− 第七章 −

 

「ラシェルさ〜ん。そろそろ朝ですよ〜」
 朝のけだるい雰囲気の中でのウツラウツラしていたあたしはそんな声で目がさめた。身を起こしてあたりの風景の違いに混乱しかける。
 が、あたしを更に混乱させたのが……
「ジェル! なんであんたここにいるの!」
 次の一言はぼやけた頭を一瞬のうちに覚醒させた。
「ハハハ…… 私も捕まってしまいました。
 いやあ、これは愉快愉快。」
「くぉんの大たわけがぁ!」
 バキッ。
 あたしの放ったパンチは見事に頭にクリーンヒットした。ショックで地面に平べったくなるジェル。やり慣れないことをして痛めた手に息を吹きかけながらピクリとも動かない白衣男を見ることしばし。
 やおらムックリと身を起こす。
「ひどいですねぇ…… 冗談に決まっているでしょう……」
 おい……
「だいたい、こーゆー所に侵入する時にはわざと捕まる、というのがパターンじゃありませんか。」
「マジ?」
 ちょっと今、めまいがしそうになった。
「ご安心下さい。ちゃんと…… 着替えと朝食を持ってきました。近くのコンビニで買ったサンドイッチですから手作りのものに比べればおちますけど……」
 なんか言い返す気力が失せてきた。なんとも準備のいい捕まり方ですこと……
「あ……!」
 唐突に声をあげるジェル。やっぱり何か忘れやがった、この男。
 びっくりしたような顔の次に情けなさそうな顔に変わる。
「……飲物を持ってくるのを忘れてました……」
 バキッ。
「やかましい! くだらないこと言ってるといいかげん殴るわよ!」
「ひどい…… 殴ってから言うセリフじゃないですよそれは……
 ま、いいです。こう見えても私は心が広いですから。それより、朝食にしません? 実は私、おなか減ってるんですよ。」
 気が抜ける…… どーも、こいつのマイペースさにはついていけないところがある。神経が極太なのか、それとも自信があるのか分からないけど…… もしかして、今の状況を理解してないとちゃうか?
 苦悩するあたしも気にせずに、コンビニの袋の中から一パック数クレジットのサンドイッチを取り出し、封を切りそれを口に運ぶ。
 あたしの睨むような視線を要求の意と思ったのか、ジェルは別なパックを取り出し手渡してくれる。
 特に可もなく不可もなく、という程度の代物だが、起きがけの空腹を満たすのにはことが足りる。何となく面白くないが、あたしもジェルにならってのんびりとサンドイッチを味わうことした。
「……で、どうやってここを出ます?」
 簡単な食事が終わる頃を見計らってジェルが口を開く。いくつかあったサンドイッチは二人の胃袋に余すことなくおさまった。
「ほほおぉぉぉ…… あたしにそーゆーことを聞く?」
 自分でも声が冷たく感じられるが構わず言葉を続ける。ジェルに意見を求められるのは結構な回数を数えたが、相変わらずこの男はあたしが単なる一般人であることを忘れているらしい。もうボケが始まっているんだろうか……
「どーせあんたのことだから、ろくでもないことを企んでいるんでしょ?」
「はい、その通りです。」
 ……大丈夫なんだろうか。さすがに不安にかられる。が、きっと何とかなるんだろう…… 多分。
「とりあえず作戦はいくつかあるんですが……」
 指先でちょいちょいとあたしを呼ぶ。近づくと、耳元に口を近づけた。小声でボソボソとその「作戦」とやらを説明する。
 …………、…………、…………
「ちょっと待てい。何が悲しくてあたしがそんなことしなきゃならないのさ?」
「だって…… 古典じゃないですか。」
 はあぁぁぁ……
 あたしはこいつに出会ってから何度目かの虚脱感に襲われた。ジェルの顔は半分笑っている。と言うか、いたずらっ子のような笑みをわずかに浮かべている。
 こいつ…… 状況を楽しんでいる。危機(ピンチ)を危機(ピンチ)とも思わず、生活のスパイスとして楽しんでいる。こいつを見ていると、無くしかけた何かを思い出しそうになった。
 何だろう? あたしは何を思い出そうとしているんだ?
「ふーむ。やっぱり気に入りませんか?」
 妙に残念そうな顔をする。飽くまでもあたしの主観だけど。ホントにこいつ、表情があまり変わらないなあ。無愛想とは違うようだけど。
 どーも、ジェルの作戦、というのが気に入らないが、本人の言う通り古典中の古典だからやってみる価値はありそうだけど……
「分かったわよ。やってやろーじゃないの。」
 やっぱりちょっといや……

「きゃあぁぁぁぁぁ!」
 あたしの悲鳴に重なって布の引き裂かれる音が小汚い部屋の中に響いた。
「へっへっへ。いーじゃねえか。俺達はどーせ殺されるんだ。死ぬ前に楽しませてくれたって罰はあたるまい。」
 ……すげーハマリ役。ジェルってしょうもないことに才能があるのね。おっと演技、演技。
「いやぁぁぁ! 誰かぁぁぁ!」
 ちょっと虚しい。TVとかで見たことがあったが実際に自分でやるとは夢にも思ってなかった。
 ここまでやればあたし達のやりたい事は安易に想像がつくだろう。そう、こうやって騒いで、様子を見に来たりする間抜けな見張りを隠れているジェルが殴り飛ばして逃げよう、というやつだ。
「無駄だ無駄だぁ! お前が何をされようとも気にする奴など誰もいねーぜ。」
 ホントに演技なんだろうか……
 この三文芝居に飽きかけた時、観客が舞台に乱入してきた。
「お前ら! 静かにし……」
 ボカッ。
 ジェルの振るったベッドの足が見張りを直撃した。もともと安物だったベッドの足はその衝撃であっさりと粉砕されてしまった。
 見張りが倒れたのが見えたのか、一緒にいた別の見張りが自動小銃を中に向けてゆっくりと入ってくる。
 意外と敏捷にジェルが動いた。小銃を持った見張りの懐に滑り込み、そのボディに拳を叩きこんだ。力がないせいか、相手はちょっと顔をしかめただけだった。その時、ジェルの体がコマのように一回転する。回転でスピードをつけた肘が男の顎を直撃! その場でガックリと崩れ落ちた。
「やるわねえ……」
 人は見かけによらないっていうのはこういうことだな。
「いえいえ、ほんの護身術です。奇襲とトリックをメインにする、私好みの芸ですよ。」
 倒れた見張り達は中に引きずりこんで、裂いたシーツをロープ代わりにして縛り上げておく事にした。
「ラシェル、今のうちに着替えといたらどうですか?」
「は?」
「襲われたときに寝間着姿だったようですから、リーナに頼んで着替え一式を用意させました。そこの紙袋に入れてあります。」
 どれ…… あ、ちゃんと上から下まで揃っている。ちゃんと靴もあるようだ。今までずっとスリッパばきだったから足が冷えてたのよね。
 着替えようと白衣のボタンに手をかけて……
「ジェル、こっち覗いたら容赦無く殴るからね。」
「へいへい。」
 男達の手足にシーツを縛り付ける作業をしながら気の無い返事をする。その背中を横目で見ながら急いで着替えた。
 二分ほどで終わる。脱いだパジャマと白衣を袋の中に入れる。
「あ、そうだ、ラシェル。」
 着終わった瞬間に、ジェルが振り向く。
「その白衣、渡してもらえますか。」
「あんたねえ…… レディの着替えを覗こうって気? さっき言ったでしょう。容赦無く殴るって。」
「あ、それは大丈夫ですよ。音で聞いて着替え終わったのは分かってましたから。」
 器用な奴…… でも油断ならないな。
「……白衣だっけ、あんただって今着てるじゃない。」
 この男は何着白衣を持っているか知らないけど、こんな所にまで着てきているのを見ると、ちょっとばかり神経を疑ってしまう。
「そっちのは特別製なんです。実はそれを着ていると……」
「着ていると?」
「体が丈夫になるのです。」
 まあ…… その…… なんだなあ。確かに普通のものよりは重いけど…… そんなもんで体を鍛えようなんて…… やっぱりこいつは変人だ。
「ま、ホントのところはそっちのには色々と仕掛がしてありましてね……」
「しかけ?」
「ええ、でも今はまだ秘密です。」
 唇に人差し指をあてるジェル。……何を考えているのかサッパリ読めない。肩をすくめてさっきまで着ていた白衣をジェルの方に放り投げた。
 お返しとばかりに別な白衣がこっちに向かって飛んできた。苦もなくキャッチしてパジャマと一緒に紙袋に入れた。
「さーて、」
 ジェルが見張りの持っていた自動小銃を手にしてニヤリとした笑みを浮かべる。
「こんな所からオサラバしましょうか。」
 あたし達の脱出劇の始まりだ!

 となるはずだったんだけど……
「ねえ、ジェル……」
「シッ!」
 誰もいない暗い小部屋でジェルが油断無くドアのすき間から外を睨みつけていた。無理に耳をすまさなくても人が走り回る足音が聞こえる。
「予想以上に人が多いようです。」
 こっちに背を向けているから表情は見えないが、声からは困っているような素振りはカケラも見えない。
(隠れられそうな所はあらかた調べたはずだけどなあ。)
(いっけねえ、もうすぐエドワードさんとボスがやってくる時間だ。)
(早く捜さねえと大目玉だ。)
 通路からそんな話し声が聞こえてくる。近いわねえ……
(そういやあ、ここは調べたっけ?)
(調べたんじゃねえか?)
 そうよ、もう調べたわよ!
 あたしは声に出さずに叫んだ。この部屋にはほとんど隠れられるほどのスペースは無い。
(いや、まだのはずだ。)
(そうだっけ? 見たんじゃないのか?)
 そうよ、そう! だから来ちゃダメ!
(ま、見るだけ見ておくか。どうせ大した時間はかからないだろ。)
(そうだな。)
 やばい!
 慌てて身を隠せそうな所を捜す。いたるところに空箱が散乱しているが、入られそうなものはなかなか見つからない。
「こっちです。」
 耳元でジェルが囁いて、手を引く。暗がりの中、半分手探り状態で歩く。
「少し我慢してて下さい。」
 ボソリとそう呟くと、不意にジェルはあたしを抱きしめた!
「ちょ、ちょっと……」
 抗議の言葉はジェルが口をおさえた為に音にはならなかった。それでも抗議の意を示そうと動く手足をバタつかせる。
 確かに今いるスペースではこうでもしないと二人が収まらないことは分かるが…… 頭では理解できるが感情的に何か許せないような感じがする。
「私だって好きでこんなことをしているわけじゃありません。」
 ジェルの腕に力がこもった。不機嫌そうな声があたしの耳をうつ。あたしの動きが止まった。
「少しの間でいいですから……」
 その言葉が終わらないうちにドアが開いて暗い小部屋に光が差し込んできた。足音が侵入してくる。小型のライトがあたし達を捜すように部屋の中を動きまわる。
 今いるところが入り口から死角になるのか、向こうの姿は見えない。同様に向こうもこちらを直接見る事はできない。
 自分の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。緊張のためだろうか。ふと、ジェルの表情をうかがう。
 わずかな明かりの中で見えた横顔は複雑な表情をしていた。こんな状況で女の子を腕に抱きしめながらこの男は何を考えているんだろう……?
(ほら、やっぱりいねえじゃねえか。)
(そうだな……)
 ずさんな調べ方だけで男達の足音が遠ざかっていく。足音が聞こえなくなってから十数えてやっとあたしは一息ついた。
「ジェル……?」
 ぼんやりとして、というわけではなさそうだが、虚空の一点を見つめて膝をついてあたしを抱きしめた姿勢のままピクリとも動かない。男達が出ていった事すら気づいてないようである。
「ジェル! どうしたのよ……」
 身をよじりながらジェルの気を引くように小声ながら鋭く言った。何度かそんな事をしていると、始めてそれに気づいたようにジェルが振り向いた。
「あ…… ああ、ラシェル。どうかしま……」
 その時になってやっと状況を思い出したらしい。辺りを監視カメラのようにゆっくりと見回したあと、あたしに再び目を落とした。
 それからのジェルは素早かった。磁石の同じ極を近づけたときのように膝をついた姿勢であたしから離れると、そこでまたピタリと止まる。一瞬、その瞳におびえるような光がよぎった。
「ジェル……?」
 あたしの呼びかけにもジェルは反応しない。
「ジェル!」
 二度目でやっとジェルの目に意志が戻った。呆然としたように頭を振る。
「いえ…… 何でもありません……」
 真っ青、とまではいかないが顔色がよくない。どうしたんだろう……
 疲れたようにその場に座り込むジェル。数分ほどそうしていただろうか。あたしの耳にもハッキリ聞こえるくらいの声が聞こえてきた。ジェルもその声に反応して警戒体勢をとる。
『ミス・ラシェル、及び連れの白衣の方。無駄な抵抗はお止めなさい。』
 そこいらに仕掛けられたスピーカーからエドワードの声が流れる。さっき下っ端の連中がもうすぐ来る、て言ってたけど本当だったんだ。そういえば、そのほかにボス格も来ているそうだけど……
『逃げ回られるのは結構ですが、それ以上やってますと、こちらとしてもお二人の射殺命令を出さなければならないので……』
 物騒な事を言ってる……
『で、一つ提案なのですが、今からもう一度、通路に部下を配置します。どこにいるかまでは存じませんが、通路に出ればすぐに発見できるでしょう。
 五分の猶予を与えます。すぐに通路に出て下さい。そうすれば少なくともお嬢さんの生命の安全は保証しましょう。』
 これは…… やっぱり逃げの一手よねえ…… と確認をとろうとすると、ジェルは予想外の発言をした。
「おとなしく捕まりましょう……」
「は? 本気なの?」
「本気です。なーに、策もなしにこんなこと言いませんって。」
 ……うーん。でも不安。
「大丈夫です。とりあえずラシェルの身の安全は保証してくれるようですし、」
「あんたはどうするのさ!」
「私を倒すのは難しいですよ……」
 フッフッフ、と含み笑いをするジェル。
 信用していいんだろうか……
 とやかくあったものの、あたし達はまた、「ふりだし」に戻る事になった。
 ああ…… なさけなや……

「なるほど、あなたでしたか…… 私の部下をコテンパンにしたと言うのは……」
「さあ、気のせいでしょう……?」
 あたしの目の前でジェルとエドワードの舌戦が始まっていた。二人とも口調は穏やかだが、言葉の端はしに鋭い刺が混じっている。 ああ…… 殿方があたしをめぐって争っている。あたしって罪な女ね……
 なんてくだらない事を考えながら舌戦をのんびりと眺めていた。状況はジェルの方が若干有利か? というところである。エドワードの顔に動揺が走っているが、それに対してジェルはまるで表情が変わってない。
 頑張れジェル! 負けるなジェル!
 いや、そうじゃなくて…… あたしは後ろ手錠をかけられながら脱出する方法を考えていた。
 ジェルも同様に後ろ手錠をかけられている。聞くところによれば、特殊合金製のものだからはずす事は不可能だそうだ。
 ああ…… どうしよう……
 ふと、声が聞こえなくなった。緊張感に満ちた舌戦が終わったようだ。双方の顔を見る限りではジェルの勝ちのようである。
 が、めげた様子もなくエドワードが指を鳴らす。近くにいた見張りの男が無痛注射器らしきものを二本持ってきた。もしや……
「君達はこの『ムーンランナー』について探ってたんじゃないですか?」
「…………」
「おや、図星のようで……
 これはいい薬です。他人を束縛するのにも使えますし、自白剤代わりにも使えます。
 しかも、いい夢も見られますからね。
 ……お前ら、こいつを押さえつけろ。」
 筋骨隆々の男が二人ほどジェルの両腕を乱暴につかんだ。もがいてはいるが力ではまるでかなわないらしく、振りほどけない。張り付けたような笑みを浮かべたエドワードが注射器を手にジェルに近づく。
「や、止めてよ!」
 あたしの叫びは注射器の動きを止めることはできなかった。それが首筋に押し当てられる。頚動脈のあるところだ。見る間に中の液体が体内に吸収されていく。
 ジェルの表情が変化した。生気を失ったかのようにぼんやりとする。その目から意志が消えていく。
「どうです。素晴らしいでしょう。」
 エドワードが会心の笑みを浮かべる。見下したような目であたしを見つめる。
「ご安心下さい。あなたにもいずれ射ってさしあげます。あなたは大事な『商品』ですから傷つけるようなことまではしませんよ。」
 ここでジェルの方に振り返る。
「その前に……
 白衣の方、あなたのお名前とお仕事を教えてもらえますか?」
 エドワードの言葉に何も疑いも持たずにジェルが口を開く。薬の影響か口ごもったような喋り方になる。
「私の名前は…… ジェラード=ライブリック。モグリの医者だ。」
 え? おかしい…… 言ってることが変だ。
 考えられる可能性は二つ。一つはあたしに言ったこと自体全て嘘。そしてもう一つは…… 死ぬ前のクリス同様に強い意志の力で薬の影響を抑えている……
「なるほど、ライブリックさんですか。では、ミスター。何のために私を付け回していたのか、こちらのお嬢さんとの関係について教えてもらえますかな。」
「昔…… ヤクの横流しをして学会を追放された。新しい麻薬って奴に是非、一枚かませてもらおうかと……
 そっちの女は知らん。ただ、恩を売っとけばいい目を見れるかと思ってね……」
 相変わらず口調が定まらないが、それでもジェルは嘘を言い続けていた。
「なるほど…… ま、いいです。私は余計な部下は必要としてません。
 もう少しここで大人しくしてもらいましょう。あの方の意見も聞いておかなければならないので。」
「あの方って?」
「知っても得にはなりませんが…… 簡単に言えば私の上司ですね。
 それではごゆっくり…… 今度、あのようなことがありましたら容赦無く射殺いたしますのでそのつもりで……」
 エドワード達が出ていくと、小部屋に薬を射たれたジェルとあたしだけが残された。不意にジェルが苦しそうなうめき声をあげる。
「ジェル!」
 動きが不自由になるが、慌ててジェルのところに駆け寄る。歯を食いしばって何かに耐えているようだ。
「参りました…… ここまで強い薬とは思いませんでした……」
 絞り出すように苦しげな呟きがもれる。顔色がさっきと違う意味で悪い。
「いい加減、こんなところから出ましょう…… 親玉もいるようですし……
 そいつをしばき倒せばクリスさんの仇もとれるはずです……」
「そんな体で何ができるの!
 あんたなら一人で十分逃げられたんじゃないの?
 あたしなんかの為に命がけになって…… 死んじゃったらどうすんのさ!」
「別に…… 誰かの為にやっているわけじゃありません…… やりたかっただけです。
 それよりラシェル…… 私の白衣の裏の腰の辺りに一本のバトンのような物があります…… 取ってもらえますか? あまり体が動かなくて……」
 不自然な体勢でジェルの腰を捜す。指に何か硬い物が触れた。引っ張り出すと乾いた音とともに二十センチほどの棒が落下した。
「ああ…… それです。それにBとSというスイッチがありますから、Bの方のスイッチを入れて下さい…… あ、そっちは危ないですからバトンを反対に向けて……」
 後ろの首をねじ曲げて、やっとのことで見つけだしたBのスイッチを入れる。わずかにハム音が聞こえた。バトンの一方から恐らく透明な何かが出ている。
「透明な刃です…… それで手錠を…… ほとんど大抵の物を斬ることができますから気をつけて下さい……」
 ……刃? 確かによく見ると限りなく透明なガラスの刃らしき物が見えなくもない。慎重に刃の向きを見て、手錠を繋いでいる鎖を近づけた。
 よく熱いナイフでバターを切る、という表現があるが、まさにそれであった。
 特殊合金製、ということになっている鎖に軽く触れただけで刃が食い込んでいく。双方の体勢が悪いにも関わらずだ。切れる切れないの問題ではないほどに、それは切れた。
 何の苦もなく両手を拘束していた鎖から解放される。今度はバトン自体を持ってジェルの鎖を切断した。次に注意深く、手枷の部分を切る。まるで手ごたえがないので手首ごと切断しそうになったが、それはご愛敬といういことで。
 手錠からは解放されたものの、ジェルの容態は芳しくない。全身が震え、瞳も力を失いかけている。
「別に苦しいわけではありませんが…… 気を抜くと完全に何もやる気が起きなくなりそうで…… さっきの尋問で結構、体力を消耗したようです……」
「しっかりしてよお! なんで、なんでここまでして……」
 あたしの言葉にジェルはゆっくりと首を振った。
「さっきも言ったでしょう…… 誰のためでもないって…… やりたかっただけですから気にしないで……」
「で、でも……」
「それより…… 白衣のえりの裏側にいくつかのカプセルが張り付けてあります…… その中から…… 青の錠剤を取って飲ませて下さい……」
 指示通り錠剤を取り出す。ジェルに薬を飲み込むことができるんだろうか……? やっぱりここは口移しで……?
「そんなことしなくても大丈夫です…… まだ薬を飲み込む気力くらいは残ってます…… もっと自分を大切にして下さい……」
 あたしの考えが分かったのか、ジェルは無理矢理体を動かして、あたしの手首をつかんだ。一瞬、暗くなりかけた目の光が鋭くなる。
 少し辛く思ったけど、その青い錠剤をジェルの口に押し込んだ。コクン、と飲み込む音が聞こえたかと思うとジェルが目を閉じた。
「ジェル……!」
「大丈夫です…… これは肝機能を一時的に強化するものです…… 私の体力が勝てば、五分ほどで薬の効果を消せるはずです。
 勝てばの話ですが……」
 嫌な予感が頭をよぎる。最後に言った一言が異様に耳に残る。
 ジェルは目を閉じたままゆっくりと呼吸をしている。気のせいか、息をしているペースが落ちていってるように感じられる。
「ジェル!」
 軽く体を揺さぶってみた。反応が…… ない……
 ジェルが動かなくなった……

 

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