| 百頭女 マックス・エルンスト | ||
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“ひゃくとうおんな”と読む。いや、別に“ひゃくとうじょ”でも“ひゃくあたまおんな”でも良いのだが、故植草甚一氏がかつてテレビ出演した際、この本を取上げてそう発音していたので、それに倣ってみた次第。漢字に置き換えた邦題のビジュアル的なインパクトを活かすためにも、やはり最後は「じょ」よりも「おんな」がいいように思うし、実際、この読み方がこの“20世紀の奇書”(澁澤龍彦評)に一番しっくりくるような気がする。 もっとも『百頭女』と言っても、本の中に本当に百の頭を持つ女の絵が出てくる訳ではない。これは、シュルレアリスムを代表する画家マックス・エルンストが1929年にコラージュ・ロマンと銘打って発表した画集であり小説でもあるような実験的な書物なので、古い19世紀の挿絵本やカタログの木版画を切り抜き、貼り合わせて作った奇怪な物語が読者の思惑をはぐらかすように続いて行くのである。一応、ストーリーらしきものもあるにはあるのだが、なにぶんシュルレアリスムであるからには不条理、不可思議は当然至極、看板に偽りありも宜(むべ)なるかな、と言ったところだろうか。 窪田般彌氏によれば“百頭女”という言葉には“無頭女”という洒落も隠されているらしいので、これはシュルレアリスト一流の諧謔ととるのがいいのかもしれない。 ページを開くと、古い木版画の線描の美しさにまず惹かれる。名前を失念したけれど、たしか日本のアーティストでこんな絵柄(コラージュではなくて手描き)で本を出していた人がいたと記憶しているが、気持ちは実に良く分る。私なんぞもついついペン画でこれらを模写してみたくなる誘惑にかられてしまう。 また、素材に使用されている木版画が、どうやらジュール・ヴェルヌみたいな冒険小説っぽい挿絵が多いせいか、全体的な印象はかなりドラマチックで派手なものだ。そこにデペイズマンの手法で無関係なものをプラスしてくるから、謎めいた印象はさらに強烈なものになるという訳である。 ![]() 読み方には特に何のルールも制約もない。適当なページをぱっと開いてそこから逆に前の方に繰っていってもいいし、何ページか飛ばして見て行ってもいい。これほど自由な書物というのも少ないのではなかろうか。個人的には「しびれた列車」、「パリの窪地では、鳥類の王者ロプロプが、街燈たちに夜の食事を運んでくる」(写真右:キャプション長いです)なんかの図柄がお気に入りで、たまに書棚から取り出して眺めては楽しんでいる。 この本には『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』、『慈善週間』という姉妹編もあって、いずれも奇妙奇天烈なコラージュと物語が展開されている。それらのストーリーは、一般的なそれとは大幅に異なるものだ。読者はあまり意味にこだわらずモンティ・パイソンでも楽しむつもりでニヤニヤしながら読むのが吉だろうと思う。 いったい無意味というのは、芸術家が進むべき一つの道と信じて疑わないけれども、これが結構難しい。意味を消すのは簡単だが、誰も見たがらなくなるのがオチだからだ。 エルンストの一連のコラージュ・ロマンが全く無意味だと言うわけではむろんないが、試みにそんな観点から眺めてみても、70年経った今でも相当の魅力と爆発力を持っているから、大したものだと思う。“静かな炸裂”という瀧口修造の評は、けだし言い得て妙であろう。 永遠の謎に封印された1冊の書物として、たとえばデュシャンの『大ガラス』をつらつら眺めるのが好き、なんていう方にはうってつけの愛読書になるのではなかろうか、たぶん。 写真上が『百頭女』、『カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢』、『慈善週間』のそれぞれ河出書房新社から昭和49年頃出た日本版で、現在は絶版。数年前に文庫版も出たが、やはり元の大判で見たいものである。古書店を根気良く回れば、たまには見かけるので、東京近郊に住んでいれば入手はさほど困難ではないだろうし、ネット古書店という手もある。 シュルレアリストを標榜する方必携の奇書として、ぜひお薦めする次第である。 2001.5.4
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