FREEZE! 第三話

− Cool Criminal(後編) −

 

 

 

我が名はレイファルス

我が司るは冬

大地に霜を、湖には氷を

山には雪をもたらす者

我が求めるは知恵

破壊より停止、争乱より平和を好む

我は冷酷なる哲学者

我は冷気を操り、氷を生み出す者

そして氷の精霊を従えし者

大地に縛られし者は我をこう呼ぶ

気高き氷雪の魔狼、フェンリルと

 

 

 

「ふぁあああ…… 眠いよぉ……」
 夜である。闇のとばりが街を包んでいる。「夜のために」ということで真っ昼間から寝てたわりには…… いったいどれだけ寝れば気が済むのだろうか、ミルは。
「大丈夫ですか、エレナ。」
「うひぃぃぃぃ。お、落ちるぅ……!」
 そういう風に暴れなければ落ちないような気がするぞ。今我々がいるのは酒場の屋根の上だ。もともと空を飛べるシャランは当然として、昔何かの拍子に盗賊の訓練を受けていたらしいミルも平気な顔をして座っている。エレナだけが屋根にしがみつくようにして喚(わめ)いていた。
 でも…… 今夜も現れるという保証はあるのか。出なかったら単なるムダあし……
「言わないでよ。あたしだってついさっき気付いたんだから。」
「ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあ、あたしの苦労はなんなのよ?!」
 無駄足……
「レイファルスぅ!」
 エレナの喚きに重なって闇を切り裂くような高い笛の音が響きわたった。周囲のざわめきが大きくなる。
 何か来るぞ!
 小柄な人影が屋根の上を走ってくる。あの身のこなしは盗賊のそれだ。
 ……闇に紛れて何人も隠れている。魔法を使っているようだ。魔術師ギルドの連中のようだ。
 まずいな…… あ、いや、別に私はその怪盗の味方をしようと思っているわけではないが…… とにかく、衛兵達が魔術師達が潜んでいると思われる方に誘い込んでいるように見える。
 怪盗が我々と追っ手の中間あたりの位置まで来た。
 カッ!
 突如、魔術師達の放った魔法の明かりが夜を白く染めた。遠くでみていたミル達もいきなりの光に目を背けたのだ。直接あてられた怪盗の方はたまったものでは無いだろう。
 怪盗はバランスを崩しかけたがすぐに体勢を立て直す。その途中で一瞬、こちらを発見したようだ。
 ん? 混乱の精霊(レプラコーン)?
 怪盗の心に激しい感情の動きが見えた。待てよ…… あの精霊の感じは……
「きゃあっ!」
 エレナの悲鳴!
 慌てて感覚を後方に集中させると彼女が屋根を滑り落ちているところだった。光を見たショックで手の力がゆるんだらしい。このままでは結構な高さから落下することになる。体術もロクに知らないエレナじゃ大怪我だ。「落下制御(フォーリングコントロール)」だ、シャラン!
「目が…… まだ……」
 シャランが目を押さえている。
 いかん…… 目標がハッキリ見えないと魔法はかけられない事が多い。
「きゃあぁぁぁぁぁ!」
 エレナ!
「万物の根源たるマナよ! 大地に縛りつけし不可視の綱を今ひとときの間だけ断ち切りたまえ!」
 エレナが地面に激突する寸前、怪盗の魔法が完成した。落下速度がすぐに緩やかになる。
 しかし、こんな状況で他人の為に呪文を使うことは怪盗にとって大きな隙を生み出すことと同義であった。あらかじめ用意されていたのだろう、黒く塗られた網が空から降ってきた。呪文に集中していた怪盗にそれから逃れる術はない。
 網の中で短剣を抜くが、身動きとりづらいのと針金でも仕込んであるのだろう、なかなか網を切ることができない。空中から魔術師が、下から衛兵が怪盗を捕らえようと近づいてくる。
〈レイファルス! 助けるわよ。〉
 言うとは思ったが…… 一応、訊ねておくことにする。
 本気だな?
 ……質問、というより確認だな。私も相当ミルに考え方が似てきたようだ。
 ミルが柄に手をかけて走り出した。まるで平らな地面の上と同じように器用に走っていく。
〈セラ! あの怪盗さんの網を切って! シャラン、エレナをお願い。〉
 ミルの呼びかけで髪飾りに封印されている風の精霊が物質界に現れる。まさに風のように怪盗に近づくと体からカマイタチを放ち網を斬り裂く。
 私は援護のために周囲に冷気を放ち、大気中の水蒸気を凝結させ霧を作り出す。
 魔法の闇や闇の精霊と違って、霧ならば確実に視界を奪い、しかも多少の魔法を使ったところで簡単に晴らせられるものでもない。
 もともと魔法の届く距離だ。少し走ればすぐに怪盗のもとに着く。セラの努力でだいぶ網は切れてきたが、それでも脱出するにはまだ及ばない。
 ミルの手が鞘の止め金を外し、反対の手首を軽く返した。青の軌跡が闇のキャンバスに描かれる。私の青銀の刃が夜の闇にさらされた。魔法の明かりのもとでも私から放たれる冷たい魔法の光はまばゆく見える。
「お姉ちゃん、避けて!」
 ミルが私を大きく振りかぶる。こんな網、私の前ではないも同じだ。
 それより、やっぱりミルも気付いたか。
 この怪盗はどう考えてもフェルミナだ。
 身のこなしや体格で判断できるかも知れないが、それ以前に人というのはそれぞれが固有の精霊のパターンを持っている。そもそも物理的な視力に頼らない私や、経験を積んだ精霊使いなら多少の慣れで判別することができる。
 それにもう一つ、呪文を唱えたときの声だ。多少声を変えたところで私や吟遊詩人(バード)の耳を持ったミルはごまかしようがない、のだろう。
「ど、どうして……」
 話は後だ。霧が晴れる前に逃げるぞ。
 フェルミナがコクンと頷いた。
〈小さき精霊スプライトよ。汝の心を我がもとに、汝の孤独を我がもとに。寂しい心をあたしにあずけて!〉
 私を鞘に収めながらミル。
「万物の根源たるマナよ。姿がないのもまた姿。我に姿無き姿を。見えなき光景を与えたまえ。」
 指輪を光らせながら宙にシンボルを描くフェルミナ。
 二人の姿が同時に消え失せる。〈透明〉と「隠身(コンシールセルフ)」である。夜の闇と霧と、そして魔法に紛れてミルとフェルミナは逃げだした。

「エレナ! 大丈夫?」
「ミル…… それに…… フェルミナ?」
「フェルミナさん……?」
 逃げ出した後、路地裏で腰をうって動けないエレナと、彼女に〈治癒(ヒーリング)〉をかけていたシャランと合流できた。
 いつもの姿のミルと黒っぽい服装のフェルミナに二人が驚いたような顔をする。フェルミナはそれに対し、顔をそむけ一言も口を開かない。
「フェルミナ……」
 とりあえず場所を変えよう。こんなところで立ち話をしていて見つかったらどうする?
「そうだね。行こう、みんな。」
 こうして我々は「静かなる大岩亭」に戻ることになった。
 怪盗のときの黒っぽい服をいつもの長いローブ姿に着替えてもフェルミナは黙ったままであった。
 どちらかというとお喋りな部類に入るフェルミナが辛そうに黙っているのは見ているこちらも何となく辛い。
「…………」
 フェルミナ……
 珍しくミルもしおらしく向こうから話してくるのを待っている。
 夜分遅くにもかかわらず、店のマスターが飲み物を持ってきてくれた。ミル達には少し暖めたミルク。フェルミナには寝酒(ナイトキャップ)になりそうな甘めのお酒だ。
 飲み物が目の前に置かれても、口を開く気配すらない。ミル達もそれにつられて声をかけるタイミングを逸している。
 沈黙が長く続く。彼女たちの心臓の音までも聞こえそうな静けさの中、フェルミナは何かを堪(こら)えるように唇を噛みしめている。
 ……ミル、いい加減遅い時間だ。寝た方がいいんじゃないか。
 私の一言で張りつめていた空気がゆるむ。ついでに神経もゆるんだのだろう。ミルが大きなあくびをする。
 ほら…… どうせミルはどれだけ寝ようとも夜は自然に眠たくなるんだ。夜更かしは体に悪いぞ。
「うん…… ふわぁぁぁぁ…… あたし、もう寝る……」
 ミルが「お眠りモード」に入る。こうなってしまっては何をしてもミルの眠りを妨げることはできない。……確か前に何か理由があって起こし続けようとして〈氷嵐(アイスストーム)〉を唱えそうになったことがあったな……
 夢遊病者のようにフラフラと二階の宿の方に歩いていく。残された三人が呆れたようにため息をつき、誘われたように微笑みが浮かんだ。
「……ごめんなさい。一回戻るわね。ミルちゃんが起きたらまた来るわ。」
 シャランとエレナにぎこちなく笑いかけるとフェルミナはドアに向かう。去り際に私の方を向くと口だけで小さく呟いた。
(ありがとう……)
 一晩くらい、考える時間があってもいいと思っただけだ。気にするな。

「あたしの父親は精霊使いだったの。」
 次の日の昼前くらいの時間、フェルミナがやってきた。運良く、ミルが起きていて遅い朝食を食べようとしているところだった。
 フェルミナが静かに話し始める。その顔色は昨晩に比べ、だいぶ良くなっていた。
「とても強い、ね。ミルちゃんよりも上かもしれないわね。」
 そういう彼女の顔には寂しそうな笑みが浮かんでいた。その表情から彼女の父親、というのがもうこの世に存在しないと直感的に感じた。ミル達もその雰囲気を敏感に察知し、口をつぐんでいる。
「でね、あたしも小さい頃から精霊の声を聞いていたわ。でもね、父さんがどこかの遺跡で見つけてきた魔法の品が…… 人生を狂わせてしまったの。」
 その品は精霊を無理矢理支配する指輪であった。精霊使いが悪用すれば強大な力を得ることができる。どんな素人精霊使いでもだ。我々にとっては迷惑この上ないがな。
 精霊を友人と考える彼女の父親がこんな物の存在を許すはずがなかった。しかし破壊してどんな影響があるか分からないし、かといって他人に譲る気もなかった。その人間が悪用しないとは限らないからだ。
 そして彼は人知れずそれを他人の手に渡さないように守ることを決めたのだ。そして娘にはそんなことに関わることがないように子供の頃に特殊な呪いをかけ精霊語を喋れないようにした。別に彼女のイヤリングが魔法の品ではなく、彼女自身が精霊語を理解することができたのだ。
 で、彼女がそんなことすら忘れ、魔術師としての道を歩んでいて導師になるのも間近、という頃、父親の訃報(ふほう)を聞いた。
 家が焼け、その中で焼死していたそうだ。フェルミナはその死に当然ながら疑問を持った。優秀な精霊使いがそんなことで死ぬはずがない。それに、あの指輪が消えていたのだ。
 その日から怪盗が現れた。
 父親の昔の仲間を次々に調べていっていくと一人の男に突き当たった。その昔、彼のパーティで盗賊をつとめていた男、当時はフィートと呼ばれ、現在はザインでも五指に入る大商人ルサームとして知られている。
 ルサームはある一時期までは冴えない商人だったが、ある時から急に羽振りが良くなり、今では財も名誉も得た商人に…… そしてその時、というのがフェルミナの父親が亡くなった時だった。ルサームはフェルミナの父親から簡単な精霊使いの訓練を受けていた。
 このことを総合すれば結論は至極簡単に導くことができる。
「あいつは…… あいつは精霊と心を通わす方法を自分の欲望の為に…… そしてその欲望で父を殺したのよっ!」
 テーブルの上に気まずい空気が流れる。誰も口を開かない。
 不意に沈黙を砕くようにテーブルの上に皿が置かれた。料理の乗った皿が次々に運ばれる。誰だ、頼んだのは。
〈あ、あたしじゃないわよ。〉
 エレナじゃないとすると…… ミルか?
〈怒るわよ。〉
 ……じゃあ。
「あたしも違うけど…… ま、いいわ。みんなお腹減ったでしょ? あたしもね、湿っぽい話はイヤなのよ。特に自分のことだとね。」
 なんだこの感じは…… そういえば今持ってきたのは店のマスターじゃない。この店でマスター以外の店員がいたのか? 料理は誰が注文したんだ? まさかシャラン……なわけないか。
「いっただきまーす。
 あ…… あたしこれ嫌ぁい……」
 サラダの中に人参を見つけて顔をしかめる。
 ミル、好き嫌いはよくないぞ。
「だってぇ……」
 あれ? 待てよ。ここのマスターはミルがそう言ってから気をつけていたはずだが。何か変だ。
「レイファルス、どうしたの?」
 気のしすぎか…… 
 ちょっと待て、皿を運んできた男と思われる熱源が裏口に向かっている…… ん、カウンターの奥に微弱な精霊の生命が…… 誰か死にかけ……
 食べるなっ! 何かあるぞっ!
 不意にミル達の手が止まる。
「そう…… いう…… ことは…… 先に…… 言いなさいよね……」
 料理を飲み込んだミルがフォークを落とした。いや、ミルだけでない。四人とも苦しそうに喉をおさえている。
 それだけではない。空気に炎の精霊(サラマンダー)が混じってきた。火を放ったな! ミル達は毒で動けない。しかも私も鞘から抜かれないと力をあまり発揮できない。
 いったい…… どうすればいんだ……

 煙までが侵入してきた。焼け死ぬか、煙を吸い込んでか、それとも毒か。私もできるだけ冷気を出して火を消そうとするが…… 今のままでは……
「あたしの…… 父さんも…… こうやって殺されたのかな……」
「!」
 テーブルに伏せたまま独白するように呟くフェルミナ。その言葉にミルが目を見開く。鍛えていないエレナと体の小さなシャランは毒がまわってきて声を出すことすら出来ないようだ。
「悔し…… かった…… ろうな……
 ご、ごめんね…… ミル…… 達を…… 巻き込…… んで……
 ごめんね……」
 ミル…… 私はここでマスターを失うのか…… そうなのか、ミル……?
〈あたし…… あきらめない……!〉
 ミルは震えながら右手を上げる。
〈ここで…… くじけたら…… お姉ちゃんが…… かわいそ…… すぎる……〉
 ミル……
〈あたしだって…… 死にたくない……〉
 毒で苦しいはずなのに必死で指先を動かす。
〈生命を…… 司る…… 名も…… 無き…… 精霊よ……〉
 そこまで唱えて力尽きたように腕が落ちる。
 ミル! 死ぬなっ! ミル!
〈耳元で…… 大声…… 出さないでよ…… うるさいじゃない…… 分かってる……
 ……名も無き…… 精霊よ…… あたし達を…… 助けて……!〉
 呪文を唱え終えるとミルは眠るように目を閉じた……
 おい…… ミル! ミル! しっかりしろ。ミル! おい…… 嘘だろ…… 嘘だと言ってくれ……
〈…………〉
 …………!
 ……私もここで終わりかな。思えば長いようで短かったかな……
〈……バカ……〉
 …………?
〈なにバカ言ってんのよ。勝手にあたしを殺さないで。〉
 ミル……!
〈感激している暇があったら、さっさと火を消して。あたしはみんなを助けるから。〉
 私を抜き放ってミル。私はすぐさま氷雪の魔狼(フェンリル)に姿を変える。この姿になれたら手加減する方が難しいくらいだ。
 全身から冷気の触手を四方八方に伸ばす。それが炎に触れると瞬く間に火が消える。しかしまだ煙がひどい。
 今度は凍てついたつららを放った。炎で脆(もろ)くなった壁に次々に穴を開ける。できた隙間から新鮮な空気が入り込んでくる。
 そういえばみんな大丈夫か?
〈レイファルス!〉
 は、はい!
 ……あ、ミルの気迫に反射的に返事をしてしまった。たまに自分が情けなくなる。ミルが私に向かって手を伸ばす。すぐさま剣に戻り少女の手に収まる。
〈追いかけるわよ。〉
 すでにエレナもフェルミナも復活している。ん? シャランは?
《北の方に向かっています。》
 風にのってシャランの声が聞こえてきた。空に上がっているらしい。
「あたしはここに残るわ…… ついていって足手まといになったら嫌だしね。」
「エレナ……」
「早く! 急がないとシャランも見失っちゃうわ。それに…… ここのマスターも怪我してたの。誰かついていないと……」
「うん、分かった。お姉ちゃん、行こう!」
 北側の壁に無造作に私を振るう。壁に巨人でもくぐれば通れるほどの穴ができた。そこから火事で混乱している街中に入る。北の門を出ればすぐにエア湖がある。
 我々はそこを目指して走り始めた。

 光の精霊を連れたシャランが季節外れの蛍のように見える。その光を追って街を出た我々は自然にエア湖の方に進んでいた。
「……ねえ。」
「なに、ミルちゃん?」
「もしもさ、お父さんの仇に会えたらどうするの?」
「……そうねぇ。」
 走りながら顔をふせるフェルミナ。ふとその顔に小さな笑みが浮かぶ。
「考えてもいなかったわ。」
 おいおい……
「追いつめることに一所懸命だったからね。その後のことなんて全然…… どうしようかしら?」
 ……まあ、簡単だな。
「ホント?」
 捕まえてから考えればいい。
「あんたねえ…… 殴るわよ。」
 それより湖が見えてきた。湖は人の争いなど気にした様子もなく青く澄み渡っていた。あるものさえ見えなければ美しい光景であろう。
 ひい、ふう、みい…… ふーむ。五人ほどの傭兵が行く手を遮っている。更にその向こうに逃げる人影がわずかに見える。どうやら我々の邪魔をしたいようだな。
 光が舞い降りてきた。小妖精が光の精霊を連れて降りてくる。
「ここは私に任せて下さい。」
 大丈夫かシャラン?
「それよりも早く後を追って下さい。」
 ミルとフェルミナが無言で頷く。傭兵達が剣を抜いた。殺気が我々に集中するがシャランはそれを全身に受けとめても一歩も引かない。
「急いで下さい!」
 シャランが威嚇に「火球」の呪文を放つ。炎の花が咲いた。傭兵達の足が一瞬止まる。その隙にミルとフェルミナが横を走り抜けた。
「私がお相手します!」
 シャランの力強い声を背に聞きながら水際まで一気に走り続けた。

 アレクラスト最大の湖、エア湖。その鏡のような湖面は輝く太陽と青い空を寸分の狂いもなく映し出している。風もなく、波一つ立ってない水面にひとすじの軌跡が描かれていた。
 湖の上を滑るように移動する人影がある。あれがきっとルサームなのだろう。おそらく精霊の力を借りているに違いない。
〈追いかけるわよ!
 清らかな水の乙女ウインディーネよ……って、あれ?〉
 どうしたミル?
〈変よ! 水の精霊(ウィンディーネ)の様子がおかしい。〉
 なんだって…… ミルの言う通りだ。水の精霊がまるで死んでいるかのように動きを見せない。なにか不気味な精霊力が感じられる。
「そうよ! 精霊力を歪めたんだわ。……やられたわ。これじゃあ追いつけない。」
 この様子では水の精霊の力を借りられないだろう。ということは〈水上歩行(ウォークオンウォーター)〉の魔法も使えないことになる。奴め、それとは別に水の精霊を操って水の上を移動しているのだろう。このままでは逃げられるぞ。
〈分かってるわよ…… 今考えてるんだからさ…… どうや…… ん? そうだ!〉
 なにかいい手は…… なんだその目は。嫌な予感がする。
〈ねぇー、レイファルス。〉
 急に猫なで声を出すミル。しかし瞳はいたずらっぽく笑っている。
〈あんたって氷雪の魔狼、氷の上位精霊なんでしょ。〉
 今ごろ何を確認し…… おい、まさか……
〈そう、そのまさかよ。あんた、もしかしてマスターの命令に逆らおうなんて考えてないでしょうねぇ。〉
「ねぇ、ミルちゃん。どうする気?」
「レイファルス!」
 はい……
 鞘から出た刃がキラリと光る。
「やっちゃいなさい!」
 刃がエア湖に突き刺さった。
 ……こうなればヤケだ。全身の精霊力を極限まで高める。凍てつく冷気が湖に降りた。それと同時にミルとフェルミナが凍り付かないように護らなくてはならない。
 私を中心に湖が凍り始める。
 氷はたちまち同心円上に広がっていく。自分で言うのも何だが、広がる速度は予想以上に速い。このままではすぐに湖上の人影まで伸びるだろう。
 できた氷を門にして大量の氷の精霊(フラウ)を呼び寄せる。更に加速度的に氷の範囲が広がっていく。エア湖全体が凍結するのも時間の問題だろう。
 ……こんなものかな。湖は巨人がスキップしても割れないような氷原に変わっていた。いきなり現れた強力な精霊力が暗雲を呼び、周囲は夜のように暗くなっていた。その中をチラホラと白い物が降ってくる。
「ねえ…… ちょっとやりすぎって感じしない?」
「レイファルスって本気出すと凄いのね。」
 すっかり辺りは冬景色になっていた。今ごろザインの街も大変なことになっているだろう。……まあ、たまにはいいとしよう。
 とにかく! 追いかけなくていいのか?
「そうよ! 危うく忘れるところだった。」
 あのなあ、ミルよ……
 呆れた声を聞こえないふりして私をつかみうっすらとつもり始めた雪に足を踏み入れる。その後をフェルミナもついてくる。
 いかんな、ちょっと距離が離れすぎている。どうにか足止めでもしないと……
「ええと…… ああっ! 〈転倒(スネア)〉も〈拘束(ホールド)〉も使えないじゃない!」
 まあな。二つとも土の精霊に働きかける魔法だからな。氷の上で使えるものではない。それに下手に呪文を唱えようとすると時間がかかる。距離が開くと魔法もかかりづらい。どうすればいい?
「…………
 万物の根源たるマナよ。今こそ大空を我がものに。龍の翼、鷹の羽を我が背中、我が両腕に貸し与えたまえ!」
 フワリとフェルミナの体が「飛行(フライト)」の呪文で宙に浮く。そのままミルの背後にまわるとミルを抱え上げた。もともと子供だから軽いし、身につけている鎧も私も魔法銀(ミスリル)だから持ち上げてもさほどスピードは落ちない。
「ミルちゃん! あたしが飛ぶから魔法で奴の動きを止めて!」
「う、うん……」
 どうやら今の状況では私が支配している氷の精霊しか使うことができないようだ。しかし私は精霊と氷を維持するのに精一杯だ。どうやら多少ながら消耗しているようだ。
 けれど条件は向こうも同じだ。いくら精霊を操る指輪があろうとも、私の放った冷気が周囲の精霊のほとんどを封じていた。使える精霊がいなければ操ることも歪めることもできまい。
 予想通り、何体かの狂わされた氷の精霊が我々に向かってきた。次々にその者たちを私の一睨みで滅ぼしていく。可哀想に思えるかも知れないが、狂ってしまった精霊は自分の精霊界に帰りたがっているのだ。しかし自分ではその門を開くことができない。だからこうして彼らを帰してやっているのだ。
 そうは思ってみても罪悪感は拭いきれない。一通り倒すと周囲の精霊力が正常に戻った。フェルミナが更に速度を上げた。
 見えてきた。足首が埋まるほどの雪のなかでは逃げるスピードも自然に遅くなる。その分、飛んでいる方が有利だ。
 奴が振り向いた。吹雪気味の天候のなかではハッキリ見ることができないが、それでも指にはめられた不気味な精霊力は感じられる。なにか呪文を唱え始めたようだ。右手の指輪が光を放った。
 !
 急に体に苦痛のようなものが走る。不可視の網が私を捕らえようとしているようだ。
 この氷の眷属(けんぞく)の長たるこの私までも支配するつもりかっ! 
 しかし予想以上に指輪の呪縛は強かった。力技が多かったせいで消耗していたのも理由と言えば理由だが、指輪の魔力の強さが私を苦しめていた。
 自分の力が暴走しかけているようだ。ミルとフェルミナを護る結界(けっかい)が緩みかけている。冷気を含んだ風が吹き込んできた。
〈レイファルス! どうしたの!〉
 いや…… なんでも…… ない。
 人でいうところの「苦しそうな声」が私からもれる。
〈まさか…… あんたまで……〉
 安心しろ…… あんな悪党に操られるような私ではない……
 ああは言ってはみたものの、湖の氷を維持し、二人を冷気から護って、その上で呪縛を破ろうとするのはこの私でも辛いものがある。
 私の言葉にミルが顔を伏せる。私を握る手が小さく震えていた。寒さが身に堪えるのか、それとも私を心配して……
〈許さないからね!〉
 え?
 ミルの予想外の言葉に思わず耳を疑ってしまう。そのことに気づいているのか気づいてないのか、ミルが私を握る手に力を込めた。
〈あんたが…… あんたがあたし以外の奴に…… しかもあんな三流の小悪党に尻尾振るなんて……
 誰が許しても、このあたしが…… あたしだけは許さないから!〉
 泣き出しそうなミルの声が震えている。瞳がわずかに潤んでいるのが見えた。強がっているけどミルも怖いのかも知れない。しかしそれを必死に表に出さないようにしているのが私にとって嬉しく、そして心強かった。
 私のマスターはミルだけだ。
 そう考えると力が漲ってくる。ミルがいる限り私はまだ戦える。
 己の精霊力を針のように鋭くして、私を縛り付けようとする魔力に叩きつける。異なる力のせめぎ合いが続き、唐突に繊細なガラスが砕けるような感覚とともに体が軽くなる。相殺された魔力の衝撃波が跳ね返ってくるが冷気の障壁でそれを防ぐ。
 呪縛を打ち破ることができたようだ。
 ルサームの驚愕の表情が見えないのが実に残念なのだが、この視界の悪さではしょうがない。私に向かう魔力は向こうが断ち切ったのだろう、すでに消え失せていた。
 もう大丈夫だ、ミル。
 私の言葉にミルの表情が明るくなる。ミルが何か言いかけるが、それよりも私の注意を喚起することができた。
 ルサームがまた呪文を唱え始めた。妖しげな指輪に無理矢理精霊が呼び寄せられようとしている。
 まさか…… 周囲の精霊は私の強烈な精霊力に押されて封じられている。使えるのはせいぜい精神の……
 もしかして戦乙女(バルキリー)! となれば使ってくるのは十中八九〈戦霊槍(バルキリージャベリン)〉だろう。
 ミル! 急げ。下手にあんなもの喰らったらひとたまりもないぞ!
〈…………〉
 どうしたミル!
〈あたし…… なに使ったらいいか分からない……〉
「ミルちゃん!」
 フェルミナが悲鳴じみた声をあげる。
 確かに氷の精霊を扱う方法はほとんど知られていないし、氷の精霊力が周囲にある状況自体がそれほど多いわけではない。現に氷の術に精通する精霊使いも見たことがない。私自身が力を使うことができれば簡単なのだが、今の私ではこれ以上力を分散させるのは無理がある。
 だからミルの言いたいことも分からないでもないが、そんなことではいけない。
 いいかミル。精霊魔法というのは古代語魔法とは根本的に違う。意志を持たないエネルギーを操るのではない。それぞれが意志を持つ精霊が相手なのだ。自分の希望を言ってみろ。型にとらわれるな。心の中身を素直に声にするんだ。
〈うん…… わかった。
 凍てつきし氷の少女フラウよ……〉
 ミルの声が途切れる。その間にも現れた戦乙女の手に光輝く魔法の槍が握られる。あの腕が振り下ろされれば……
 ミル、急げ。
〈フラウよ…… 我が眼前の者に雪娘の抱擁を、凍てつきし冬の戒めを!〉
 槍を投げかけることに集中していたその人影を中心に、足元の氷にくもの巣のようなひびが生じる。その中から巨大な氷の手が人影につかみかかった。
「な……!」
 ルサームの声はその途中で悲鳴に変わる。その悲鳴も吹雪にかき消される。集中が途切れ、解放された戦乙女がその槍の目標を術者に変更した。光の槍が人影を貫いた。それだけではおさまらず何度も何度も光が手に現れ、放たれる。
 悲鳴が吹雪の中で消えるのにさほど時間はかからなかった。人影が「人」から「物」に変わったのを確認すると戦乙女もまた雪の中に消えていった。

〈戦霊槍〉を全身に受けた死体は半ば人間大の炭と化していた。その姿を見たときミルは反射的に目を背けたがフェルミナは視線を外らさずに見つめていた。
「自業自得ね…… 精霊の怒りを買ったのよ。当然の報いだわ。」
 そう言う彼女はひどく悲しそうだった。
 冷気が緩んでくる。放っておいても元の湖に戻るだろう。さすがに今回は私も疲れてしまった。
「ねえ、レイファルス。融けない氷、って造れる?」
 まあ、な。
「じゃあ、水に沈む氷は?」
 できるが…… もしかしてフェルミナ……
「そう…… こんな奴には勿体無いけどね。沈めたいの、父さんの指輪を。誰も手の届かない水の底に。」
 ……そうだな。いいか? ミル。
「造ってあげて、立派なやつを。」
 分かった。
〈氷棺(アイスコフィン)〉の要領で凝縮した氷で死体を指輪ごと包み込む。あとは手を触れなくとも周囲の氷は割れ、この棺は勝手に沈むだろう。
「……行こうか。二人ともやきもきして待ってるわよ。」
 フェルミナが笑顔を見せた。長年の重荷から解放されたのだろう。なにか心残りはあるのだろうが…… いや、いいか。あとは本人の心の問題だ。
「うん!」
 雲が切れ、その隙間から明るい光が差し込んでくる。太陽の光に照らされた湖面が一斉に砕け始めた。その大合唱ののなか、最後に振り向いたときには氷柱が水中に没するところだった。

 それから二日後。
「ふわぁぁぁ…… 眠いなぁ。」
 ミルは眠くないときはないのか?
「失礼ね。レディにそんなこと聞くもんじゃないわよ。」
「や、相変わらずやってるわね。」
 フェルミナ……
「マスターがね、今日出発するって言ってたから見送りにきたのよ。」
「すみません。私達のために。」
「いいの、いいの。好きで来たんだから。
 ……でさ。ちょっと悪いんだけどレイファスル貸してくれない? 二人きりで話したいことがあるの。」
 は……?
「別にいいよ。
 いい? レイファルス。いきなり襲ったりしたらダメよ。」
 おいおい…… 私をなんだと思っているんだ。
 とにかく剣のままでは移動できないので魔狼に姿を変えて人目のつかないところで二人きりになる。
 そのときになって気づいたのだが、フェルミナはいつもの魔術師のローブ姿ではなかった。おそらくどこかに出かける途中だったのだろう、あでやかに着飾っていた。私の前でクルリと一回転するとニッコリ微笑みかけてきた。
「ありがとうね。色々な意味で。」
 礼ならミルに言ってくれ。私はミルの言うことに従ったまでだ。
 私の言葉にフェルミナはフフッ、と笑みをもらす。なんなんだ? いったい。
「相変わらず謙虚なのか、自分をよく知らないのか……」
 独り言のように呟くと屈んで私の鼻先に指を突きつける。
「心の動きは精霊の動き。あなたも精霊ならもっと人の心を勉強するべきね。心の脆さ、そして強さを。」
 …………?
 何が言いたいんだ?
「あなたが人間だったらね……」
 はあ……?
「この言葉の意味が分かったら、またザインに来て。ね、約束よ。」
 あ、ああ……
「じゃあ、ね。レイファルス。」
 それだけを言い残すとフェルミナは街の方に消えて行った。気のせいか何となく寂しそうに見えた。
 フェルミナの言葉を反芻していると、彼女の歩いていった方からミル達がやってくる。
「ねえ、ねえ、なに話してたの?」
 さあ…… 私もよく分からない。
「レイファルスでも分からないことがあるんだ。」
「意外と大したことないわね。」
 どういう言い方だ。まあいい、まだまだ旅路は長い。またのんびりしていると時間だけが無駄に過ぎていくぞ。
「そうですね。参りましょう。」
 シャランの号令にまた西に向かっていく一行である。
 ……そういえばミル。フェルミナに『あなたが人間だったらね。』と言われたのだがどういうことだろう?
 私の質問に三人が顔を見合わす。しばらく三人で話し合っていたようだが、結論がまとまったらしい。代表してエレナが口を開いた。
「あんたって…… もしかして鈍感?」
 はあ?
「女心って考えたことある?」
 へ?
 返答できないでいると、揃いも揃って大きなため息をつく。
 ……私が何をしたんだ?
「よし、あたし達が女心について解説してさしあげましょう。」
 女心ですか……
 こうして道中、私はいかに女の子というものが繊細か、などということを散々聞かされることになる。どうもミルやエレナが言っても説得力がないような……
 はあ、人間の心って難しい。
 今更になって悟った私であった。

 

〈END〉

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