今夜から明日の未明にかけて上陸する台風の影響で大荒れになると、天気予報で言っていたけど。
   実際はお昼頃から風は強くなり雨も降り出して、時間の経過と共に風雨は益々強くなって。
   だから今日は天気予報の言う事を聞いて、早めに帰ろうと決めた。
   だけれど何だかんだで帰りはいつも通り…などと思いながらちらりと腕時計を見れば、それでも、少しだけ早いかな。
   帰ったら、とりあえず、お風呂にお湯を張ろう。張りながらシャワーを浴びよう。
   8月のわりにはこんな天気のせいで今日は朝から気温が低い…上に、
   軽く傘が役に立たない状態のせいで靴の中はひどいことになっている。
   挙句、気温のわりには湿気が高いので、汗がべたついていて気持ちが悪い。
   最早、寒いのだか暑いのだか分からないのだけど、それでも分かっていることが一つ。
   このままだと、風邪をひく。
   確実にとは言わないけれど、高確率…で。



   「…………よー…こ?」



   私の部屋の前にすぶ濡れな捨て猫が一匹。
   全身から滴ったのであろう雫で水溜りを作りながら、ドアの脇でちょこんと体操座りしている。



   「聖…?」


   「よーこ、かえってきた…?」



   正直な事を言えば、最初は何かと思った。
   だって帰ってきたら部屋の前で何か黒い影みたいなのが蹲っているんだもの。
   不審以外の何者でもない。
   警察を呼ばなかったのは、よくよく見れば、見覚えのある水色のラインが入った白のドライパーカー(メンズ)を着ていたから。
   と言うより、良く呼ばれなかったと思う。
   どう見たって、怪しい事この上無い状態なんだもの。



   「…何、しているの?」


   「よーこ、まってたの…」



   ふにゃあ、と。
   仔猫が弱々しく鳴いているような受け答え。
   あまり明るくない灯りの下、大理石みたいな肌はより一層白く…というより青白い。
   いつもふわふわとしている(立っている)髪、今は濡れてぺたりと張りついて。
   下のカーキ色のカーゴパンツは、濡れて本来の色とは違っている。
   パーカーにいたっては、その色が災いして、肌の色がうっすらと浮かんでいるようにも見える。
   周囲を見渡せば傘らしきものは見当たらない。
   持っていたら…ここまでにはならないだろう。幾ら傘が役に立たないとは言え。
   まるで服を着たまま、プールに飛び込んできたようには。



   「まってた…て」


   「まってたんだよ…だから、おかえり…?」



   覗き込む私に聖は力無く、ふにゃりと微笑んで。
   ずぶ濡れになっている事など意に介さず、のんびりと、然う言った。













  た だ た だ













   「ふにゃー…」


   「…間抜けな声、出さないで」


   「だって、気持ちいーんだもん…」



   相変わらず、ふにゃふにゃとした声を出す聖に、そっとため息を吐く。
   今は聖を湯船に座らせて、シャワーのお湯をかけてあげている最中。
   最初は温めに、徐々に熱めに。


   あの後。
   手早く玄関の鍵を開けて、座り込んだ聖を無理矢理立たせてそのままお風呂場に直行。
   立たせる時に聖の動きがやたらと緩慢になっていたのは、ずっとじっとしていたせいか、それとも寒さのせいか…その両方のせいか。
   明るいところで見た聖の顔色は矢張り青白くて、普段ならば赤みのある唇も青に染まり、触れた肌も氷とまではいかないけれど冷たかった。
   このままだと、確実に、風邪をひく。
   然う、判断した私は問答無用で聖をお風呂場に連れていった。
   この際、廊下が濡れた事は気にしない。気にしてるどころじゃない。そんなの後で拭けば良い事だ。
   先ずは聖を温めないと。
   じゃないと、風邪をひいて、熱を出して。
   聖は基本的にあまり熱は出さない人だけれど、ひとたび出すと高熱を出す。
   熱にうなされて眠れなくなって、甘える余裕すらも無くなって、それでも手を繋いで欲しいと掠れた声で懇願してくる聖が愛おしくて。
   愛おしいけれど、苦しんでる姿を見るのは嫌。
   看病なんて、幾らでも、するけれど、聖が苦しむのは嫌。



   「…聖、どう?」


   「うん、よーこもいっしょにはいろ…?」


   「…そうじゃなくて」



   えー、と不満そうな声を出す聖。
   私だけ裸になっているのにー、とぶつぶつ言う聖。
   その顔を覗けば大分、顔色は良くなってきている。勿論、唇の色も。


   お風呂に入れる時。
   服を着たまま放り込む事も一瞬だけ、考えたけれど。
   だけど、やっぱり、お風呂は素肌の方が気持ちが良いから。
   然う思って服を脱ぐように聖に言ったけれど、指先が悴んでしまったみたいで、なかなか脱げない聖が可愛いくて…いや、、もどかしくて。
   思わず、剥ぐようにして脱がせてしまった。
   これじゃいつもの逆だわ…なんて今更思ってしまったりして、思わず顔が熱くなった。



   「よーこも、つめたいでしょや…?」


   「それでも帰って来た時よりはマシよ」



   シャワーの熱気で気温が上昇したお風呂場の中。
   直接、お湯の力で温まっている聖ほどでは無いけれど、私の体も、少しは、温まってきてはいる。
   難と言えば、今ではすっかり濡れてしまった服が少し重たく感じる、それぐらい。



   「だけど…ほら」


   「…なに?」



   シャワーを持っている方の手首を、温かい手に掴まれる。
   寧ろ、熱いくらいに感じた。



   「…ほら、つめたいじゃん」


   「……聖があったかいからよ」



   くりん、と顔を向ける聖。(聖は私の方ではなくて、反対側に向いて座っていたから)
   その動作が意表をついていて、でも、子供みたいで。



   「やっぱり、よーこも入ろ」


   「私は後で入るから…」


   「だめ、いっしょに入ろ」


   「だから…」


   「ふたりでのほうが、あったかいよ」


   「そんなに広くないし」


   「そのほーが、くっつけるじゃん」


   「だけど服を脱いでないし」


   「じゃあぬいで、いますぐ」


   「けど…」



   …などと、暫く押し問答をしていたのだけれど。
   最終的には。



   「…ほら、いったとーり」


   「………」


   「はぁ、きもちいー……」



   子供のように口を尖らせて駄々を捏ね始め、挙句、拗ね始めた聖に負けてしまって。
   お湯を溜めた湯船の中に、聖に後から抱きすくめられて、落ち着いた。勿論、服は脱いだ。
   温かいお湯、柔らかい聖の躰、確かにこれは気持ちは良い。
   人の肩の上に顔を乗せて寛ぐ聖。鼻歌でも歌い出しかねないくらいに上機嫌。
   お腹に回されている手が時折撫でるように動いてくすぐったい。無意識に笑いがこぼれる。
   …然う、確かにこれは。
   とても、とても、気持ちは良いのだけれど。



   「……はぁ、おちつくー」



   …………もう。





   ぱしゃり、ぱしゃり。





   湯舟の中で二人、寛いで。
   これと言って実のある会話は無かったけれど、それでもとても落ち着いた時間の中、揺蕩う。
   そうして私の躰が程よく温まってきた頃。
   聖がお湯を波立たせるようにして、手を動かし始めた。
   片方の手は相変わらず、私の躰に回されたままだけれど。
   ぱしゃり、ぱしゃり、と。
   お湯の中から出しては沈ませる。
   最初は小波程度だった揺れが、少しずつ少しずつ大きくなっていって。



   「聖、顔にかかるから」


   「んー…」


   「んー、じゃなくて…あ、こら」



   案の定、目の中に入って、咄嗟に手で拭う。
   その瞬間、耳元で、おー、と言う声。
   どうやらその動作が、何が面白かったのか理解出来ないけれど、聖には面白かったみたいで。
   お湯で遊んでいた手が目の前を覆った、と思ったら、私の手を真似るようにして私の顔を拭った。



   「一寸、何をするの」


   「お詫びに拭いてあげる」


   「良いわよ」



   遠慮しないでー、なんて。
   私は本当に迷惑だと言うのに、どこをどう取れば遠慮しているなどと取れるのだろう、この人は。
   やめて、と言っている声すら楽しんでいるように、聖は私の顔を撫で回す。
   と、いきなり、



   「たこー」



   両頬を挟まれて、唇を尖らすような、聖曰く蛸のような顔。
   いきなりの事で、まんまと、間抜けな顔にさせられる。
   続いて、へへー、と小莫迦にしたような笑い声。
   完全に、遊ばれている。



   「…お」



   尚もしつこく、人の顔を弄ぼうとするその手を掴んで、少々乱暴気味にお湯の中に沈めてやった。
   そのせいでまた飛沫
〈シブキ〉が上がったけど、顔にはかからなかったから、気になどしない。



   「あそんじゃ、だめ?」


   「だめ。人の顔を何だと思っているの」



   私は玩具じゃないのよ。
   と、少し強い口調で言ったら、そっか、ざんねんだなー、とのたまう口。
   反省の念は全く持って感じられない。
   いや、初めからそんな気など更々無い、と言うより、悪いことをしていると言う自覚が全く無いのだから本当に仕方が無い。



   「…じゃあ、よーこのかおであそぶのはやめた」



   大体、人の顔で遊んで何が楽しいのかしら。
   撫で回されていると思ったら、ぐにぐにぐにぐに、と、ほっぺたの肉を抓まれてる私はちっとも楽しくない。
   などと、文句の一つでも言ってやろうかと思っている矢先に。



   ぱしゃり、ぱしゃり。



   再び、お湯遊びを始めた聖。
   今度は私の躰を抱いていた片方の手をも使って。



   「これ、出来る?」



   聖はまるでふと思い出したかのような口ぶりで、両手を私の前で組み、お湯をピューと前に飛ばした。
   お湯は緩やかな放物線を描きながら湯船の反対側の淵まで飛んでいった。



   「ね?出来る?」



   耳元に響く聖の声に人懐こさが帯びる。
   聞きながら、然う言えば私が未だ小学生の頃、プールの授業中にそんな事をやって喜んでいた男子が居たな、と。
   その子は水を器用に前に飛ばしては、嫌がる女の子の顔にかけて。
   その子は益々面白がり、水を飛ばして、だけどその水が女の子の目の中に入ってしまって。
   とうとう泣き出してしまった女の子を前にして、しどろもどろになってしまったその子。
   それに気付いた、当時学級委員だった私は、その子を注意をした。
   今思えば、多分、それが良くなかったのだと思う。
   何故なら、その男子は女の子にとうとう、謝らなかったから。
   泣いてしまった女の子の友達が先生に報告して、結果、その男子は先生に叱られてみんなの前で謝る事にはなったのだけれど…。
   屹度、意固地になってしまったのだろう…と。



   「ねぇ、蓉子。聞いてる?」


   「…聞いてる」



   意識せずに思い出した昔の事柄。
   声に打ち消されて、思考を今に戻す。
   じゃあ、出来る?
   もう一度、今度は囁くように尋ねてきた声と吐き出された息に耳朶を擽られ、躰がぶるりと震えた。


   ふと、思う。
   二人でお風呂に入ってからもう、結構経つ筈。
   外の嵐は帰ってきた時よりひどくなっているのだろう、風が空気を裂く音、風鳴り音が聞こえる。
   ……日頃全く思い出さない事を、今、思い出すなんて。
   少し、逆上せてきているのかも知れない。



   「ちなみにこっちにも出来るよ」



   と、再び、聖はお湯を飛ばした。
   私達の前に、では無く、私達に向けて。
   位置的に私は聖の前に、抱えられるようにして、座っている。
   向けられて飛ばされたお湯は当然の如く、聖には届かず、私の顔にかかった。



   「……何、するのよ」


   「…ごめん?」



   …絶対にわざとだ。
   わざとに決まっている。
   謝る言葉に笑い声が含まれてる、真摯さなんて全く感じられない。
   大体、疑問系なのが気に入らない。
   悪いなんて、全然思ってないんだわ。



   「…私、もう出るわ」


   「え…」



   もう、付き合いきれない。
   人の顔で散々遊んでおいて、また、人で遊ぼうとしている。
   人に心配をかけさせて、本人はけろっとしていて。
   聖が苦しむのは嫌だけど、でもだからって、遊ばれるなんて。
   私は聖の事ならば、大抵の事は、屹度、受け入れられる。
   でも、だからって。
   それで遊ばれるだなんて、そんなの。



   「蓉子、まって」



   聖の手が私を引き止める。
   私は聖の手を無言で、そして聊か乱暴に払いのける。
   躰は十分に温まった。逆上せてしまうほどに。
   屹度、もう大丈夫。
   だからもう、心配するのは止めた。
   したってどうせ、遊ばれるだけなのだから。



   「蓉子…まって」


   「…ゆっくり、どうぞ」



   苛立ちに任せて突き放すように言葉を吐いた。
   だってまさかそんな事になるだなんて、その時は思っていなかったから。
   思えば、もっと良く、考えるべきだった。
   聖が何故、こんな天気に連絡もしないで…いや、聖は唐突な人ではあるけれど、
   でもひどい天気の中、傘も持たずに歩き私の部屋の前で弱々しく座り込んでいた事を。



   「……聖?」



   いつもより諦めが早かった事が、少し、気にかかって振り返った。
   いつもだったらもっと、しつこく手が伸びてくる。
   伸びてきて、時には力尽くに、時には縋るように、私は聖の腕の中に引っ張り込まれるのだ。
   それで喧嘩になる事もあるし…絆されてそのまま、の場合もあって。
   なのに、今回は一度きり。
   突き放した言い方をしたとは言え…いつもだったら。



   「……」



   …聖が泣いている。
   声を殺して。
   時折、しゃくり上げながら。
   聖が、泣いている。
   背を、肩を、震わせながら。
   己の躰を抱き締めて。
   ただ、ただ、泣いていた。



   「聖…」



   私はそこで初めて、聖がいつもの聖では無い事に、気付いた。
   慌てて手を伸ばしたけれど、肩に触れた瞬間、払いのけられた。
   同時に湯の飛沫が上がる。
   目に入った雫を反射的に拭いながら、もう一度手を伸ばす。
   だけれどまた、払いのけられる。
   聖はこちらを見ていない。
   見ないで、ただ、涙を流している。
   泣き顔が見られたくないのか、それとも他に理由があるのかは分からない。
   だけど、ここで退くわけにはいかない。
   泣いている聖を。
   放っておく事なんて、いつだって、私には出来ないのだから。



   「聖」



   聖が私で遊ぶだなんて、そんな事、今に始まった事ではない。
   聖が連絡無しで私の部屋に来る事だって。
   そんな聖に私が腹を立てるのはいつもの事。
   だから然う。
   所詮は“いつもの事”だ、と高を括っていたのだ。
   無意識のうちに。
   そして、慣れてしまっていたのだ。
   それが聖と過ごす日常なのだ、と。















   ……聖。


   …。


   聖。


   …。


   聖。


   …。


   …。


   ……聖。


   …うるさい。


   …。


   …うるさい、うるさい。


   聖、どうしたの。


   …。


   …どうして、泣いているの。


   …さ…い。


   …言葉にしてくれないと、分からないわ。


   …。


   私には…分からないのよ…。
   どうやっても…。


   …。


   聖…。


   ……蓉子は。


   …。


   蓉子はどうして、私が好きなの。


   ……え。


   蓉子はどうして、私を好きだと言えるの。


   どうして…て。


   ……私は女だよ。


   そんなの、当たり前でしょう。


   …蓉子は、そうじゃないくせに。


   そうじゃない…?


   …私が好きになるのは女の人だけ。
   でも蓉子は…


   …私は、違う。


   ……なのに。


   聖。


   こんなの、ずっと、続かない。
   屹度、続かないんだ。


   ……。


   いつか、蓉子は私から離れてしまう。
   どこかに、行ってしまう。
   だって蓉子は…


   …私は?


   …違う。
   私と違う…だから。










   …聖、は。
   有体に言えば、不安になったのだろう。
   どんな人間でも情緒が不安定になる時はある。
   それがどのタイミングで、どんな理由かは…自分にすら分からない時だって。
   私だって、然う。
   私だって、不安になる時がある。
   信用していないわけではない。
   寧ろ、誰よりも信用して、誰よりも信頼している。
   ただ、怖くなるのだ。
   ふとした瞬間に。
   こんな生活がいつまで続くのか。
   聖が私をいつまで愛してくれるのか。
   いつか、聖と別れる日が来るのではないか。
   それがどんな別れかは分からない、けれど。
   でも、ただ、ただ、不安になるのだ。
   漠然と。
   聖を、愛してるが故に。
   聖と私が、違う人間の故に。
   一つになる事なんて、永遠に出来ないが故に。



   屹度、誰もが。









   …然うね、私と聖は違うわ。


   …。


   でもね、聖。


   …ききたくない。


   …。


   やだ…、やだよ…。


   ……私は聖と変わらない。


   ……。


   聖はどうして、私の事を好きになってくれたの…?


   ……。


   ねぇ、聖…。


   ……好きなの。


   …。


   私は蓉子が…好きなの。


   ……じゃあ、若しも。
   私が男だったら…どうしてた?


   ……。


   出逢ってた出逢ってないとか、そんな話は無し。


   …。


   聖は女の人しか愛せない、と言う。
   ならば私が女だったから…聖は私を愛していると言うの?


   ……。


   女ならば……自分に優しくしてくれるのならば、誰でも


   違う…ッ


   ……。


   私は…、私は蓉子が好き。
   蓉子だから…蓉子だからこそ、私は…


   …ほら、同じ。
   何にも違わない。


   …?


   ねぇ、聖…。


   ……ん。


   私は聖が好き。
   女とか、男とか、そんなのは関係ない。
   聖だからこそ、私は貴女が好き。


   …。


   不安に思う時もあるでしょう。
   でもそれは誰だって、同じ。
   女同士で無くても…屹度。


   ……蓉子は。


   …。


   …蓉子も?


   ……然う、私も。
   だって私は貴女を愛しているから…愛しているが故、に。


   ………よ、こ。










   私は湯船の中に、そっと、戻った。
   聖と向き合って、そして、その躰を抱き締める為に。










   …私は、聖が好き。
   聖だからこそ…。


   …蓉子、ようこ、ようこ。


   怖くなったのね…不安になったのね…。


   …。


   …正直、先の事なんて分からないわ。
   けれどね、聖…。


   ……。


   私は…貴女を愛している。


   ……。


   若しも不安になったのならば…









   それ以上の言葉は紡げなかった、紡がなかった。
   私は聖に抱きすくめられ、私も聖の躰に腕を回し、唇を重ね合ったから。
   何度も、何度も、重ね合った。
   そのうち聖の手が私の躰の上を滑り。
   指が私の中に入った。
   甘い痺れと切ない痛みが全身に走り、私は聖の名を呼んだ。
   聖もまた、私の名を呼び、再び唇を合わせた。


   私の中で聖の指が動き。
   私の中で聖の舌と私のそれを絡め。
   私の中で、聖を愛した。










   …人は些細な事で、例えば“雨の音”なんかで、感情が揺れ動き、心が沈む。
   はっきりしたものなど、あるようで、本当は無いのだろう。
   殊、人の感情には。
   少なくとも絶対なんてものは無い。
   こんなに愛していても。
   こんなに愛されていても。
   打ち払えない感情。
   だからこそ、人は自分をどうにも出来なくなる。
   自我が利かなくなる。
   聖が嵐の中、私の部屋に来たのも。










   ………せい。










   私は人故に弱く。
   聖もまた、人故に弱い。
   でも私は人故に強く。
   聖もまた、人故に強い。











   あ……。










   ああ、愛故に強くなろう。
   強くなろう。
   貴女をずっと、愛するが為に。



   貴女をずっと、仕合わせとする為に。












  「ただただ」
  笹川美和