招へい経緯

                          中村 梅(マオ代筆)

 

このたび、中国に住んでおります中国国籍の次女、三女と、及びその家族たち、
全員で五人を招待するにあたり、資料と写真を添付して、その経緯を記します。

私は1920年に福島県で生まれ育ちましたが、若くして両親を亡くし、弟を
育てるために働かなくてはならない環境にいました。

1945年、25歳の時、○○会社の重役のお宅で家政婦として働いていまして、
その重役の方が満州に移転されることになり、私は請われて家政婦として一緒に
ぶじゅんに行き社宅に住みました。

まもなく終戦となりましたが、私は中国が気にいっていましたので、そのまま
社宅におりました。

1946年、当時国民党の軍人であって、麗江のナシ族である和毅岳さんと知り
合い結婚しました。

1947年に、長女の櫻娜を出産しました。
1950年に、次女、愛莉が生まれました。
1953年に、三女、美娜が生まれました。
私は老齢となり、昔の記憶が定かでなくなり、また当時は、国民党の軍人は
あちこち移っていましたから、はっきりと覚えていないのですが、
長女はぶじゅん、次女は北京、三女は麗江で生まれました。

三女が生まれて七ヶ月になった時に、私は突然来られた役所の方に、日本に帰る
ように言われました。その時、子供は置いていくように言われましたが、三女の
美娜だけはまだ生後七ヶ月で、お乳を飲んでいる年齢でしたから、お願いして
背負ったまま、役所の人に重慶に連れられて行きました。

重慶に着きますと、背中の乳飲み子は無理やりおろされ、私は他の沢山の日本人
女性とともに、トラックに乗せられ、最終的に日本の舞鶴に着きました。

これが、1953年9月のことです。私の最も悲しい、忘れようとしても忘れら
れない日です。

以後、私は日本で、病院の雑務や家政婦やデパートの食堂で懸命に働きました。
この間、中国で別れた娘たち(櫻娜と愛莉、それから和さんの姉の子供の集量)
と手紙のやりとりが何回かありました。(三女の美娜の消息は重慶の孤児院で育
てられ、里子に出ていると知らされていました)

そして、1962年に中村豊明と結婚しました。(入籍は1968年です)
この結婚を機に、中国の娘たちのことは、もう忘れなくてはならないと心に決め、
写真や手紙も、一枚だけを残してみんな処分してしまいました。

2003年7月に、日本の夫の中村豊明が他界しました。

この後、一人暮らしになりまして、毎日、中国の娘たちのことが思い出される
ようになりました。私はもう老齢となり、できれば、生きている間に娘に会い、
黙っておいて日本に帰ったことを詫びたい、そして、娘たちを育てて下さった
中国の方々にお礼を言いたい、という気持ちがわいてくるのです。

この願いは、中国人の許春燕さんという、北京の○○大学の助教授で、現在日本
の◇◇大学の留学生である方のご助力で、春城夕刊新聞社で記事にしていただき
叶いました。2004年6月12日に、次女の愛莉と三女の美娜が見つかったの
です。

夫の和さんと、長女の櫻娜はすでに他界しておりました。
2004年8月17日、私は中国に行き、次女の愛莉と三女の美娜とその家族に
会うことができました。二人とも立派に成長し、素晴らしい夫と家庭に恵まれて
おりました。

あの日の喜びは、言葉には尽くせません。本当に本当に幸せでした。
私は、心から、神様と中国の人々に感謝をしました。
そうやって数日後に帰国したのですが、それ以後は、今度は娘たちを日本に招待
し、私の暮らしなどを見てもらいたいと思うようになりました。何より、
もう一度、娘たちに会いたいという気持ちがつのるのです。

それで、今年の9月、涼しくなった頃、愛莉と美娜と家族たちを招待したいと
願っています。許可をいただけましたら、こんな幸せはありません。

以上の経過を示す、手紙、写真、新聞記事を添付致します。

これをもちまして、私と娘たちが親子であることを信じていただき、娘たちが
日本に来ることができますようにお許しいただけますことを切にお願い致します。

 


ママの国いらっしゃい目次に