冷たいベッドの中で丸まって眠る。
   毎晩、このベッドで眠っている筈なのに、まるで拒絶されているかのように肌に馴染まない。
   彼女の体温と匂い。それを覚えてしまってから。
   それ以来、持ち主である筈の私に全く馴染もうとしない。



   震える躰を、凍える心を抱いて眠る。
   せめて夢の中で、と願いながら。




















 L a  
M e r




















   「…ごめんなさい」






   受話器の向こうで彼女の、済まさそうに謝罪する声が耳の奥に響く。





   「急にゼミで集まる事になってしまって…」





   講義。
   試験。
   ゼミ。
   レジメ。
   アルバイト。
   友人。
   それから、恋人。
   適当に分類しても大学生とはなかなか忙しい生き物だ。
   ま、その全てを上手にこなしている人間は、実際問題、早々いないと思うけど。





   「だから今日は…」





   そして私の恋人はそれらを上手くこなす、こなしてしまう人。
   だからそれはいつもの事だった。
   恋人を後回しにしようという考えは、決して、持っていないのは知っている。
   彼女はどれにも一生懸命。手を抜かない。努力家で勤勉な、優等生。
   然う、恋人である私に対しても。



   知ってる。
   知ってるんだ、そんな事は。





   「分かった。残念だけど、仕方が無いね」





   久しぶり、だった。
   彼女に逢うのは。
   本当に。
   私も腐っても大学生。
   それなりに学生業とかバイトとかをこなしているわけで、それなりには忙しい。
   学生である事に何事も自己責任である大学生、怠けるのはとても簡単。
   だけれどそれは後々、単位取得やら留年やらの危機に繋がっていく。
   結局、己の行いの尻拭いは己でしなければならない。
   と、以前、蓉子に言われた。
   まぁ、全く持ってその通りなわけだから、反論は出来ない。
   屁理屈は捏ねたけれど。





   「じゃ、また今度。バイバイ」



   「あ、待って、せ」





   簡潔に別れの挨拶を紡いで、通話を打ち切る。
   彼女が最後に何かを言いかけたけれど、その前に切ってしまったから知らない。
   多分、ごめんなさい、ともう一度聞かされるだけだと思う。
   彼女は悪くない。
   なのに謝るのは私に対して申し訳ないと思っているから。
   私を想ってくれているから。



   着信。



   ディスプレイを確認すると、案の定、彼女からだった。
   電話では無くて、メール。
   それだけ確認すると電源を切って、ベッドの上に携帯を放り投げた。
   今の今まで、私と彼女を繋いでいたツール。
   切るのはこの上なく簡単な事なのだと、急激に冷えていく空気の中で感じた。
   指先が冷たい。





   夜。





   本当だったら彼女と食事を楽しんでいる筈だった。
   いや、お昼だって。
   現実は部屋に私が一人だけ。
   ご飯の支度をする気なんて全然わかない。
   然うだ、夕ご飯は一緒に買い物へ行って、作る、予定だった。
   今日は久しぶりだから買い出し以外には何処も出かけず、この部屋で、私の部屋で二人でゆっくり寛いで。
   逢えなかった分の、メールや電話では到底足りなかった分の言葉を交わして、時折その手を繋いで、それから。
   お風呂だって……若しかしたら、若しかしたら一緒に入るのを許してくれたかも知れない。
   眉間に皺を寄せながらも。
   ああ、優しい彼女。



   …お腹、空いたな。



   カーテンの隙間から漏れる月の明りだけが唯一の光である部屋の中、ベッドに寝そべりながら、漠然と思う。
   思えばお昼も食べてない。
   彼女との電話の後、全てにおいてのやる気を無くしたから。
   心の中には虚しさと寂しさだけが居座っている。
   それでも腹は減る。
   そういや人間、どんなに悲しかろうが虚しかろうが生きていれば腹は減る、と。
   そんな陳腐な言い回しがあったっけ。





   一人暮らし。
   それはとても快適だった。
   大学へ進んだのを機に私は家を出る事を両親に告げた。
   あの息苦しい家を出たかった。
   元々折り合いが悪かった母。
   栞との一件で彼女は益々、私に気を使うようになった。
   父は…まぁ、仕事で忙しい人だったから。
   あまり会話をした覚えもない。
   家の中で会っても、話す事なんてほとんど無かった。
   両親は…嫌いではなかったけれど、子供の頃から苦手だった。
   私を疑わず、良い子だと信じている母。
   話題を見つける事が出来ず、結局は素通りするしかなかった父。
   血の繋がりがあるからと言って、全てがうまくいくとは限らない。
   寧ろ、へたに血が繋がっている分、厄介なのだと。



   一人暮らしの許可はわりとあっさり出たと思う。
   いや、母が何か言っていたような気がするけど覚えてない。



   一人でいる事は実に楽だ。
   誰にも縛られない。
   母親のあからさまに気を使っている顔も、父親の何処か遠慮がちな顔を見る事も無い。
   今は未だ、学生と言う事で経済的援助を受けている身だけれど、いずれそれだって。
   私一人ならば、私一人だけを食わせていけば良い。
   私一人を生かせば良い。
   それはなんて楽なコトなのだろう。



   …お腹、減った。



   現実、は。
   そんな私一人すらもちゃんと食わせられていない状況なのだけれども。





   「聖、またちゃんと食べてない」





   何かと世話を焼いてくれる彼女。
   たまに部屋に来ては何か作ってくれた。
   ご飯よりも彼女自身を望む手を優しくいなしながら。
   私が美味しいと言うと、花のような、少しはにかんだ笑顔を咲かせてくれて…。





   …寂しい。





   空いたままのお腹。
   蓉子の温もりを思い出しては疼く指先。
   蓉子の匂いを思い出しては堪らなくなる、満たされることが無い心。
   すっぽりと、頭まで覆った上掛けをぎゅっと握り締める。





   早く、早く、眠ってしまえ。





   現実で逢えぬのならば、せめて。
   せめて夢の中で、彼女を、蓉子を抱き締めたい。
   その為に。











   一人暮らしは悪くない、けど。
   一人ぼっちは寂しいわ。
   いつか、私の頬に触れて、寂しそうに然う言った彼女。






   この冷たさを、一人で眠る事の冷たさを教えてくれたのは彼女。










   …ああ。










   一人は寂しいよ。


   寂しいよ、蓉子。


   逢いたい。


   逢いたいよ。


   蓉子、蓉子。











   私を一人に、独りぼっちに、しないで。












   「しないわ」





   不意に耳元で聞こえた彼女の声。
   ああとうとう、幻聴まで。
   夢の中に行く為に、もうこれ以上、彼女の何かを思い出したくないのに。





   「一人ぼっちになんて、させない」





   …また。
   もう良いじゃない。
   もういい加減にしてよ、私。
   どうして思い出すの。
   思い出なんかじゃ、満たされないのに。
   余計、寂しさが募るだけなのに。
   彼女が此処に居ないと言う事実に、魂が凍てつくだけなのに。
   なのに、なのに。





   「聖」





   ……蓉子。
   蓉子、蓉子、蓉子、蓉子、蓉子、蓉子ぉ…!





   「なぁに?」





   温もり。
   冷たいベッドの中で。
   確かに、確かに。
   私の指先はそれに触れた。





   「聖、私は、此処に居るわ」































   「遅くなってごめんなさい、聖…」





   私を腕の中に包み込んで静かに謝る蓉子。
   其れは幻影でも幻聴でも無く。
   紛れも無く、私が望んだ、本物の。





   「もっと早く来るつもり…いえ、来たかったのに」





   彼女の言葉に。
   彼女のお腹に頭を埋めながら。
   私はただ、逢いたかったと繰り返した。






















   曰く。
   急に入ってしまったゼミの集まりだけれど、それでも夜には会える。
   それが送られてきたメールの内容だったらしい。
   空腹、を疾うに通り越してしまったお腹に、蓉子の作ってくれたご飯を収めながら、電源を入れた携帯電話を眺めた。





   「返事、返ってこないから…」


   「…心配、した?」





   蓉子がこくんと頷いた。
   彼女の大人びえた動作の中で少しだけ幼さを残すその動きに否が応にも鼓動が高まる。
   大体にして、今、のんびりとご飯を食べている事が不思議なのだ。
   蓉子の特製お味噌汁(白味噌仕立て・具は油揚げとほうれん草)をずずっと飲みながら、思う。





   あの時、確かに私の中で湧き上がった情動。
   突き動かされるままに蓉子をベッドの中に引き入れ、組み敷いた。
   蓉子は抵抗もしなければ、何も言わなかった。
   夢中になってキスの雨を降らす私の頬に、蓉子は温かな手を添える。
   鼻先を掠る、蓉子の匂い。
   先刻までの拒絶が嘘だったかのように、急速に、肌に馴染んでいくベッド。
   熱情。
   浮かされるように細い首筋に舌を這わしては、強く吸う。





   「…蓉子、ようこ…ぅこ」


   「聖、せい……ぃ」





   シャツの上からやや乱暴に乳房に触れ、揉む。
   優しさを包含したような柔らかさ。
   布越しでも十分なほどに、感じる。
   頂で硬くなったそれも。
   荒い呼吸のまま、唇を近づけて、含んで。
   舌で転がしては、歯を立て、吸い上げた。





   「あ…あァ…ッ」





   濡れた、声。
   煽られる、情。
   理性の糸など、もう、疾うに切れ…





   …グゥゥゥゥゥゥゥ。





   「………ふ」



   まさに、大音響、だったと思う。
   それまで甘い声をあげていた蓉子の口から、堪らずと言った風情で、笑い声が漏れたのが何よりの証拠。





   「…ね、その前にご飯にしない?」





   こんな時に、そんな間の抜けた提案。
   私にしてみれば、とてもじゃないけれど、ご飯よりもこっちの方が大事だった。
   だから何も答えず、何も無かったようにして、行為に戻ろうする。





   ……グゥゥゥゥゥゥゥゥゥ。





   「…ね?そうしましょう?」





   …生理的欲求。
   その中にも優先順位ってあるのでしょうか、マリアさま。


   腹の音のせいで佐藤聖の恋人から、保護者〈母親?)へと、一瞬にして変貌を遂げた蓉子の胸に力なく頭を埋めて。
   聖母に向かって見当違いも甚だしい疑問を投げかけつつ、腹の音を、心の底から、恨めしく思ったのは言うまでも無い。





   さりとて。





   「…聖?どうかしら?」


   「ん…美味しいよ」





   矢張り、蓉子の作ってくれたご飯は何よりも、どんなレストランのものよりも、美味しかった。
   腹が空いていたのも手伝って、その美味しさ、それはもう十割増し。
   でもって蓉子と食べているのだから、その美味しさ、無限大。





   「…材料、買ってきてよかった」





   冷蔵庫の中、やっぱり空っぽだった、と。
   私の前に座って、くすくすと笑う。





   「ごちそうさま」


   「もう、良いの?」


   「うん、もうお腹いっぱい」





   然う言いながら、私は大袈裟にお腹を撫でた。
   と言うか本当のところ、あんまり大袈裟でも無い。
   ご飯も味噌汁もおかずも、一粒一滴一欠けらも、残さずに平らげた。
   正直、一人でいる時よりもずっと、食べている量は多い。
   まぁ、この後のコトを考えて“動けなくなる”ほどでは無いけれど、胃だってさぞかし吃驚しただろう。
   然う、毎度のコトながらも。





   「然う?
   なら…お粗末さまでした」


   「粗末なんかじゃ無いよ。ご馳走さま、って言ったでしょう?」





   お粗末さま。
   この言葉に、いつも引っ掛かる。
   蓉子の作ってくれるご飯は私にしてみればご馳走の他ならないから。
   けれど。





   「返し、だから。そんなに真面目な顔をしないで?」





   困った顔をして、いつも然う言う。
   困らせるつもりは無いけれど、だけど、どうしても納得出来なかった。





   「…さて、と。じゃあ片付けをしてしまいま…」





   有耶無耶にして椅子から立とうとする蓉子の腕を掴まえる。





   「…聖?」


   「返しだろうが何だろうが。
   粗末だなんて、もう、言わないで。
   それから…」





   その腕を捕らえたまま、私は椅子から立つ。
   そしてテーブルの向かい側、蓉子の居る側へ、回る。





   「聖…」


   「…蓉子」





   食事は、終わった。
























   …はぁ。


   …。


   蓉子…。


   ……ん。


   蓉子。


   …苦しいわ、聖。


   …うん。


   返事が、おかしいわ…。


   …こうしなきゃ、蓉子の匂いが分からない。


   匂いって…こんなに近くに居るのに。


   蓉子ので、いっぱいにしたい。


   …片付け、は。


   水に浸したから。


   ……せめて、シャワーを。


   …。


   …おねがい。


   さっきは…。


   …それ、は。


   じゃあ、一緒に入る。


   …。


   もう、出来ない。


   …。


   我慢、出来ない。


   …食べた、ばかりなのに。


   だから…?


   …。


   ねぇ、蓉子。


   ……つよく、しないで。


   …。


   あまり…んぅ。


   ……。


   ……明日、は。


   …今は。
   考える必要、無いよ。


   ……。


   考えさせない。


   …う、ん。


   …蓉子。


   ……せ、い。









































   ふと、目を覚ました。
   部屋の中は未だ、暗いまま。
   だけど目の前には、私の腕の中で、穏やかに眠る蓉子の顔。
   穏やかな顔、困ったような顔、それから私に溺れてくれた顔、どの顔も愛しい。
   吐息が肌をくすぐる。
   こそばゆい。


   一人で眠る筈だったベッド。
   二人で、蓉子が居るだけでこんなにも暖かくて、温かい。





   想いを込めて白い額にキスを一つ、落とした。





   今一度、瞳を閉じる。
   夢など見なくても良い、と思いながら。












 「La Mer」
 幻想水滸伝4
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