− 第九章 −
廃ビル上空。
〈サイレントムーブ解除。目標捕捉。全武装攻撃準備完了。〉
赤く染まりかけた空にローター音が突如として響きわたった。最初は黒いシミのように見えたものが、徐々に大きくなる。そしてそれは鋭角的なシルエットを持つ、ヘリへと姿を変えた。
廃ビルの屋上は簡易なヘリポートになっていた。一機のビジネス用と思われる丸みをおびたデザインのヘリが翼を休めていた。
〈使い道は違っても僕の同族だからなあ…… やっぱ、気が引けるよなあ…… ふう。〉
しかし、ホーネットにはコクピットの中で心配に心が潰されそうな少女に引き金(トリガー)を引かせるほど非人道的ではなかった。
ヘリの中や周囲に人がいないのを確認してからホーネットは自分の内部の兵器を動かした。
〈ニードル・スプラッシュ!〉
機体下部から発射孔がせりだし、何十本のもの針が撃ち出された。誘導装置まではないが、直進性は高く、その気になればコイン一枚だけ撃ち抜くことも可能である。
また、それぞれが十分な破壊力をもつ爆弾で、ホーネットからの指示で爆発力を自在に変化させることができる。今回の場合は、眼下に見えるヘリコプターとヘリポートのみを使用不能にすればよいのでさほどの威力は必要としなかった。
わずか一斉射で事足りた。再びホーネットは上昇し、ある程度の高度でホバリングをする。そして全身のセンサーの触手を建物内に伸ばした。
捉えた。小柄な人影がもう一人を支えるようにして歩く二人組の姿を。そのもう一人の方はほとんどの電磁波を吸収するようなもので全身を覆っている。
〈リーナさん! 博士達を見つけました。二人とも無事のようです。〉
「本当ですか!」
少女が顔をあげた。目の縁にわずかに涙が流れた跡が残っている。
〈僕のセンサー能力を疑うんですか? 二人とも無事ですよ。〉
ホーネットはちょっとばかり嘘をついた。彼の目にはジェラードが何らかの不調を抱えていることは一目瞭然だった。が、それを言っても少女を悲しませるだけだった。
「よかった…… よかった……」
リーナの目からまた涙が溢れる。隣に座っている黒猫がなだめるように一声鳴いた。廃ビル北側。
昔は正面玄関だったと思われる大きなガラスの扉は今は無惨に砕け散っている。一見したところ人どころか動くものは何も見あたらない。しかし、カイルの乗っている大型トレーラーのセンサーは警戒システムの存在と人の気配を敏感にキャッチしてた。
〈まったく…… 下手な小細工じゃ。そんなもので儂をたばかろうとはけしからんな。〉
このトレーラーの制御コンピューター、グレイエレファントが老人の声と口調で不平をこぼす。
〈これじゃから最近の悪党はなっとらんと言うのじゃ。〉
「おい、」
〈ったく、正々堂々という言葉を……〉
「おい! グレイ!」
トレーラーのこぼす独り言に思わずカイルは声を張り上げた。
〈お、おお。すまぬすまぬ。で、何の話しじゃったかな?〉
「あのなあ…… もういい! 勝手にやらせてもらうぜ。」
グレイの返答も待たずにカイルはアクセルを力いっぱい踏み込んだ。エンジン音が耳をつんざくほどに高くなり、激しい土ぼこりをあげながらトレーラーは爆走した。
うるさいほどにホーンを鳴らしながら障害物を全く無視して突き進む。異変に気づいて中から何人か手に手に銃を構えて出てくるが、止まる気配がないのを見て慌てて逃げ出す。 ほどなく元正面玄関をぶち破り、勢いを保ったまま内部に侵入した。無茶苦茶な奇襲に警備兵がパニックに陥る。更にグレイが発射した鼠型自走地雷(ラットマイン)が混乱に輪をかける。
「よっしゃ、ちょいと暴れてくるか!」
重火器を全身に装備し、満面の笑みを浮かべたカイルがグレイを降りて駆け出した。その直後、今までの何倍もの爆発音があたりをにぎわせた。廃ビル南側。
「壊れないだろうか……」
カイルが「暴れている」ために、低い階層のところはだいぶ風通しがよくなっている。誇張でも何でもなくカイル一人の為にビル全体が倒壊するかも知れない、とヒューイは一人危惧していた。
「パンサー、調子はどうだ?」
〈はあ…… もう少しで全システムを掌握できると思いますが……〉
パンサーはその優秀なハッキング能力をかわれてビル内部の警備システムを乗っ取ろうとしていた。見かけは使う者のいない廃ビルだが、内部には複雑に入り組んだシステムが張り巡らされていた。
が、それもすぐにパンサーの手中におさまるだろう。そうすれば先に侵入していることになっているジェラード達の行動も楽になるというものである。
ヒューイは待った。
〈終わりました。すべてこちらでコントロールできます。〉
「よし、まずはジェラード達の居場所をさがしてくれ。」
〈すでに調べてありますが…… 正確な位置がつかめません。〉
「あ?」
〈博士が通ったと思われる道筋のセンサー、カメラが全て焼き切れています。
あ、また一つ壊れました。おそらく相当高出力のエネルギー兵器を使っているのでしょう。スタンブレードでしょうか?〉
深く考えないことにした。どちらにしろまだあの二人が無事らしいことを確認できただけでよしとしよう。
「よし、俺達も『お仕事』にかかりますか。」
黄色の車体がその名にふさわしい走りを見せる。フロントガラスが建物の壁面で一杯になったとき、ヒューイはコントロールパネルのスイッチを続けざまにONにした。
「ブースト・オン!」
〈パンサー・スラッシュ!〉
一トン近くもある車体が跳躍する。空中でボディがビームエネルギーにおおわれる。パンサーはそれ自体、巨大な刃と化して壁面に突き刺さった。
些細なことでは傷一つつかない強化コンクリートが抵抗らしいものも見せずに破壊される。砕かれたがれきが宙に舞う。鋭い牙を持った訪問者がまた一人内部に侵入した。そして、廃ビル内部。
「何だって?」
あたしはジェルに聞き返した。騎兵隊がどうとか……?
「援軍の…… 到着です……」
爆発による振動に耐えるほどの根性が残ってないらしい。床によろめきながら座り込んでジェルが言う。口を動かしながら左腕にはめられているコンピューターを操作し始めた。
「ちょっと…… ここに触って下さい……」
上の方は収まったようだけど、下からは断続的に物が壊れるような音が聞こえる。そんなことに注意を傾けながらジェルを振り返った。
小型のディスプレイの一角が四角くフラッシュしている。ここを触れろ、ということなんだろうか。特に危険もなさそうだから何の疑いも持たず、人差し指をそこにのせた。
電子音が鳴り、『登録完了』というメッセージが点滅する。それを確認してからスタンブレードとか言ってたバトンを取り出し、コンピューターに接続する。
再び、電子音が鳴り、ディスプレイは時計の表示にかわった。時間はいつの間にかに夕刻を示している。実際、適当な所――例えば壁にあいた大穴とか――から外を見れば空が赤く染まりかけていることを知ることができる。結構な時間、ここにご厄介になっていることになる。
「はい……」
突然ジェルがあたしにスタンブレードを差し出した。当たり前だけど刃は消してある。反射的にそれを受け取って…… なにするんだろう?
「今は…… 体力を温存しておきたいので…… ラシェル、持ってて下さい……」
は? 今、なんて言った?
「使い方は見てたから分かるでしょう…… 私が使うよりは何とかなるはずです……」
また少し休んでいたせいか、声に張りがでてきたが、まだまだである。立ち上がろうとしても足元がおぼつかない。……確かにこれならまだあたしが使っていた方が……
「ラシェル、前!」
ジェルの声に反応して顔をあげる。すぐ近くに二人の男が立っていた。服装は散々(ジェルが)倒してきた奴らと同じ。つまりは敵だ。あたし達がこんな通路の真ん中で二人揃って休んでいた(ホントは違うけど)なんて夢にも思っていなかったのだろう。半ば呆然として手にしている小銃も下を向いたままだった。ジェルのおかげであたしの方が先に動けた。
「サンダー・ストライク!」
反射的にそう叫び、スタンブレードを相手に突きつけた。ジェルがやったのと同様に稲妻が男達を絡めとった。ビクン、と体を震わすと力なく床に倒れこむ。ピクピクと体を痙攣させているところを見ると、死んではいないようだ。そのことを確認して安心する。
やってみて分かったけど、やっぱり怖くなった。自分の手の物が人を殺す可能性のある物と思えば。この年になってまで一度も銃やナイフを握ったことはなかったし、意識的に他人を傷つけたことも…… なかったはずである。
でも、今は……
傍らで荒い息をしているジェルに目を落とした。そうよ、ジェルはあたしをずっと助けてくれた。だから、今度はあたしが助ける番…… そう心に決めた。
「肩に力が入ってますよ……」
あたしの決意が急にしぼみそうになる。
「うるさいわねえ……」
ちょっと照れくさくなって背を向けた。そうして気を落ちつけると、何事もなかったかのようにジェルに肩を貸した。
「さあ、行くわよ。で、どこに向かえばいいの?」
上です、とあっさりジェルは答えた。根拠があるのかないのか知らんけど、あたし達は階段を求め再び歩き始めた。それからは大変だった。休日の行楽地のようにゾロゾロあらわれる敵をバッタ、バッタとなぎ倒して……
「そんなにいましたっけ?」
ううっ、実は十人ほど……
「私は四人しか数えていませんが?」
……そう、結局あたしがやっていたことと言えば、ジェルの指示にあわせて「サンダー・ストライク!」って叫んだだけなのよねえ……
ふう。もう少し血沸き肉踊るような冒険活劇を期待していたんだけどなあ……
ま、現実って意外とこんなものなのかもしれない。
冗談抜きに派手な爆発音が聞こえてからは下にかかりっきりになったらしく、深夜の大学並に人通りが少ない。ジェルの言ったように力み過ぎだったかもね……
ジェルの呼吸はたいぶ落ち着いてきた。疲れはまるで取れていないようだがそれでも自分の足で歩けるほどの回復していた。あたしに体を預けていたのがよほど嫌だったのか、回復したことを真っ先に行動で示した。
この意地っ張りめ。
と、内心そんなことを考えていると、先行していたジェルがあたしに手のひらを見せた。別に手相占いをするわけではない。逆の手の指先にはすでに数枚のカードを構えている。少し先の曲がり角に誰かいるのだろう。
あたしもスタンブレードを構えてジェルに歩み寄った。バトンを握る手に汗が感じられる。無意識の内に舌で唇を湿らせた。「何をしておる!」
豪華なソファに体を埋めた男が苛立った声をあげた。指には悪趣味な指輪をゴテゴテとつけ、口には天然物の葉巻をくわえていた。その体は贅沢な食事で身についたと思われる脂肪が大半を占め、その上には他人を見下したような表情しか出すことができない顔が直接のっていた。
この部屋にはもう一人、男がいた。先の男とは対照的にスーツを十二分に着こなしたエリートビジネスマン風の男が通信機を片手に様々な指示を飛ばしていた。
「たかが二人ごときに何を手間取ってる。お前の部下はそんなに無能なのか。」
不遜な態度で脂肪の男はもう一人の男に向かって煙をはきかけた。スーツの男は煙に対し嫌悪感を見せたが、それは一瞬のことですぐに表情を戻す。
貴様の方が無能のくせに。スーツの男――エドワードは声を出さずに毒づいた。彼の元には不利な情報が続々と入ってくる。
――屋上ヘリポート使用不能です!
――Bチーム、連絡途絶えました!
――例の二人を見失いました!
部下の報告によると、四人の侵入者と一機のヘリにここまでやられているらしい。しかも警備システムもある一時期から全て機能を停止した。
何があったというのだ。
彼は深く悩んだ。そして一つの出来事を思いだした。一週間ほど前「商品」の一人が逃げ出して、自殺した頃からケチがつきはじめた。「商品」の逃亡の件は大きく取り上げられなかったのだが、その日から素人女が付け回し始めた。部下に「処分」させようにも妙な男のせいで取り逃がす始末。それから部下が先走って、その女を誘拐したたが、気づくと今のような有り様である。
ヘリでの脱出も不可能、しかも階下では別な侵入者が暴れている。上にも下にも逃げ場はない。
部下が侵入者を始末すればそれにこしたことはないのだが、侵入者の戦果を見る限り期待はできない。例の二人の消息もつかめない。
彼のボス――あの脂肪男はことの重大さに気づいていない。この男もそろそろ見限る頃か……
と、その時、ドアの外の気配が変化していることに気づいた。外には見張りを三人ほど配置していたはずだが…… 気配が消えている? 逃げたか、いや……
彼は完全に逃げるチャンスを逸したことに悟った。微かな音をたててドアが開いた。懐に伸ばす手もすでに遅すぎた。「ブレイク!」
ジェルの放ったカードが部屋の中で炸裂した。直視できないほどの閃光がきっかり三秒あらわれた。光が消えた瞬間、部屋の中に飛び込む。
中には二人の男がいた。一人はソファに埋もれるように座っている成金スタイルの太ったおっさん。偉そうだが尊敬はできないし、個人的には大っ嫌いなタイプである。
もう一人は…… エドワード!
ということはこの太った奴が親玉なの?
閃光カードの影響で一時的に失った視力が回復したのか、二人の男はおそるおそるこっちに目を向けた。
「は〜い、動かないでぇ〜」
向こうの気勢をそぐようにジェルが気の抜けるような声を出す。エドワードはあきらめの表情を見せて動かない。しかし、もう一人のデブの方が無駄な抵抗を試みる。どこから出したのか、小振りの拳銃を取り出し……
シュッ!
ジェルの手が閃き、カードが空を切る。拳銃が床に落ちた。親玉らしき奴が手をおさえ呻いた。一筋、鮮血が流れる。
「人の言うことはチャンと聞いた方がいいですよ。最悪の場合、大怪我をすることがあります。」
「エ、エドワード! こいつらを殺せ!」
はあ…… このおっさんはまだ自分のおかれている状況を理解していない。あたしは手持ち無沙汰で目の前のコントを眺めていた。
「無理ですね…… お嬢さんの方はともかく、そちらの方には相当量の『ムーンランナー』を投与したはずなんですがね……」
不思議そうな顔でエドワードが呟く。そしてかぶりを振った。
「教えて下さい…… あなた達は何者なんですか?」
「エ、エドワード!」
情けない声をあげる太った男。情けない、というか悔しい。こんな男のせいにクリスが死んだんだ。こんな…… こんな奴のせいで……
「なるほど…… 我々の正体が知りたいですか……」
「ええ、是非とも。」
それを聞いてジェルは左腕のアームコンピューターに触れた。すぐさま聞き覚えのある声がそこから流れてきた。
『おう、ジェラード。無事か?』
ヒューイだ。何処にいるかは分からないけど、通信状態は結構いい。
「ま、色々ありましたけどね…… それより、今、ちょいと親玉の所にいるんですがね、聞かれましたよ、『何者だ。』って。
ま、と言うわけで、順番にお願いします。」
『了解した。
よし、そこにいる悪党ども耳をかっぽじってよーく聞けよ。』
前口上を述べた後、ヒューイはあたしも驚くようなことを口にした。
『俺は銀河連合警察(GUP)チーム・グリフォン所属、ヒューイ=ストリングA級捜査官だ。』
え……?
『同じく、チーム・グリフォン所属、カイル=ミュラーA級捜査官。』
う、うそぉ……
GUPのA級捜査官といえば…… あたしも噂程度しか知らないけど、あらゆる法の壁を超え、惑星統治者以上の権限を持ち、殺人許可をも持つ犯罪捜査のエキスパート。そしてエリート中のエリート……
『私もチーム・グリフォン所属のアイリーナ=コーシャルダンA級捜査補佐官です。』
リーナちゃんまで……
補佐官はその名の通り、捜査官を補佐する役割だが、それでも有事には捜査官と同じ権限を持つことができる。もしかして……
あたしの視線に気づいたのかジェルが肯定の意を示すように肩をすくめた。
「で、私も銀河連合警察A級捜査補佐官。ジェラード=ミルビットなわけです。」
内懐から黒い革のパスケースのような物を出し、開いた。それには正三角形を上下に組み合わせたGUPのバッジがついていた。色は金色、A級を示している。それ以外に飾りがないので捜査補佐官ということである。
「ま、私は半分アルバイトのようなものですけどね。」
と、再び肩をすくめる。
ちょっとショックが大きい。ただもんじゃねーな、とは思っていたけどA級捜査官とまでは予想がつかなかった。驚いているのは向こうも同様である。エドワードはまだ平静を保っているが、もう一人の方は目も飛び出さんばかりに驚いている。
「ば、ば、バカな…… GUPだと……」
「残念でした。そろそろ年貢の納め時です。おとなしく縛について下さい。」
年貢? 縛につく? どうやら何かの比喩的表現なのだろうが、あたしにはさっぱり分からない。
「もう少ししたら本物の捜査官が来ます。それまで待ってて下さい。」
「……てことは、それまでに君達を何とかすれば、まだ逃げるチャンスがあると言うわけですね。」
エドワードが懐に手を入れた。ジェルとの間に緊張が張りつめる。
「やめた方がいいと思いますよ。無駄なあがきは貴重な人生をすり減らすことになります。」
「見たところあなた達は銃をお持ちでない。そちらのお嬢さんは戦闘に不慣れそうですし、あなたは『ムーンランナー』の影響がまだ残っているんじゃありませんか?」
一息でそう言って、エドワードは冷たい笑みを浮かべた。
「それを考えるとそんなに不利ではないと思いますが……」
「さあ…… どうでしょう?」
ジェルはとぼける。その一方、あたしに何かを催促するように手を出した。何となく理解して、差し出された手にスタンブレードを握らせた。
その刹那、二人が動いた。
見かけ以上に俊敏に狭い部屋の中を動く。そして、雰囲気でその瞬間が来たのを察した。
「スタンブレード!」
ジェルの叫びと銃声が重なった。まるで映画の一シーンのように二人が離れて立ち止まる。
「な、なぜだ……」
無限とも思われる沈黙の時間が過ぎて、その場に崩れ落ちたのはエドワードだった。その端正な顔に驚愕の表情が浮かぶ。少し遅れてジェルがあたしを振り返った。
「危なかったです。相手が心臓を狙っていましたから助かりました。
この……」
そう呟いて、自分の着ている白衣を指さす。
「特殊防弾白衣じゃなかったら死んでましたね…… ハハハ……」
防弾白衣ですって? く、くだらん…… 何の意味があるんだか…… でも、役に立ったからいいとしよう。……心配して損した。
「大丈夫?」
それでも気になったから聞いてみた。それに対しジェルは少し乾いた笑いを見せた。
「大丈夫です。私は老衰で死ぬことに決めているんですから……
でも病み上がりの体には少し堪えましたねぇ。」
いつの間にかにジェルの手からスタンブレードが消えていた。また、白衣の中にしまったのだろう。
「あ、そうだラシェル……」
ジェルが倒れているエドワードの手から拳銃を取った。色々いじりまわしてから、それをあたしに差し出す。
「……?」
「クリスの敵討ちをするときが来ました。」
そう淡々とジェルは言った。渡された銃は手にずっしり重く感じた。
「あの動く脂肪が今回の事件の黒幕です。どうするかはあなたにお任せします。」
ポン、とジェルがあたしの背中を押した。つんのめるように男の前に出る。目の前のダイエットの必要がある男と手元の銃に交互に視線を落とす。
……そうだ、こいつだ。こいつがクリスが死んだ元凶なんだ。こいつさえ……
自然に銃を握り、構え、腕がゆっくり上がった。TVの中の捜査官がそうするように、フロントサイトとリアサイトを相手の眉間にあわせる。
目の前の男は今更ながら命ごいをしている。哀れみよりも先に嫌悪感が走った。こんな男のせいで……
引き金に指がかかった。この距離なら素人のあたしにも的を外しようがない。指先に力がこもる。もう少し力を加えれば灼熱の弾丸がこいつの眉間を貫くのだろう。
しかし、その最後の何ミリかがとても重く感じられた。誰かがあたしの指を押さえようとしているようにも思われる。
ふと、恐ろしいほどにあたしは冷静になった。一秒にも満たない時間の中でここ一週間の出来事を回想する。
クリスの死を知って呆然となったこと、エドワードの身辺調査を始めたこと、ジェルと出会ったこと、殺されかけて、誘拐されて……
ジェルとのことを除けば、全て目の前の男のせいだ。あたしの中で復讐に燃える心と、それを押し止めようとする心が闘っていた。
どうして?
それを見つめる第三者が疑問符を投げかける。この男は自分の利益の為に平気で人を殺すような連中なのよ、慈悲をかける必要はないわ! 片方の心が叫ぶ。
もう一方は何も主張を出さなかった。沈黙のまま。でもその沈黙が逆に怖かった、時折ジェルの見せたのと同じように……
銃を持つ手がブルブル震える。手の中の重みが徐々に増してきた。
銃口がゆっくりと下を向く。手から銃が滑り落ちた。重量物の落下する音があたしを正気に戻す。目の前の男はすでに白目を向いていた。
あたしは…… あたしは引き金を引けなかった……
「それでいいんです。それで……」
振り向くとジェルが優しい目をして立っていた。ジェルはあたしが最初から撃たないと思っていたんだろうか。いや、こいつのことだから賭けてたに違いない。そして笑って、
『私は勝てない賭けはしない主義なんです。』って言うんだろう。いつもの顔で……
終わった…… 終わったんだ……
そう思うと今まで我慢していた分の涙が溢れてくる。止めようにもあたしの意志に反して止まらない。
「ラシェル……?」
「見ないで! あんたに泣いているところ見られたくない!」
叫びながらジェルに背中を向けた。大粒の滴が床を濡らす。止めどなくこぼれていく。
「……私が見なくてすむには二つばかり方法があります。
一つは私がこの場から消えること。そしてもう一つは……」
「……?」
ジェルはあたしの肩に手をかけて無理矢理振り向かせた。そして反論の隙も与えずに…… 頭を抱えるようにあたしを抱きしめた。
「!」
「……人間、泣きたいときに泣いておくべきです。それすら許されない時がありますから……」
その声は優しく、そしてとても悲しげだった。
あたしはジェルの胸に顔をうずめ、声をあげて子供のように泣き続けた。ずうっと、ずうっと……
こうして一つの事件が終わった。