− 第十章 −
右腕が強く引っ張られる。予想以上の力だ。しかし、俺の鍛えられた筋肉はワイヤーの張力も小脇の少女の重みもしっかり支えていた。
ワイヤーが音を立てて右手の中の機械へと消えていく。それも含めて俺達は凄いスピードで夜の空を、遊園地のイルミネーションの海を飛んでいた。
もう見えるところまで近づいていた、俺達を引っ張っている「物」が。
ワイヤーのフックはあの「ノヴァストライク・コースター」の座席の一つに引っかかっていた。後はワイヤーを回収して、二人ともシートにおさまって発着場に戻ればよいだけだ。
と、説明すると非常に博打的な方法に聞こえるが、実際はコースターのコースに速度、ワイヤーガンの出力、周囲の気象条件、俺の腕力などなど、様々な条件を考えた上での作戦である。まあ…… ホントのこと言えば俺が「ジェットコースターを使った派手な脱出がしたい!」とジャニスに駄々をこねて、彼女が実現可能で安全性がそれなりに高く、なおかつ俺好みの派手さを演出できるプランを立ててくれた訳だが…… ううむ、なかなか派手でいい。さすがジャニスである。
「キャァーーーーッ!」
その当のジャニスは俺の腕の中で相変わらず悲鳴をあげている。が、そんなに怖がっている様子はない。逆に言えば俺を信頼している……と言うことかな?
ま、いいか。
コースターの最後尾が近づいてくる。さすがにここに降りるのは余裕がないからもう少し先の車両にしよう。かといって、あまりのんびりし過ぎるのも考えものである。今、このノヴァストライク・コースターは長い直線の加速帯を通過している最中だ。もう少しすると目玉の三連逆ループに入る。さすがにそこまで宙ぶらりんというのはゾッとする。
ワイヤーが更に右手の中に吸い込まれていく。一両…… 二両…… 三両…… そろそろいいかな。なんて思った瞬間、俺もジャニスも予想だにさえしなかったアクシデントが起きた。
急に右手の感触が変化する。いうなれば綱引きの最中に相手がいきなり手を離した、そんな感じだ。
そのままだよ……
今まで俺達の身の安全を支えていたワイヤーがその態度を変え、俺達に襲いかかってくる。ワイヤーの強度と張力を考えると、こんなもんに叩かれた日には簡単にスライスされてしまうことだろう。
本能的に右手のワイヤーガンを放り投げた。できるだけ自分達から離れるように。この暗さとスピードでは細いワイヤーを見るのは不可能だ。後は情けない話しだが運任せである。
激しい風の音に混じって何かが空を斬る音が聞こえる。耳元なのか離れているのか全く知ることできない。
「グッ……!」
右腕に激痛が走った。ワイヤーは避けられたようだが、最後のフックが腕を掠(かす)ったようだ。フックの先の爪が肉を抉る。血が噴き出す感覚がした。これだけですんだのはまだ幸運だったかもしれない。しかし、これで危険が去った訳じゃない。
ワイヤーを捨てたからにはこのまま黙っていたらこのスピードでコースターのレールに叩きつけられることになる。さすがに俺もそんなことになって平気でいる自信はないし、ジャニスは確実に命を落とすことになるだろう。
また俺の生き残ろうとする本能が身を助けた。一瞬の激痛で気を失いかけながらも右腕が眼下のコースターを捕まえるように動いた。最後のギリギリで最後尾の車両のシートに手がかかった。渾身の力を込めて離さないようにシートを掴む。
「グ…… グァッ……!」
力を込めただけで激しく右腕に痛みが走る。傷口が広がり血が大量に流れるのが分かる。
「ジーク! あ…… いけない……」
激痛とジャニスの声が意識を覚醒させるが、それと同時に「ジーク」と呼ばれたことで体に残っている「悪魔の囁き(デビルウィスパー)」が再び俺の心を支配しようと動きだした。
頭の中をかき回されるような感覚と共に腕の中の少女は敵だ、と囁くような声が聞こえるような気がした。
悪魔め…… まだ俺を縛り付けようとするのか。俺は怪盗フェイクだ、怪盗フェイクだ…… 消え去れ!
激しい風が、流れる血が、腕を走る痛みが、そして…… 腕の中の少女の存在が悪魔の呪縛を打ち破った。
「大丈夫だジャニス。俺は負けない。」
風の音に消されないように大声で、自分にも言い聞かせるように叫んだ。腕に力が入らない。二人分の重量を支えるので精いっぱいだ。つまり、このままコースターに片手でしがみついたまま三連逆ループに飛び込まなければならないのだ。
時間が長く感じられる。血の気が失せていくのが自分でも分かる。気を失いかけそうになっても激痛と左腕の重みをそれを許さない。いっそのことこの手を離してしまえば、とも考えそうになるが、その意志に反して右腕は生き残ろうと全力を尽くしていた。
全身の筋肉、心臓、肺。そんなところまで不快感と痛みが走り始めてた。どうやら薬の禁断症状のようなものだろう。しぶとく悪魔が俺に襲いかかる。
呼吸が乱れる。胸が苦しい。脂汗が出てくる。目の焦点が定まらない。
永遠にも感じられる時間が過ぎたと思ったが、まだ一つ目のループを越えただけだった。この拷問のような苦痛から逃れられるなら何でもしたい気分だった。それでも身体は耐え続けていた。
「安心、しろ、ジャニス、絶対、君だけは、守り、抜いて、みせる。」
自分でも声が出るのが不思議だった。俺の声で気が遠くなりかけたジャニスがゆっくり目を開ける。
ふと、別れ際にセリフが脳裏に甦った。
『まだあの娘には人生のやり直しができるんだからな。』
そうだな、俺みたいな奴のためにあの娘の人生を狂わせるわけにはいかない。ましてや死なせるなんて……
俺の体がいつまで保つか知らないが…… やるしかない!
そして、やっと二つ目のループを過ぎる。あと一つだ。二つループを越えたから若干スピードも緩んでいる。けれどまだ飛び降りても平気な速度ではない。
体力と名のつくものはすでに使い果たしていた。陳腐な言い方かもしれないが今の俺を支えていたのは「精神力」や「気力」みたいなものだった。
一瞬でも気を抜くと意識が闇の中に沈んで行きそうになる。痛みはすでに麻痺していた。音も、光も、匂いも、全ての感覚が消え失せていた。時間も空間も超越したような、何も感じられず、また逆に全てを感じられるような奇妙な気分だった。
「……! 前!」
その声が不意に聞こえてきた。ジャニスが何か叫んでいる。間をおかずにつんのめるようなショックが来た。
いつの間にかにコースターは発着場に戻っていた。スピードを殺すためのブレーキが俺達を前方に吹き飛ばした。
また宙を飛びながらもジャニスをかばうように身を捻ってできるだけ背中から落下するようにした。背中に強烈な衝撃。どうやらプラットホームに落下したようだ。とりあえずこれ以上の身の危険はなさそうだ。
眠い…… 全身の疲労はすでに限界を越えていた。意識がぼやける。ジャニスが身じろぎするのがわずかに感じられた。
「ジーク! しっかりしてっ! 死んじゃダメよっ! ジーク……」
ジャニスが泣いているようだ…… 泣くなよ…… 俺は大丈夫だから……
そんなことを考えながら、俺の意識は完全に闇に飲み込まれていた。
(どうだったんですか?)
(……なんとも丈夫な奴だ。骨折の類はない。全身を強く打っているのと右腕の裂傷、筋肉の激しい疲労に薬の影響だけだ。)
(じゃあ……)
(だがな…… これだけは言っておくが、普通の人間なら二回死んでオツリがくるほどの重傷だ。四肢がついてただけで奇跡なんだ。血液の損失も多いし…… 油断はできん。)
(…………)
(そんな泣きそうな顔をすんな。今は生死の間をさまよっている所だ。後は体力と生きようとする気持ちだけだな。)
(…………)
(だから泣くな、って言ってるだろ。こんなところ誰かに見られたら俺が悪人にされちまう。
……まあ、嬢ちゃんに出来ることといったらあいつがどこぞの川を渡らないように手招きしてやることだな。)
(…………)
(……俺はあいつを信じているぜ。一番身近にいる嬢ちゃんが信じないでどうする?)
(…………)
(……事後処理で忙しいから一度戻ることにする。また様子を見に来る。)
……どうやら夢だったらしい。何の脈絡もなく俺は目覚めた。白い天井が見える。俺はベッドか何かの上にいるようだ。そういやあ少し前もこんなことがあったな。
身じろぎしようとして全身に鈍い筋肉通が走る。右腕が動かない。堅く包帯が巻かれている。しかも左腕には注射針、その先を追うと点滴が吊るしてある。
どうやら俺は病院にいるらしい。理由が全く思いつかな…… そうだ、思い出した。腕を怪我して、ジェットコースターにつかまって、放り出されて…… 冷静に考えれば大怪我しててもおかしくないわな。
病室は俺一人の個室のようだ。そういえばジャニスはどうしたんだろう。夢の中で声を聞いたような覚えが……
よっこらしょ、と身を起こした。飾り気のない室内には俺が寝ていたベッドと小さな戸棚。そして窓があって…… 部屋の隅に布団が畳んであって椅子も置いてある。誰かいたのかな……?
窓から外を見ると白みがかった太陽が見えた。まだ惑星フェルミサスにいるようだ。
外を見ながら考えごとをしていると背後のドアが開く音がした。医者か看護婦か、面倒くさくなって振り向かずにいると何かガラスが砕けるような音がした。
さすがに気になって振り返るとそこにジャニスが立っていた。彼女の足元には元は花瓶だったらしい破片と水が広がっていた。
「ジャニス……?」
見る間に少女の栗色の瞳が潤んでくる。涙がジワッと浮かんできた。
「ジーク……」
弱々しい声がジャニスの口から漏れる。フラフラと夢遊病者のような足どりで病室に入ってきた。
「ジーク……」
あと二歩でベッドの横に来られる距離に近づいたときに急にジャニスは飛びかかるような勢いで俺にすがりついてきた。
「良かったぁ…… 気がついたんだ…… 良かったぁ、良かったよぉ……」
泣きながら何度も何度も同じ言葉を繰り返すジャニスにどう声をかけたらいいのか分からず、そのまま彼女のさせたいままにしていた。動けなかった、という説もある。
しばらくそうしていたが、泣き疲れたのか声が小さくなったかと思うと静かな寝息を立て始めた。
そのときになって始めて気付いたが、ジャニスは少しやつれていたようだった。その安らかな寝顔を見ていると自分が彼女にひどく申し訳ないことをしたような罪悪感にとらわれた。
「ごめんなジャニス……」
そっと髪に触れたが、少し痛んでいるような気がして一層心が痛んだ。
眠る少女をそっと軽く抱きしめた。「なんだ、生きてたのか。」
この日の晩、ロイドが(たぶん)見舞いにやってきた。そして開口一番こうである。
「てめえのしぶとさは感動ものだな。五日間も眠り続けた人間とは思えん。人類が絶滅してもゴキブリと一緒に生き残ってるんだろうなあ。」
「ああそうかい。」
いつもの毒舌だ、と分かっていてもつい不機嫌な声を返してしまう。そんな俺達の様子を見てジャニスがクスリと小さく笑いを漏らした。
「ん? 何かおかしいか?」
「いえ……」
言いかけてチラッとロイドの方を見る。珍しくロイドは困ったような表情を見せた。
「ロイドさん、ああは言ってますけど……」
「頼むよ嬢ちゃん。言わんでくれや、ジークがのぼせ上がっちまうからよ。」
そう言われてジャニスが口を閉ざす。
気になるなぁ…… ま、いいや。ロイドが帰ってから彼女に聞けばいいか。
「さっき医者に聞いてきたが、一月は安静にしてろ、ということらしい。」
一月かぁ…… 普通の人間ならな。
「で、一月経ったら迎えに来てやる。一応は俺の手に落ちたわけだからな。一緒にGUP本部まで来てもらおう。」
えっ、とジャニスが驚いた顔をした。彼女にとって初耳だったのだろう。当然、俺にとっても初耳だった。ロイドが来たこと自体から嫌な予感はしていたんだが…… 捕まったことになっていたのか?
「まあ…… 俺としてはこんなケリのつけかたは気にいらねえが…… なっちまったもんはしょうがないわな。
ま、俺も忙しいから今日は帰らせてもらう。ちょくちょく寄らせてもらうからな。」
バタン、とドアの閉まる音と共にロイドは帰って行った。病室内に沈黙が訪れる。先に口を開いたのはジャニスの方だった。
「ごめんなさい…… 大怪我したジークを前にどうしたらいいか分からなくて、ロイドさんに助けを求めて…… まさかこんなことになるなんて……」
そう言ってすまなそうにうつむくジャニスの頭にポンと手をのせた。
「何言ってるんだ。それが最良の方法だったんじゃないか。これで下手に普通に救急車を呼んだら怪我の理由やらなんやら追求されて余計大変な目に遭ったんじゃないのか?」
「でも……」
「なーに、心配するな。まだまだロイドごときじゃあ俺を捕まえるなんて無理さ。」
「で、でも…… まだ体が治ってないのに……」
フフン、と俺は不敵な笑みを浮かべた。ジャニスもロイドも俺の回復力を甘く見ているな。さすがに今は無理だが……
「一週間後だ。そのときトンズラするぞ。」
「え? ええっ? 待って、だって一月は安静にしていないと……」
「俺を信じなって。それより用意して欲しいものがある……」
そう前置きしてジャニスに「作戦」を説明した。困惑と呆れの混じった表情が彼女の顔に浮かぶ。
「本気?」
「もちろん…… というわけで少し寝るわ。用意は任せたよ。」
「はいはい……」
横になって目を閉じるとすぐに眠気が襲ってくる。まだ全然体力が回復してないようだ。
「でも…… 無理しないでね、ジーク。」
そんな声が聞こえたような気がした。一週間後。
深夜の病院。これほど不気味なところも少ない。昼間は清潔感を表す白い壁が逆にある種の恐怖心を煽(あお)る。ペタ、ペタ、というスリッパの足音がいやに響く。静かに「仕事」したいからスリッパは脱ぐことにした。
腕の傷は包帯の下で見えないがほとんど治っている。もし見たら医者もビックリするに違いない。体内の「気」をコントロールして治癒能力を高めるなんて隠し芸が使えるとはジャニスも知らないことだった。普段はこんなに大怪我することが無かったんで使わずじまいだったのだ。
体力もだいぶ戻っていたし、薬の影響も無くなっていた。さすがに全力は出せないが、それでも常人以上の能力は発揮できるほどには回復していた。そうなったからにはこんなところに長居したくはない。
ジャニスの話しだとここは警察病院だった。警官や捜査官、それに容疑者や参考人が治療しつつ警護するための施設だ。俺は今回の事件の参考人として治療を受けていたことになっていた(らしい)。
巡回の看護婦や警護の人間に見つからないようにある部屋を探していた。たとえ警察関係の施設とはいえ、結局のところ病院には変わりない。必ず「あの部屋」が存在するはずである。
やっぱりあった。そして俺の予想通り、この部屋には重要ではないが多用するものが置いてあるために簡単に使えるように鍵が掛かっていなかった。
こっそりドアを開ける。さすがに大量に保管されている。あればあるに越したことはないが、あまりたくさん持ち出せばすぐにバレるだろうし、少ないと俺がまた大怪我することになる。
……まあ、これだけあれば大丈夫かな?
外に出して積み、ジャニスが来るのを待った。しばらくすると看護婦姿(これが結構似合っているんだな)のジャニスが台車を押してやってきた。ここは警察病院なため、出入りの人間のチェックは厳しかった。泊まり込みしているジャニスが外に一度出て、また深夜に入るためにはこんなことをしなければならなかったのである。
「これだけで足りる?」
台車に積んだ量を確認する。ま、何とかなるでしょう。
「多分…… とにかく、後は手はず通りに。決行は明日の朝。」
「了解。」
「じゃ、俺は戻るから。」
「そうね、怪我人はあまり表をうろつかないで下さいね。」
ジャニスに向かって小さく手を上げ、彼女の背中を見送ると俺は病室に戻ることにした。次の日。
毎日の習慣のようにロイドが見舞いに来た。タイマーを使ってるかのごとく朝と晩の二回、決まった時間に俺を馬鹿にしに来る(としか俺には思えん)。
今朝は珍しくあのよく分からない新米ザックも一緒だった。
「よお、相変わらず寝たきりか?」
「ああ…… まあな。」
努めて弱々しい声を出して応える。
「まあ、あれだな。早く元気になって一緒に帰ろうや。」
ニヤニヤしながらロイド。心の中で遠慮するよと思いながら、そんなことをおくびにも出さずに思い詰めた表情で口を開く。
「ロイド…… そのことだが、少し話しがある。いいか?」
俺の真剣な態度にロイドも真面目な表情を見せた。ロイドに向かって口を開く前にベット脇にいるジャニスに目をやる。
「悪いがジャニス、少し席を外してくれないか。」
「……分かったわ。」
目を伏せたままジャニスが二人に一礼をして病室を出て行こうとする。去り際に俺に向かってニッコリ微笑む。俺もロイドやザックに気付かれないようにウインクを返した。
「なんだ…… 嬢ちゃんには聞かせられない話しか?」
「ああ……
正直なところ…… あの娘は何か犯罪を犯したことになっているのか? 俺はいいとしても、あの娘を巻き込むことになるのなら……」
「おめえが全部罪をかぶるってか? それでも構わんが…… 基本的にハッキングは現行犯か確実な証拠がないと逮捕できないからなあ…… あと可能性としては窃盗の共犯くらいだが、その辺も証拠がない。
おめえの単独犯、ということになれば何も引っかかることはしてないだろう。」
ま、そりゃそうだろう。俺だってその辺は気をつけている。そう言いたいのを顔に出さずにまた言葉を続ける。
「そうか…… なら俺も安心だな。約束だからしょうがないな……」
適当に名残惜しそうな話しをして時間を稼ぐ。ロイドも普段の毒舌が消えて昔の話しなんかをし始めた。
さて…… そろそろかな。ジャニスの移動速度を考えると……
『ジーク様。ジーク・ホーンスタード様。お連れの方が下でお待ちです。至急お越し下さい。』
病院内の館内放送が突如聞こえてきた。ロイドもザックもビックリしたように身構える。なぜならその放送の声の主はジャニスだったからだ。
「ジーク! なに企んでやがる!」
「なに、って言われましてもねえ……」
一動作で立ち上がりシーツを投げつけた。もがく二人を後目に窓に飛びつく。窓を開くと風が入り込んでくる。窓には格子がはめられていたがレーザーソードで斬り飛ばす。
「俺も意外と忙しい身でね。失礼させていただきますよ、捜査官殿。」
俺の服装はすでに怪盗フェイクのそれになっていた。隠し持っていたバイザーを身につけ、マントをひるがえしながら窓から身を投げた。
「ば、馬鹿な。ここは五階…… あっ!」
ロイドが窓から身を乗りだしたのが見えた。してやられたような顔をしている。
「フェイク! 急いで!」
通信機にジャニスの声が飛び込んでくる。俺はトレーラーの屋根に着地していた。当然ながら何かしらのトリックを使わないと無事ですむわけがない。なーに、トリックといっても難しいものじゃない。ある物をクッション代わりにしただけだ。
……そう、ここまで言えば分かったかも知れない。俺達が昨晩忍び込んだのは病院のリネン室だ。そこには大量の毛布やマットレス、枕などが保管されている。それを少々拝借したのだ。
毛布類をその下に敷いてあったビニルシートでくるみ、屋根から蹴り落とす。今回は借りただけだから出来るだけきれいなまま返そう、というわけだ。時間があればリネン室まで戻したのだが…… さすがに今回は忙しすぎた。
開いた窓からドライバーシートにもぐりこみ、イグニッションをひねった。力強い音を立ててエンジンが息をふきかえす。乱暴にクラッチを繋ぎ、アクセルを踏み込んだ。激しくホーンを鳴らしてからトレーラーを動かし始める。
「追うぞ! 来い、ザック!」
上からロイドの怒鳴り声が聞こえたが、気にしないでハンドルを回し、出口の方に向けた。この病院は飽くまでも警察関係の施設なため、警護しやすいように侵入しづらく造られていた。侵入しづらい、ということは逆にいうと出るのも大変、ということだった。
しかし文明の発達した悪影響なのだろうか、警備に人間を使ってはいるが、ほとんど機械に頼っていることには変わりない。ここも入り口と出口にそれぞれゲートが存在するが、コンピューターにちょっと揺さぶりをかけただけで門扉を開いてくれる。緊急用の手動のことも考えて入り口側の監視システムにダミーを流して人間さんの注意を引きつけた。そして出口側のゲートをロックする。
これだけならまだ追いつかれる可能性があるので更に小細工をする。
まずは病院を中心に通信を妨害させた上に救急車を何台も急行させた。救急患者を優先的にこの病院に送るように指令をあちこちに流した。もちろん手遅れにならないような範囲で抑えてある。俺達のせいで無関係な死者は出したくない。
あとは都市警察(シティポリス)にも偽情報を流してこの惑星を脱出しやすいようにも手をうった。
「どうだった?」
後ろの部屋からジャニスが助手席に移ってきた。バイザーやマントを外しながら少女に親指を立ててみせた。
「バッチリ。ジャニスのおかげで簡単に脱出できたよ。」
「でも…… わざわざロイドさんの前で逃げなくても、夜とかに脱出すれば良かったんじゃないの?」
「いやぁ…… そうかもしれんがな……」
正直いってロイドに一泡ふかせたかったのと…… もう一つの理由はロイドの仕掛けた小細工を警戒したからだ。逆にあいつの前で逃げ出し、そこから動かさないようにした方が脱出が容易と考えたんだが……
「ちょっと演出に凝りたかった、というところかな。」
「まったく…… 派手好きなんだから……」
わざとらしくため息をつくジャニスに気楽に声をかける。
「いいじゃないの。とにかく、さっさとこの星を出ることにしよう。しつこいのが来る前にさ。」
「そうね……」
ジャニスはチラッ、と腕時計に目を落とす。
「あらら。シャトルの発射まであまり時間がないわ。急いだ方がいいわね。でも…… スピード違反で捕まらないようにね。」
「分かってますって。」
俺の運転するトレーラーは一路宇宙港に向かっていた。拍子抜けするほどあっけなく俺達はシャトルに乗ることができた。エクセル社の会社ぐるみの大犯罪で惑星から出る人間を警戒しているかと思ったが、その心配は取り越し苦労だったようだ。
会社ぐるみの犯罪、ということになっているが、結局それ以上の追求はいつの間にかに闇に消え、「レイス」の名が表面化する事はなかった。予想はしていたが、汎宇宙的犯罪組織の大きさを改めて痛感したような気がする。
宇宙港で買った新聞によると、この事件が大々的に取りあげられていて「GUP捜査官のお手柄」って感じで報じられていた。どこぞの大衆紙が怪盗フェイクとこの事件の関係を匂わすような記事を載せていたが、悲しいかな元々の信憑性の低さから半ばおとぎ話的な扱いをされていた。
「ふん、だ。」
別な恒星系に向かうシャトルは順調に航行していた。俺は読んでいたプラスチックペーパー製の新聞を折り畳むと空いた座席に放り投げる。そんな俺の態度を見てジャニスがクス、と笑った。そんな彼女は隣の席でラップトップ相手に今回の収支決算をしていた。どんだけ借金が減ったことやら……
あれ……? そういえば何か忘れているような気がするんだが……?
「あ、そうそう。」
目を保護するコンピューター用の眼鏡を掛けたジャニスが顔を上げた。その顔にちょっと意地の悪い笑みが浮かんでいる。胸のポケットの中から何かを取り出すとそれを指先で広げた。明るい銀色のカード。俗にプラチナチェックと呼ばれる高金額のプリペイドカードのような物……
「ああーーーーっ!」
立ち上がっていきなり大声を出した俺に周りの乗客の視線が集中する。何事もなかったような振りをして座るが気まずさはなかなか消えない。ジャニスが少し冷めたような声を出す。
「みっともないわよ、ジーク。」
「ジャ、ジャニス。それは……」
確かあれは俺がリューベックの部屋で見つけた物で…… なんでジャニスが? あの後ジェットコースターや何やらで大怪我して…… あの時か?
「まったく…… 油断もスキもないわ。こっそり隠しているなんて…… とにかく。見つけたからには没収させて頂きますので。」
そこには普段の美少女の影はない。冷酷にお金を小銭まで数える借金取りの姿しか無かった。ジャニスにはこういう一面もあるんだなぁ…… と今更ながらこの姿を見る度に考えてしまう。
「で、今回の仕事の結果ですが…… 金額は言わない方がいいですね。ジークが虚しくなるだけですから。
それでも利子を越えた分の収入がありましたので、元金が少し減りました。」
「少し……?」
「まあ…… ホンの少しですが。」
と、親指と人差し指を近づけて「少し」の程度を示す。確かに切なくなるほど少ない。あれだけ苦労したのに……
「でも…… 確実に減っているから……ね。返済は不可能ではないわ。あと、病院に記録されたジークのデータは消去したからやり残したことはないはずよ。」
ラップトップを閉じて眼鏡を外すといつもの微笑みを見せてくれた。さ、次も頑張りましょ、と俺を元気づけようとする。
まあいいさ。この宇宙の阿呆が少しは減ったんだし、その結果で満足するとしよう。そんなことを考えているとスチュワーデスが俺の名前を呼んでいるのに気付いた。
「ジーク・ホーンスタード様ですね。惑星フェルミサスから伝言を承っております。どうぞ。」
と、プラスチックペーパーを渡してくれる。それを一瞥すると何も言わずに隣に渡した。
「え? なになに?」
ジャニスはその紙片を読むと苦笑を漏らした。きっと俺も似たような顔をしているんだろう。
「これ…… どうする?」
「捨てろ、そんなもん。」
思わず嘆息すると目を閉じた。文面が思い出される。ロイドからのものだった。
『嬢ちゃんとおめえの活躍に免じて今回は見逃してやる。が、次は容赦しないからな。
P.S.
ザックが嬢ちゃんによろしく伝えてくれ、とさ。』
どう見ても負け惜しみとしか思えない。しかもあの新米はジャニスのことを諦めていないらしい。ロイドの言う「次」が永久に来ないことを祈るだけだ。
ふと、右の肩に重みがかかった。片目だけ薄く開くとすでに夢の世界に入ったジャニスが俺にもたれ、静かな寝息をたてていた。
俺もなんか眠たくなってきたので開いた目を再び閉じる。
眠りに落ちる瞬間に緋色の輝きを見たような気がした。
〈end〉