、彼ら自身意識しないままにい続けていたように見える。そのことは、2人の関係の始まりに近いころ、ほとんど気づかないようなさりげない形で示されている。
 和希が春山にはじめて会うのは「ホットロード」開始の「ママの誕生日」の翌日、絵里と宏子さんに連れられて、春山のバイト先のガソリンスタンドに行ってのことだった。出会いはひどかったが、何度か会ううちに、何となく和希は「ハルヤマの彼女」ということになっていく。そんなある日、和希と絵里が江ノ島近くの堤防の上で話をしている。
 
「くっくっ あのひとたちー 和希があの春山先パイの彼女だって知ったらどんな顔すっかな」
「… 彼女じゃないよ」
「まったまたぁ〜 へへへっ」
「ほんとだよ だいだいオレの女なんていういー方するヤツきらいだし なんかよくわかんないやつだし」
「でもうちのおねーちゃん 〃ハルヤマはメチャクチャ優しーやつ〃っていってたよー」
「やさしくなんかないよっ わがままでお天気屋で きげんの悪いときはひとをキズつけるよーなことヘーキで いう…し (あ だれかに似てる)」
「あっはっはー よぉく知ってんじゃあん? ひゅーひゅー」「でも あたし 先パイにだったら泣かされてもいいなー」(T―126〜127)。
 
 和希は春山の特徴(悪口?)を並べたてる時、(あ だれかに似てる)と、「プァ〜」とある人物の顔を思い浮かべている。それは誰だっただろうか。それはすごく簡単に描かれているので、うっかりすると和希本人のことだとカンちがいしそうになる。しかしよく見れば、あるいは少し考えてみればわかることだが、そこで春山に「似てる」と思い出されているのは、和希の「ママ」なのだ。「わがままでお天気やで きげんの悪いときはひとをキズつけるよーなことヘーキでいう」。「この人は35才のくせにすっごいお天気やで いつまでもお嬢さまで わがままで…」。けれどもその連想は、「あっはっはー よぉく知ってんじゃあん?」という絵里のひやかしでたちまちかき消されてしまうし、和希自身もそれ以降、そのことを完全に忘れてしまっているように見える。しかし、「ホットロード」自身によってただちにかき消されるとしても、この「春山」=「ママ」という連想は、物語の枠組み自体を変化させかねないようなことを語っている。つまり、和希は春山と接近していくのとちょうど反比例するように「ママ」から離れていくけれども、和希は無意識のうちに春山を「ママ」と「似てる」人物として捉えているのだ。「ママ」に対して「きたない」「すごくきたない」と思いながら、なぜ和希はよりによって「ママ」に「似てる」と思う男とつきあい「夢中」(Vー151)にまでなるのだろうか。これは、考えてみれば奇妙なことではないだろうか。多分このことは、「暴走族」に入り、家出し、できる限り「ママ」から離れていこうとしていながら、和希は実は「ママ」との関係の中で最初から最後まで動き回っていたのではないか、ということを読者に考えさせる。つまり「ホットロード」は「ラブストーリー」であると同時に、実は一貫して「母と娘の物語」ではなかったのか、ということを。
 多分、このことに気づいているかどうかで「ホットロード」全体の印象はかなり違ったものになってしまうだろう。つまり、「ホットロード」の最も重要な登場人物、和希、春山、「ママ」の関係は、和希を中心にして親子と恋人という別々のものとしてあるのではなくて、3人のうち1人でも欠ければ他の2人の関係も成立しなくなるようなものとして作られている。
 実際に「ホットロード」の大枠の筋を思い出してみると、それは和希という主人公を中心にして、「ママ」と「春山」が交互に和希の前に姿を現す、という構造として進められていたことに読者は気づくだろう。この「ママ」と「春山」は、片方が和希の前から消えると片方が現れる、というように「ホットロード」の中で登場し、2人がばったりと顔を合わせるようなことは、ここでも「細心の注意を払ってというまでに」回避されている。例えば一回、春山は夜の10時40分に和希の家に行くのだが、そういう時には和希のママは恋人と会ってて外出中のわけである。
 唯一の例外は、春山と2度目に顔を合わせたしばらく後、和希とママがファミリーレストランに行ったときに、同じ店内に春山たちがいたシーンだろう。ただ、奇妙なことに、和希は春山に気づくが、春山は和希とママに全く気づかないし、当然ママも春山の存在を全く意識しない。同じ店内にいながら、「ママ」と「春山」は全くちがう空間に存在しているかのようだ。実際にはこの2人はただ一度、直接会って言葉を交わすのだが、それは和希と「ママ」の関係が決定的に変化する場面であり、それについては後で触れる。ところで、和希が春山に最初に出会ったときは、とにかくケンカである。売り言葉に買い言葉で、和希は春山をどつき、春山はキレてバケツを投げ飛ばして「二度とくんなっ」と言う。とはいえ、最初の出会いでいきなりケンカをはじめるというのはラブストーリーのある種のパターンである。「ホットロード」もその定石をふんで、いかにも最初からラブストーリーという甘い雰囲気を描くことを避けているのかもしれない。
 しかしその後「ホットロード」は、ラブストーリーとしてのパターンをたどっていたのだろうか。春山と和希はどんどん親しくなり、一緒に暮らしはじめ、お互いに相手を必要としていることがはっきりとしていく。けれども、そういう時ラブストーリーに描かれるはずの相思相愛の甘い雰囲気、陶酔感、そういったものから「ホットロード」はどこかはずれていたのではないだろうか。ラブストーリーは、読む者全員が思わず共感してしまう「せつなさ」や「しあわせ」を工夫をこらして描こうとするが、「ホットロード」はそうしたパターンからは何かずれているような気がする。つまり、この2人の関係には、そうした雰囲気にははまらないようにさせる何かがあった。そしてそのことは、「ホットロード」のいくつかの箇所で、2人のまわりの人間の口から語られているように見える。
 例えば和希が春山の悪口を並べたてた何日か後、春山が「給料入ったからおごってやるよ」と和希を呼び出すところで(T―164)、やってきた和希に春山がいきなり「おっせーよバァカ」という。リチャードさんが「やめろよ、おまえなんでこの子にはそーゆー…」といいかけると、和希は春山に「うるせーな」といいかえす。春山「くっそ頭ぁ」、和希「…」、春山「けけっ、かちっ」。そこでリチャードさんは「なんか…似てんなーおまえら」という。
 そして更にそのあと、和希がリチャードさんに「カズキは?」ときかれて「えっ?」とびっくりするところで、ゲームをしていた春山が「だっせー 自分の名まえ忘れてやんの」と言う。和希はいきなり春山の腕を「ぐにっ」と動かしてゲームを終わらせてやって、春山は「てんめー」、和希は「ひゃー」と、ほとんどマジでじゃれてるところで、リチャードさんがまた「おまえら いーコンビだよ」とまとめに出てくる。
 和希と春山が急速に仲よくなっていくのはこんな感じだけれども、しかしそこには「異性」どうしとしての緊張感というものは、もしかしたら希薄なのかもしれない。それはどっちかというと「いいコンビ」どうしとして仲よくなっていっている、という感じなのだ。もちろん、それはそれでいいのだが。例えば和希が家出したとき、春山はこう言う。「どーしたの? 和希ちゃん」「それともオレがどーにかしてやるとでもおもったの?」「甘ったれてんじゃねーよバ〜カ」。和希「お おもってねーよ…」「おまえの ことなんか 何にもおもってねーよっ」。春山「じゃあ どーにかすんだねー」。家族の複雑な問題を抱え込んで中学を出てすぐ家を出て、あとはひとりで生きてきた春山としては、和希のやってることは自分のいつかきた道みたいなものだろう。だから一つには、家出なんてそんなに甘いもんじゃないんだよ、帰れるうちに早いとこ帰ったほうがいいんじゃないかい、まあやるなら自分でがんばりな、ということになる。また一つには、ここでの春山が和希を自分にあまり巻き込ませまいとする気持ちもあったのかもしれない。和希の方は「ちがう ぜったいちがう」「おまえがそーゆーふーに生きてるから あたしも」「おまえみたいに生きれるような気がしただけ」と思っている。「おまえみたいに」、事実、家出の時「ママ」に向けていう和希の「あんたの男にくわしてもらうのはもうやだよ」というセリフは、おそらく以前リチャードが春山について言っていた「中学でたらうち出るって思ってたよ」「自分の母ちゃんの夫に食わしてもらうのって男としてたまんねーもんよ」という言葉からきていた。和希も春山を頼って家出したわけではない。普通のラブストーリーなら、女性が家出したら一緒に暮らそうか、という話になるのかもしれない。けれどもこの2人は、そういうことはしないのである。
 ところがその後、2人は一緒に暮らさなければならないはめになっていく。「しょーがねーから…」「いっしょにー すむー?」というわけで、「仕方なく」和希と春山は同棲する。ふつう、彼と彼女どうしが一緒に暮らすとくれば、新婚みたいな初々しい雰囲気とかが描写されると予想したい。ところがこの2人の「同棲」は、なにか2人の同志が共同生活を始めたみたいな、見事なまでの散文的な雰囲気で語られている。ただ、和希は「わかんないけどなんかすごく いっしょに住んでなかったときより さみしい」と思い、「小学校の頃 ママを待ってた時に似てる」と言う(ここでも言われる「なんだかわかんない けど」という言葉)。明らかに、春山との生活の中で和希は「ママ」との関係をたどり直し始めている。けれども、表立っては2人はイライラしたりケンカしたりそればっかりみたいに見えてくる。ある日、これは絵里がやってきて水着をもって海へ行って春山と出くわす場面だが、この2人は会うとたちまち半分マジでケンカをはじめて、うきわに2人で入って走り始める。「うにゃあ はなせばかやろー」(和希)「へいへーい」(春山)。それを見て、絵里は「兄弟ゲンカ」といい、春山のつれは「やらしとこーぜ、うるせーけど」という。
 こんな具合で、周囲の人間は和希と春山のことを「似てんなーおまえら」「いいコンビ」「兄弟」と言うだろう。兄妹、お互いに似ていて、異性であってもそのことを余り意識することのない者どうし、そしてお互いに家族としてかけがえのない者どうし。例えば家出中の和希を春山が学校に行かせるシーンがあって(V―14)、「学校(がっこ)なんか行きたくねーよっ」という和希に、春山は「甘ったれんなバぁカっ」、和希は「うるさいっ 親父みたいないーかたすんなっ」と言うが、しかしこの春山は「親父」というより「兄貴」のようではないだろうか。そして、こうして2人を「きょうだい」と言うことは、多分周りだけの思い込みではなかった。
 やがて春山は和希にいう。「妹 ほしかったなー てめーみてーな妹」「もし、強が妹だったらぁ 死ぬほどかわいがってた もしあいつが女だったら オレ ウチ出なかったかもしんねーし」「もっと義父大切にしてたかもしんないしー」(W―54〜55)。その時まで春山が自分の家庭のことについて話すことは全くなかった。春山が父親が違っていて、「あいつの母親が再婚して あいつつれ子でさ 弟がひとりいるんだけど弟は今のオヤジの子で あいつひとり家のハンパっぽくなっちゃってさ」ということは、和希は前から知っていた。和希の母親は他の男の「恋人」だけれども、春山の母親は他の男の「妻」になってしまって、新しい家庭を作っている。春山は自分の居場所がないことに耐えかねて家を出て行ったのだろうか。「強がもし妹だったら」もしそういう存在があったとしたら、それは春山にとって、家の中でも互いにかけがえのないものどうしでありえる存在になっていたのかもしれない。春山が和希と会うまで「いろんな女とつきあってた」(U―81)のは、春山にとっての「妹」探しだったのだろうか? 春山は和希を通して、自分と自分の家とをむすびつける道筋があったかもしれないことを、どこかに感じとっていたのかもしれない。ただ、こう言う時、春山はもう、自分の母親も義父も一人の人間として見ることができるようになっているけれども。
 一方で、和希も春山と近づき、この「ママ」と似てる人間と衝突や仲直りを繰り返していく中で、「ママ」との関係をたどり直していたように見える。そうしながら彼女は同時に、自分とだれかが互いにかけがえのない存在でありうる、という体験をしていた。それは和希と春山にとって、「兄と妹」、つまり異性の「家族」のようなものとしてあったのかもしれない。
 春山が「妹ほしかったなー」と言った日の夜、和希は春山と、自分たちの「父親」について初めて話をしている。そしてそのあと、2人は鈴木君とママがホテルに入るのを目にし、和希はママに「パパがかわいそぉだぁっ…」と叫ぶ。そのあと、和希は春山と一緒に自分の家にやってきて、「たったひとつだけママに聞きたかったこと」、「今まではひとりだったから つらくて ずっとずっときけなかったんだよ」ということを「ママ」にききはじめる。春山はそれを玄関の入口で、背を向けて座って聞いている。それは「ママの誕生日」に始まり「和希の誕生日」に終わるこの「ホットロード」の「春山の誕生日」のことだった。
「そんなにあたしのパパってやなやつだった?」「鈴木のこと忘れさせれなかったほど どーしよもねー男だった?」
「あんたはしんないけど ずっとひとりだったんだよ あたし 子供んときから ずっとひとりだったんだよ」。
「自分のことよく思ってない母親と 世の中ふたりきりって どんな気分かわかるかよっ」「なんだかんだ…悪いことやっても 結局かえれるとこうちしかないって みんなそーじゃん みんなそーやってかえるじゃん けどうちかえっていーのかなって思うじゃん あたしのいるとこあんのかよって」。
「おまえがあたしといるより あいつといる時の方がしあわせなら このうちん中 ほんとにあたしのいるとこあんのかよって 思うじゃん…」「きーてんのかよぉ」。
 だが、「ママ」はその時ただ泣いていただけだった。そしてそのとき、春山が立ち上がり、「ホットロード」の中でこのときただ一度、和希の「ママ」に向かって話す。「おばさん こいつのこと きらいなの?」「 …もしそーなら オレがー もらってっちゃうよ」。        
 「ママ」は答える。「あ…あげ…ないわよ… だれにも…あげないわよ…」「親が…親が自分の子をきらいなわけないじゃないの きらいなわけ…ないじゃない…のぉ…」。
 それは、和希が物語の最初から、というか、ものごころついたときから求め続けていた答えだった。やっと和希はそれを得た。けれども、「ママ」はここでも和希に対して直接に答えたわけではない。「ママ」は春山の言葉に対して、春山に対して答えることができただけなのだから。もし春山がいなかったら、和希はこうして「ママ」のところにまでやってくることもなかったかもしれないし、たとえそうしたとしても「ママ」は和希に何も答えることもできずに、この母娘は決定的にすれちがっていく他なかったかもしれない。結局、春山はこの母娘にとって絶対になくてはならない存在だったのだ。春山と「ママ」とが顔を合わせるこの「ホットロード」唯一の場面は、そのことを疑いようのない形で語っている。しかし、こうして和希と「ママ」との関係が変わっていくとき、春山と和希の関係も何らかの形で変わっていかなければならないのは必然だった。
 和希は「ママ」の答えを耳にしたあと、家の外で春山に抱かれて泣きじゃくっている。その時、2人で一緒に住んでいた時、口移しで薬をのませたころのことが和希によみがえってくる。けれどもそれはまるで別れのきわで、過去の思い出がわきあがるときのように見えはしないだろうか。和希は春山が帰ったあと、「ずっと ずっーと長いあいだいっしょにいたよーな気がするんだ オヤよりもずっと…」と思う。確かに、それはそれまでの2人の関係がある意味で終わってしまったことを意味していた。少なくとも和希にとっての、「ママ」との関係のズレの中での春山との関係は完全に終わってしまった。この2人の関係は、和希がおそらく気づかないうちに、この時決定的に変化してしまった。そのことにまだ和希ははっきりとは気づいていない。けれども、春山はその変化に気づいていたようにみえる。
 次の日会った時、和希は春山に言う。「ケンカ…いっちゃうの?」「おこってもいいからきいて もう他には何もいわないから これだけでいいから… 行かないで」「だって大事だもん あたしこんなに誰か大事なんて 思ったことないもん」「自分より大事なんて 思ったの初めてだもん」。それに対して、春山は迷ったあと言っている。「オレがいなきゃなんにもできねーよーな女になるな」「俺のことなんかいつでも捨てれる女になれ」。そして春山は和希を家へ送り返し、それからなんと一ヶ月以上、彼らは互いに会わないのである。多分、そのとき春山は自分たちの関係が今までの形そのままでは続かないことに気づいていた。今までは春山の存在が、和希が母親に向き合うための力となっている必要があった。けれども今春山はそうした役割を終えているし、和希も今、架空の「兄」や架空の「家族」ではない本当の家族と生きていかなければならない。そこでは、2人の関係はなんらかの意味で一度死んで、やろうとするなら再び最初からやりなおさなければならない。春山はその一ヶ月の後和希と会った直後、トラックと衝突して5m空を飛び、医者から「意識戻ったらキセキ」といわれる危篤状態に陥る。しかしそれは、春山がまるで2人の関係の「死」を文字どうりに自分から実行してしまったようにもみえる。いい方を変えれば、春山の「瀕死」は、まるで物語の流れに従って起こった必然のもののようにさえ見える。
 したがって春山の意識が回復して、もう一度生きはじめるとき、そのときが和希と春山とが本当に一対一の関係をつくり始めるときとなるだろう。多分、2人のラブストーリーはこのとき初めて始まる。けれども 「ホットロード」 は2人のその物語について、もうほとんど語ろうとはしていない。春山が事故の後意識を回復してからの「ホットロード」は、すでにエピローグの域に入ってしまっている。春山が鑑別所を出てから9カ月の間の出来事を、和希はただ「出てしばらくはふたりで仕事さがしてもなくて」「あたしのバイトのお金で遊ぶのいやがって ケンカしたり」「また別れ話が出たりしました」とだけ語っている。多分そこで和希と春山は、一対一の男女としてつきあっていく困難に初めてぶつかっていたにちがいない。一口でいえば「ママ」と顔を合わせてからの春山は、それまでの春山とは和希にとってちがう次元の存在になっているはずである。だが「ホットロード」はその春山と和希との関係についてはもう何も語ろうとはしていない。
 したがって、こうして「ホットロード」が和希と春山の2人の姿で物語を締めくくっていくとき、それはある意味では物語の内容との不連続を抱え込んでいるだろう。それは言いかえれば、「ホットロード」と「ラブストーリー」との不連続である。春山の「瀕死」、2人の関係の「死と再生」の段階で、「ホットロード」の物語は実はいったん終わってしまっている。そしてそのあとの、最終回での和希と春山の最後の姿は、「ホットロード」の本篇の物語が完全に「過去」となってしまった、その意味でゼロの地点からすべてを始めようとする2人の姿を示しているのかもしれない。
 こうして「ホットロード」は、和希が春山を「ママ」と似てると思う場面、春山と「ママ」とのただ一度の対面、そして春山の「死と再生」の場面によって、和希、春山、「ママ」という3人の主要人物の内的関係を明らかにしている。春山は、和希と「ママ」との関係のズレの中で初めて「ホットロード」に現れることになった。そして彼は、和希と「ママ」との「親と子の物語」の中の役を演じ終わった後、まったく別の世界へと移っていくことになる。もちろん、そういうこととはまったく別に、春山という強烈なキャラクターは他のどの登場人物よりもリアルなのだとしても。それは「暴走族の物語」である「ホットロード」の中で、ひそかに語られている「母と娘の物語」だった。 
 
 物語の主人公が親との関係のズレをかかえていたこと、そしてそのズレがバネとなって知らない世界へ入っていったこと、そこで出会った少年との関係を通して親との関係を作り直していったこと、以上のように、「ホットロード」は「暴走族の物語」の中で「親と子の物語」を語っている。
 しかし、このストーリー自体はオリジナルなものだったのだろうか。むしろこのストーリーには多くの先例があったのではないだろうか。読者の一部は、特に春山の「死と再生」の場面を目にして、それと同じことをどこかで見てきたということに思い当たる。
 それは実は、多くの児童文学、例えばジョーン・ロビンソンの「思い出のマーニー」(1967)、フィリパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」(1958)、キャサリン・ストーの「マリアンヌの夢」(1958)、アリスン・アトリーの「時の旅人」(1939)といったファンタジー群によって繰り返し描かれてきた一つのパターンなのである。これらの作品の主人公たちは、多くの場合、病気のために親を離れて今までと違う環境の中にやってきて、そこであるきっかけから不思議な世界、「過去の世界」や「夢の世界」へと一人で入り込む。主人公はその世界で自分の理解者に出会い、2人の協力や葛藤をくぐり抜け、その体験によって主人公は自分の世界をより深く理解することを学び、最終的に自分の世界に戻っていく。そして最後に、あちらの世界の理解者が自分の世界の実在の人物だったことがわかったりする。
 これらの作品と比較するとき、「ホットロード」の実に多くの箇所が、それらファンタジー作品の特定の箇所と正確に対応することがわかるだろう。つまり「ホットロード」の中のいくつかのシーンは、構造的に過去のファンタジーのシーンの反復となっている。それが本当に言えるかどうか、それを次の文章で証明したい。
 
                       (その2 「あ だれかに似てる」)



ホットロード」のための4章
 1章 2章 3章 4章