日曜、お昼過ぎ。
昼食はふと作ろうと思いたったボロネーゼ。
食後にはエスプレッソ。
我ながら、なかなか美味しかったと思う。
マ イ ン ド レ ス オ ブ リ ー ガ ル
「…ねぇ、蓉子」
「……」
私は今、ローテーブルの上に小六法と筆記用具、それからメモ代わりにとリフィルを広げて、
課題の参考にとある本を読んでいるところ。
題は「戦後政治と日本国憲法」。
つまり課題が出された授業は必須科目でもある憲法。
最高法規である憲法…とりわけ人権…は法律学を学ぶ上で必ず学ぶべき法律。
刑法、民法、或いは商法、若しくは其れ以外の法律を専門としよう、と。
課題の提出期限は未だ先。
だけれど参考にする本を幾つか読んでおくのに早い遅いは関係無い。
読みながら軽くメモを取っていく。
「ちゅー、しよっか」
「…」
しかして。
この本に今最も必要としている事柄が記載されているページは正味11頁。
総司令部案…所謂マッカーサー草案…、及び其れに基づいて作成されたと言う政府原案には無かった其れ。
当時の社会党からの社会権を重視する主張により憲法に挿入されたと言う。
直接影響を及ぼしたのは高野岩三郎らの憲法研究会の「憲法草案要綱」における規定であり、
またこの憲法研究会案は総司令部案の作成にあたっても参照されたとも言われている。
「と言うか、しても良い?」
「…」
元々、憲法研究会案は特にドイツのヴァイマル憲法の大きな影響の下に作成されており。
(ヴァイマル憲法は現代的意味での其れの考え方を明らかにした世界最初の憲法である)
其れの法的性格がプログラム規定か…それとも、具体的な法的権利かという其の論争は、
ヴァイマル憲法下のドイツの学説の議論が日本国憲法下の初期の学説に大きな影響を与えた。
…とは言え。
プログラム規定説が国家に対し政治的・道徳的義務のみを課し、
およそ裁判規範としての効力を有しない事を意味するものと解するのは、今日もはやこのような学説は存在しない。
其れも踏まえた上で。
自分の考えはどの学説に近いか。
プログラム規定説か。
それとも法的権利説…具体的若しくは抽象的…か。
或いは…。
「ねーようこー」
「…」
「よーこってばー」
「…」
思考しながらも、本の文字を追う目。
其の視界に先程からちらちらと入る存在。
佐藤聖。
私のベッドに腰掛けて此方を見ている…と言うよりも窺っていると言った方が正しい、私の恋人。
土曜である昨日からうちに来ている。
連絡はほぼ無し、で。
来るのならば一言ぐらい連絡を、携帯のメールでも良いから送って寄越せば良いのに。
其れを指摘したらメールは送った筈だけどなーと言われた。
確かに。
確かに私の携帯は聖からのメールを受信していた。
実際、私も気付いて読みもした。
内容はとても簡潔で「今から逢いに行く」。
でもね、聖。
私の部屋に来た3分くらい前に送られたと思しきメールでも、事前に知らせたうちに入ると思っているの。
「だめ?」
「…」
…昨夜、あれだけしたくせに。
今朝、目覚めた時にだって。
だからと言うわけではないけれど、返事はしない。
目も合わせない。
合わせたらどうなるか、今までの経験上ある程度の予想はついているから。
「…黙ってたら。
分かんないよ」
口を尖らしたような物言い。
相手にしない、返事すらしない私の態度に拗ね始めたに違いない。
第一。
昨日、前もって私は告げておいた。
明日、つまり今日は課題の本を読むから、と。
もっと言えば、だからこそ、昨夜は許したのだ。
聖はいまいち其の辺りが分かってない。
第一、聖だって学生。
課題の一つや二つはある筈でしょう?
大体、試験の時だって然う。
試験期間にしようと言う、其の神経が私には理解出来ない。
「………」
完全に不貞腐れたのだろう。
黙ってしまった聖を少しだけ横目で見てみる。
聖は私のベッドに突っ伏して、頭を枕に埋めていた。
其の姿はまさに、不貞寝。
いっそ、そのまま眠ってくれたら静かになって良いかもしれない。
と、思ったのが伝わったわけでは無いのだろうけれど。
聖が不意に足をばたつかせた。
ああ、埃が舞うじゃないの。
いや、ちゃんと定期的に掃除はしているけれど。
だけれど。
…ああ、もう。
「…何も言わなくても」
「んー?」
私の声にすぐさま反応して頭を上げる、聖。
其の様が子供…と言うより主人の声が掛かった犬〈わんこ〉のようで。
少しだけ、可愛い。
聖は今日もご主人の声を聞いてはしゃぐのでしたー。
なんて。
朝の情報番組内のワンコーナーを思い出させるくらいに。
「したい時はする、くせに」
「でも怒られる時がある。黙ってすると」
いつか、其れが元で喧嘩にまで発展した事がある。
聖はいつだって唐突で。
しかもTPOを弁えないから。
幾らデートだからって、暗がりで見えないからって、人前でキスをするなんて。
私が嫌がる…其れは恥ずかしいから、だと言う事も知っているくせに。
「…貴女は唐突過ぎるのよ。
少しは時と場合を考えて」
「じゃあ、今は?
黙ってしても良い時と場合?」
「…さぁ、どうかしら」
「ねぇ、しても良い?」
…わざと濁してみたのだけど。
ねぇ、見て分からないの。
私は今、本を読んでいるのよ。
しかも課題の…あぁ。
だから、なのね。
「ねぇってば」
「…」
要は退屈しているのね、聖は。
折角の休み、しかも…自惚れになるけれど、恋人である私と過ごしていると言うのに。
私が朝から本ばかりを相手に…今読んでるのは実は二冊目…しているから。
けれどね、聖。
私はちゃんと言ったのよ。
私は混ぜたくないの。
いつも言っているでしょう?
「…もう、良いや」
「…?」
キシっと。
聖が身体を起こした事でベッドが軋んだのだろう、音が響く。
と、ベッドから下りて真っ直ぐ私に顔を向けてきた。
其の距離は…近い。
「…せ」
「…しちゃった」
読んでいる本を片手で押さえつけられた、瞬間。
軽く触れるだけ、だったけれど。
頬に残った感触は紛れも無く、唇のもの。
「…」
「…怒る?」
上目遣いで私の様子を窺う、聖。
其の顔は勿論、笑っている。
若しくは「構って」と、髪の毛と同様に色素の薄い目が言っている。
…良く言ったものだ。
目は口ほどに物を言うとは。
「……」
目を逸らし何も答えない私に、何を思ったのか。
聖は少しだけ首の角度を変えて、更に覗き込んでくる。
二度と合わせまいとした、其の目と、合った。
…どうして。
どうして、今。
然う言う目をするのかしら。
笑って居てくれてた方が余程、怒りやすいと言うのに。
ずるい。
「…」
「お…」
「…お返し」
矢張り、唇では無く。
唇の端に軽く触れるだけの、お返しと言う名のキス。
「…いつもいつも、だと。
何か悔しいから」
本当に。
キスをしたくなるのは、何も、貴女だけじゃないのよ。
ただ、時と場合を選んでいるだけなのよ、私は。
「…え、と」
「…」
「ねぇ、蓉子」
「…」
私はさっさと本に目を戻す。
出来ればもう、相手にしたくない。
したら、屹度。
其れだけじゃ、済まなくなる。
「もっと。
して、良い?」
「…さぁ?」
「と言うか、しちゃえ」
「…」
頬に手を当てられて。
そのまま流れるように移動した指に顎を掴まれ、クイっと聖の顔の真正面に向かされる。
其の瞬間を狙ったかのように、啄ばむようなキス。
今度こそ、唇に。
刹那、昨日の事が脳裏に過ぎって。
頬が熱くなるのを感じる。
然うだ、昨夜もこんなキスから。
「…あーもう。
蓉子は可愛いな」
にたりと笑う聖。
さっき、一瞬だけ見せた不安げな色が嘘のよう。
そして其れに絆されっ放しの私は。
癪に障った。
何かもう、やたらに。
だから。
「…ね、聖」
「んー…?」
「キスだけで、良いの?」
「…ええと。
其れはどういう意味でしょう?」
「…聖はどういう意味で捉えた?」
「私の捉えた意味で良いのなら。
こう、捉えた」
私の身体は聖の手によってゆっくりと横たえられる。
ベッドじゃないから、背に当たる感触は固い。
見上げた先には覆い被さった聖…の彫りの深い顔。
其の息遣いは通常の時とは違う色を見せ始めていた。
「…」
「…間違ってる、かな」
「…間違ってると言ったら。
止める?」
お互いに答えの分かりきった問い。
聖は逡巡する事も無く、少し冗談めかした振る舞いすらして。
おまけに軽く鼻で笑って。
「…無理、かな。
私はまんまとお誘いに乗ってしまった気でいるから」
お誘い、ですって。
そもそも誰だったのかしらね。
構って、と言う態度を子供のように示していたのは。
私は本を読んでいたと言うのに。
其れを妨害したのは。
キスしよう、と言ったのは。
「蓉子…」
聖の唇が降ってくる。
其の動きはやたらに緩慢で。
初めは額に、それから瞼に。
順序を守るかのように、唇を滑らせていく。
私の其れと重ねられた時、私はローテーブルの上に広げたままの本を思った。
必要な頁は正味11頁。
其れらは全て読んだ。其れとは関係の無い頁もちゃんと。
読んだけれど、参考には大してならないな、と思う。
だって授業で聞いた事ばかりだったんですもの。
授業でやった内容だったらノートにちゃんと書いてある。
今更、読んで知る事でも無いし、考えをまとめる為の参考にもならない。
まぁ、授業の復習ぐらいにはなるけれど。
よし、明日大学に行ったら一番に図書館へ行こう。
そして。
「…ベッドに、行く?」
然う、ベッドに…じゃない。
気付けばいつの間にかブラウスのボタンは外されて。
下着のホックすら外されている。
ああ、やっぱり。
やっぱり、こうなるのだわ。
確かに。
聖曰く、誘うような言葉も口にしたかも知れないけれど。
全ては、貴女のせい、なのよ。
「…未だ明るいのに」
躊躇いを少しだけ込めた其の言葉に聖はふにゃりと笑った。
途端、胸が締め付けられる。
ああ、もう。
悔しいけれど。
其れを可愛いと思ってしまうのだから、我ながらもう、どうしようも無いわ。
「あ…」
聖の手が下着に掛かって剥がされる。
それから其の手で晒した胸を一舐め。
途端、躰に流れるは甘い痺れ。
思わず、目を瞑る。
少しずつ、私の中の箍が外されていく。
「…ベッドに、行こ?」
催促とも言える言葉に目を開けば、相変わらず、子供のように、笑ったままの、聖。
……もう。
そんな貴女が最高に憎らしくて。
…ぷはぁ。
…せい。
んー?
ちゃんと。
グラスに注いでから飲みなさいよ…。
らっぱ飲みだと。
間接キスになるから?
…今更。
だね。
行儀が悪いから…よ。
めんどい。
せい。
蓉子もいかが?
美味しいよ。
と言うか、それ…。
私のミネラルウォーター…。
あ、起きないで。
起きないと…飲めないじゃない…。
飲ませてあげますって。
口移し、で。
ばか。
でもって。
喉を潤したらもう一回。
…もう、夕食を作らないと。
今日の夕食は蓉子。
…私の夕食は?
勿論、私。
…今夜も泊まっていく気?
明日の用意はばっちし。
貴女、手ぶらだったじゃない…。
あ、ばれた?
…さぼる気でしょう。
いえいえ、滅相も無い。
…兎に角。
お腹は満たされないわ。
色気より食い気?
茶化さないで。
はは。
じゃ、夕食はこの私が作って差し上げよう。
蓉子はそのまま寝てて。
…の、前に。
服を着て。
へいへい。
どうあっても泊まっていくの…?
勿論。
続きもしたいし、ね。
……。
ん、何?
私の顔に何か付いてる?
……ほんと、う。
ん…?
最高に、愛しいわ。
|