シモーヌ・ヴェイユのために



フランスの活動家=思想家、ヴェイユ論。釜ヶ崎に来る前後、ヴェイユを熱心に読んでいた。そして35才になったとき、とうとうシモーヌ・ヴェイユの死んだ歳を越えたんだなあと思って、それまで読んでなかったものも含めて集中的に読み返した。その時の印象がこの文章の出発点になっている。それと同時に、「c.s.l.g」の結果を社会的問題に適用したらどうなるかという試みでもあった。
ついでながら、もしシモーヌ・ヴェイユが現代日本に生きていたら、かなりの確率で釜ヶ崎に来ていただろうが、その場合われわれはきっと「あの人、すごい人なんだけど、ちょっとずれてるよねー」(あるいは「ずれてはいるけどすごい」)と評したことだろう。そこら辺が「追跡不可能で追跡不必要」なのだと思う。
この文章の結末は、ただちに「文書・2001年2月7日」に接続している。



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 シモーヌ・ヴェイユ(1909〜1943)はベルナノスへの手紙(1938年?)で言っている。「子供のころから、私は、社会の中で蔑まれている階層に訴えかけていた集団に共感をいだいていましたが、ついにはこうした集団があらゆる共感に水をさす性質のものであることに気づくようになりました」(渡辺義愛訳)。
 シモーヌ・ヴェイユは、それをスペイン戦争の体験に即して語っている。スペイン市民戦争での、反フランコ軍の義勇兵たちの間にさえ見られた彼女の言う様々な精神的退廃について。
 もちろんシモーヌ・ヴェイユの履歴を知っている者には、彼女にとって「子供のころから」「社会の中で蔑まれている階層」こそが最大の関心事だったことは疑えない。「社会の中で蔑まれている階層」、社会の不公正に苦しむ階層が正義をかちえるためには、そうした階層の人々、そしてそれを支援する人々による連帯こそが不可欠である。社会の中で彼ら、彼女らを蔑む階層に個々の力で立ち向かうことはほとんど不可能だからだ。シモーヌ・ヴェイユ自身、新任教師の頃から失業者たちの対行政反失業闘争に熱烈に参加していたのではなかったか。しかし、彼女によればそうした集団は避けられない形で「あらゆる共感に水をさす性質のもの」になる(だが、そうだとすればそのとき正義はどうやって実現できるのだろう?)。
 しかし、彼女にとって「あらゆる共感に水をさす性質」をもつのは、あらゆる集団だったというべきである。「社会の中で蔑まれている階層に訴えかけていた集団」がここで取り上げられるのは、それがとりわけ彼女の期待を裏切っていったためでしかない。確実に言えることだが、ヴェイユはその生涯の中で集団の悪について語る傾向を徐々に強めていた。最終的に死の直前の彼女は、例えば「政党の全面的廃止」(1943)について語っている。
「政党は、人間の魂に宿る真理と正義の感覚を殺すように、公然かつ正式につくりあげられた機関である」「結論を言えば、政党制度は、まさにほとんど混じり気のない悪を組織化しているように思われる。政党はその原理上悪であり、実際面でも、その及ぼす結果は悪である。/政党の廃止は、ほとんど純粋な善ということになろう。それは原理的な明らかに正しく、実際面でもよい結果しか生み出さないように思われる」(山崎庸一郎訳)。
 ここで「ほとんど混じり気のない悪」「ほとんど純粋な善」といった最大限の、ほとんど「原罪」について言われるような言葉が使われることは読み手の注意をひくかもしれない。一つには、こうした表現が後半生の、つまり25〜6才の工場体験以降のヴェイユには度々現れるからである。
 ここで政党について「ほとんど混じり気のない悪」と言うのは、以下に引用するように、この1年前に彼女が社会的なものを「悪魔の領域」と言ったのと同値だろうか。アリストテレスにとっては(周知のようにヴェイユはこの思想家を大変嫌っていた)人間はその自然な性向から共同生活へと向かう政治的動物だが、彼女はこの事態そのものを否定しようとするのだろうか。社会的に同質の立場をとる者たちが連帯して集団を作り出すことは自然なことだが、彼女の目には、それは「まさにほとんど混じり気のない悪」を作り出してしまう。
 しかし、もしあらゆる社会的な集団がそうしたものであるとすればどうだろう。彼女はペラン神父への手紙で「本当に親しい会話というものは二人か三人の場合にしかないことは、だれでも知っています。五人か六人になると、もう集団の言葉が支配しはじめます」(第4の手紙)と言う。だとすれば、我々は「ほとんど混じり気のない悪」を避けようとすれば、せいぜい3人までのグループにとどまって、それ以上のいかなる集団をも作ることを避けなければならないのだろうか。それは単なる極論ではないだろうか?
 
 彼女はペラン神父への手紙で言っている。
「ある聖人たちは十字軍や宗教裁判を是認しました。わたくしは彼らが間違っていたと考えないわけにはいきません。わたくしは良心の光を拒むことはできません。あの聖人たちよりもこれほど低いわたくしが、ある点では彼らよりもよくわかるとすれば、彼らがその点では何か大変強力なものによって盲目にされていたことを、みとめなければなりません。その強力な何かというのは、社会的なものとしての教会です」。
「社会的なものが悪魔の領域であることは動かないことです。(…)わたくしが社会的と言いますのは、社会に関連するすべてのものを意味するのではなく、ただ集団的な感情だけを意味しております。/教会も社会的なものであることは避けられないということは、よくわかります。そうでなければ、教会は存在しないでしょう。けれども教会が社会的なものであるかぎり、教会は『この世の王』(悪魔のこと)に属します」(第2の手紙 渡辺秀訳)。
 したがって彼女の言うことに従えば、教会は存在する限り「悪魔の領域」にいる。「そうでなければ、教会は存在しないでしょう」。それは、とりわけ十字軍や宗教裁判においてあからさまになる集団悪である。それは、教会以外の勢力の存在そのものを原理的に排他するからだ。
 ヴェイユがカトリック教会への受洗をついに拒み続けた最大の理由はそれである。彼女はキリスト教については、教会に入るのでなければまた教会から離れるのでもない中間の地点に立ち続けようとする。「わたくしが生まれてからずっと立っている点、すなわちキリスト教とキリスト教でないすべてのものとの交叉点を立ち去るとすれば、わたくしは真理に背くことになるでしょう。わたくしがとらえている真理の姿にそむくことになるでしょう。わたくしはいつもこの点に、教会の入り口に、身動きしないで、動けないで、《εν υπομενη》(これはPatientia!「忍耐」)よりもずっと美しい言葉です)にとどまってきました」(第4の手紙)(《εν υπομενη》=じっと待っている、たえしのんでいる)。
 信仰をもつ者、イエスを信じる者が何らかの教会、あるいはキリスト者の共同体に加わることは自然なことであるが、ヴェイユにとってはそれは不可能となる。教会は存在する限り、彼女のいう「悪魔の領域」だからである。彼女にとって、この集団悪に対立するはずのものは「普遍(カトリック)」である。「キリスト教は普遍的なものですから、例外なくすべての招命を含んでいるはずでございます。したがって教会もそのはずでございます。けれどもわたくしの見るところでは、キリスト教は建前として普遍的なのであって、事実として普遍的なのではありません」(第4の手紙)。「普遍的(カトリック)でなければなりません。すなわち被造物の全体にでなければどんな被造物にも、糸でつながれてはなりません」(第6の手紙)。しかし、「普遍性」を訴えたこれらの手紙も、カトリックであるペラン神父によってそのまま受け入れられはしなかったように見える。聖職者の立場から言えば、すべての善なるものを受け入れ、したがってキリスト教とキリスト教以外のものとの境界を抹消する「普遍的」教会なるものなど、受け入れられるはずのないことは言うまでもない。しかし、彼女にとって教会は「事実として普遍的なのでは」ない、いわば不徹底なものであり続ける。
 こうして、晩年の彼女は政治的共同体、宗教的共同体のいずれについても徹底して拒否的な立場をとることになる。彼女は、あくまでそれら共同体とその他の人々の「交叉点」に立つと言う。彼女はいわば、政治的・宗教的な共同体を自然にスタートするにまかせることへの徹底した拒絶を貫こうとしている。
 シモーヌ・ヴェイユについて、「純粋さ」という形容が常に使われるが、ここではそれは「ほとんど混じり気のない悪」、「社会的なもの」への拒絶の純粋さという点に現れるのである。人間の自然な傾向がそのまま必然的に「まさにほとんど混じり気のない悪」へと転化していくとすれば、彼女がそれを回避するためには、「悪」へのひたすらな拒絶、拒絶の純粋さを貫く他にはない。たとえこの世界に「純粋さ」が存在しないとしても、少なくとも不純なものへの「拒絶の純粋さ」だけは世界に存在するはずである(しかし、そうした姿勢が文字通りの自殺へと近づいていくことを避けることができるだろうか?)。
 
 10年ほど前、ぼくは釜ケ崎で活動するカトリックのキリスト者と話していて、シモーヌ・ヴェイユについての話になったことがある。その人は(修道会のシスターで、釜ケ崎近辺のアパートに単身で住んで、ふだん私服で日雇労働者、野宿者のための医療活動などにかかわっていたような人だったが)ヴェイユについて「あの人は自分で自分の片方の耳をふさいでいたような人だったんじゃないかしら」と言うのだった。ぼくはすぐに、「だから片方の耳が人よりよく聞こえたんですね!」と言った。それからどういう話をしたのだったか、どうも思い出せない。しかし、「自分で自分の耳をふさぐ」というとき、それは否定的な意味で言われていた。つまりそれは自ら好んで不自然な精神的姿勢を、不均衡な世界観を求めているという批判だったのだろうか。
 実際、シモーヌ・ヴェイユの限りなく自殺に近いその死に至るまでの生涯は、不自然で極端なものではなかっただろうか。また、彼女の特に晩年の社会へのかかわりは、現場の労働者、そして活動家たちにとってはあまりにも現実離れのした極論のように見えなかっただろうか(例えば最晩年の、ファシズムの思想に対抗するべき「第一線看護婦部隊編成計画」のように。あるいは、ドイツ占領下のフランスへ彼女自身を派遣させるようにロンドンの臨時政府にしつこくせっついたように。彼女のような人物がフランスで活動していれば、たちまちつかまるか尾行されて組織を摘発されてしまうはずだ!)。
 あらゆる妥協を嫌った彼女が、他の人々であれば気にしないような物事について、それを善悪の極限にまで突き詰めずにはいられなかったことは確かである。彼女は「最大の悪は、悪そのものではなくて、善と悪とがまじっていることである。キリストは、悪を消すために来られたのではなくて、善と悪とをきちんと分けるために来られたのである。従って、キリストに従う者のなすべき務めもまた、そのようであらねばならない」(「責任と処罰」1942年?)と言う。そのようにして彼女は、普通我々が問題にしない、自然であり不可避としか思えない幾つかのものにも、彼女の言う「ほとんど混じり気のない悪」を見いだし、激しく拒絶するに至った。
 おそらく、彼女はその激しい社会的経験と闘争の中で、あらゆる人間的営為に対して徐々に絶望を深めていった。「重力と恩寵」によれば、「善は不可能である。しかし、人間はいつも想像力を駆使して、個々の場合に、善が不可能であることを自分の眼に隠す」。「善は無であるようにわれわれには見える。善いものはなに一つないからである。だがこの無は非実在的ではない。この無にくらべれば、存在するものはどれもこれも非実在的である」(渡辺義愛訳)。そして、この存在を越えた存在である「無」とは、彼女にとって「恩寵」のことである。「魂のなかに、苦痛と疲労困憊がはてしなく続くような感情を生じさせるまでになったとき、そのはてしなさを、受け容れる気持ちと愛とをもって観想することによって、人は現世から引き離されて永遠に入る」。「不可能性は超本性的なるものへの扉である。人はそれを叩くことしかできない。あけるのは他の存在である」。
 この超本性的なものへの扉をあける「他の存在」は、彼女にとって、ペラン神父への第4の手紙、「霊的自叙伝」で語られたような現世に不在の神であるだろう。しかし問題は、この「恩寵」が、ヴェイユの思想領域では社会の中には決して現れないという点にある。
 
 ヴェイユにとっては、本当の善は「他の存在」からの「恩寵」としてしか存在しない。そして、現世、つまり社会に現れる善は相対的なものにすぎない。
「二つの善がある。どちらも同じ名称を持つが、根本的に相異なっている。悪の反対としての善と、絶対としての善と。(…)われわれが欲しているのは絶対的な善である。われわれが到達できるのは、悪と相関関係にある善である。われわれはそれをわれわれが欲している善であると思いあやまり、そこにおもむく。」「相対的なものの上に絶対の色彩を投げかけるのは社会的な要素である」(「重力と恩寵」)。
 ここであの「ほとんど混じり気のない悪」という表現と同様、「絶対としての善」という言葉が使われる。彼女にとって問題となるのは、相対的な善ではなくて、この「絶対としての善」だけだった。しかし、それは「われわれが到達でき」ない「善」である。つまり、社会という現世にある「悪」を解消する「善」は不在なのである。
 彼女は「社会的なものには善ははいってこない」とまで言うことになる。「社会的なものに対するわれわれの唯一の義務は、悪を制限しようとこころみることである」。「善をなすこと、どんなことを行っていても、私はそれが善でないことをこの上もなくはっきりと知っている。善くないものが善をなすことはありえないからである。そして、『神のほかに善いものはいない』(ルカ18・19)のである。あらゆる状況において、どんなことを行うにしても、人は悪を行っている。それも許しがたい悪を。自分の行う悪がもっぱら自分の上に直接にふりかかるよう願うべきである。それが十字架というものだ」(「重力と恩寵」)。こうした極度に破壊的、あるいはペシミスティックな思考(ぼくはいつも、彼女のこれらの思想は、イエスというより洗礼者ヨハネの思想にはるかに近いと思うのだが)を生み出した最大の理由のひとつは、もちろん彼女の工場体験にある。
 
 シモーヌ・ヴェイユは1934年の年末から翌年7月まで工場労働者としての生活を体験する。そして、それは疑いなく彼女の思想に生涯で最大の衝撃と変化をもたらした。その約7年後、ペラン神父への手紙の中で、彼女はその体験をこう語っている。
「その頃わたくしの心も体もぼろぼろの状態になっていました。工場の生活で不幸というものに触れたことによって、わたくしの青春は死んでしまっていたのです。(…)工場ではだれの目にも、わたくし自身の目にも、わたくしは無名の大衆といっしょになっていましたから、他の人々の不幸はわたくしの肉の中に、また心の中にはいりこみました。わたくしを他の人々の不幸から切りはなすものは何もありませんでした。そこでわたくしは本当に自分の過去を忘れ、全く未来に期待をもたず、あの疲労にたえて生きのびる可能性を容易に想像できませんでした。わたくしが工場で受けたものは、長く続くしるしをわたくしの中に刻み込みました」。「わたくしはそういう精神状態で、また体もひどい状態で、悲しいことにこれもまたみじめなポルトガルの小さな村へ、ひとりで入って行きました。それは月夜で、ちょうど村の守護の聖人の祝日でした。その村は海岸にありました。漁村の女たちが舟のまわりを行列してまわり、ろうそくを持って、心を裂くような悲しい声で、たしかに非常に古い聖歌を歌っておりました。それをうまく言いあらわすことはできません。ヴォルガで舟を引く人々の歌のほかには、これほど悲痛な歌を聞いたことがありません。そのときわたくしは突然に、キリスト教は奴隷の宗教そのものであること、奴隷はキリスト教に執着せずにはいられないこと、そしてわたくしもその奴隷の一人であることを確信したのです」(第4の手紙)。
 彼女が、この工場体験とキリスト教との接触によって、他の多くの人々が感受できないようなある決定的な問題をつかんでいることは確かである。シモーヌ・ヴェイユが我々の知るあのシモーヌ・ヴェイユになるのは多分ここからである。彼女はこれ以降、何よりも労働者の不幸、おそらくはいかなる政治体制の中でも永続するこの根源的苦しみ、その奴隷的状態を和らげることにその努力を費やしていくことになる。
 しかし、この「わたくしの肉の中に、また心の中にはいりこみました」という人々の不幸は、それが根源的なものであるために、もはや現実には解決不可能なものと彼女には見えたはずである。おそらく、この時を境に、彼女は社会における絶対的な「善」の可能性の希望を放棄したのである。彼女がこの工場体験以降、いわゆる良心的な工場経営者たちと語らって、労働者と管理者との意見交換の場の設置などの提案を熱心にしていたことが知られている。それは労使協調的でもあり、また幾分か改良主義的(したがって反革命的)とも見える。しかし彼女にとって、それは社会改良への希望のあらわれというより、むしろあらゆる本質的な変革への絶望のあらわれであったはずなのである。
 さて、こうした労働者への理解、つまり工場労働を「不幸」と呼ぶこと、そしてキリスト教を「奴隷の宗教」と呼ぶことにどれだけ普遍性があるかはもちろん疑問である。それはある種の極論だと言えなくもない。少なくとも今のぼく自身はシモーヌ・ヴェイユの感じたようにはそれらの問題を感じないからである。ぼく個人は、下請け構造の最下層で、日雇労働者が日本経済の景気の安全弁として使い捨てされている状況に、そしてそれがその他の労働者、市民、そして行政から無視され、放置されていることに21の頃から問題を感じていた。そして日雇・失業・野宿・行路死という形態が、社会の圧倒的多数の立場から様々な形で不当な差別、偏見を受け続けているのに絶望し続けていた。おそらく、こうした感じ方そのものは、教師時代から石工たちの反失業闘争に参加していたヴェイユの感じ方とそう遠くないように思う。というより、その頃ぼくは、一つにはシモーヌ・ヴェイユのように生きたいと本気で思って、日雇労働をしながら寄せ場の運動にかかわっていったということである。
 もちろん、彼女が感じ取った労働者の不幸、そして奴隷の宗教としてのキリスト教という理解は、彼女がその並外れて鋭い感受性において受け取り表現しえたあるリアリティとして、我々に今もなおある衝撃を与えるのである。彼女はそこで受け取ったこのリアリティを原点として、それからの生涯をかけてその思想を研ぎ澄まし純化していった。
 しかしぼくの見る限り、ヴェイユは社会的活動の上でもまた思想の上でも、工場体験からしばらくの一時期をいわば頂点として、晩年はその可能性と衝撃度とを弱らせていっているように思える。例えばその最晩年に、彼女のつもりでは本当はフランスでレジスタンス運動に加わるべきだったのが、いろいろな経緯でロンドンに来てしまい、そこで自分の本当にやりたいことが満足にできなかったというのは、彼女にとって死ぬほど不本意だったはずである。その結果、占領下にあるフランスに想いを寄せて食事を極端に制限し、結果として死を早めた最後の様子はどこから見てもうまくいっていない。それを「純粋さのきわみ」といった言い方で誉め称えるのは、トンチンカンな話だとしか思えないのだ。
 ヴェイユが「工場で受けたものは、長く続くしるしをわたくしの中に刻み込みました」というように、ぼくも26のときに運動の過程で、自分の中に長く消えない刻印を受けたものがある。しかし、それはむしろ彼女がついに目にいれまいとしたものに近いようだった。
 確かに彼女は「自分で自分の片方の耳をふさいでいた」。それは一つには、あらゆる社会的集団への徹底的な拒絶である。そして一つには、彼女の言う二つの善の間で「我々の到達できる」「悪と相関関係にある善」を、言い換えれば我々の手によって改善可能な問題の意義を思想的には否定したということである。彼女にとって問題だったのは、この世界の中には絶対的な悪、いわばどのような「善」にも決して転化しえない本当の「不幸」が存在するということだった。そしてその社会的な「不幸」は、どのような体制によって解決できないものに彼女には感じられた。彼女にとって、この世界の中で真にリアルと言えるものは、この「不幸」だけだったのである。
 そして、彼女にとってのもう一つのリアリティである「絶対としての善」は、ただ「恩寵」としてこの世界には不在の神によって与えられる。「相対的な善」による救いをあくまで拒絶し、世界の必然としての「不幸」=「善の非存在」を自分の身をかけて担うとき、この善の「非存在」は、世界のあらゆる存在以上にリアルな「存在」として反転し、「絶対的な善」となる事態が彼女によればありえるのである。ちょうど「生きのびる可能性を容易に想像でき」ない工場での不幸の体験が、その極限で彼女に「奴隷」が「執着せずにはいられない」キリスト教を発見させるように、世界の善の不在の徹底的な体験はそれによって、その世界を貫く人知を越えた神の臨在へと人を導くのである。いわば、絶対の悪である「神の不在」から「不在の神」の臨在への突然の飛躍がそこに起こりえる。それは、ヴェイユが「霊的自叙伝」で書いた「キリスト御自身が降って、わたくしが御手にとらえられました」というキリストの臨在として、彼女にとって繰り返し裏打ちされた理念であり体験であった。「真理がいつか私にあたえられることがあるとすれば、それは私自身のからだが不幸のなかに、とりわけ現存する不幸の極限といったかたちのもののなかにあるときだろう、わたしは心のなかで固く信じております」(「モーリス・シューマンへの手紙」)1943)。この極限から極限への飛躍こそが彼女の思想の核心にあった。そして、おそらくその他のものは彼女にとって、次第にその思想的な重要性を失っていった。
 つまり、彼女の問題の突き詰め方は、人間にとっての社会と生との意味の多くのものを、「神の不在」と「不在の神」との両極のみに凝縮する方向へと向かったように見える。言い換えれば、人々の不幸への強い共感と、この世界の変転を越えて存在する絶対的な善への希求との両極にである。彼女の文章を特色づける痛みと激しさ、そして静謐さとの交叉はおそらくその事態を物語っている。しかし、この世界を越えたものへの希求の一方で、彼女の虐げられた人々への共感、そして社会へのかかわりは、結果としてこの「神の不在」の認識を徹底させることにのみ働いたのだと言えるのである。
 その意味では、彼女の34才での生き急いだというような死は、その思想的立場によって導かれた必然だった。なぜなら、時間をかけて、そして妥協を重ねて実現すべき「相対的な善」と悪とは、彼女にとって、もはや問題ではなかったからである。もしも望むものが実現可能な善であれば、5年、10年という時間を費やしてその目標に近づいていくことができるだろう。しかし、目標がこの世界の中では人間にとって実現不可能なものだとすれば、どのような時間もそこで意味を失うのである。
 彼女には、いわば常に「時間がない」のだった。彼女はまるで「今できなければ、永遠にできない」というような切迫した時間を生きていたように見える。多分、彼女にとっては、その一瞬一瞬が、全てか無かという選択の時となっていた。相対的な善と悪とが彼女にとって虚偽でしかないように、全てと無の間の中間は彼女にとって存在しないからだ。そうした姿勢が、「今できなくともいつかできる」というような惰性の中に生きている我々と比べて、ある切実な真実を語っていることはもちろん確かである。しかし同時にそれは時間を超えて無内容な「永遠」なるものに、そして現実を越えた空論に落ち込んでいく危機と紙一重なのかもしれなかった。
 彼女は、自分の「使命」についてこう語っている。
「使命によって課せられる行動の標準は、感受性や理性から来るものとは本質的に、明らかに異なった衝動の中にあって、そういう衝動が起こったときにそれに従わないことは、たとえその衝動が不可能なことを命じていても、最大の不幸であるとわたくしには思われました。わたくしは従順ということをこのように考え、工場に入ってはたらいたときにその考えを試練にかけました。そのときわたくしは最近打ち明けてお話ししましたようなはげしい絶え間ない苦痛の状態にありました。いつもわたくしには、一番美しい生活はすべてが状況の強制によって、あるいはそういう衝動によって規定され、まったく選択の余地のない生活であると思われました」(第4の手紙)。
 使命、「それに従わないことは、たとえそれが不可能なことを命じていても、最大の不幸である」。おそらく彼女にとって、使命に対する不服従は肉体上の死よりも無限に悪いと思われたはずである。彼女が親しんだ福音書の中で、イエスは「体を殺しても魂を殺すことのできない者どもを恐れることはない。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方を恐れなさい」と言う。その意味では、使命に従わないことは肉体の死よりも無限に恐るべき「魂の死」、いわば真実の死とでもいうべきものとなる。したがって、彼女にとっては生きているその瞬間瞬間が、「生か死か」という決断の時となっている。
 そして、時として「それが不可能なことを命じて」いるとすれば(ここでヴェイユは、決して到達できない目標へ走り続ける使者の物語、「皇帝の綸旨」などを語るカフカに突然近づいているのだが)、それは使命を与える者は人間の限界を考慮してはいないということを意味している。そのとき、正義は不可能な使命となり、人間は必然的に「魂の死」を、彼女の言う「最大の不幸」を課せられることになる。ヴェイユは「まったく選択の余地のない生活」と言うが、このいわば不可能な「必然」の中では人間にはどんな希望もありえない。
 
 しかし、この彼女にとって正義とは何だったのだろうか? 疑いなくヴェイユは正義を渇望し続けた人間だった。そして「子供のころから、私は、社会の中で蔑まれている階層に訴えかけていた集団に共感をいだいていました」という言葉に読まれる通り、彼女にとっては社会的被抑圧者、被差別者への共感こそが正義のアルファでありオメガであった。しかし、彼女が「ついにはこうした集団があらゆる共感に水をさす性質のものであることに気づくようになりました」というように、社会的被抑圧者との連帯そのものの意義が疑問とされるとすれば、事実上、社会の中で正義を実現すべき手立ては失われるのである。
 そこで彼女がとる最後の立場は、共同体と共同体との間である。彼女は、共同体とその他の人々との「交叉点」に立とうとする。工場体験以降の後半生の彼女は、スペイン戦争から第2次世界大戦へと向かう現実の変転の中で、様々な社会的集団と関わりながら、最終的にはそこから距離を置くということを繰り返している。彼女はこの「交叉点」という立場によって、社会的問題とかかわりながら、それと同時に社会的存在と接合することのない別の在り方を求めていたと言えるだろう。この地点にあって彼女のしようとしていたのは、あらゆる社会的存在の「悪」による犠牲をいわば自分の一身に引き受け、共有しようとすることだった。そのために、常に彼女は最も虐げられている者たち、最も悲惨な者たちの立場に自ら立とうとしていた。こうして、彼女は他者の不幸への共感から出発しながら、その解決を次第に個人の自己犠牲へと集約していくのである。
 その死の数カ月前、ヴェイユはアイスキュロスの「縛られたプロメテウス」の「狂気と思われるほどに愛することはよいことである」という言葉を引用しながら、「正義の精神は、愛の狂気の最高にして完全なる開花にほかならない」と言う。
「愛の狂気は、憐れみのために一切を放棄するように、また聖パウロがキリストについて語ったごとく、おのれを無とするように強制する。不当に蒙らされた苦悩のさなかにおいても、愛の狂気は、この世のいっさいの被造物を不正義にさらす普遍的法則を受け入れるように同意させる。この同意が魂を悪から救い出す。この同意は、それが行われた魂の内部で、悪を善に、不正義を正義に変貌させるという奇蹟的な力を有している。かかる同意によって、卑下や反抗ではなく、敬意をもって迎え入れられた苦悩は聖なものとなる」
(「われわれは正義のために戦っているのか?」山崎庸一郎訳)。
 ここに至って、正義は「いっさいの被造物を不正義にさらす普遍的法則」=「神の不在」から、「魂の内部で、悪を善に、不正義を正義に変貌させるという奇蹟的な力」=「不在の神」への変容を語るものとなる。もちろんそれは、社会の矛盾の解決を諦め、それを甘受する単なる敗北主義ではありえない。「社会的なものに対するわれわれの唯一の義務は、悪を制限しようとこころみることで」あり、事実、彼女はとりわけナチズム、スターリニズムによる被抑圧者への支援には努力を常に惜しまなかった。彼女のいう「被造物を不正義にさらす普遍的法則」は、ただ人間の努力によっては解消不可能な、したがって「同意」する他ない根源的悪、根源的不幸を言っている。だが、ヴェイユの言う「愛の狂気」は、「おのれを無とするように強制する」ものであり、この「強制」は、もはや社会を変化させないし、社会における善のどのようなヴィジョンも見せることができないだろう。つまり彼女がここで言う「正義」は、社会の悪を固定させるとまでは言えないとしても、その社会悪を相対化し、変容させる視点の可能性はない。その視野には、「神の不在」と「不在の神」という、いわば垂直方向に向かっての「魂の内部で」の「奇蹟」しかもはや存在しない。
 この事態は、彼女が社会的存在という「悪魔の領域」を否定するものとして、「被造物の全体」につながる「普遍的(カトリック)」という概念を対置したこととおそらく相似である。「普遍的」というすべての「善」を例外なく含む概念が、人間性についての同質性、一般性を前提としており、そのために社会的集団の力学からは極端に抽象化されたものであるように、「いっさいの被造物を不正義にさらす普遍的法則」は、かつての工場体験で語られた「人々の不幸」からはるかに一般化され、抽象化された概念でしかないように見える。彼女の工場体験以降の思想の純化は、彼女の直面した「人々の不幸」「集団的な感情」を同質性、一般性の上で極端に突き詰めた上で、最終的にその「悪」を、対極にくるべき抽象化された「普遍」の概念へと反転させるということだった。その結果、晩年の彼女の思想と行動は、他者の不幸を共有しようとする個人とその対極の「普遍性」という両極へ、そして世界における根源的な「悪」とその救いとしての不可能な「善」という極限状況へと突き詰められることになる。それは、確かに思想における一つの極限であって、安易な救済や連帯に対する最も厳格な否定である。その厳しい禁欲性と孤高の姿勢によってヴェイユは、彼女についてよく言われた「聖女」の趣きを強めていくのである。
(繰り返しになるが、こうした思想はイエスというよりは洗礼者ヨハネにはるかに近い。田川建三の「イエスという男」で印象的に描かれているが、権威的宗教集団や一切の偽善への拒絶はともかくも、徹底的な悔い改めと禁欲によって救いを得ようというのはヨハネの姿勢そのものであって、イエスはそれとはちがっている。また、ヴェイユは洗礼という行為にこだわりぬいたが、洗礼を授けていたのはヨハネであってイエスは行っていない。「霊的自叙伝」で、キリストが繰り返しやってきたと彼女は言う。しかしこのキリストは、彼女のいうギリシア幾何学やギリシア悲劇、プラトン哲学、エジプト神話、諸民族の民話などに通底する一種の霊的存在ではあるかもしれないが、歴史的イエスとはどう見てもほとんど関係のないものである)。
 
 しかし、それまで一貫していたこうした思想的立場から、シモーヌ・ヴェイユは最後に別方向への転換を示していたように見える。フランス潜入の希望をロンドンの「自由フランス政府」に拒絶された彼女は、その代わりに解放後のフランスの未来についての立案を命じられ、最後の著作「根をもつこと」を病で倒れるまで書き続けている。ある意味でその思想の総決算となったこの著作の中で、彼女は以前と変わらない「不在の神」による絶対的な善、政党の全面的廃止について語っている。それと同時に、彼女は「資本主義的でも社会主義的でもない」社会生活形態を、具体的には労働者たちが小さな製作所どうしの協同組合方式を持ち、そこではすべての労働者が思考と肉体労働を伴う熟練工であるような新しい機械との関係を提唱している。そしてそれとともに彼女は、ナチズムへの抵抗の精神的支柱としての「愛国心」を、この著作の中心部で強烈に訴えるのである。
「現在、世界は新しい愛国心を必要としている。愛国心が人に血を流させているいまこそ、この創造の努力は実現されなければならない」。「ある種の微生物にとって培養に適した環境なるものがあり、ある種の植物にとって不可欠の土壌なるものがあるように、各人のうちなる魂のある種の部分、および、相互交流のおこなわれるある種の思惟方法と行動方法は、国民という環境のなかでしか存在せず、国が滅びるときには消滅してしまうものなのである」(山崎庸一郎訳)。彼女はこの「新しい愛国心」を、彼女の見いだしてきた集団悪から切り離しそうと言葉を尽くして説明しようとしている。だが、それまであらゆる社会的集団を「悪魔の領域」と言った彼女が、集団心理の最適の例とも言える「愛国心」を訴えるのはなぜなのか。そもそも、「五人か六人になると、もう集団の言葉が支配しはじめます」とまで言った彼女が、最後に語る抵抗と連帯の理念が「愛国心」ということで理解できるのか。それは彼女の思想の新たな次元への飛躍なのか、それとも単なる退向なのか、読み手は一瞬判断にとまどうのである。
 おそらく、このとき全体主義によってフランスが滅亡しかかっているという危機感が、「社会の中で蔑まれている階層に訴えかけていた集団」にさえ失望し、政治的にも宗教的にも安易な連帯を否定し続けた彼女を、祖国に「根をもつこと」を求めるに至らせていた。しかも、彼女は危機にあるフランス民衆から心ならずも遠く離れていた。おそらくその追いつめられた意識が、彼女を「愛国心」という、少女時代以来彼女に無縁であり続けたものへと急激に近づけた。
 しかし、第2次世界大戦でのこのヴェイユの態度変更は、例えば第1次大戦で第2インターナショナルが反戦、国際主義から愛国主義へと突然転換した事例とどれだけ違うのか、非常に疑問である(この転換は、彼女が度々比較されたローザ・ルクセンブルクをひどく絶望させたのだった)。全体主義に対する抵抗の理念がいろいろ考えられる中で、ヴェイユが他でもない「愛国心」を訴えたことは、少なくともぼくには理解できない。
 彼女の思想的な軌跡をたどった上で言えば、この転換は思想的可能性の衰弱の結末でしかない。つまり、当時のフランスにおけるナショナリズム自体の意味あいは別としても、この彼女の転換は、それまでの集団への厳格な否定、拒絶が敗戦という危機にあって衰弱し、その結果として最も明快な集団的理念へと回帰しただけのように見える。政党や教会といった理念的共同体への徹底的な拒絶の精神が、愛国心という、いわば疑似血族的共同体へと反転し、着地してしまうのである。
 そもそも、シモーヌ・ヴェイユが最後に提唱した「新しい愛国心」は、彼女が闘おうとした全体主義に対して本当に対立しえるものだったのだろうか? 彼女は、集団悪としての社会的存在を否定するものとして「普遍性(カトリック)」を対置した。しかし、社会的集団の力学を越える「普遍性」が本質的対立や矛盾のもはやない均一な世界だとすれば、それはむしろ全体主義に近いのである。それは、何の代償もない個人の自己犠牲だけが唯一世界を霊的に救い得るという彼女の「正義」とも符合する。つまり、彼女の世界観に、自己と他者の世界の間に距離がないために、自己犠牲が世界を救うというような、いわば同一性に基づく関係が成り立つのである。しかし、そうした犠牲精神は、社会的集団の力学を超越し、個人間の相違を無視するものである限り、非暴力的全体主義から暴力的全体主義と反転していく危険を常にはらんでいる。もしそうだすれば、彼女が突き詰めてきた「ほとんど混じり気のない悪」とその対極の「普遍性」、そして「神の不在」とその対極の「不在の神」という思考は、現実を越えた極論へと落ち込んでいく危険と同時に、「愛国心」と結び付いてある種の全体主義(国家=全体主義)へと接合していく危険と紙一重なのかもしれなかった。それは、たとえ「根をもつこと」で彼女がヒトラーの思想とフランス人民の思想との同一性を批判しているとしてもそうなのである。絶えず極限へと突き進むシモーヌ・ヴェイユの思想は、その最後に近づくにつれて、現実の社会悪に対しては逆にあまりに無防備な面を見せはじめている。しかし、彼女の可能性は、別の方向にもありえたはずなのである。
 
 彼女の思考には普遍性、純粋性への極端な傾きがあり、それが一つにはその思考を「神の不在」「不在の神」といった神学的方向へと引き寄せていた。
 例えば、彼女は工場体験について「工場ではだれの目にも、わたくし自身の目にも、わたくしは無名の大衆といっしょになっていましたから、他の人々の不幸はわたくしの肉の中に、また心の中にはいりこみました。わたくしを他の人々の不幸から切りはなすものは何もありませんでした」と言う。しかし、彼女が言うこうした「わたし」と「他の人々」との一致、共感は一体何なのだろうか。当然ながら、他に生きる方法がなくて工場労働などの単純労働をしている普通の人と、経験のためにそれを半年ほど体験する彼女のような国立校教授資格者とでは、同じ体験でもその意味と立場がまったく異なっているはずである。仮に「半年」が10年、20年となっても本質的にこのちがいは消えることはない。もちろん、この自明のことを彼女が知らなかったとは思わない。しかし、彼女はどうしてもそれをやらずにはいられなかった。いわば、そこで彼女は常識を越えた何かに突き動かされるようにして工場に入ったように見える。
 彼女は工場での苦しみに触れて言っている。「私について言えば、何らかの必然性によって私がこれらの苦しみに服しているというのではない以上、どうして逃げ出したいという誘惑に私が抵抗したりできるのか、とあなたはいぶかるにちがいないと思います。(…)というのは、これらの苦しみは、私が自分自身のものと感じず、労働者一般の苦しみとして感じるのです。だから私が、これらの苦しみを受けるか受けないかということは、私にはほとんどどうでもいい些細なことと思えるのです。このような、知りたい、理解したいという願望は、大した苦労もなくそうした誘惑に打ち克つものなのです」(「ボリス・スヴァリーヌへの手紙」根元長兵衛訳)。彼女にとっては、「必然性」より以上に労働者の現実を「知りたい、理解したいという願望」の方がはるかに重要なのだという。それは、立場の違いを乗り越えて「理解したい」という、ある意味では無謀な企てである。ぼく個人は、こういう無謀さには非常に関心をもつ。工場に入っても本質的なことは決してわからないだろうが、それでもしかしやってみるというのは選択肢の一つだからである。しかもこの企ては、彼女の他者の痛みへの高い共感能力と感受性の鋭さによって、ほとんど異常な成果をあげたようにさえ見える。しかし、それと同時に、彼女と多くの労働者との階層の相違については、彼女はもはや言及することはなくなっていく。むしろ、「工場ではだれの目にも、わたくし自身の目にも、わたくしは無名の大衆といっしょになっていました」という一体感をひたすら強調していくのである。そしてそれは、世界における「善の不可能」にまで一般化されていく。
 しかし、彼女が言う「わたし」と「無名の大衆」との一致はもちろんありえない幻想でしかない。そこには、どのような共感能力をもってしても乗り越え不可能な相違があるのである。むしろ、その生まれと資質から国立校教授資格者という立場になった彼女が、いわばなんら必要もないのに行ったこの虐げられた人々との共闘、そして工場での女工体験、そしてそれが彼女に与えた衝撃は、彼女自身の意図とは別にブルジョワ階層とプロレタリアート階層との衝突と交叉を個人の中で体現している(そして、女性でありユダヤ人だった彼女にとっては、この階級間の衝突と同じように、ジェンダー間、民族間の衝突と交叉も大きな意味を持っていたはずなのだが)。ナロードニキ以来のこうしたブルジョワのプロレタリア体験の中でのシモーヌ・ヴェイユの特異性は、工場労働における根源的な「不幸」の発見にあった。そしてこの26才の工場体験の段階では、彼女の他の階層への無謀で熱狂的な跳躍と、そして普遍性、同質性への思想的な希求とがその体験の中に分けがたく混在していた。しかし、それ以降の彼女が突き詰めていくのは、この両面のうちの一方、「わたし」と「無名の大衆」との一致という方向のみだった。しかし繰り返すが、その彼女にとって正義とは何だったのだろうか?
 
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 シモーヌ・ヴェイユはペラン神父への手紙で言っている。「わたくしはまたごく小さいときから、隣人愛というキリスト教的な考えを持っておりました。わたくしはその考えに、福音書の中で何度か呼ばれているように正義という大変美しい名を与えました」(第4の手紙)(強調引用者)。
 もちろんシモーヌ・ヴェイユのいう「隣人」とは、彼女にとって隣の家の人という意味よりも、社会の中で虐げられている階層の人々という意味をはるかに強く持っていただろう。「隣人を愛さなければならないことはたしかですが、キリストがこの掟の説明としておしめしになった例(ルカ福音書)では、隣人は裸で血を流して、道の上で気を失っている全然見知らぬ人です。これはまったく名前の出て来ない愛、それだからこそまったく普遍的な愛なのです」(第6の手紙)。この「普遍的(カトリック)」という表現は、彼女の目には「事実として普遍的ではない」カトリック教会への批判として言われている。
≪すると見よ、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った、「先生、私は何をしたら永遠の命を嗣げるのでしょうか」。イエスはしかし、彼に対して言った、「律法には何と書かれているか」。すると彼は答えて言った、「お前は、お前の神なる主を、お前の心を尽くし、お前のいのちを尽くしつつ、お前の力を尽くしつつ、お前の想いを尽くしつつ愛するであろう。またお前はお前の隣人をお前自身として愛するであろう」。するとイエスは彼に言った、「あなたはまともに答えた。それを行いなさい、そうすれば生きるだろう」。しかし彼は、自らを義としたいと望んでいたので、イエスに言った、「私の隣人とは誰ですか」。イエスはこの問いを取り上げて言った、「ある人がエルサレムからエリコにくだって行く途中、盗賊どもの手中に落ちた。彼らは彼の衣をはぎ取り、めった打ちにした後、半殺しにしたままそこを立ち去った。すると偶然にも、その道をある祭司がくだって来た。しかしその人を見ると、道の向こう側を通って行った。また、同じように一人のレビ人も現れ、そのところへやってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。さて、あるサマリア人の旅人が彼のところにやって来たが、彼の有り様を見て断腸の思いに駆られた。そこで近寄って来て、オリーブ油と葡萄酒を彼の傷に注いでその傷に包帯を施してやり、また彼を自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って、その介抱をした。そして翌日、2デナリオンを取り出して宿屋の主人に与え、言った、『この人を介抱してやって下さい。この額以上に出費がかさんだら、私が戻ってくる時あなたにお支払いします』。この3人のうち、誰が盗賊どもの手に落ちた者の隣人になったと思うか」。すると彼は言った、「彼に憐れみの業を行った者です」。するとイエスは彼に言った、「行って、あなたもまた同じようにせよ」≫。(「ルカ福音書10・25〜37」佐藤研訳)(サマリアは、ガリラヤとユダヤの中間に位置する北王国イスラエルの首都だったが、その後アッシリア帝国に侵略され、混血も起こり、文化的に変容した。宗教的にもエルサレムと分離し、モーセ五書を尊重する独自の宗教を確立し、エルサレムを中心とした公のユダヤ教と激しく対立した。)
 
 田川健三は「イエスという男」でこの箇所を取り上げて、律法学者の「私の隣人とは誰ですか」という問いについて言っている。「もっともこれは律法学者的問答の続きであって、『隣人』という概念は、彼らの間では極めて厳密に用いられている概念なのである。彼らにとっては隣に住んでいるとか、たまたま行き逢う人が隣人なのだ、というわけではないので、選ばれたイスラエルの民に属する者が隣人であり、生まれがユダヤ人だというだけでなく(…)信仰共同体としてのイスラエルの民に属する者こそが、互いに『隣人』なのである。」「この『良きサマリア人の譬』にしたところで、単に、心やさしくサマリア人を受け入れましょう、という趣旨の発言ではない。自分達を日常覆っているところの宗教性こそが、たとえばサマリア人に対する差別をつくり出すものなのだ、という批判なのである。/『だれが我々の隣人なのか』と『隣人』の範囲を宗教的に規定しようとする時に、サマリア人はそこから排除される。従ってイエスは律法学者のこの問いに、そのまま答えて、『隣人』の範囲を定めることはしなかった。たとえ正統的律法学者よりも『隣人』の範囲を広くひろげようと、その範囲を定めようとしている限り、本質においては変らない。範囲の外にいる人は隣人ではなくなってしまうからである。むしろイエスはその問いに対して、『だれがその被害者に対して隣人になったか』という問いを対置した。隣人というものは、自分の方から隣人になるものなのだ、というのである。こう言うことによって、イエスは『隣人』の概念を転倒しようとした」。
 この譬えによってイエスは「当時のユダヤ人のもつ、サマリア人への根強い近親憎悪を批判した」(上翻訳「用語解説・サマリア人」)。
 
 ユダヤ人のサマリア人への「近親憎悪」。つまりそこでは近い者こそ最も遠いのだが、ここではそれが逆転されて、その遠い者が最も近い「隣人」となっているわけである。
 「隣人」という言葉にある「隣り」という社会的な距離の概念は、もちろんもともと空間的な意味をもっているのが、ユダヤ教では「信仰共同体としてのイスラエルの民」という概念となっている。実はそれはキリスト教でも同様であって、シモーヌ・ヴェイユはそのカトリック教会の「隣人」概念の狭さを口を極めて批判している。とりわけ、異端審問に見られるような宗教的「近親憎悪」をである。つまり、彼女の言うこの「裸で血を流して、道の上で気を失っている全然見知らぬ人」への隣人愛は、まるでカトリック教会の「隣人」を無限に拡大し、困っているすべての人へ向かう「普遍的」な愛というようにも読める。しかし、その意味を更にイエスは転倒する。それは、むしろ隣人から成る共同体の概念を批判、転倒し、それを新たな角度から変動させる可能性を示している。
  田川健三の言うように「『だれが我々の隣人なのか』と『隣人』の範囲を宗教的に規定しようとする時に、(…)たとえ正統的律法学者よりも『隣人』の範囲を広くひろげようと、その範囲を定めようとしている限り、本質においては変らない。(…)むしろイエスはその問いに対して、『だれがその被害者に対して隣人になったか』という問いを対置した」。つまり、ここでは「隣人愛」は、「私の隣人は誰か」という問いによって答えられるのではなく、むしろ「私」こそが「誰がその人の隣人になったか」という問いへの答えとして見いだされるべきなのである。ここにはしたがって問いそのものの転倒が、いわば問いのトポロジカルなねじりがある。
 「隣人」とは、あらかじめ与えられた概念ではなく、「全然見知らぬ人」との関わりによってそのつど創造されるべきものである。その瞬間、「私」は「見知らぬ人」の隣人として突然見いだされる(カフカはアフォリズム「捜す者は見いださない。しかし捜さない者は見いだされる」を言っていて、それは研究者によってスライドしていく逆説=グラインデス・パラドックスと言われるが、それが指しているのはおそらくこうしたねじれである)。イエスの語るサマリア人の物語は、ヒューマニズム=人間愛というよりは、在来の共同体への批判である。そして、在来の「隣人(愛)」を批判する新たな社会的距離の創造こそ、本来ヴェイユの言う「正義」である。したがって、「正義」もまたあらかじめ与えられた法則ではなく、「見知らぬ人」との関わりによってそのつど「私」を発見しにくる「私」にとって未知のものである。
 事実、ヴェイユはイエスの物語るサマリア人のように、虐げられる「全然見知らぬ人」「の有り様を見て断腸の思いに駆られた」。そして、いわば突き動かされるようにして、思わず彼ら彼女らに近寄った。そのとき、彼女が「全然見知らぬ人」を見いだしたと同時に、彼女が工場体験でそうだったようにこの「見知らぬ人」との関係から見いだされている。彼女自身の位置そのものが、新たな視点から発見されるのである。
 しかし、このイエスが語ったサマリア人の話は、ヴェイユが言わんとしているように「隣人」概念を無限に拡大した「普遍的」な愛の物語というものではなかった。またそれは、「神の不在」から「不在の神」への飛躍を語るのでもない(そのような抽象的な話ではない)。ヴェイユの言う「悪魔の領域」という集団悪は、同じ理念の人々の集りからなるものであり、そしてその対となる「普遍性」は、すべての人々を包括するような原理を意味している。つまり、両者は同一性、同質性という本質的に同一の枠内にある。言い換えれば、彼女のいう「普遍性」とは異質に対する「同化」の思想なのである。したがって、「悪魔の領域」と、その拡大である普遍的「隣人愛」への批判は、「普遍」と「集団」の対とは別の方向から現れる。
 この領域は、最も遠いとされていた「全然見知らぬ人」どうしを突然「隣り」に見いださせるからだ。それは、同質な領域を無限に広げるのではなく、それまでの社会における「距離」をそれまでとは別の次元で組み替える。それによって例えば、最も遠いものが近くなり、最も近いものが遠くなる。福音書のイエスは、度々こうしたトポロジカルな形容(「最初の者になる最後の者たちがいる、そして最後の者になる最初のものたちがいる」「金持ちが神の王国に入るよりは、らくだが針先の穴に入る方がまだやさしい」…)をするが、それはおそらく、社会的・宗教的現実についての「普遍」とは別の次元のリアリティを示していた。隣人愛を越える行為は、異質な者どうしを突然つなぎあわせている。逆に言えば、近いと思われた共同体内部の隣人どうしにも、それによって決して解消することのできない「距離」が突然現れうる。隣人愛が自己愛とあくまで異なるように、この異質さ、「隣り」という距離は決して「同質」性に解消することはできないからである。
 ヴェイユは社会的なものについて「悪魔の領域」と命名した。だがこの「普遍」と対をなす「悪魔の領域」、つまりユダヤ=キリスト教的「隣人愛」に対して、それらを批判し転倒させる領域を何と呼ぶことができるだろうか。この「ほとんど混じり気のない悪」である悪魔の逆の領域は、それを名付けるとすれば当然「天使の領域」である。伝承によれば、悪魔はそもそも天使の一人だった。天使の領域とは、「隣人愛」がそうであるような社会的な共同体の「空間」「距離」の概念を批判し変容させるだろう。そして、それはヴェイユの言うように「正義」であり、「見知らぬ人」との関係の中であらためて発見されるべきものである。
 その「天使の領域」が現れる瞬間、天使の時間は「闘争」と名付けることはできるだろうか。それはまさしく現行の社会的空間を予想しなかった角度から変更し、それまでとは異質な新たな時代を作り出す。現行の共同体に対して、それは不自然で暴力的で異質な時間、空間を導入するのである。しかし、おそらくこの「天使の領域」は様々な領域にも存在している。「闘争」がそうであるとすれば、例えば「暴動」もまたそうであり、また「革命」もまたそうなのだろう。例えば、カミングアウト(ここでは社会的被抑圧者の自己表示という一般的な意味で言うのだが)はそうした意味での闘争なのかもしれない。闘争は、同質だと一方からは思われていた関係に、その変容と新生を迫る。同質な共同体と思われていたものは、実は力関係の中で一方の沈黙によって支えられる抑圧関係でしかないからである。闘争は、この抑圧的な力関係からなる共同体を問い直し、同時に告発を受ける側の立場をも問う。それは例えば、マジョリティの立場を「普遍的」と考えている者の立場を問い、マイナリティとの新たな関係作りを求めている。闘争は、それまで同質な「隣人」だと思われていた両者の関係に異質な距離を導入し、その瞬間、そのコミュニケーションを途絶えさせるだろう(いわば、その瞬間「天使が通る」)。それは、両者の関係を破壊させてしまうに至る危機的なものであるが、同時にその関係が別の次元へ転換し、新たなコミュニケーションを作り出す可能性でもある。
 なぜなら、例えばカミングアウトは、多くの場合相手の反応を予測できないからである。ちょうどエルサレムからの道の途中に強盗に襲われた人をユダヤ人が無視し、反エルサレム主義であるはずのサマリア人が助けたように、思いもかけない人が「隣人」になり、「隣人」だったはずの人がそうでなくなる。「その人の隣人は誰か」という問いに対して、誰があてはまるのかは予測できない。とりわけ、「私」があてはまるかどうか予測できないのだ。つまり、「私」は自分が気づかないまま誰かの「隣人」になりうるし、逆に自分で「隣人」のつもりでも、現実にはそうではないこともありうる。文字通りに「最初の者になる最後の者たちがいる、そして最後の者になる最初のものたちがいる」(ルカ福音書13ー30)。闘争は、共同体をいったん分裂させ、「全然見知らぬ」角度から新たなつながりを生み出していく。問題は「隣人愛」の普遍による一元化ではなく、むしろ社会的な距離のトポロジカルな発現と、そこから始まる未知の関係の創造にあるはずである。
 シモーヌ・ヴェイユもまた、その生涯で出会った様々な「全然見知らぬ人」、彼女には関わる必然性が本来はない工場体験、スペイン戦争、これら社会的被抑圧者の「隣人は誰か」という問いに対して「私」という答えをそのつど発見していた。そのつど、彼女は遠く離れた彼女の「隣人」に向かって、熱狂的な跳躍と、新たな関係の創出をしていた。彼女は「使命」という衝動について、「そういう衝動が起こったときにそれに従わないことは、たとえその衝動が不可能なことを命じていても、最大の不幸であるとわたくしには思われました」と言う。しかし、彼女が「断腸の思いに駆られ」、思わず彼ら彼女らに近寄ったとき、それはこうした「不可能な必然」というよりも、むしろ「実行されてしまった偶然」と言うべきものだった。彼女のいう「正義」という「愛の狂気」はむしろ、いわば意識しないままに彼女がやってしまっているこうした行為にこそふさわしい。つまり、こうした無謀で激しい、いわば熱狂的な行動にふさわしいかもしれない。ただ、こうして彼女が実行してしまっていた彼女の言う「隣人愛」が「正義」と本当に同値なのかどうかはまた別の問題である。いわゆる下層労働者の反失業闘争への連帯から始まった彼女の社会正義のための闘争は、アナルコ・サンディカリズムに近い共産主義者としての行為であって、そもそも資本主義への闘争を意味するものだった。彼女にとっての正義は、最終的に「隣人愛」という「愛の狂気」へと集約されていったが、資本主義への闘争が正義にとって不要であるわけではない。例えば、現在進行形の日雇労働者の総失業、総野宿生活化(そして一部の生活保護化)の最大の原因は、高齢化し、相対的に賃金が上昇してきた日雇労働者を、景気後退にあわせて資本が一気に就労から切り捨てたためである。一言で言えば使い捨てである。資本は、景気の安全弁としての下請け構造の末端を、日雇労働から別の不安定就労形態、例えば派遣労働者や相対的に若年で低賃金なフリーター層などへと移動しようとしている(将来、フリーター層のかなりの部分は野宿生活化するのではないか?)。その意味では、寄せ場にかかわる者は、このままであれば資本の軸足移動の後始末を強いられ続けることになる。つまり、社会的距離の新たな発現と関係の創造と同時に、資本への抵抗は依然不可欠なのだ。こうして、我々はシモーヌ・ヴェイユがシモーヌ・ヴェイユとなった工場体験以降の「聖女」としての彼女ではなく、むしろそれ以前の俗人である活動家としての彼女に共感する。
 シモーヌ・ヴェイユは、思想的に「神の不在」から「不在の神」への飛躍を求め続けていた。それは思想の一つの方向の極限であって、しかも彼女はその思想を身をもって生き抜いていた。しかし彼女の軌跡はその思想の体現であると同時に、その思想の図式性を越えていく現実との生々しい格闘と熱狂性とを見せている。いわば、そこには徹底性とある種の矛盾が常に混在しているのである。その有り様こそが、我々に彼女の無比の姿として記憶に鮮烈に残り続ける。その意味で、彼女は今もなお驚異的であり、我々が追跡不可能な、そして同時に追跡不必要な先達なのである。


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