04 寒さに身を寄せて


※ 12才イタチ×7才サスケ


 土砂降りの雨だった。
 どれくらいの降りようかと言うと、雨粒が家の屋根や壁や窓だけでなく、前の道を叩く音までもが家の中にいても聞こえてくる、それほどの大雨だった。
 扉はノックしたけれど、それは果たして兄さんにきちんと聞こえているのか、おれはささやかな不安を抱く。
 暫く待ってみて、けれど返事はいつまで経っても寄越されない。
 少し迷って、そろりと兄さんの部屋の扉に手を掛けた。
 だってもしかしたら、雨に邪魔をされたのは、おれの方かもしれないじゃないか。
 扉を半分ほど開き、中を窺う。
 カーテンの引かれた、それでなくともこの雨のせいで薄暗い部屋の三分の一を占めるベッドは、昨日の夜に見たときはぺったんこだった。
 けれど、今は人の形に膨らんでいる。
 兄さんだ。兄さんが帰ってきている。
 おれはすぐにでも駆け寄って本当に兄さんかどうかを確かめたかった。
 でもそんなことをすれば折角眠っている兄さんを起こしてしまうかもしれない。
 それにもうおれだって家に帰ってきた兄さんに飛びつくような歳じゃない。
 半開きにしたままの扉が、境界線のようにおれと兄さんの間に横たわる。
 どうしようか。入ろうか。引き返そうか。どうしようか。
 そう悩むおれを促したのは、扉の向こうの眠っていたはずの兄さんだった。
「サスケ」
 と呼ばれる。
 殊更大きな声ではないのに、いつものように静かで穏やかな兄さんの声なのに、こんな雨の中でも兄さんがおれを呼ぶ名はよく聞こえた。
 なんだか入ってもよいと許しを得たような気持ちになって、胸を撫で下ろす。
 兄さんの部屋に入って扉を閉めると、片肘を立て頬杖をついた兄さんは掛け布団からもう一方の手だけを出して、ちょいちょいといつもの仕草でおれを傍に招いた。
「帰ってたんだ」
「明け方な」
 ベッドの脇に立って、どうやらそれ以上は起き上がる気はないらしい兄さんを見下ろす。
「ごめん。起こした?」
「いや、半分くらいは起きていた」
「ひどい雨だから」
 そう言うおれに兄さんは答えない。
 代わりに問われた。
「今、何時だ?」
「八時前」
「父さんは?」
「警務の仕事」
「母さんは?」
「今日は用事があるからって、もう出掛けた」
「お前、アカデミーはどうした?」
「今日は休校日なんだ」
 すると、兄さんは「そうか」と呟いて、立てていた肘を崩した。
 まだ幾分か目が眠たそう。
 それはそうだ。兄さんが寝床に入ってからまだ数時間も経っていない上、よく眠れてはいないらしい。
「兄さんは今日も任務?」
「ああ。夜には出掛ける」
「じゃあまだ寝る?」
「遊んで欲しいか?」
「いいよ、兄さんが起きるまで待ってる」
「随分と聞き分けがよくなったな、サスケ」
 兄さんは少しだけ笑って、それから目を閉じた。
 横臥した兄さんの胸が規則正しく膨らんで、萎んで、また膨らむ。
 眠りが兄さんに訪れようとしていた。
 けれど、そんな姿を眺めていると、目の前に兄さんがいるのに、呼びかければ必ず答えてくれると分かっているのに、兄さんが起きるまで待っていると言ったのに、なんだか無性に寂しくなる。
 一緒に行きたいと願ったのに置いてけぼりを食らったときのような気持ちと、なったことはないけれど迷子のような心細さが、ぞわぞわと背筋を這い上がり、胸に降り積もって詰まっていく。
「兄さん」
 囁くように呼びかけた。
 答えてくれなくても仕方ないくらいの小さな声でだ。
 けれど兄さんは瞼を擡げた。
 どうしたサスケと問うてくれる。
「ここにいていい?」
 兄さんの巻物を読みたいんだ、と言ってみる。
 兄さんの部屋の本棚には、兄さんがアカデミーで使っていた巻物が並べられている。
 たった一年でアカデミーを出た兄さんには無用のものだろうに、それらが物置行きにならなかったのは、おれのためだ。
 アカデミーに入る前から忍の勉強がしたくってたまらなかったおれのため、兄さんはおれの背が届くようにと本箱の一番下の段から順番にアカデミーの巻物を並べてくれた。
 今は三段目の途中。
 この頃は内容も難しくなり、なかなか読み解くことができないでいる。
「ああ、かまわない」
 兄さんはまた目を閉じた。
 眠るのだろう。
 けれど、その眠りが訪れる前に、兄さんはおれの頬を指先で辿った。
「それに、お前がここにいる方が、おれもよく眠れる」


 この頃の兄さんは少しおかしい。
 と、おれは思っている。
 床に巻物を広げてはみたものの、難解なそれは一向に頭に入る気配がない。
 一生懸命に読み解こうとはするのだが、そんな気持ちがどうも今日はひとつにまとまらないのだ。
 まとまりかけたと思ったら、流れのはやい雲のように千切れてしまう。
 原因は兄さんだ。
 兄さんは以前と変わらず、やさしい。
 それに以前と変わらず、任務が忙しいせいでおれにはあまりかまってくれない。
 以前となにも変わらないはずなのに、そもそも変わるはずもないのに、やっぱりこの頃の兄さんはちょっとおかしい。
 この間だってそうだ。
 あれも雨の日のこと。
 朝から空がぐずついていたから、
「傘を持って行った方がいいよ」
 と任務に赴く兄さんに玄関先で傘を渡した。
 ありがとうと兄さんはそれを確かに受け取って出かけたというのに、夕方近く母さんが買い物で留守にすると、突然兄さんが帰ってきた。
 ずぶ濡れだった。
 それどころか、家では普段身につけたところを見たことがない忍装束を纏い、狐の面と刀を背に負っていた。
 驚いたおれが今朝渡した傘はいったいどうしたのかと問うたら、本部に置いてきたと言う。
「任務が片付いたと思ったら、この雨だ。本部に戻るよりも家の方が近かった」
 そうさも当然のように兄さんが言うので、そのときのおれはなるほどと納得した。
 けれど母さんと入れ替わるようにして、傘は駆けるのに差し障りがあるからとまた雨に打たれて本部へと行ってしまう背に、おれは訊けなかった。
 兄さん、どうして。
 どうしてあの日、ずぶ濡れになってまで無理に帰ってこなければならなかったんだ。
 顔を上げる。
 兄さんはおれに背を向けて眠っていた。
 外では雨がざんざんと降っている。
 兄さん。
 兄さんは父さんと母さんの不在を問うたけれど、実のところ、初めから知っていたんじゃないか。
 アカデミーが休校であることも知っていたんじゃないか。
 そして、だから、いまここにいるのだとおれには思えてならない。
 兄さん、兄さんのことなのに、おれにはこの頃の兄さんがよく分からない。


「サスケ」
 兄さんが目を覚ましたのは、正午に近いころだった。
 雨足はまだ弱まる様子がない。
 兄さんは気怠げにのそのそと体を起こしながら、部屋の時計を見上げた。
「昼にするか」
 と言う。
 そうしてそのままおれの同意を待たずに部屋を出ていってしまうので、おれは多少慌てた。
 結局あまり読み進められなかった巻物を片づけて、あとを追う。
 階段を下りると、一階はしんとして暗かった。
 母さんが出かける前に雨戸を閉めていったため、あれだけ煩かった雨音も今は少し遠い。
「母さんから何か聞いているか?」
 兄さんは台所に立って辺りを見回した。
 けれど、作り置きのものは何もない。
 流しに水滴が残るくらいで、あとはすべてきれいに片づけられている。
 おれはおずおずと申し出た。
「兄さん。母さんが、お昼は兄さんと作りなさいって」
 任務の合間を見つけて帰って来ている兄さんにこんなことを言うのは、なんだか心苦しかった。
 おれが作られたら良いのだが、母さんからきつく止められている。
 曰く、苦無や手裏剣と包丁は違うのだし、火遁と料理で使う火も違う、ということだ。
 おれはまだ父さんや兄さんのように火遁を使えるわけじゃなかったけれど。
「材料はあるって言ってた」
「ごはんもあるみたいだな」
 兄さんが炊飯器を開く。
 今朝母さんが炊いたごはんが保温されているらしい。
 それから冷蔵庫も開いた。
 屈んで食材を確かめる兄さんの背中越しにおれも中を覗き込む。
 けれども料理をしないおれは(繰り返すが、できないのではなく、それが言いつけなのだ)、きれいに整頓された食材を眺めても、それがいったいどんな料理になるのかさっぱり見当もつかない。
「兄さん、何を作るんだ?」
「そうだな、何にしようか。何が食べたい?」
 問われて考える。
 兄さんが作る料理は母さんのそれと似ている。
 きれいに味が調っていて、卒がない。とくに味噌汁なんかは塩加減がそっくりだ。
 けれど、おれはふと思い出した。
「サスケ」
 どうする、と訊ねてくれようとした兄さんを遮る。
「…卵焼き」
 兄さんは振り返った。
 その目に僅かに驚きの色がある。
「卵焼き?」
「兄さんの卵焼きが食べたい」
 母さんの卵焼きは厚焼き卵だ。
 まるで子ども向けの絵本に描かれているお日さまのようなやさしい黄色の甘くてふわふわの卵焼き。
 けれど、前に一度こんな風に二人っきりで留守番をしているとき、兄さんが作ってくれた卵焼きは母さんのそれとは全く違っていた。
「サスケは、こんなほうが好きかもしれない」
 そう言い、箸で割っておれの口の中に放り込んだ卵焼きは固くぎゅっと巻かれていて、いつものように甘くはなかった。
 醤油だけで味付けをしたのだろう。
 兄さんの言う通り、母さんには秘密にしているが、おれは兄さんの卵焼きが好きになった。
「ほら、醤油を入れてさ、押さえつけて巻くやつ」
「ああ、あれか。でも、それだけというのもな」
 そんなわけで、おれたちは雨で何処へも行けないというのに、弁当を作ることにした。


「中身はおかか、か?」
 卵を菜箸でときながら、兄さんがおれの手元を覗き込む。
 コンロではさわらが良い色に焼け始めていた。
 冷蔵庫に一切れだけあったさわらは、母さんが昨日帰ってくるかもしれない兄さんのために用意していたものだ。
 父さんと兄さんは知らないかもしれないが、母さんは必ず家族四人分の食材を買っている。
 もちろん二人が任務から帰って来ない日もあるから、余ってしまったそれは母さんが翌日の昼に食べるのだ。
 いつかおれが母さんは同じものばかりを食べて飽きないのかと訊いたとき、母さんは笑って「いつでも帰って来られるようにしておきたいのよ」と言っていた。
「…こんぶ」
 答えながら、おれはおむすびを結ぶ。
 本当は三角のものを作りたいが、そうはできないので、かんたんな俵結びで結ぶ。
 それでも形や大きさがどうもひとつひとつ違うようになってしまう。
 はじめに結んだものは慎重な手つきだったためか、形はまあよいが、ぎゅっと固く結びすぎてやや小さく、なかには潰れてしまっている米粒もある。
 それを踏まえて結んだ次のものは、ふっくらとしているが、いざ食べようと手にしたらぼろりと崩れてしまうかもしれない。
 そんなことを二、三度くり返し、今手にある五つ目は形、大きさ共に申し分ない出来だ。
 これは兄さんの、と決めた。
 その兄さんが首を傾げる。
「お前はおかかが好きだろう」
「…こんぶにしちゃ悪いのか」
 上手に出来たものを兄さんに食べてもらいたいから、とは言えなかった。
 兄さんは何かを言い掛けて、けれど少し困ったように笑い、それからフライパンに油を敷いた。
 やがて卵が油に跳ねる音が聞こえてきた。


「蓋はもう少ししてから閉めるんだ」
 出来上がった弁当に早速蓋をしようとしていたおれを少し振り返った兄さんは洗いものをしながら、冷めるのを待つようにと言った。
 おむすびは三つずつ。
 とくに上手に結べたものは兄さんに。
 さわらはひとり半切れ。
 身はふっくら、皮は香ばしげな焼き色だ。
 それに冷蔵庫にあったトマトとほうれん草のおひたしを彩りに加えて、最後に兄さんはおれの弁当に一切れ多く卵焼きを入れてくれた。
 これを包んで、いつもの修練場に兄さんと行けたらどんなにかいいだろう。
 兄さんの手裏剣術を見せてもらって、教えてもらって、それから組み手で体を目一杯動かして、へとへとの空腹になって、兄さんの卵焼きを一口目に食べられたら、どんなにか美味しいだろう。
 おれは手持ち無沙汰も手伝って、「そうだ」と踵を返した。
 続きの間を横切り、廊下へと出る。
 微かに聞こえる水音は、きっと兄さんが洗い物をしているからに違いない。
 雨はもしかしてもう止んでいるのではないだろうか。
 おれはそんな期待を持って、締め切られた分厚い雨戸に手を掛けた。
 重い戸だと分かっているので、手に少し力を込める。
 光が僅かに差す。そのときだ。
「サスケ」
 すぐ後ろから兄さんの声がした。
 いつも通り穏やかに静かに名を呼ばれ、戸を開こうとしていた手に手が重なる。
 すぐにわかった。
 これは、制止だ。
 それも有無を言わせない制止だ。
 けれども、兄さんの声音はいつもとなにも変わらない。
「だめだろう。雨が入る」
 思わず兄さんを振り仰ぐ。
 が、同時に体ごと振り向かされ、気づけば兄さんの腕の中だった。
 その胸に額をぎゅっと押さえつけられる。
 それで、なにも見えなくなった。
 声も出せない。
 ただおれを抱える兄さんの腕に力が籠もるのを感じた。
「お前が濡れてしまう」
 背後で僅かに開いていた雨戸が閉まる。
 また辺りは暗くなる。
 音のない世界がおれたちに訪れる。
 そう、おれには雨の音なんかこれっぽっちも聞こえなかった。
 雨はきっと止んでいる。
 けれど、そんなことは口にはできない。
 いったい外になにがいたのかを知りたくないわけではなかったが、兄さんが、おれが戸を開くことを望んでいないのだから、「どうして」なんていう言葉は呑み込んでしまうほうが良いのだ。
 おれはずっと言えなくて、訊けない。兄さんには応えてもらえないことをおれは解りはじめている。
「…兄さん」
 手を回し兄さんの服の裾を握る。
「どうした、サスケ」
 するとおれを囲む兄さんの腕の輪は更に狭くなる。
 温かい。
 この先、この言いしれぬ不安が消えてなくなるなんてことはもうないのかもしれない。
 けれど、こうしていれば、こうされていれば、冷たいそれが兄さんの体温にとかされていく気がした。
「お弁当は冷めたかな」
「そうだな、そろそろ蓋をしようか」
 そうは言いながら、けれど、でも、おれたちは長いあいだ互いの体温を分け合っていた。


「ただいま」
「おかえり、母さん」
「あら、イタチはもう出かけてしまったみたいね」
「…さっき、任務があるからって」
「そう…。そうだわ、お昼は二人でなにを作ったの?」
「お弁当を作って食べた。おれがおむすびを結んで、兄さんがさわらを焼いて、卵焼きも作ってくれたんだ」
「まあ、美味しそうね」
「うん、父さんと母さんにも今度作ってあげるよ。あと、それから、兄さんに分身の術を教わったんだ」
「この間から巻物とにらめっこしてうんうん唸っていたあれね」
「うん。巻物の読み方を教えてもらった」
「それで、術はできるようになったのかしら」
「うーん、それはまだわからないや。兄さん、任務に行っちゃったから。次のときに続きを見てくれるってさ」
「そう、次は晴れるといいわね」
「…ねえ、母さん」
「なあに、サスケ」
「兄さんはまた暫く忙しいのかな」
「そうねえ。はやく続きを教わりたいなら、母さんが」
「ううん、そうじゃない。そうじゃなくて、兄さん、たまの休みで帰ってきても、おれのことばっかりだ。今日だってそう」
「サスケ…」
「兄さん、本当に休めているのかな。おれのせいで、兄さん…」
「そんなことないわ。サスケ。そんなことはないの」
「母さん?」
「イタチはね、あなたの我が儘を聞くのが大好きなのよ」
「でも、兄さんは困った顔をする」
「そうね。でも、あの子はあなたに困らせられることも楽しんでいるわ」
「そんなの、なんかへんだ」
「うふふ。へんじゃないのよ。だってあなたはイタチにとって特別だもの」
「特別?」
「そう、特別。あなただけが特別なの」
「どうして?」
「そうねえ。あなたは腹を立ててしまうかもしれないけれど、あなただけが家族の中で、一族の中で、あの子よりも後から生まれてきたからかしら。だから特別。あなただけが、いつまでもあの子の小さな小さな弟なのよ」
「兄さんもよく言うんだ、おれは弟だからって。でもそれがいやなんだ。母さん。いつもおれは兄さんからもらうばかりで」
「ほら、頬を膨らませてはだめ。あの子は私たちのことも、一族のことも、きちんと思ってくれているけれど、あなたのことを何より大切に思っているわ。代わりにあなたは、あの子に我が儘を言えばいいの。困らせればいいの」
「兄さんに嫌われたりしない?」
「兄さんがあなたを嫌いになったりするもんですか。それに、あなたはもらってばかりだと言うけれど、そんなことはないのよ、サスケ。あの子がうんとたくさん与えてくれるものを受け取ろうと差し出すあなたのこの小さな手を、あの子はあなたからもらっているの。だからね、サスケ。イタチに、修行をしてくれるって約束したじゃないかって何度も何度も言ってあげてちょうだい。たくさんたくさん我が儘を言って困らせてあげてちょうだい。そうすれば、きっとあの子はあなたのところへ帰って来ることができるわ」
 きっともうあなたにしかできないことよ、と母さんは少し寂しげに笑った。