「ごきげんよう」





   翌日、蓉子の居る部屋へ向かうと。
   小父さまでも小母さまでもなく、かつての妹でもなく孫でもない(そもそも二人には知らせてない)、
   今ではヘアバンドで前髪は上げてないけれど相変わらず立派な額、私とは幼稚舎、そして蓉子とは中等部から一緒だった、
   おまけに高等部では生徒会である山百合会で活動し、共に「薔薇さま」と称されるようになり、
   気付けば「親友」と言う間柄になっていた、通称(私だけ)「でこちん」、の悪友がにこやかに立っていた。
   然う、場違いも甚だしいほどの笑顔で。



   「…江利子」


   「遅いじゃない」



   ふふん、と笑う、でこちん。
   こんな事で競っても全く持って仕方が無い事なのだけれど、カチンと来る。
   そもそもにしてこの時間(午前中)、本当は面会時間では無いのだ。
   そんな時間に、家族でもない、江利子が居るだなんて。(私は家族だ、誰が何と言おうとも)
   確かにこの日については知らせて、と言うかうっかり知られてしまったのだけれど、まさか来るとは。
   しかも私よりも早くに。
   江利子の気質上、よもや、楽しんでいるとか?
   …まさか、ね。場合が場合だけに無いだろうよ、ね。
   と言うか然うだったらぶん殴れる自信があるね、私は。



   「聖?」



   大体さ、普通は遠慮するもんじゃないの。ただでさえナイーヴになると言うのに。
   見舞いに来るなら、後日にしろよ。
   若しくはせめて前日、とかさ。
   蓉子の気持ちとか、考えないわけ?



   「蓉子、聖は何処か違う世界に行ってしまったみたいよ」


   「…聖?」



   落ち着いた、だけれど艶のある声に、呼びかけられてハっとする。
   見ればベッドの前に陣取る無粋極まりないでこちんの腰辺りから、ひょこりと、顔を覗かす愛しい人。



   「蓉子!」


   「聖」



   ああ、蓉子。
   首元から見える薄い青の患者服が君を一段とか細く、心許なくさせている。
   だけど、大丈夫。
   私が来たから、もう。



   「蓉子、横になっていなくては危ないのでは無くて?
   準備麻酔とやらを服用しているのでしょう?」



   目の前で、ふらりと、しなだれるようにしてバランスを崩す蓉子。
   その体は私の腕の中では無く…



   「何してんだ、でこちん…!!」


   「何って。見た通りね。
   それより此処は病院でしょう?そんなに大きな声を出すのは如何なものかしらね」


   「…兎に角、その手を離せ」


   「と、アメリカ人が言っているけれど」


   「…ありがとう、江利子。もう、大丈夫よ」


   「はいはい。じゃ、バトンタッチ」


   「蓉子…ッ」


   「聖、しー…」



   二人の間に半ば割り込むようにして入った私…の唇に、蓉子の人差指が添えられる。
   その感触に、あった筈の色んな言葉(主にでこへの文句)を一瞬にして飲み込んでから、思う。
   蓉子の指、冷たい。



   「流石」



   その言葉を受けて脇をちら見すれば、にやりにやりと、笑うでこちん。
   全く持って、病院に相応しくない。
   大体。
   蓉子の妹である祥子にも、蓉子曰く心配させたくない、の一言で、知らせていないってのに。
   親友だから、の一言で片付けられる江利子も江利子だ。
   蓉子も蓉子で、江利子なら…と言い出すし。
   そりゃあさ、何かと相談に乗ってもらっていたそうだけれどさ(主に私の事だそうだ…くそう)、でもだからってさ…。



   「いい加減、現実に戻ってきたら?アメリカ人」


   「…うるせー」



   ああ、にやけ面が心の底から腹立だしい、むかつく。
   その光り輝くでこに「肉」って書いてやりたいくらい、むかつく。
   勿論油性ペンでだ、ちくしょうめ。



   「そもそも、私に気を取られてる場合?」


   「うるさいな」


   「聖、だめ」



   江利子に対して唸り声すら上げそうな、寧ろ上げている、私に。
   蓉子は宥めすかすように両手で私の左手を取って、さすった。




















   「あら?
   蓉子、何処か体調でも悪いの?」



   江利子は時折、連絡もしないでふらりと遊びに来る時がある。
   しかもいつも絶妙なタイミング。
   言い換えれば、蓉子が家に居る時に限って。
   この日も然うだった。



   「え、別にそういうわけでは…。
   でもどうして?」


   「此れ、貴女の保険証でしょう?
   普通、こんなの出しっぱなしにはしておかなそうじゃない、蓉子は」



   迂闊。
   まさにその一言だった。
   実はこの日は病院に入院前検査(…性感染症などを調べるそうだ)とやらを受けに行ってきたのだ。
   江利子が訪ねてきたのは丁度、帰ってきた所で気を緩めた時だった。
   いつもだったら財布から出してはおかない保険証をテーブルの上に置いていたのは、たまたまの一言。
   本当にたまたまだった。
   その月初めての診察だったから、とか、私が会計時に返してもらった保険証をそのまま預かって帰宅してから蓉子に渡したから、とか。
   然う言った偶然が重なって。
   そして然う言う“たまたま”を見逃さないのが、江利子が江利子たる所以、とも言えるのかも知れない。



   「別に大した事では無いのよ」


   「さっきは“そういうわけでは”、と言ったわよね?」



   江利子が私の顔を見る。
   若しかしたら私の顔色を窺っているのかも知れない。
   江利子曰く、蓉子と付き合いだした私は蓉子の事となると顔色がころころと変わるようになったらしい。
   と言っても、蓉子の孫ほどでは無い…と勝手に思っているけれど。
   だって私はあの子ほど、面白く無いから。



   「…そう。あまり無理をしては駄目よ、蓉子」



   だと言うのに、今回もご他聞に漏れず。
   人の顔色を読み取った江利子は軽くため息をついて、近くにあった座布団を引き寄せてポフポフと叩いてから(曰く、癖だそうだ)座った。
   まるで此処は、自分の部屋みたいなものだ、と言わんばかりに。





   それからは、根掘り葉掘り、訊かれた。
   蓉子も半ば諦めたのか、お腹に手を添えながら少しずつゆっくりと答えを返し、
   蓉子の話すテンポに江利子も、神妙な顔をしながらゆっくりと頷き、更に問いを返す。
   私はと言うと、江利子が来た時はいつも蓉子が用意する(私が面倒くさがるから)お茶を淹れ、
   その後
〈アト〉は蓉子の隣に座って二人の会話を黙って聞いていた。










   卵巣嚢腫
(ランソウノウシュ)



   それが影の正体であり、蓉子のおなかの中に巣食う腫瘍の名前。



   卵巣と言うのは通常、大人の手の指先ぐらいの大きさなんだそうだ。
   が、蓉子の左側のそれは鶏の卵ぐらいの大きさに腫れてしまっていて、そのまま放置するとへたをすると子供の頭大にまでなるらしい。
   然うなると、いや今の大きさでも、靭帯(卵巣は子宮との間を二本の靭帯で支えられているらしい)が捩れる「茎捻転」になる可能性があり、
   若しもそうなった場合、激しい下腹部痛、嘔吐、発熱などを起こし、その痛みもまた、痛いなどと言う尋常な範囲では済まされないらしい。
   そして最悪、化膿或いは破裂する可能性。
   然うなった場合、卵管ごと卵巣を摘出しなければいけないそうだ。
   考えただけでもぞっとする。


   肝心の良性か悪性か。
   それは血液検査やエコーなどである程度は分かったとしても確実ではなくて。
   病巣を確認、簡単に言えば腫瘍を取り出して確認しなければ分からないそうだ。
   曰く。
   卵巣は体の奥にあり高度な検査でもはっきりとは分からない、故に病巣を確認して初めて確定出来るものらしい。
   (卵巣自体には痛みを感じる神経が無く、例え悪性であっても気付かない、故に卵巣癌は「silent cancer」とも呼ばれているらしい)
   とは言え、卵巣嚢腫の多くは良性と言う。
   …けど。



   中には悪性に変わってしまう場合もある、らしい。





   そこまで話すと、蓉子は口を噤んだ。
   噤んだ後も、気になるのだろう、手はお腹に添えたまま。
   そこからは引き継ぐようにして、私が続けた。





   開腹手術を薄笑いを浮かべながら軽く告げた女医の事。

   納得出来なくてセカンドオピニオンを使って今の病院にした事。

   最初に行った病院でのインフォームドコンセントも考えたけれど、あの女医に対して信用などもう出来ないという事。

   今日から丁度二週間後、蓉子はその病院におよそ一週間、入院する事。

   その為に今日は入院前の検査をしてきた事。





   話しながら検査で疲れているだろう蓉子を気遣って、その体を、私に凭れさせる。
   その為に私は蓉子の隣に座っていたと言わんばかりに。
   蓉子は少し戸惑いを感じたようだけれど、今更。私は一向に構わなかった。
   江利子はその様子に何も言わず、ただ、見ていた。



   「…分かった。で?」


   「で、て?」


   「要するに手術は必要なのね?その方法は?矢張り、開腹?
   …いえ、入院期間が短いのだから違うわね」


   「…江利子」



   単刀直入も良い所だろう。
   けれど変に気を使われても仕方が無いと言うのも分かってる。
   使われたってどうしようもない事に、変わりが無いのだから。
   だけど。
   当人がどう感じるかは、私達には到底、分からない。



   「…蓉子」



   私は蓉子の表情を窺い見る。
   頭の中では、血の気の引いた蓉子の顔が、思い出したくも無いのに思い出されていた。



   「…大丈夫よ、聖」



   然う言って蓉子は体を起こした。
   江利子の顔を真っ直ぐ見つめる。
   そうして間を少し取ってから、言葉を紡いだ。





   「開腹では、無いわ」





   と。



















   看護師に介助されながら、ストレッチャーに乗る〈乗せられると言った方が正しいのかも知れない)蓉子を黙って見つめる。
   隣の江利子も流石に先刻までのにやけ顔は仕舞い、真面目な顔をしていた。
   蓉子の直ぐ傍には小父さまと小母さま。
   準備麻薬が本格的に効き始めたのか、蓉子の足元は大分頼りなく、ふらふらとしていた。
   まさに、侭ならない、と言う感じで。





   私達の一寸した小競り合いの後、蓉子の両親も到着した。
   江利子に脇腹辺りを子突かれて、小突かれなくても然うするつもりだったけど、暫く、席を外す。
   蓉子はあまり弱さを見せない。
   それは両親の前でも同じらしい。
   そもそも子供の頃からあまり感情に起伏が無かったのだと、いつか、小母さまが言っていた。
   だから私には感謝している、とも。
   私と生活するようになってから、私と関わるようになってから、蓉子はかなり感情を表に出すようになったから、と。


   寧ろ、感謝しているのは私の方なのに。
   だけどその時の私は、黙って、頭を下げた。
   口を開けば蓉子への想いが止め処なく溢れて、自分ではどうにもならなくなりそうだったから。





   看護師によって大仰に且つ足早に運ばれていく蓉子に、手術室の前まで付き添った。
   中に運ばれる寸前に看護師に断って、軽く蓉子の手を握り笑顔を向ける。
   弱々しかったけれど、握り返されるのを感じると、直ぐに離した。
   手術開始時間まで、もう、間もなくだった。




















   「聖」


   「…」


   「聖」


   「…何」


   「貴女がそんな事でどうするのよ」


   「…分かってるよ、うるさいな」



   蓉子の病室から少し離れた所にある、ディールームと呼ばれる場所で。
   私は俯いたまま壁に凭れて腕を組み、右足を一定の間隔で、けれど絶え間なく動かし続けていた。
   蓉子の両親は手術室の直ぐ近く、待合室に居る。
   気を使ったとかじゃなくて、ただ単に、自分がこうなる事を分かっていたから場所を変えた。
   蓉子以外に、こんな姿を見せるのは嫌だった。見栄とかじゃなくて、ただ嫌だった。
   なのに。



   「大体、大袈裟なのよ。聖は」


   「…大袈裟で何が悪い」



   蓉子が手術室に運ばれて、早一時間。
   早ければ一時間半で終わるという手術は既に半分以上の時が過ぎていた。
   とは言え、予定時間よりも未だ早い。
   だと言うのに、私は不安によって苛々し始めていた。
   そこを江利子に突かれて、苛々が爆発寸前まで押し上げられる。



   「腹腔鏡手術なのでしょう?しかも執刀してくれる医師は腕が良いとも聞いたし、腫瘍に関してもほぼ良性なのでしょう?」


   「それが、何?」



   世の中、絶対、なんて無い。
   100%の事なんて、無い。



   「今、手術を受けている蓉子は貴女が大丈夫だと言ったから。
   なのに貴女が大丈夫だって信じなかったら」


   「……」



   …然う、蓉子は大丈夫だ。
   言われずとも分かってる、信じてる、誰よりも、そんな事は。
   だけど仕方が無いじゃないか。
   蓉子を失うのは私にとって、どれだけ怖い、恐ろしい事か。
   考えただけでも気が遠くなる。
   蓉子が居なければ、居なくなってしまったら。



   「聖」



   ふと手に温かい、蓉子とは違う感触。
   見れば江利子は座っていた椅子から立ち上がり、その白い手を私のそれに重ねていた。



   「私は一応、貴女の親友でもあるから」



   だから、来たのよ。
   然うは言わなかったけれど。



   「大丈夫よ、聖」


   「……うん」



   頷くと共に離れていった温もりに、余韻など一切残さず、私は目を閉じた。
   苛々は消えていた。でこちんなんかに、とは思わなかった。
   彼女は親友だから。然う、私達の。
   江利子もまた座っていた椅子に座り直し、冷めてしまったであろう紙コップのお茶を口に含んだ。
   腕時計の秒を刻む針の音が、周りの人の声や物音を遠いものに押しやって、耳の奥に響く。




















   時間はゆっくりと、しかし確実に、過ぎていった。















   Four