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 「ホットロード」については、「1980年代の少女マンガの一つの頂点」「少女マンガに新たな独自の表現を切り拓いたもの」(まんが史に関する本や雑誌の特集を見ると、よくそう書いてある)、あるいは80年代の日本の「家庭」のあり方、親子の問題を描いた作品だとかいった指摘がたびたびされてきた。そうした指摘はおそらく正しい。しかし登場人物を中心とした構造の面からいえば、この作品はむしろ1904年の「秘密の花園」以降繰り返し描かれてきた古典的なファンタジーとほぼ同じあらすじを共有している。つまり、「ホットロード」を少なくともあらすじの面から語る場合は、「独自な表現」とか「80年代」といった視点よりも、その古典性、過去の諸作品との共通性から注目しておいた方がよい。というより、これだけそっくりなのに、それに全然触れないでおくのはとても無理な話なのだ。
 「ホットロード」と比較するためには、名前を上げた作品のどれでもいいのだが、ここではジョーン・ロビンソンの「思い出のマーニー」のあらすじを以下でたどることにする。 
 「思い出のマーニー」の主人公アンナは、父母とも早くに亡くし、養父母に育てられる少女である。だが、彼女と養父母たちの関係はどこかすれちがってしまっている。周囲の人たちはアンナの事を「やってみようともしない」子、友だちのいない子、それにそのことを全然気にしていない子だと言う。
 アンナはぜんそくのために学校に行けなくなったことをきっかけに、田舎にしばらく滞在することになる。田舎にいったアンナは一人で遊んでいたが、あるときアンナと同じ歳くらいのマーニーと出会う。2人は最初は「あなた、ほんとうの人間?」とききあっていたが、すぐに仲よくなり、お互いのことを「ひみつのともだち」ということにする。
 ある日、アンナはマーニーに「あなたはめぐまれた人。あたし、あなただったらよかった」と、自分の家族のことを話し始める。アンナの両親は早くに死に、彼女はおばあちゃんに育てられることになったが、そのおばあちゃんも体の具合が悪くなって、アンナにすぐ帰るといってどこかへ行き、そのまま死んでしまった。アンナは、自分をおいてきぼりにしていったみんなに対して「きらい」「ぜったいぜったいゆるさない」といってすすり泣いた。マーニーは、「ほんとにそうだけど…」といいながら、「あたし、ある意味ではあなたがうらやましい」「あたしね、よく、こっそり、自分がもらいっ子じゃないか(…)、そうだといいとおもったこともあるの」という。もし自分がもらいっ子だったら、それは今の父母がほんとうに親切だということの証拠になるから、と。アンナは、マーニーの話を聞いて、「すっごいひみつ」をいう気になる。アンナはあることから、養父母はアンナを育てるためにお金をもらっていることを発見した。アンナはそのことをなんとか養母に自分から話してもらおうとチャンスをつくろうとしたが、彼女は話さなかった。「…だけど、あたし、あたしは、ミセス・プレストン自身に話してもらいたかったの、とっても。あんなにいっぱい、チャンスを作ってあげたのに」。アンナは涙を落とす。マーニーはそれをきいてアンナの髪をなで、「アンナ、あたしのアンナ、あたしはあなたを愛しているわ、あたしは今まであったどの女の子よりも、あなたが好き」といい、涙をふいてくれた。アンナはにっこりして、心にのっかっていた重いものが取り去られたように感じる。そして後には、マーニーがばあやたちにひどくつめたい仕打ちにあっていることをうちあけて、アンナに「あたし、あなただったらよかった」といい、アンナは「今までに知ってる、どの女の子よりも、あなたが好き」といってマーニーの髪をなでかけ、途中で2人がまるでいれかわっているみたいなのにびっくりしたりしている。
 しかし、やがてアンナはあることから、マーニーが自分を裏切って(母親やおばあちゃんのように)おいてきぼりにしたと思い、ひどい憤りを感じる。けれども嵐の中を屋敷の前までいってみると、マーニーは部屋に閉じ込められていて、窓から、自分はよそへやられてしまうといい、「ごめんなさい! あんなふうに、あなたをおいてきぼりにするつもりはなかったの。あのことで、あたし、ずっと、ここにすわって泣いてたの。ねえ、アンナ、おねがい! ゆるしてくれるって、いって!」と叫んでいた。それをきいてアンナは、「もちろん、ゆるしてあげる! あなたが好きよ、マーニー、けっして、あなたをわすれないわ、永久に、わすれないわ!」と叫び返す。けれどもアンナは家へ帰れることができずに、嵐の潮の中に倒れ込んでほとんど死にかけることになる。
 マーニーと離れたアンナは、その後彼女のことを少しずつ忘れていくが、やがてマーニーのいた屋敷にひっこしてきたリンゼー一家の5人のこどもたちと友だちになる。そして養母も自分たちがうけとっているお金のことを話してくれ、アンナも「もっと早く話してくれたらよかったのに」「あたし、おばちゃんが好きよ、とっても」といえるようになる。そしてアンナは、リンゼーの5人兄弟の一人、プリシラがみつけた日記を通して、マーニーという少女が実は50年も前に本当に屋敷に住んでいたこと、そしてそのマーニーがアンナのおばあちゃんだったことを知る。 
 
 さて、こうして見ていったとき、「思い出のマーニー」の実に多くの箇所が「ホットロード」のいくつかの場面を思い出させることに読者は気づく。
 例えば、アンナが養母とどこかですれちがっていて、お金をもらっていることを自分から話してもらいたくて「あんなにいっぱい、チャンスをつくってあげたのに」とアンナは言う。そのとき、それは「ホットロード」の冒頭で和希が「ママ」に何度も「プレゼント」を繰り返していたことを思い出させはしないだろうか。そして、マーニーはアンナの前だけに現れて、アンナのまわりの人たちには決して姿を現わさない。それは春山が和希の前に現れても「ママ」の前には決して姿を現さなかったことと似ていないだろうか。また、2人が似た寂しさをもっていて、やがてお互いが「今までに会ったどの女の子よりも、あなたが好き」と思うこと、それはそのまま和希と春山にもいえるのではないだろうか。
 そして、マーニーがアンナに対して、母親やおばあちゃんとまるで同じように「おいてきぼり」にしたとアンナが思い、そしてそれに対して「ゆるしてあげる!」と叫んだとき、それはマーニーがアンナに対して、母親やおばあちゃん(実はマーニー自身なのだが)とむきあう手助けを結果的にしたようではないだろうか。そしてそれは、春山と和希の関係にそのまま重なるのではないだろうか。また、マーニーが実はアンナの「おばあちゃん」だというのは、春山のことを和希が実は「ママ」と「似てる」と思っていることと対応しないだろうか。最後に、マーニーが永久に姿を消すのは、春山が最後に「瀕死」になり、「覚悟してくれ」といわれるのと重なるのではないだろうか。 
 こうしてたどっていくと、「ホットロード」が「思い出のマーニー」と、そのあらすじの上で共通項を非常に多くもっていることは、かなり明白だと思える。和希と春山、「ママ」の関係は、かなりの近似でアンナとマーニー、ミセス・プレストンの関係に重なっていくのである。そしてそのことは、前に挙げた他のファンタジー作品についても一つ一つあてはまる。「ホットロード」で物語のほとんどが和希と春山の関係を語るのと同じように、「思い出のマーニー」ではアンナとマーニーが、「トムは真夜中の庭で」ではトムとハティが、「マリアンヌの夢」ではマリアンヌとマークが、「時の旅人」ではペネロピーとフランシスが、それぞれの「夢の世界」や「過去の世界」の中で物語の主役を演じる。そしてその2人が、物語の構造の上で和希と春山と同じ役割を担っているのを見てとることはやさしい(ただし、物語の主人公がそのまま和希に対応するわけではなく、「和希」の位置にはそれぞれ「アンナ」(主人公)、「ハティ」(副主人公)、「マーク」(副)、「ペネロピー」(主)が対応する)。こうした類似は、登場人物どうしの関係からただちに言える。しかし「ホットロード」とこれらのファンタジーを読み比べるとき、こうしたあらすじで語られる対応以外に更に気づくことがある。それは、「ホットロード」だけを読んでいるのだったら多分気がつかないようなもの、他のファンタジーと比較するときはじめて現れる、物語上のある機能を果たす細部である。
 例えば、アンナが物語の最初の方ではじめて「しめっ地屋敷」を見て、「アンナには、これこそ自分がずっとさがしていたものだ、ということがわかりました」「アンナは、これはみんな、ずっと前に一度あったことだという、ふしぎな感じにつつまれました」という。「アンナはやっぱり、そのやしきが、自分の来るのを待ちかねていたような──、自分をじっと見守っていたような──、自分がふりむいて、気がつくのを、ずっと待っていたような──、そんな気がしてなりませんでした。ほんとうに、とてもふしぎなぐあいに、アンナはやしきに気がついたのでした」。そしてそれは、アンナがやがてマーニーのいる世界と出会う予兆となる。
 しかし、それは「ホットロード」の最初の方で、和希が絵里や宏子さんと一緒に夜遅く出かけ、湘南を見て「はじめて見た こんなの」「だってこんな夜遅くに外出たことなかったもん この14年間」といい、「不思ギ…」「自分チのそばなのに 不思議ぃ…」と思う印象的なシーンと、どこか奇妙に似てはいないだろうか。「思い出のマーニー」では、それは「はじめて」見る屋敷が実はずっと前にあったことと思えるという「不思議」である。そして「ホットロード」では、それは今までの人生で見慣れていた湘南が「はじめて」のものに見えるというちょうど逆の「不思議」として現れる。いずれにせよ、そこでは「過去」と「現在」の区別が失われる。そして、その次のコマで春山は「ホットロード」に登場するのである。
 又それは、「トムは真夜中の庭で」の最初の方で、大時計が13時を打ち、トムがベッドから出て不思議な庭を見つけだす箇所、そして「マリアンヌの夢」で、書いたものがそのまま夢になって出てくる鉛筆をみつけて、マリアンヌが「この鉛筆は、さあ早く字をかいてください、絵をかいてください、と呼びかけてくるような種類の鉛筆だった」と思う箇所、そして「時の旅人」の最初の方で、主人公のペネロピーが300年前の世界に接触する直前に、鏡を見る以下の箇所と似ているのかもしれない。「鏡をのぞきこんだわたしは、鏡にうつっている顔があの蒼白い内気な顔をしたペネロピー、わたし自身なのかどうかとまどった気持ちだった。自分の顔がうつっているのはわかっていても、どこかちがう。だれかちがう女の子が鏡の中からわたしを見ている」「アリスンが鏡からはなれ階下におりていったので、わたしもあの鏡にうつっていたのはだれだったのかと狐につままれたような気持ちで、アリスンのあとを追った。あの女の子はわたしに何かいいたかったのだろうか? それともうつっていたのは本当にわたし自身だったのだろうか? わたしが知らないことを何かあの女の子は知っているようだった。それじゃ、いったいこのわたしはだれなのだろう?」。
 物語の最初の方にくるこれらの箇所は、ファンタジーとして主人公が「過去の世界」や「夢の世界」に入り込む直前の「あちらの世界」の最初のきざし、いわば導入部として機能している。アンナははじめてのはずの光景を見て「これはずっと前に一度あったという、不思議な感じにつつまれ」、ペネロピーは「自分の顔がうつっているのはわかっていても、どこかちがう」という。その時、彼女たちは自分の世界のいわば一番当たり前のことが揺らぎはじめていることを感じ取っている。そしてそれが、「あちらの世界」の出現の予告となっているのである。それと同じことが、「ホットロード」の和希が湘南の光景を「不思議…」と思うシーンで語られているのではないだろうか。つまり和希が「自分チのそば」の夜の湘南を「はじめて」見るこのシーンは、「ホットロード」の中に一見無造作に入れられているように見えながら、実は物語にとって不可欠な導入部として機能していたはずなのである。
 「ホットロード」とファンタジーとのあらすじ上の類似は大体以上のようなものである。しかし、こういう類似を並べていくことで何が言えるのだろうか。もちろん「ホットロード」がファンタジー作品だと言えるわけではない。もともと「ホットロード」は、現実にはありえない「幻想」を描いた作品では全然ないのだから。また「ホットロード」が児童文学に多く見られるパターンをたどっていることで、この作品のオリジナリティが問題になるのでもない。しかし、「ホットロード」の春山、和希、「ママ」の関係を詳しくたどっていくとファンタジーに特有の構造が現れるという事は、多分無意味なことではない。上に挙げたファンタジー作品はそれぞれが登場人物たちの成長をテーマとしていて、彼らが「夢」の世界、「過去」の世界での様々な体験を経て成長していく過程を描いている。それに平行して、ファンタジー作品が「夢の世界」や「過去の世界」で表現しようとした「あちらの世界」を、「ホットロード」は「暴走族の世界」を通して表現しようとしていたのだ、ということも言えるのかもしれない。事実、ファンタジーの「あちらの世界」が主人公にとって魅力的な要素と破壊的な要素とを持っていることは、和希にとっての「族」の世界の意味と重なるのである。和希が暴走する単車のテイルランプの群れを見て、「こんなキレイなものは きっと他にない」「死んでもいい」という時、彼女が破壊性と美しさとを持った「この世のものではありえない」ものからの呼びかけを受けていたということは言えるのではないだろうか?
 ただし、留保をつけておくが、この共通性はあくまで登場人物の関係だけに関するものである。例えばある点からいえば、日本昔話の「手のない娘」などは「ホットロード」と大変よく似ている。ある15才の娘が、継母に憎まれ、その継母にそそのかされた父親によって斧で両手を切り落とされてしまう(よく知られているように、昔話での「継母」は「実母」のことで、「そそのかされた父親」の仕業も実際には「実母」の仕業だと考えられる)。山奥に捨てられた彼女は、馬に乗った立派な若者に見いだされ、彼の馬に乗せられてその家に行く。若者の母親は心のやさしい人で、彼女の顔を洗ってやり、髪を結ってあげたりする。さて、ここまでの話を現代ものに書き換えると、「ホットロード」U―88までになってしまうことだろう(ある娘は、母親の無関心に精神的に傷つけられ、見捨てられてしまう。バイクに乗った若者が彼女を見つけて自分の家に連れていく。若者の母親は心のやさしい人で、彼女の看病を…)。だが、この後の「手のない娘」は「ホットロード」とはまったく別のお話になってしまう(岩波文庫「日本の昔話T」)。この昔話と同様、「ホットロード」と似ている作品は、その視点の取り方でおそらくいくつか挙げていくことができるだろう。だが、その主要な登場人物が作り上げる全体的な構造に至るまで類似する作品を探すと、おそらく古典的なファンタジー作品以外にはないのである。(例えば「タッチ」と「めぞん一刻」の2つがそれぞれちがったアプローチで「通過儀礼」をテーマにしている、そしてその一点で「ホットロード」と共通することを「システムと儀式」で大塚英志が分析している。けれどもそれらと「ホットロード」ではあらすじ上の類似はあまりない)(注)。
 しかし、そうだとすれば、問題はその先にくる。この「こちらの世界」と「あちらの世界」の往復というファンタジーの構造は、たとえば音楽でいえばソナタ形式などのように、簡単に他の作品に流通していく形式として存在している。それは、主人公が「こちらの世界」を出発して「あちらの世界」に入り、最後に「こちらの世界」に成長して帰って来るという意味ある円環を描いている。ただし、物語はそのひとつひとつがこのパターンに対してそれぞれ違った応用をしていて、そのパターンに対する距離のおき方が、作品の価値をある点で決定づけている。
 例えば(「名作」と言われている)「トムは真夜中の庭で」の今ひとつの物足りなさは、このファンタジーがそうしたパターンにたいして距離をもちえなかったこと、つまりその文章一つ一つがそのパターンを描写、拡大することにしか働いていないことによっている。このファンタジーのテーマは「時間」だと言われていて、物語もその中で「時間を永遠ととりかえる」ことがトムの計画だとはっきり言明している。しかし読み終わったとき読者が感じるのは「永遠」というよりも、同じ次元で2つの「時間」がつながりあったというだけの、どこまでも閉じられた印象である。
 それに対して、「思い出のマーニー」はおそらく異質である。多分、「思い出のマーニー」は、「トムは真夜中の庭で」のパターンをたどりながら、途中でそれをねじ切り、突き崩してしまった作品となっている。それは、例えば一つには、アンナとマーニーが永久に別れた後、アンナがマーニーのことをいったんは完全に忘れてしまうという、ある意味では残酷な進行として現れている。アンナがマーニーを思い出すのは物語の一番最後になってからであり、しかも一方の主人公であるその(アンナのおばあさんの)マーニーは、実はすでに物語の最初から死んでしまっている。それはいわば「すれちがい」である。「トムは真夜中の庭で」の最後に主人公の2人は自分たちの体験を話し合い、抱き合うけれども、アンナとマーニーにとって、そうやって自分たちに起こったことを確認しあい「抱き合う」ことは完全に不可能になっている。
 「思い出のマーニー」では、2人の出会いの意味は、こうして2人がもはや会うことができなくなった時に、しかもその一方だけに与えられている。それは悲痛なことだが、しかし「思い出のマーニー」は、2つの世界の出会いの意味と同時に、その2つの「抱き合う」ことの不可能を描くことによって、人間の手の中に収まることのない、ある限りない世界を読者に感じさせることに成功しているように見える。「あちらの世界」は、「こちらの世界」にいい経験を与えて最後に両者「抱き合う」のではなく(それは、かなり都合がよすぎる話ではないだろうか?)、現実にはそこから何かが欠け落ちている。
 しかし、「ホットロード」ではどうなのだろうか。「ホットロード」も、「思い出のマーニー」と同様、他の作品と共有しているパターンによって語り尽くすことはできない。確かに「ホットロード」は、「こちらの世界」から「あちら(「暴走族」)の世界」を経て、最後に「こちらの世界」に戻る枠組みを持っている。しかし、この2つの世界は最後に完全に「抱き合」い、和解しあうのだろうか。和希の経験した「族の世界」は、「あれも今考えればいい経験だった」と後で言えるような「通過儀礼」的なものだったのだろうか。むしろ「ホットロード」は、永久に和解することのありえない、あまりに一方的な世界をそこに描き出していたのではないだろうか。いわば、どのような「暴力」的シーンも描くことのできない、そして人の手の中に収まることのできない、あまりに激しく痛みにみちた「何か」を。
 すでに引用したように、登場人物の一人は和希のことを「何を見ているのかわからなかったねェ…」「激しいのと弱いのが一緒になったような瞳で…」と言う。和希自身は、「族」を抜けた後16の時に「あのときは… 何もみえなくて」「人キズつけても自分の体キズつけてもヘーキでかっこいーとも思って」「悪いことしてもぜんぶ人のせいにしてた」と言う。そして、おそらくは登場人物の一人の口を借りて、作者自身こう語る。「でもボクは和希ちゃんや他の… たとえば暴走族じゃない子たちにも そんな時は一度はきてしまうもんじゃないかって思ってる」「もしかしたら一生のうちで なにも見えないで走ってしまう時は ほんの一瞬かもしれない」。
 確かに、「ホットロード」は和希が「なにも見えない走ってしま」った「ほんの一瞬」の記録なのかもしれない。しかし、「ホットロード」の中で彼女は本当に「何を見ていたの」だろうか、つまり暴走の中で何を求め、どこへ向かって走り続けていたのだろうか? 
 彼女自身、自分が「何も見えなくて」と言う。だが、和希自身ついに理解できなかったとしても、「ホットロード」は、和希自身「何を見ているのかわからなかった」ものまでを、その画面とセリフの中に出現させていた。「ホットロード」が「弱いのと激しいのが一緒になったような」世界だったとすれば、そこには「胸がつぶれそーに痛い」ものと同時に、彼女がほとんど命をかけて求めたものが描き込まれていた。
 事実、それは「ホットロード」のほとんどすべてのページを支配していたはずである。
 
         (その3「はじめて見た こんなの」「自分チのそばなのに 不思議ぃ…」)
 
 
(注)
 
 大塚英志は「〈14歳少女〉の構造」(「システムと儀式」所収)で「ホットロード」についてこう言っている。
 
 「ホットロード」の作者・紡木たくは、当初は萩尾望都らの系譜を引いて少女の時間の永遠性を主題としてきた。中学生や高校生の学園生活を一種のアジールとして描き、しかもそれが永遠に続くことを望む少女たちの幻想を甘やかに描いて少女たちから支持された。(…)
 それまでの作品と同様、暴走族の仲間やそこで知りあった少年との日々を甘やかに〃回想〃していくかに思えた「ホットロード」はしかし結果から言えば、そうはならなかった。暴走族の世界に入った和希はハルヤマという少年と出会い、傷つきながら、しかし最終的に暴走族の世界から帰還してくる。この帰還してくる、という点が重要である。
 和希は〈14歳〉であり、その過剰なエネルギー故に日常から飛び出して行ってしまう。その飛び出した行先が暴走族の世界である。とすれば、暴走族の世界とはいわば〈異界〉であるといえる。その〈異界〉で和希はハルヤマと出会い、二人で日常へと帰還してきた。〈異界〉との往復が通過儀礼を意味することは前節で述べた(この前の節で、つげ義春の「紅い花」が通過儀礼を主題とする日本の昔話群の系譜にあることが示されている)。和希は〈暴走族〉という異界に一度、分離された後、日常に再統合されたのである。「ホットロード」は、物語全体が通過儀礼の構造を持っており、少女が〈少女〉の時間を終え成女(大人)になることが主題となっているのである。紡木たくは〈少女〉の時間をとどまるべき永遠の場所でなく、通過していく場所として描いた。しかも、そこを〈通過〉することによって少女は初めて大人になれる。V・ターナーの言葉を借りるなら、紡木たくは〈少女〉を子供と大人の間のコミュニタス的な時間として位置づけたといってよい。読者である少女たちは、自分たちが少女の時間を永遠に生きられないことを知っている。むろん、疑似少女ファッションをまとうことも含めて大人になることを留保する手だてはたくさんある。そうすることでなりゆきで曖昧な大人になっていくのが一番無難な手だてではあろう。だが「ホットロード」は敢えて、傷つきつつも通過儀礼をなしとげる和希とハルヤマの姿を描いてみせた。しかもそれが読者たちの圧倒的な支持を受けた。
 
 この分析は、大枠では正しいと思う。しかし上でも言ったように、こうした「日常」と「異界」の「往復」「再統合」という通過儀礼のパターンに対して、「ホットロード」がどのようなアプローチを行っているかということが、問題として残る。大塚英志も言っているように「タッチ」や「めぞん一刻」も「通過儀礼」をテーマにしているが、それらと「ホットロード」とでは作品の性質そのものが全く異質だからである。
 
 

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