− 第二章 −
「誰かお探しですか、お嬢さん?」
あたしの追っていた男、エドワードが背後に三人の黒服の男を従えていた。
さも驚いたようにエドワードが目を見張る。でもそれは単なるポーズのように見えた。
「おやおや、こんな可愛らしいお嬢さんとは思いませんでした。」
エドワードの言葉に背後の男達がニヤニヤと笑う。その間にもあたしは逃げ道を探していた。後ろは袋小路、前は四人の男。数メートルのジャンプ力でもあればいざ知らず、非力な少女一人では逃げようがない。
向こうの隙を、とでも思ったがそんな様子は少しも見つけられない。
そんなあたしの様子をどうやら向こうは楽しんでいるようだ。
不意にエドワードが背後の男達に何かしらの合図を送る。無言で男達が近づいてきた。
ちょ、ちょっと待ってよ。
今のところの路地裏の方しか逃げ道がない。しかし時間稼ぎにもならないのは分かっているが、大人しく捕まる気もない。
……やっぱり袋小路。
ジリジリと男達が近づいてくる。
一言も喋らずに機械的に男達の二人があたしの腕をとった。残る一人が肩からかけていたバックを奪い取る。
無造作にバックの口を開き、逆さまにして振る。中身がバラバラと地面に落ちた。
ああっ、ちょっと待ってよ。少ないとはいえ、あたしの全財産が入っているのよ!
あたしの叫びもお構いなしにエドワードは落ちた小物の中から一枚のカードを拾い上げる。
「……ラシェル・ピュティア。一八歳……ですか。」
あたしのIDカードだ。顔写真入りのカードで偽造はほぼ不可能とされている。だからあたしのに間違いない。
「さて、ミス・ピュティア。」
まあ、確かにあたしは未婚だから「ミス」であってるんだけど…… どうもこういう意味もなく慇懃な奴は好きになれない。
そういえばさっきの白衣男もどちらかといえば丁寧な物言いだったけど…… エドワードは決定的に何かが違う。うまく表現できないけど……
「できればどこの指示で動いているか教えてもらえませんか?」
……ははあ。どうやら警察組織かそれに類するものと勘違いしているのか。でも気のせいかなんかイヤな予感。
「あ、あたしは単なる大学生よ。カードにもかいてあるでしょう!」
「そうですか…… ま、そんなことはどうでもよろしいです。どうせもうお会いすることはありませんから。」
ちょっと待って。それって……
「よし、適当に処理しておけ。」
エドワードはそれだけ言うと、あたしに背を向けて去っていった。残されたのは黒服の男三人とか弱い少女一人。
この状況ってもしかして……
「ねえ、ちょっといいかしら?」
「なんだい、嬢ちゃん。」
男の一人がニヤニヤいやらしげな笑いを浮かべる。
「あのぉ…… 帰してもらえると嬉しいんだけどな。」
「おおっと、そいつは聞けねえなあ。お前さんは明日の朝日は拝めないことになっている。ま、その前に楽しませてもらうがな。」
う、これってもしかして生命と貞操の危機、ってこと……?
男がナイフを抜いた。よくTVのチンピラが持っているような折り畳み式の安っぽそうなものではなく、ちゃんと実用に耐えうるナイフだ。この場合、その「実用」というのが何かは考えたくない。
にやついた笑いを張り付かせたまま、男がナイフを横に振るう。
ハラリ。
今のはあたしの服の端が切られて地面に落ちる擬音……
「ちょっと、何するのよ! この服、高かったのよ!」
「おうおう、こいつ、服の心配なんかしているぜ。」
「安心しな、もうそんなことを考える必要もなくなるぜ。」
あたしの腕をつかんでいる男達が何かを期待するように言う。
「そうだな、」
正面の男が更にナイフを数度空中に走らせた。
「そんな心配はすぐに必要なくなる。」
ナイフが振るわれる度にあたしの服がボロ布へと変化していく。肌のすぐ上を刃が通るのを風で感じる。刃物に慣れているのだろうか、無造作に手を動かしているように見えて服のみを切り裂いている。まだ皮膚には傷一つついていない。
と、理性はここまで判断していた。しかし恐怖の感情がそれをすぐ押し流す。
あたしは今まで気の強い方だと自負していた。しかし今回ばかりは、
「い、いやぁぁぁぁぁぁっ!!」
……悲鳴をあげていた。
「誰かぁぁぁぁっ!」
男達はあたしの悲鳴をまるで甘美な音楽を聴いているかのように楽しんでいた。
「誰か助けてぇぇぇっ!」
「無駄だ無駄だ。騒いだところでここじゃあ、こんなことは日常茶飯時さ。誰も来やしねえよ。」
男の言葉はあたしの希望の炎を吹き消すのには十分だった。(誰がそんなこと決めたねん。)
不意に頭上から不機嫌な声が降ってきた。男達の動きが一瞬止まる。
「誰だ!」
三流悪役なら必ず一度は使う言葉を吐いてから三人とも懐に手を入れる。腕を束縛している者がいなくなって、あたしはその場に座り込んだ。いや、足がすくんで動けなかっただけだ。
予告もなしに一枚の白いカードが上から飛んできた。ちょうど黒光りする拳銃を抜いた正面の男の手に突き刺さる。どうやらトランプのカードのようだ。マークはダイヤの7。今の状況も忘れ思わず見入ってしまう。
(Ferme les yeux!)
謎の声が今度はそう叫んだ。男達は今の言葉を理解できなかったのだろうが、あたしはその指示に反射的に目を閉じた。今のはフランス語で「目を閉じろ!」と言ったのだ。あたしはこれでも一応フランス人だったから理解できた。
次の瞬間、まぶた越しにも眩しいくらいの白い光が周囲にあふれた。
白い闇の中で男達の悲鳴が聞こえる。この光量ならおそらく失明くらいしているだろう。でもあたしは同情しない。乙女の柔肌を見ようとした罰だ。
光が消えないうちに何かが飛び降りてくるような気配が感じる。足音もたてずに素早く動いているらしいことが、わずかに聞こえる空気との擦過音で分かる。
「スタンブレード!」
謎の男の声と共に電気がはぜるような音、続いて人が倒れる音が三回聞こえる。
静けさがおとずれ、そのときになってやっと閃光が消える。
目を開けようとして、いきなり大きな布が頭からかぶせられてまた視界が白くなる。
ん? これ…… 白衣?
やっとこさ頭を出すと、さっきの黒服たちが地面に倒れていて、別の一人の男が立っていた。後ろ姿で顔は見えない。右手には二〇センチくらいのバトンを持っていた。
「とにかく、それでも着ていて下さい。そうでないと目のやり場に困りますので。」
男――声はさっきの白衣男――に言われてあたしは赤面しそうになった。黒服どものせいであたしの服は服としての機能を完全に放棄していた。しかも地面に座り込んだせいか、あちこち泥だらけだ。あーあ。
仕方なくモソモソと渡された白衣に袖を通す。なによこれ、何でできているか知らないけど、布でできているとは思えないほどの重さである。ま、しょうがないか。
考えることを諦めてボタンを留めたところで男が振り返った。
「え〜と…… ありきたり申し訳ありませんが、大丈夫ですか?」
あの白衣男――今は着ていないけど――がホントにありきたりなことを言う。
「あ、あたしは大丈夫よ。」
情けないことだが、まだ声が震えていた。向けられたナイフの恐怖がまだ残っているみたいだ。
「立てます?」
元白衣男がいつの間にかあたしのすぐ前に立っていた。意外と素早い。
よいしょ、と…… 立てない。
どうやらまだ少し腰が抜けているようである。男はそれを察したのかフム、と少し考えると、改めて口を開いた。
「それでは動けるようになるまで自己紹介でもしていますか。」
それは助かる。さっきからこいつのことを白衣男としか呼べなくて困ってたのよ。
「私はジェラード=ミルビットと申します。見ての通り…… ま、通りすがりの怪しげな科学者、ってところですか。」
見ての通りねぇ……
「あたしはラシェル。
ねぇ、ジェルって呼んでいい?」
「え……」
あたしは何の気なしに言ったつもりなんだけど、言われたジェルはいきなり驚愕の表情を見せる。それも普通の驚き方ではない。眼鏡越しに見える黒っぽい瞳に暗い光がよぎる。
「あ、いや…… 別に構いませんよ……」
ジェルが小さく呟く。ホンの数秒だが、完全な沈黙が流れた。
「あ、あの……」
イヤなら別に…… とあたしが言いかけたとき、ジェルが不意に出口の方を鋭く振り返った。遅れてあたしの耳にも足音が聞こえてきた。
まるで大量生産されたかのような黒服が更に二人、こっちの袋小路へと入ってきた。倒れている仲間と怪しい男を認めて馬鹿の一つ覚えのように懐の拳銃を抜こうとする。
それよりもジェルの方が速かった。
「サンダーストライク!」
一声叫ぶと、右手のバトンを男達へ向けた。まばゆい雷撃がその先から吹き出すと、狙い違わず目標に絡みつく。ビク、と一瞬痙攣するとバタバタと倒れていく。
「うわ……」
感嘆の声をあげる間もなく、ジェルがあたしの手をつかんで無理矢理に立たせようとする。
「走れますか? 走れないようならおぶってでも行きますよ。」
淡々とした口調には焦りの色はない。しかし、行動には急いでいる様子が見てとれる。自分の状態を確認する。
よし、大丈夫。足は自分の思い通りに動いてくれそうだ。
体を起こすと、二人揃って袋小路から脱出する。路地出ると黒塗りの車が二台が停まっていた。それぞれに運転手が一人ずつ、そして外でタバコをふかしているのが一人。
すぐさまジェルが外の奴に近づいてバトンを下から上に振り上げた。またバチッと電気のような音がして男が倒れる。
ジェルは動き自体はそんなに速いわけではないが、足音を立てないのと準備動作なしでいきなり動くから――変な言い方をすれば不気味な動き方だから――ほとんどの人間が不意をつかれるらしい。
しかも持っているバトンが強力な武器のようだ。結構な大男を一撃で倒している。しかも気絶させているだけのようだ。
「ちょっと失礼。」
いきなり無造作にあたしの着ている白衣のポケットに手を入れると、緑色のキャンディのようなものを一粒取り出す。
指先で軽くはじくと、それが先頭の黒塗りの車の方に転がっていく。ちょうどボンネットの下あたりにもぐりこむと、ジェルが左腕につけているコンピュータの端末のようなものに指を伸ばした。
「ブレイク!」
一言呟くと、表面のボタンの一つに触れた。次の瞬間、空気が破裂するような音と共に風が巻き上がった。白衣が捲り上がってきて慌てて押さえるが、それと同時に信じられないものを目にする。
重そうな黒塗りの車が仰向けに吹き飛んで後ろに停まっていたもう一台に激突する。
「はい、逃げますよ。」
え〜と……
深く考えない方がいいか。
あたし達はまた走り出した。市街地に入るとさすがに人の目を気にしてか露骨な手段にはうったえてこない。しかし、人混みのかげからチラチラ黒い色が見える。
ううっ、いやだよぉ……
「はぁ、はぁ……
とにかくラシェル。どこか服屋をご存じありませんか?」
「白衣の替えを買うの?」
ホントにそうだったらおかしい。
「……私の白衣、返してもらえますか?」
「じょ、冗談よっ!
あ、イヤッ! 本気で今のあたし、人様に見せられない格好なんだから!」
ちょっとマジな目つきで白衣のエリに手をかけるジェルを慌てて止める。当然ながら、黒服から逃げている最中である。思ったより二人とも余裕があるようだ。
「とにかく、あたしの知っているところでいいわね?」
「構いませんよ。どーせ、私の物を見つくろうわけではありませんから。」
ま、そりゃあそうでしょうけどね。
間違いではないのだが、もう少し言い様があるんじゃないの? と思いつつも、なじみのブティックに足を向けた。「ははぁ…… 世の中にはこのような場所があったんですねぇ……」
あたしの行きつけの――とはいえ、質もいいが同様に値段もいいので、そんなにお得意さまじゃないんだけど――ブティックの前でジェルが意味なく感嘆の声をあげる。
まあ、こいつにはどう考えても縁のないところだろう。おしゃれにも気を使っているようには見えないし、プレゼントをするような彼女に恵まれているようにも見えない。
おっと、そうだった。あたし達は追われているんだ。
「ほらほら、早く入るわよ。」
躊躇しているジェルを押し込むようにしてあたし達は中へと入った。
前に来たときとはまた品揃えがかわっていた。相変わらずいい品物が並んでいる。
当然、値段も。
この店は洋服から下着、そのほか色々な小物類まで揃っているので、なかなかに便利なお店だ。
「あ〜ら、ラシェル。いらっしゃ〜い。今日は何を……」
顔なじみの店員が近づいてきた。いつも通りの挨拶をして急に言葉を切る。無理もない。知り合いの女の子が息をきらせつつ、白衣一つしか着ていなければ何かあったか疑問に思わないわけがない。
「ねえ……」
彼女があたしの耳元で声をひそませる。
「アレ、あんたの彼氏かなにか?」
その「アレ」は入り口近くの姿見を調整しては自分の姿を眺めているようだ。何やってんだあいつは。
「どこをどう見たら、あんなのがあたしの彼氏になんなきゃならないのよ!」
「だってぇ〜 ラシェルってさあ、前からありきたりはイヤなんて言ってたでしょ〜」
「あ、あのねぇ……
今日はちょっと服を見に来たのよ。急ぎなんだけどね……」
色々込み入った事情があるけど話す理由も時間もない。言うだけ言うと服の吟味に店の奥に向かう。
着る物は当然として、さっき地面に座り込んだせいで下着の変えも欲しいところだ。確かこの店は店員用にシャワーもあるはずだから、後で借りるとしよう。
いいなぁ…… これ。あ、これも捨てがたいし…… おおっ、こっちは新作か?
あ、しまった…… さっきIDカードをなくしたんだった。IDカードは身分証明のほかにもクレジットカードのかわりにもなる。財布もなくしたから今のあたしは逆さに振っても一クレジットもないんだった。どうしよう……
「ラシェル。」
不意に耳元に声がする。予告もなしだから声を聞くまでもなくジェルだ。
「決まりましたか?」
「ちょ、ちょっと待ってよ。」
手の中に結構な山になった衣類をいくつか戻そうとして、またジェルの声が飛ぶ。
「決まりましたか。」
女の子の買い物は時間がかかるのよ、と思いつつ慌ただしいジェルに一言くらい文句を言おうと振り向くと、ジェルはこっちを見ていない。さっき触っていた入り口付近の姿見を見ている。
「お近づきになりたくない人たちが集まってきています。ですから……」
ここでジェルが振り向く。
「それ全部でいいですから早く。」
と、あたしの返事も待たずに手に中の衣類を無造作に奪い取り、レジに置く。その間も外への警戒を忘れない。
手早くレジ係が金額を読み上げていくが、どうやら自分でも気づかないうちに高い物を狙ったように買い集めていたらしい。合計金額の数字が見る間に凄いことになっている。
が、ジェルはその数字を一瞥しただけで、つまらなそうにあたしに手を出した。
「胸のポケットの中に私のカードが入っています。とってもらえますか?」
あ、はいはい。
白衣の胸ポケットをさぐるとトランプのカードに混じってIDカードが見つかる。それをレジに差し出すとレジ係が受け取ってしばし、何も問題がなくカードを返してもらった。
どうやらジェルはあれだけの金額を難なく払えるくらいの残高があるらしい。マジかい、下手なサラリーマンの月給を楽に超えていたぞ。買った物を紙袋に入れてもらって、できた紙袋二つをジェルが両手に持つ。
「……ジェル、こっちよ。」
あらかじめ店の人に聞いておいた裏口に向かい、ジェルを手招きする。二人揃ってブティックを出ると建物の裏の路地に出る。
あわてて表通りに出ようとするとするが、襟首をつかまれてすぐに戻される。
「なにすんのよ!」
「二人来ています。」
あっさりと言うと、曲がり角の手前で膝をつき、耳をすます。あたしもジェルの後ろにかがみこむ。
「間違いありません。あの黒服どものようです。面倒くさいですねぇ。」
やれやれ、と言葉通りに面倒くさそうな顔をするジェル。でもあたしにはそんな余裕はない。相手は平気で人を殺そうとする連中なのだから、もう少し緊迫感を持ってほしい。悲しい事実だが、あたしの命運はジェルに完全に握られている。
「ねえジェル、さっきの電撃でバチバチィって…… あれ? あのバトンは?」
「まあ、細かいことは気にしないで。」
するよ。
「どうせ、同じ手を使うのは面白くありませんし。」
勘弁して。そんな面白い面白くないを論じている場合じゃないでしょ。
「ラシェル、胸ポケットにあったトランプの…… そうですねえ、クラブのカードを取ってもらえますか?」
ううっ…… あたしの内心の声に耳もかたむけず、相変わらずのマイペースのジェル。でも今はこいつに頼るしかないのよね。
「はい……」
ポケットの中からクラブの5を取り出すと、ジェルに渡す。
「さて、ここに取り出したる一枚の何の変哲もないカード。」
「出したのあたしだけど……」
「まあ、そんなツッコミは抜きにして。」
カードがいきなり指先から消える。手のひらを表裏に返してもカードがどこにもない。
そしてあたしの方に指を伸ばして、あたしの首の後ろからカードを取り出す。
おー、すごいすごい。
「で、その手品を見せるだけなの?」
もうあたしの耳にも二人くらいの足音が近づいてくるのが聞こえてくる。
「いえいえ、もっとすごい手品をお見せしましょう。」
足音の聞こえてくる方にカードを向け、軽く指先ではじく。するとカードが曲がり角の先に飛んでいく。
「はい、耳ふさいで……
ブレイクッ!」
こっちの返事も待たずに腕のコンピュータのボタンを押すと、ズンと体に響く振動が遠くから伝わってくる。
お?
「さ、行きましょう。」
「はあ……」
その先に敵がいることも忘れたかのように何事なく平気な顔で歩いていくジェル。
何となくパターンが読めてきた。それでも一応警戒して曲がり角から顔を出す。予想通り二人の黒服が倒れている。
はあ……
どういう反応をしていいか分からなくなってきた。やることなすこと適当で大雑把に見えるのだが、異常なまでに強いのだ。本気になったら何ができるのか考えるだけでもイヤになってくる。
狭い路地を抜けて大通りに出る。あたしはともかく、両手に荷物のジェルは走りづらそうだ。ただでさえ体力に不自由してそうだから、もう息があがってきている。
「ねえ、」
「な、なんでしょう?」
息を切らせた声が返ってくる。
「このまま走ってても疲れるだけよ。」
「はあ…… 私はもう疲れてますよ。」
自慢するな。
「そうですねぇ…… 誰か呼べば良かったんですねぇ。」
一人でなんか納得して、どうにか腕のコンピュータに手を伸ばす。ボタンの一つを押すと、電子音と共に声が流れてきた。
《こちらグリフォンです。博士、どうかしたんですか?》
誰かの声が聞こえてくる。誰だ? ジェルのことを博士と呼ぶとは…… とぼけたように見えて、ジェルは結構偉いのかな?
「ああ、私だ。パンサーあたりを迎えに寄越してくれ。急ぎでな。」
《あの…… それが朝から出かけておりまして、その……》
「あらら…… ふ〜む、それならホーネットにしてくれ。」
《了解しました。》
通信らしきものが切れる。
「どこに行っているんだ、全く。やれやれ……」
「なんの話?」
「ああ、大したことじゃないです。
それより急ぎましょう。」
いきなりジェルが動き出した。あたしも慌てて後を追った。そしてそのころ、あたしの知らないところでは……
海岸線の道路を車が走っている。水平線に沈む夕日という、毎日見られるはずの光景を助手席の少女はジッと見つめていた。
「確かにいい光景だ。少し見ていくか?」
ハンドルを握る若者の言葉に少女はコクンと頷く。若者が黄色のスポーツカーを路肩に止めると、少女がすかさず外に出る。
胸の前で手を組んで夕焼けを見つめる少女の隣に若者がそっと近づく。少女の肩を抱こうとゆっくり腕を伸ばすが、もぞもぞ動く指先が若者の葛藤を表しているようだ。あと数センチのところで少女でも若者でもない声が割り込んでくる。
〈あのぉ……〉
途端に若者の表情が険しくなる。少女が振り返るのを敏感に察知して、腕を引っ込める。口を開くが、声には剣呑なものが混じっていた。
「あのなあ、今日は連れていく代わりに口を出さない約束じゃなかったのか。」
〈いえ、それが……〉
恐縮したような声が返ってくる。二人以外には人影は見えない。黄色のスポーツカーの方から声が聞こえてくるようだ。
「ヒューイさん、よろしいではありませんか。それでパンサー、何があったのですか?」
少女がそう言うと、ヒューイと呼ばれた若者は諦めたかのように声に耳を傾ける。
〈ええ、博士からのエマージェンシーコールが入りました。グリフォンが対応したのですぐに切れました。繁華街の方からです。〉
一瞬、二人は顔を見合わせると、飛び乗るように車に戻った。若者がハンドルを操ると、タイヤの音を響かせながらUターンする。黄色い車は都市の喧噪へと飲み込まれていった。なぜかジェルは上を見ながら走っている。何を見ているんだ、おい。
しばらく走って、これまたいきなり立ち止まる。街の一角を指さした。
「あれにしましょう。」
ジェルが示したのは確か貿易センタービルというオリジナリティのかけらもない名前のビルだ。
そんなことを思い出している間にもジェルは頑張れば小型の宇宙船なら通り抜けられそうなガラス張りの入り口に向け走り出した。あたしも同じように走り出す。
見えたのだ。人混みに混じる黒服の姿を。
うわぁ、しつこい。一体、あたしが何をしたのよ。
しかし、相手が冗談や酔狂で追いかけてきているわけではない。あたしを殺そうとしているのだ。もしかして…… クリスのことが何か関係しているのでは。
頑張れば小型の宇宙船ならくぐれそうな巨大なガラスの扉を抜け、受付嬢の制止の声も無視してエレベーターホールに入る。手近のボタンを叩くと箱がやってくるのが表示されるが、その来るまでの時間がやけに長く感じられる。やっても無駄なのに上のボタンを押し続ける。
永遠にも思える時間が過ぎ、一つの扉が開く。あたし達のほかに誰もいないのか、乗った箱は二人きりとなる。ジェルが屋上のボタンを押すとゆっくりエレベーターが上昇する。
わずかに聞こえる機械音だけが箱内を支配する。ジェルは無言で階数表示を見ている。その横顔からは何を考えているか読むことはできない。
息苦しいまでの沈黙のさなか、急に明かりが消えショックと共に箱が停止する。
「おやおや、」
ジェルがつまらなそうに呟く。
「どうやら電源を切られたようですね。」
いつの間にかに声があたしの横から前に移動していた。何かゴソゴソ音がすると、消えたときと同じように唐突に明かりが回復する。そしてまたエレベーターが動き出した。
ジェルは腕のコンピュータからコードを出して、エレベーターのパネルに接続しているみたいだ。
「ねえ…… ジェルって何者なの?」
今更ながらこんな疑問が口をついて出る。
フッとジェルが透明な笑みを浮かべたように見えた。すぐにいつもの何考えているか分からない顔に戻る。
「手品、というのはタネが分かったらつまらないでしょ? ま、私にお任せ下さい。」
はぐらかされたのだろうけど、不思議と何とかなりそうな気がする。そう言っている間に屋上に着いた。
ガラス張りの通路を抜けると、高いフェンスに覆われた屋上に出る。このポートシティでも五指に入るほどの高いビルなので、ほとんど空しか見えない。もう日もだいぶ傾いている。
ここもあたし達のほかに誰もいない。
ジェルは何かを待つように来た方を眺めている。そういえばジェルはこんなところまで来てどうするつもりなんだろ?
なんて思ったら向こうから黒服達がやって来た。しかも増殖したらしく、五人ほど見える。周囲にギャラリーがいないせいか、すぐさま懐から黒光りする拳銃を取り出す。
「ちょっとジェル! 追い付かれちゃったじゃないの!」
「おや、ラシェル。何をそんなに焦っているんですか?」
「あんたねぇ……」
ここまで無神経だと怒りを通り越して呆れてしまう。
「だいたい、私が何も考えずにこんなところまで来たと思っているんですか?」
「うん。」
馬鹿な会話を続けている間にも黒服達が近づいてくる。あたし達は押されるようにジリジリと後ずさる。背中がフェンスに当たった。
初めてあたしは銃口というものを正面から見た。でも何故か思ったほどの恐怖心は無かった。何でだろう?
「ご安心下さい。撃つ気ならもう私たちは穴だらけです。ただ死体の始末などの問題があるので、拉致するかどうか考えているところです。」
小さく囁く声があたしの耳だけに届く。その声にはまるで迷いがない。この状況を突破できることを信じている、いや、確信しているのだ。
そうか、あたしはジェルの見せるマジックを期待して、そして信じているから怖くないんだ。隣の謎の科学者は皮肉っぽく口元に笑みを浮かべていた。
「ラシェル、少し風が強くなりますから気をつけて下さい。」
はい?
ジェルがスッと片手をあげたる。
ポツリと、普段と変わり無い声音でジェルが言った。
「ホーネット、お仕事の時間だ。」
次の瞬間、風が巻き上がった。