02 降り注ぐ空の涙


※ 12才イタチ×7才サスケ


 ただいま、と語気も強く、サスケは引き戸を勢いよく引いた。
 古い家の戸は、サスケに抗議をするかのように、がらがらっとやたらに大きな音を立てる。
 すぐさま奥から母の注意が飛んできた。
「サスケっ」
 その声を頼りに、母の元へ急ぐ。
 ミコトは居間の畳を箒で掃いていた。
「もう。ばたばたしたら、また埃が立っちゃうでしょう」
「ね、母さん。兄さんは?まだ?」
 アカデミーのかばんをおろしながら、サスケは辺りを見渡す。
 玄関に靴がなかったから、家にはいないだろうと見当はつけていたが、諦められないので、確かめる。
 もしかすれば、一度帰ってきて、今は少し所用で出ているだけかもしれない。
 だが、そんな淡い期待はかんたんにどろんと消えてなくなった。
 居間には兄の持ち物ひとつなかったし、兄がさっきまでいた様子もうかがえない。
 加えて母が首を横に振ったのだ。
「イタチ?さあ…。今日も遅くなっちゃうんじゃないかしら」
 任務で忙しいようだし、と母が付け加えたのは、兄弟どちらへもの気遣いなのだろうことは、サスケにもわかった。
 だが、サスケはむすっと頬を膨らませる。
「でも、兄さんが言ったんだ。今日は昼過ぎで任務は終わるって」
 母に、兄に、不満を持っているわけではなかった。
 ただ遣りどころのない気持ちをまだ上手に過ごすことをサスケはできないでいる。
 兄は幼い頃からずいぶんと大人びていたが、だからといって弟も、というわけにはいかなかったらしい。
 サスケの前にはいつもイタチがいた。
 この頃は、もうずっと遠くに。
 自分たちは、ずいぶんと離れて歩いているのだ、とサスケは思う。
 兄さんとは、兄弟なのに。
「なにか約束をしていたの?」
 問われて、押し黙る。
「そうじゃないけど」
 けど、だけど、イタチがいてくれるならと思い、今日はアカデミーで居残りをしなかったのだ。
 手裏剣術は、父よりも、アカデミーの教師たちよりも、兄の方が数段も優れている、とサスケは見ている。
 母は、そんなサスケの心情をそっと悟ったのだろう、開け放っていた縁側の、軒先のその先を見上げた。
「雨が降りそうね」
 母の言葉にサスケも縁側に出て空をうかがう。
 さきほどから一面を覆っていた雲が、そういえば薄暗さを増している。
 これでは森の修練場へまでは足を伸ばせない。
 それに兄は傘を持って出掛けたのだろうか。
「おれ、兄さんを迎えに行ってくるよ」
 思い立って廊下を駆けた。
 その背に、「宿題っ」と母の声がまた飛んでくるが、かまわない。
 宿題なんか後ですればいい。アカデミーの宿題は今日もとてもかんたんだ。
 サスケは傘をひっつかむようにして、帰ってきたときと同じように、勢いよく引き戸を開けて雨の中に飛び出した。


「降り出したようだな」
 狐の面をした男が、締め切った窓の外を見遣って言った。
 雨足は次第に強まり、採光源である窓を春の雨らしく雨粒が静かに伝う。
 だが男が手元の紙片を読むにはまだ苦はないだろう。
 イタチは薄暗くなった部屋に明かりを点けようとは思わなかった。
 男の狐面がぼんやりと白く浮かぶ。
 幽霊などというものは信じなかったが(もし死者の魂がこの世にあるのならば、それは口寄せの術の一種に違いない)、たとえるならばそれだ。
 暗部は顔を覆う。
 たとえ、所属を同じ暗部としていてもだ。
 それは暗部が名の如く、人を殺めることを生業にしているからであろう。
 誰が見ても明らかな、つまるところ定められた規律に背いた忍びを捕らえるのは、うちはの警務部隊の領分だ。
 だが、暗部はそうではない。決定的に警務とは異なる部分がある。
 暗部は、殺めるのだ。
 それも、規律に背いたとは限らない者を、静かに、音もなく、その者の名も誉れも、それごとを消し去ってしまう。
 里の、あるいは国の、信条に背く者を排する。体制に反する者を除く。
 そうして排除されていった数多くの忍びたちと同様に、暗部にもやはり名や誉れはない。
 里の安定と平和。
 それをただひとつの正義と定めた、里のための火影直轄組織。それが暗部だ。
 そういう側面を持つ故に、同じ木の葉の者に疎まれることもあれば、疑われ恨まれることも多い。
 暗部隊員が面で顔を隠すのは、個の存在を許されないことに加えて、個であることは即ち自身に危険を招くからでもあった。
 だが、イタチは今は面を取っていた。
 狐面の男が手にする紙片はイタチが渡したものであり、イタチにしか渡せないものである。
 であれば、個を消す面は必要がない。
 いや、実のところ、この暗部に召還されたそのときから、イタチには本当の意味での仮面は与えられていないのではないだろうか。
 個のない暗部隊員ではなく、イタチは暗部の「うちは」イタチであることを望まれているのではないだろうか。
 そうしてかわりに差し出されたのは、うちは一族のイタチという仮面なのだ。
「この頃はよく降る」
 とは、雨のことではない。
 狐面の男は、紙片に目を落とした。
 あれは、初めイタチがダンゾウから渡されたものだ。
 開けば、幾人かの名が書き付けられていた。うちはフガクの名は、まず初めに。
 あの時から、紙片に書き連ねられた名は随分と増えた。書き加えたのは他でもないイタチ自身だ。
 男は煙草を嗜むらしい、ライターで紙片に火をかける。
 みるみる内に、うちはの名は灰皿の中で燃え尽きた。灰は少ししか残らなかった。
 一瞬、光が瞬く。
「荒れそうだな」
 また男は窓を見遣った。
 雷だ。だが、まだ遠い。イタチは暗雲を見渡す。
「もう少し先になるでしょう」
 その言葉を最後に部屋を辞そうとしたイタチに、珍しく男が声を掛けてきた。
「ダンゾウさまは、イタチ、お前を買っておられる。忍びとしての腕や術の才能だけではない。忍びとしての資質を買っておられる」
 また光る。雷鳴が聞こえる。イタチは踵を返した。
 言われずとも、承知していた。


 通りは雨のせいか閑散としていた。人通りは疎らだ。
 雷はもう遠ざかってしまったらしい。
 後には途切れることのない細い雨だけが残された。
 傘はない。
 暗部の忍び装束を解いたイタチは、うちはの衣装を纏って、雨の中を歩いていた。
 駆ければ、うちはの集落などすぐだ。
 だが、そういう気分にはならなかった。なれなかった。雨が閉ざす世界の静寂が、今はひどく心地よい。
 今日は昼過ぎには帰るとサスケには告げていたが、雨雲のその上空にある日は幾分か傾いただろう。
 そうだ、サスケだ。
 誰もいなかったイタチの世界に、ふと弟の姿が思い浮かぶ。
 この雨ではサスケの手裏剣術を見てはやれない。
 サスケはイタチの暇時間を見つけては、修業をみるよう強請るのだ。
 イタチにはまだまだ及びもしないが、あれもうちはの血を受け継ぐ一族の者だ。
 いずれは血継限界に目覚め、優れた忍びになるだろう。
 鍛錬次第ではすぐにでも下忍に、もうあと数年もすれば中忍に昇格をするかもしれない。
 だが、とイタチは思う。
 サスケが強請る通り、自分の手裏剣術を授けてやることがサスケのためになるのだろうか。
 一足飛びに中忍や上忍に駆け上がることが、本当にサスケのためになるのだろうか。
 雨が頬を伝う。
 サスケがこどもであるからこそ、それを盾にイタチが守ってやれるのだ。
 ちいさな体だからこそ、イタチの背に里からも一族からも隠してやれるのだ。
 十字路の角を曲がる。
 うちはの集落に続く通りに出る。
 すると、サスケがいた。
 雨のためか早めに店仕舞いをした商店の軒先で、サスケはイタチを探していた。


「兄さん」
 呼ぶと、兄は足早に駆け寄ってきた。雨を避けて軒先に入る。
 やはり傘を持って出掛けはしなかったらしい。
 サスケはポケットのハンカチを差し出した。
 イタチは礼を言って受け取りながら、サスケが持っていた傘を目に留める。
「おれを迎えに来たのか」
 随分と待ったんじゃないか、と言われて、サスケは曖昧に頷いた。そのまま少し俯く。
 確かに短い時間ではなかったように思うが、兄に遅いじゃないかと詰め寄るのはちょっと違う、筋違いだと思ったのだ。
 そんなサスケのおでこを、イタチはいつものように、とんっと小突いた。
 思わず顔を上げる。
 通りの向こうにその姿を見つけたとき、イタチはまるで今日の雨のような何処か寂しげで仄暗い眸をしていた。
 だが、今、目の前の兄は微笑っている。
「許せ、サスケ」
 あの兄は見間違いだったのだろうか。
 いいや、きっとそうに決まっている。そうであるほうが、ずっとずっといい。
 サスケは照れ隠しにぷいっと顔を逸らした。
「べつにいいよ。おれが勝手に来ただけだし」
「だが、おれは昼過ぎには帰ると言っていた」
「それも、いいんだ。任務だから、仕方ないよ」
 濡れたハンカチは自らのポケットに仕舞ったイタチに、サスケは持ってきた傘を差し出す。
 それひとつしか、傘はない。
 イタチは小首を傾げた。
「お前の傘はどうしたんだ」
「シスイさんに貸した」
 シスイは少し前に通りかかったらしい。やはり彼も傘を持ってはいなかった。
 イタチはそうかと頷いて、それからサスケに背を向けて屈んだ。そうして半ば無理矢理にサスケをおぶってしまう。
「兄さんっ」
 サスケは、抗議の声を上げた。
 だというのに、イタチがそのまま立ち上がるので、仕方なしに首に腕を回す。
「サスケ、傘」
 言われて、兄が雨の中に一歩を踏み出す前に傘を開いた。
 そりゃあ並んでひとつの傘に入るよりは、濡れずに済むかもしれないけれど。
「けど、兄さん。おれ、もうアカデミーにも入ったんだぜ」
 言外に、恥ずかしいので降ろしてくれ、と言ってみる。
 だがイタチにはそういう気はないらしい。サスケを背負って、うちはの集落の門をも潜ってしまう。
「この間もおぶってやっただろう」
「あれは、足を痛めたときだったから、いいんだよ」
 サスケにとって幸いだったのは、うちはの集落もまた人通りがほぼ絶えていたことだった。
 だが、目深に傘を差して、なんとか顔を隠す。
 そうしたサスケのせめてもの抵抗が可笑しいのか、イタチは笑った。
「お前はうちはの中では一番小さいんだ。みんな、こどもだから、と思ってくれるさ」
「おれはそれがいやなんだ。だいたい、おれが兄さんを背負ったっていいんじゃないのか、この場合」
 サスケは口を尖らせた。
 だが、大人しく兄の背に収まっているのは、そうされることが嫌いではないからだ。
「お前がおれを、か」
 イタチがまた笑う。
 その仕草がイタチの内で反響し、サスケにも伝わる。それも嫌いではなかった。
「それは、だめだな」
「どうして」
「おれがお前の兄で、お前はおれの弟だからだ」
 それではいつまで経っても自分は背負われてしまうではないか。
 そういったことを言うと、兄は「そうだな」と独り言のように呟いた。
 雨はまだ上がる気配を見せない。
 足下はこの雨のせいで、踏み固められた土がゆるみ、所々は泥になってしまっている。
 きっとサスケはまだ上手く慎重には歩けずに、このぬかるんだ泥に足を取られてしまうだろう。
 イタチはサスケを振り返った。
「兄弟っていうのは、そういうものさ」
 そうかなぁ、とサスケが首を傾げたところで、前から来たうちはの一人とすれ違う。
 サスケは慌てて傘を深く差しなおした。
 けれど、それ以降はだれとも会わなかった。
 ふたりっきりの道だ。
 しばらくして、なあサスケ、とイタチが切り出した。
 なあに兄さん、とサスケが答える。
「お前、もしかして宿題を放り出してきたんじゃないのか」
「うーん、きっと母さんが帰りが遅いって怒ってる」
「帰りが遅くなったのはおれのせいだから、おれが謝っておこう」
「でも、宿題をしなかったのはおれだから、兄さんのせいじゃないよ」
「じゃあ宿題をみてやろうか」
「かんたんなんだ、アカデミーの宿題って」
「そうか、なら宿題をしているサスケをみていようか」
「本当?いつもみたいに途中で何処かに出かけたりはしない?」
「お前がかんたんな宿題を終わらせるのが遅ければ、そうなるかもしれないな」
「帰ったらすぐやるよ。待ってて」
「ああ、そうだな、そうしよう」
「ねえ兄さん」
「うん?」
「宿題が終わったらさ、兄さん」
 兄さん。
 兄さん。
 ねえ兄さん。
 ふたりっきりの道に、ぽつりぽつりと言葉が落ちる。