− 第十章 −

 

 空を見上げると星がいくつか見え始めていた。街から離れているせいか、意外とハッキリ見える。あと小一時間もすれば満天の星空になるだろう。
 あれからヒューイ達がやってきた。彼らに後始末を任せてあたし達は外に出た。なんか歩きたい気分だった。
「いい天気ですね。」
 あたしと一緒に空を見上げているジェルがポツリと呟く。雲一つなく、風も寒くなく暑くなく…… 散歩するのにはいい気分だった。
「ラシェル……」
 気のせいかも知れないけど、なんかあたしセンチメンタルになってる。ジェルの一言で妙に心が揺れ動く……
「おなか減りましたねぇ……」
 はあぁぁぁ…… なんか疲れてきた。一瞬でもドキリとしたのが馬鹿みたいだ……
「あんたねえ…… もう少しまともなことは言えんのか?」
「でも…… 朝のサンドイッチだけでしたからねぇ…… 今日食べたの。」
 言われてみるとその通りだし、空腹感も急に感じるようになった。喉も乾いている。確かにそうだけどさあ…… この男はロマンってものがないのか。
「あ、そうだ。」
 ジェルが子供のような笑みを浮かべた。……なーんかいやな予感がする。
「私が倒れたとき、『何でもしてあげる』って言ってましたよねぇ……」
 あ、やっぱり。あのときは勢いでそう言ったけど、今になってみればそんなことする気などカケラもない。
「あんた…… 本気にしてたわけ?」
「あったりまえでしょう…… せっかく、可愛い女の子にそんなこと言われたんですから。利用しない手はありません。」
 こいつ…… 目が本気だ。でも、下心があるようには見えない。もしかして、あっちの方なのか……? 信用すべきじゃなかったんだろうか。
 でもこいつには散々助けられた、と言う負い目がある。聞くだけ聞いてやるか……
「で、なんなのさ。」
「あれ? ホントに言ってよかったんですか? 私も半分冗談だったのに……」
 しまった…… こいつも本気にしてなかったのか……
「それなら遠慮なく……」
 逃げる準備をしておこ……
「どっか、美味しいレストラン知りません?」
「は?」
「さっきも言った通り、おなかが減りまして…… リーナも当分帰ってきそうにありませんから……」
 な、なーんだ。ホッと胸をなで下ろす。
 今日一日、生きるか死ぬかの瀬戸際だったのに、そんな素振りをまるで見せないジェルが滑稽(こっけい)で思わず笑いだしそうになる。けれど、羨ましいとも思った。
「それなら、」
 とびっきりのウインクをジェルに送る。一瞬、ジェルが思いっきり動揺するのが分かる。ふふ、なんかジェルって面白い。
「いいところを知ってるわ。ちゃんと白衣でも入れてくれるところよ。
 当然、ジェルのおごりよね。」
「……別に構いませんが。」
 気にした様子もなく肩をすくめ、一歩先に歩き始めた。あたしはニヤリと笑い、後ろから追いかけ、ジェルの左腕をとって体をもたせかけた。そう、まるで恋人同士のように。ジェルの緊張が手に取るように分かる。
「あ、あの……?」
「ほんのサービスよ。さ、行こ。あたしもおなか減っちゃった。」
「は、はあ……」
 あたし達の姿は夜の街にへと消えて行った。

 

 それから数日後。
 あたしは墓地に来ていた。前に来たときと同じ黒いワンピースを着て。
 すでに先客がいた。四十代半ばの男女の姿――クリスの両親だった。
 地下深くで眠っている娘に対し、祈りを捧げている。草を踏む音が二人にあたしの存在を気づかせた。
「あ…… ピュティアさん……」
 二人に向かって静かに頭を下げた。クリスの墓碑の前にはいくつもの新しい花束が置かれてあった。
「その花は……?」
「私達が来たときにはすでに四つほど置いてありました。きっと、TVで娘のことを知ったのでしょう」
 そう、事件が終わったあの日、主犯格の二人がその場で連行された。その後の取り調べで事件の全貌――おおよそはジェルの予想と一致していた。しかし、少し違ったのは、例の「ムーンランナー」の実験台にされただけの人達もいた、ということだ。そして「商品」にされていた少女達もすでに解放されたということだ。――が明らかになった。
 どこから嗅ぎつけたのかは知らないけど、一部のマスコミがクリスのことを知り、事件解決の鍵になった少女、と一時騒がれそうになったのだ。が、それはすぐに立ち消えになった。なんでも、それを公表しようとした雑誌社やTV局のコンピューターのデータが大量に消失したとかで…… きっとジェルの仕業だろう…… あれ以来、会ってないから確認のしようがないけど。
「昨日、GUPの捜査官の方が来ました…… そこで始めて娘の死の真相を知りました。馬鹿ですよ…… 他人の為に危ない橋を渡って、それで死んでしまうなんて……」
 父親が静かに呟いた。その横顔は泣き出しそうだが、誇らしげにも見える。
「ほんと、馬鹿ですよ…… 親より先に逝ってしまうなんて…… 馬鹿だけど…… いい娘です…… 他人様に自慢できるいい娘ですよ……」
「ラザフォードさん……」
 彼らの気持ちも分かるような気がした。他人よりも自分の娘の方が大事なのは親として当然である。
「お礼は特に述べません、ただ、お嬢さんがいたことを覚えさせて下さい……」
「……?」
「その捜査官の方が言ってました…… 嬉しいですよね、娘が生きていた証が増えたんですから…… 私達も娘同様に彼らのことを忘れないようにします……」
 それでは、とクリスの両親は去って行った。二人が見えなくなるまで見送ってから、クリスの墓碑の前に立つ。
 持ってきた花束を置いて、静かに目を閉じる。まぶたの裏で少女が微笑みかけてきた。
 クリス、終わったわよ。あなたが望んだ通り、黒幕は逮捕され、監禁されていた人達も助けられた。
 でも……
 心の中で親友に話しかける。
 もう二度とあたしの前に元気な姿は見せてくれないよね……
 知らず知らずのうちに涙がこぼれてきた。手をギュッと握りしめる。
 あたしはクリスのこと絶対忘れない。あなたという親友がいたことを……
 一陣の風が吹いた。
 今日はほどいてある髪が風で流れる。
 黙って首を垂れて親友と無言の会話を続けていた。
 不意に流れる風にわずかな乱れを感じた。
「いるんでしょ、ジェル……」
 振り向かずに、ほとんど聞こえないような声で呟く。
「わかりましたか……」
 声はすぐ近くから聞こえた。顔をあげ声の方を見ると、あたしの真横に立っていた。
 さすがに気を使って、いつもの白衣は腕にかけている。二人とも口を開かずにそのまま時間が過ぎていく。
 先に沈黙を破ったのはジェルの方だった。
「差し出がましいと思いましたが、勝手にやらせてもらいました。」
「…………」
「本人の為にもご両親の為にも、そっとしておくのが一番だと思いまして……」
 やっぱりジェルの仕業だったか。でも、他の人はどうか知らないけど、あたしは賛成である。真実を伝える、というお題目のために彼女を好奇の目にはさらしたくなかった。悲劇のヒロインにもしたくなかった。
「ありがとう……」
「いえ、私の単なる自己満足です。気にしないで下さい……」
 会話が途切れ、風の音だけがあたしの耳に届く。クリスは喜んでいるだろうか。それだけが気になった。
 今度はあたしが沈黙を破った。
「いつからいたの……?」
「先ほどの二人が来る前からです。ヒューイとカイルは仕事が残っているので先に戻りましたし、リーナも帰しました。
 私は…… ラシェルが来るのを待ってました……」
「…………」
 どうして? とは聞かなかった。ジェルの待っていたおおよその理由は見当がついていた。おそらく……
「お別れを言いに来ました。私…… いや、我々とあなたとでは住む世界が違いすぎます。
 うまくは言えませんが…… そういうことです。」
 違う。直感的にそう思った。ジェルの言っていることは単なる建て前で、別な理由があるに違いない。
 そう、ジェルは…… 何か悲しい過去にとらわれている。そんな気がした。
 断定はできない。しかし、時々見せる表情がそれを語っている。
「そうよね…… 違うんだもんね……」
 ジェルから目をそらして、クリスの方に向き直る。とてもじゃないけどジェルの顔を見るのが怖かった。今の自分は精神的にもろくなっている。勢いにまかせて何を言うのかが怖かった。
「さようなら、ね。ジェル……」
 ほとんど自分に言い聞かせるような小声で呟く。それ以上、口を開くのが辛かった。
「ラシェ…… いや……」
 囁くような声が聞こえた。横で風が動くのを感じた。
「それでは…… 失礼します……」
 次の声はたいぶ離れたところから聞こえた。顔をあげると、遠くにジェルの背中が見えた。墓地を出たところで白衣に袖を通し、また歩いていく。あたしは見えなくなるまでそれを眺めていた。
 ……ふう。
 ため息のようなものが口からもれる。
 切なさの他に、なにか胸の中にモヤモヤしたものが溜まっている感じがする。一体何だろう……?
 …………、…………、…………
「ああっ!!」
 思わず場所もわきまえずに大声をあげてしまった。運よく、他に人はいない。驚いたのは眠っている方々だけだろう。心の中で謝ってから、もう一度考えをまとめる。
 だいたい…… 何が悲しゅうて、あんな男のためにセンチにならなきゃなんないのよ!
 なんかみょーに腹が立ってきた…… どーしてやろうか……
 き・め・た。ジェルめ、覚悟しときなさいよ……
 じゃあね、クリス。
 あたしは墓地を後にした。

 

 次の日もいい天気だった。もう少ししたら近くの海でも泳げるようになるかも知れない。水着の準備をしておこうかな……
 あたしはタクシーに乗って…… ふふふ、研究所の場所は見当をつけておいたから行けるわよ。
 四苦八苦しながらもなんとか研究所のある公園までたどりつく。あとは一本道だから迷いようがない。口笛を吹きながら歩く。
 前見たときは夜だったから気づかなかったけど、ここは芝と豊富な木々に囲まれた結構広い公園である。子供達が遊び、大人達がくつろいで平和な時を過ごしている。
 真ん中を通る大きな一本道を一キロほど歩いたところでお目当てのミルビット研究所に到着。
 青空の下、リーナちゃんがジャンプスーツ姿で洗車をしていた。洗われているのはパンサーと見たことのない大型トレーラーである。もっぱらリーナちゃんはパンサーだけを担当しており、トレーラーの方は前にも見た四角いロボットが所々にへばりついていた。
〈おや、ラシェルさん。〉
 パンサーが声をかけてくる。リーナちゃんもそれにつられてこっちを振り向いた。ブラシと水の出ているホースを持ちながら……
 おっと、危ない。
 ホースの水を間一髪でかわす、ってほどじゃないけど。足元で水がはねる。
「あ! ご、ごめんなさい……」
 慌ててリーナちゃんが水を止めた。大丈夫、大丈夫、とあたしは手をパタパタ振った。
「でさ、ジェルは何処にいるの?」
 あたしの質問に対して、リーナちゃんは腕時計にチラッと目を落とした。
「もうすぐお昼ですから、みなさん上に上がってくると思いますが……」
 みなさん? 上?
 あたしの訝しげな顔にリーナちゃんは補足をした。朝からヒューイとカイルも来ていて、一緒に地下の格納庫にいるという。
「あの…… せっかくですからラシェルさんもご一緒にお昼どうですか?」
 別に断る理由もないし、こちらとしても願ったりかなったり。言うまでもなく、あたしは頷いた。
 リーナちゃんの言うことには、お昼はサンドイッチだそうだ。なんでも朝からジェル達が忙しそうにしていたから、食べるのにあまり時間がかからない、または下で直接食べられるものにしたそうだ。
「ね、それならさ……」
 あたしの頭に素晴らしいアイデアが閃いた。それに…… インパクトが増すかもしんない。
「こんなにいい天気なんだからさ、外で食べない? ピクニックみたいで面白そうよ。」
「そうですね……
 では、ちょっと用意してきます。」
 言い終わるとすぐに、リーナちゃんは背中を見せてパタパタ走り去っていった。あたし一人がポツンと残されて。
「リーナちゃんて…… 意外とおっちょこちょいな面があるそうね……」
 育ての親に似たんだろうか…… ふと、ジェルのことを思いだした。
 パンサーの方を振り返る。まだ途中だったらしく、泡が残っている。その泡を流そうと、トレーラーから二つほど、四角いロボットがやってきた。ふむ……
「パンサー、洗ってあげようか。」
〈いえ…… 自分でできますから。〉
 人の行為を無にするとは無礼な奴だ、とは言わない。こっちとしてもただ何となくやろうかな、と思っただけだし……
「いいわよ、別に気にしなくて。どーせ、あたしもヒマなんだから……」
 あたしはホースとブラシを手にした。

 かぐわしい香りが鼻孔をくすぐる。味わうことなくそれが高級な品であることを示していた。湯気をたてた紅褐色の液体が、すでに暖められた薄手のカップに静かにそそがれる。白いすじが液面で輪を描き、立ちのぼる。
 その液体を口に含む。濁りのない鮮烈な味、いや、香りが舌の上で美しいメロディを奏でているようだ。次はそれを静かに飲み込む。喉の奥から溢れる余韻が、また幻想的な味わいを生む。
 ……掛け値なしにいい紅茶である。ジェルの趣味かどうかは知らないが、いいところの喫茶店でもそう簡単に口にできないような代物だ。しかも、美味しい入れ方を心得ているのか、お茶のうま味を殺さず、見事に引き出している。
 いい仕事をしている、この執事。あなどれないな……
「いかがでしょうか?」
 くだんの執事がティーポットを手に、微笑んでたたずんでいる。うーむ、うちにも一人、こーゆー執事が欲しい……
「……実に結構です。」
「ラシェル様にそこまで喜ばれるとは、不肖セバスチャン、感激の至りであります。」
 ……ほーんと、絵に描いたような完璧な執事よねぇ…… 欲しい……
「博士たち、遅いですね。」
 両手でカップを支えるようにして飲んでいるリーナちゃんが誰ともなしに呟いた。野外に据えられたテーブルの上にはまだ空っぽの三人分のティーカップと山盛りのサンドイッチが置いてある。
 中身も盛りだくさんのようだが、その量自体、すでに盛りだくさんである。この前の食事風景を思い出して、もうおなか一杯になったような錯覚をおぼえる。
 とかなんとかくだらないことを考えていると、噂をすればなんとやらと言うやつで、遠くから話し声が聞こえてきた。
「この前頼んだものはおそらく数日中にできる予定だ。」
「時間かかるなあ……」
「やかましい! こっちだってなぁ、グリフォンとタイガーの設計のやり直しと修理をしながらで忙しいんだぞ。」
「設計のやり直し?」
「そう…… いつぞやの事件で構造的にまだまだ弱いってことが……」
「うわお! こいつはうまそうだ!」
 ガヤガヤとしながら男三人がやってきた。ジェルだけは片手に何かの書類らしきものを持って、それを読みながら来ている。あたしの方には全然気づいていない。
 椅子に腰掛けると、セバスチャンがお茶を注ぎにまわる。全員の紅茶が揃ったところでめいめいがサンドイッチに手をのばし始めた。
 相変わらずジェルは書類に目を通しながら(器用な奴だ)食事をしている。他のことには目もくれない様子だ。
 ちっ…… しょうがない。
「ジェル、砂糖取って。」
 あたしの声に反応して、ジェルが近くの砂糖壺に手をのばす。こっちを見ないで声だけを頼りに砂糖壺があたしの方に近づいてきた。不意にそれが宙で停止する。
 戸惑いながらおそるおそるジェルが書類から目を離し、顔をあげた。その呆然とした顔に向かってニッコリ微笑む。
 動揺して手の力がゆるみかけるが、脇から執事の手が落ちかける砂糖壺をテーブルの上に下ろす。ナイスフォロー、セバスチャン。
 二、三度まばたきをして、目の前の幻を消し去ろうとしたに違いない。しかし、現実は消えようにない。ギクシャクとジェルの口が壊れたおもちゃのようにぎこちなく動いた。
「あ、あの……? どうしてここに……?」
「べーつに、」
 この時とばかりに昨夜一所懸命考えたセリフを口にした。
「今日はたまたま暇だったから、リーナちゃんに簡単な料理でも習おうと思ってね。」
 とここでリーナちゃんに同意の視線を送る。あたしの言い訳がましい言葉を額面通りに受け取ったリーナちゃんがちょっと驚いたような顔をした。
「別に、さ。あんたに会いに来たわけじゃないんだし、気にすることはないでしょ?」
 ジェルのぶ厚い眼鏡の奥の目が点になっている。これを見られただけでもここに来たかいがあったというものだ。ちょっと気が晴れた。
 ジェルの変貌にリーナちゃんは不思議そうに首を傾げ、ヒューイとカイルは訝しげな顔をする。彼らの様子を見る限り、墓地でジェルが言ったことを他の人は知らないようである。
「あ…… いや…… その……」
 言葉を失ったジェルはそそくさと立ち上がって、研究所の方に(全力疾走で)戻って行った。そう、まるで急用があるかのごとく。
「どうしたんだろう、ジェラード。」
 ヒューイが不思議そうな声で呟く。
「さーね。あたしは知らないわ。」
 ティーカップを傾けた。心の中で舌を出しながら、冷めかけた紅茶を一気に飲み干す。
「はぁ…… 紅茶が美味しい。」
 遠ざかる白衣の背中を眺めながら、小さく呟く。
 緑の上を流れる初夏の風が、ジェルを追い越していった。

 

〈end〉

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