− 第二章 −

 

(はぁ…… 私はどうしてこんなところにいるんだろう……)
 今更になってジェルが戯言(たわごと)を呟いている。諦めの悪い奴だ。教壇に立ってからぼやいても完全に遅いような気がする。
(はぁ……)
 また一つ大きなため息。
 聞こえないように言っているつもりなんだろうが、最前列にいれば口の動きくらいは見える。そしてあたしは昔暇なときに読唇術の練習をしたことがあった。あとはジェルの言いそうなことを考えれば容易に内容は想像がつく。
(……ラシェル。私の唇を読んでも何も景品は出ませんよ。)
 ちっ、気付かれたか。
 また最後に小さくため息をつくと、開き直ったかのように喋り始めた。
「えー、本日より『宇宙技術概論』を教えることになったジェラード=ミルビットです。以後お見知りおきを。」
 あれ…… そんな講義だっけ……? ってすごい無責任なことを考えてしまった。まあいい、何を話すか知らないが聞いてやろうじゃないの。
 三十分後……
 そうだったなぁ…… 別にジェルは口下手だ、とは一言も言ってなかったな。しかし、あれだけ弁が立つとは知らなかった。
 そういえば…… 舌戦は異常に強かったような覚えが……
 結論だけ言ってしまうとジェルの講義はそれなりに面白かった。大学に遊びに来たり、新しい講師を冷やかしに来た(あたしは一応違うわよ)ような連中には耳障りだったろうが、それなりに聞く気のある人にとってはためになる代物だった。
 冷やかし連中の中には高度な問題(あたしには理解できないような)を質問して、逆に更に高度な返答(当然ながらカケラも理解できない)をされてやりこめられた場面もあった。
 そうよね。よーく考えたら宇宙船を造れるような奴だったわね。しかし…… それだけの人間だったら多少社会的に認められてもいいはずなのに……
 昔リーナちゃんがジェルのことを「扱う範囲が広い」と説明していたが…… この講義の内容を聞く限りではその「広い」範囲の全ての学問のスペシャリストなのだろう。あまり知識のないあたしにもジェルの淡々と説明する表情でわかる。あれは自分の知識に相当の自信がないとできないだろう。
 時には高度な理論を理解し易いように噛み砕いて、時にはジョークを交えながら講義は進んでいく。
 ピピピピピ……
 ジェルの左腕についているアームコンピューターが微かな電子音を発した。それに気付くとジェルは言葉を切り、小さく肩をすくめた。
「この続きは次の機会、ということで。今日はここまで。」
 そう言って去ろうとするジェルが一瞬こっちを見た。
(どうでしたか?)
 とその唇が小さく動く。あたしはそれにウインクで返し、指で丸を作る。見えているのかいないか知らないが、そのままそっぽを向いてジェルは教室を出て行った。

「結構面白かったわねラシェル。」
 友達のシリアが肩をたたく。考えごとをしていたのか振り返るのに時間がかかった。
「う、うん。そうね。」
 生返事が口をついて出る。シリアはそんなあたしを訝しく思ったのか、眉をひそめた。
「どうしたの? 今日は珍しく前の席に陣取るし…… あ、もしかして……?」
 シリアが意地悪そうな笑みを浮かべた。当然ながらあたしは断固否定する。
「なんでさ…… どうしてそういう発想に結びつくのよ。」
「だってさあ。顔は人並だけどさ、若そうだからね。ちょっと気になる、と言ってもおかしくないんじゃない?」
「待てい。」
 何が悲しゅうてジェルになんかに興味を持たなきゃならないんだ? 確かに別な意味で興味のある奴だけど……
「ただ…… あの講師がね、あたしの知り合いなのよ。だからつい目がいっちゃってねぇ……」
 全てではないが、とりあえずある程度の真実を述べておくことにする。嘘を言って、それが後でバレたら余計に怪しまれるだけだからね。
「ふーん。」
 気乗りのない返事をするシリア。半信半疑なのだろう。それはそれで構わない。どーせ何を言っても尾鰭(おひれ)背鰭(せびれ)がつくときはつくんだし、当たり障りのないところで止めておくのが賢明である。
「それより、もうすぐ次の講義よ。」
 腕時計をシリアの目の前に掲げて時間を見せる。大学の講義というものは各講義ごとに受講する人が違うから教室もその度に移動しなければならない。
「あー、ごまかしてるー。」
「勝手に言ってなさい。」
 あーだこーだ推論を言う友人を無視して次の教室に移るために外に出る。シリアが慌てて追いかけて来たのが見えた。

 さて、時間はいきなり飛んで昼である。昼からは三時くらいまで講義がないのでのんびり昼食をとることが出来そうだ。
 あたしはシリアと別れて一人校内を歩いていた。こんなところを彼女に見られたらまた誤解されそうだが、実はジェルを探して歩いていた。
 なぜか、と聞かれても困るが、何となくあいつから目を離しているとロクなことが起きないんじゃないか、という…… 何というか予感、というか心配があるからだ。
 はて…… どこに行ったのやら?
 しかし予想以上に大学というのは人が多いものである。あいつが行くとしたらどこだろう……?
 もともと方向音痴の上に知らない場所である。ウロウロと当てもなくさまよう姿が目に浮かぶようである。
 別に見つけてどうしよう、ということでもないが、放っておいても害にしかならないような気がしているだけである。
 でも…… ほんとにどこにいるんだ?
 そんな理不尽な怒りを覚えようとしたとき、向こうから何か黒いものが走ってくるのが見えた。その黒いものはあたしの足元で動きを止めてニャーニャー鳴き出す。
「……スコッチ?」
 名前を呼ばれた黒猫はクルリと向きを変えると一声鋭く鳴いてからいきなり走り始めた。
「ちょ、ちょっとどうしたのよ?」
「ニャン!」
 何か急いでいるようだ。ふと、考える。スコッチはジェルの家の猫だけど、今日は連れてきていない。他にいるとしたら…… リーナちゃんがここに来ているんだろうか?
 ジェルが弁当を忘れたとかなんとか言ってたけど…… わざわざ持ってきてのかな?
 何を急いでいるのか知らないけど、とりあえずスコッチの後を追うことにした。

 スコッチは走り続ける。あの小さな体のわりにスピードは速い。気を抜くと置いて行かれそうになる。それでもスコッチはたまにこっちを振り返ってスピードを調整しているようである。
「どこまで、行くの?」
 少し息が切れそうになる。体力に自信があるわけではないが、それでも人並と自負している。しかし、それ以上にスコッチのペースが速いのだ。相当急いでいるようである、
 いつの間にかに校舎から外に出て裏の方に回っていた。ジメジメした感触が足の裏にある。日のあまり当たらないところで、直線距離的には遠くないのだが何かと周囲の死角となって、いうなればガラのあまりよくないところだ。
 その一角で何人かの男が何かを囲んでいるようだった。何を囲んでいるか分からなかったけどかすかに声が聞こえてきた。
「手を…… 手を離して下さい……」
 本人にとっては出来るだけの大声で言っているのだろうが、その声はか細くはかなげだった。
 リーナちゃん!
 その中にいたのはジェルの研究所の住み込みの助手の少女、リーナちゃんだった。おそらくお弁当を届けに来たんだろうけど、広い敷地で道に迷い、ガラの悪い連中に目をつけられてからまれたのだろう。またはそんな連中に間違って道を訊ねてここに連れてこられたのかもしれない。人を疑うことを知らない純真な娘だからなぁ……
「ニャン!」
 スコッチがその男達に威嚇の声を上げる。背中の毛を逆立てて飛びかかろうとしている。
「何やってんのよ、あんた達! その娘から手を離しなさい!」
 あたしとスコッチの声で男達が振り返る。その男達の一人に手首を掴まれたリーナちゃんも振り返った。
「ラシェルさん……」
 おびえの中に安堵の表情が混じる。その足元にはバスケットが一つ転がっていた。恐らく届けにきたお弁当なんだろう。
「なんだぁ。おめえも俺達に付き合ってくれる、てえのかい?」
 男の一人が好色そうな醜い笑みを浮かべて近寄ってきた。スコッチの威嚇の声が高くなり、あたしの前に立ちはだかる。
「へ、なんだこの猫。」
 男が無造作に足を振り上げた。その瞬間、スコッチが素早く跳び上がり、そいつの顔に爪をかけた。
「! このくそ猫がぁ!」
 頬に三本の赤い筋を作った男がスコッチに襲いかかる。しかしヒラリとスコッチが身をかわして男の攻撃は全て空振りに終わる。
「このぉ……」
 別な男も加わって二人でスコッチを追い回す。さすがに二人が相手だとスコッチに分が悪い。しばらく逃げ回っていたが、首の後ろを捕まえられてジタバタとするしかなくなってしまった。
「へっへっへ…… 人間様に逆らうとどうなるか思い知らせてやるぜ……」
「止めなさい!」
 あたしの声を鼻で笑うと男はスコッチを壁に投げつけた。
「いやぁっ!」
「スコッチ!」
 黒い毛の塊が壁にたたきつけられると落下した。またヨロヨロと立ち上がろうとするが足元がふらついている。それでも威嚇を止めない。
「こいつまだ動いてるぜ。」
 残虐な考えに喜びを隠せないような顔で男が動けないスコッチに近づいて足を大きく上げた。男の意図に気付いて、あたしは考える前に動いていた。
「だめぇ!」
 まるで予想外のことだったらしく、あたしの体当たりを受けた男は無様に転がった。その隙にスコッチの前にかばうように立つ。
「このアマぁ……」
 他の男達が今の男を馬鹿にしたように笑う。仲間の前で恥をかかされたらしい男が怒りに顔を赤くして立ち上がった。
「メチャクチャにしてやる……」
 物騒なことを言いながら近づいてきた。あたりに人影はない。たとえ悲鳴を上げたとしても聞こえないだろう。
 誰か助けて……
 心の中で呟くが世の中はそんなに甘くない。怖くない、といったら嘘になるが、それでもあたしは相手を睨み続けていた。

「ギャア!」
 男達の後ろから男の悲鳴がいきなり聞こえてきた。リーナちゃんを押さえていた男が地面に倒れていた。そしてその男にそばに別な男が立っていた。
 眼鏡の奥の目が不機嫌な光をたたえていた。右手にはバチバチと電撃の刃を持ったバトンを持っている。その背中にリーナちゃんを隠すようにかばっている。
 白衣の裾を揺らしながらジェルが前に一歩出た。
「その辺にしてくれませんか。」
 冷ややかな目で男達を睨むジェル。その目を怖い、と思ってしまった。
「私としては無駄な争いはしたくないのですがね。」
 また一歩踏み出すジェル。底知れぬ雰囲気がある。いきなりあらわれた男と、手に持つ不可解な武器が男達に恐怖を与えた。悔しそうに舌打ちすると口々に「おぼえていろ!」と悪態をつきながら逃げようとする。
 最初ジェルはその背中を見送る予定だったらしい。しかし、ボソリと口を開く。
「やっぱり止めた。」
 その呟きは何か虚ろな響きを持っていた。ジェルがバトン――スタンブレードを持つ手を水平に上げた。
「サンダーストライク!」
 ジェルの叫びと共にスタンブレードの電撃の刃が稲妻となって伸びていった。背後から逃げる男達を電撃の網が絡みとる。
 稲妻を浴びた男達は痙攣と共にバタバタと倒れていく。全てが地に伏せるまで十秒もかからなかった。

「フム…… 骨には特に異常はない。打撲のショックで動けないだけですな。よくやりましたよ。」
 簡単に黒猫を診察するとそう言ってスコッチの頭を撫でた。さっきまでの不機嫌そうな顔は消えている。まだあまり動けないスコッチを肩にのせるとゆっくり立ち上がった。
「ジェル…… あんた……」
「ん? どうかしました?」
 振り返ったジェルはいつものとらえどころのない笑みを浮かべていた。ジェルのしたことに文句を言おうとしたけど…… 黙って首を振るだけにした。
 なんであんなことしたのよ、て聞きたかった。だけど、一瞬見せた目に宿る悲しみのような光と、寂しそうな声を思い出して何も言えなくなっていた。
「あらら…… せっかくの弁当が…… ま、汚れたわけじゃないようですから大丈夫でしょう。」
 転がったバスケットを拾い上げ、軽く汚れを払うようにたたく。そしてまだジェルの後ろに隠れるようにしているリーナちゃんにそれを手渡す。
「ほらほら、もう悪は滅びましたから私にしがみついている必要はありません。リーナも来ていたのなら一緒に昼にしましょう。」
 ……そうだ。本人は気付いてるかどうか知らないけど、ジェルは嫌な事があった後、饒舌になる癖がある……ようだ。自己嫌悪に陥りながらも自分のやった事を後悔してない、という矛盾がそうさせているのだろう。
「ラシェルさん…… どうかしましたか?」
「ううん、何でもない……」
 リーナちゃんの言葉にまた小さく首を振る。ジェルはあたし達をおいて歩き始めていた。肩に黒猫を乗せた白衣の背中が遠ざかっていく。そこに向かって小さく呟いた。
「ジェル…… ありがとう。」
「なーに、気になさらずに。」
 ジェルがヒラヒラと手を振った。その体から張りつめていたものが緩んだような気がした。こういう姿を見るから、つい目が離せなくなる。これが…… あたしがジェルに抱いている「興味」だった。
 ジェルはたまに「救い」を求めているような気がするんだ。あたしの勝手な主観だけど。
 えーい、やめやめ。そんなに暗い事考えてもしょうがない。空腹も感じてきたのでリーナちゃんと一緒にジェルを追いかけるように歩き始めた。

「こ、これは……」
 日当たりのいい芝生を見つけて三人と一匹で腰をおろす。暑くなく寒くなく、ポカポカといい日和だった。
 さいわい、バスケットの中身の被害はほとんどなかった。これも日頃の行いのよさのあらわれである(少なくともジェルのでない事は確かだ)。
 そしてお楽しみの中身だが…… これは何なのだ? 白い粒をたくさん集めて三角形に固め、それに黒い紙のような物を張り付けている。食べ物なのかどうかすら怪しい。
「これ…… 食べれるの?」
 当たり前でしょう、と言いたそうな顔でジェルがその謎の三角形にかぶりつく。ひときしり口を動かし、飲み込んでから口を開いた。
「これはですね、そもそもアジアで主食だった米を炊いて握った物でしてね……」
 と、延々とこの「オニギリ」なる物の説明をしてくれた。それを話し半分に聞きながらおそるおそる口に入れてみた。
 なるほど。柔らかく、それでいて噛みごたえがあり、ほのかな塩味と米のうま味、それに「ノリ」の味が調和し合って…… なかなかに美味しい物である。あたしにとっては初めての経験だった。
「あとはお茶があれば……」
「あ、博士どうぞ。」
「おおっ! 焙じ茶ですね。これはありがたい。」
 あたしにとっての「お茶」のイメージからかけ離れた茶色の液体が香ばしい香りと共に湯気をあげている。今までの経験からジェルやリーナちゃんの味覚は信用に足る事は分かっていた。よし、あたしも……
「悪いけどさ、あたしにももらえる?」
「すみません、気付かなくて……」
 あたしの元にもその「ホウジチャ」なる物が来た。グリーンティは飲んだ事があったが、それとはまた別の風味が感じられる。
 口をつけると火傷しそうに熱かったがそれがまた香ばしさをより引き立てているようだ。爽やかな味わいが口に広がる。確かにこれは「オニギリ」とよくあった。世の中にはあたしの知らない味が多いわ……
「ははぁ……」
 ジェルがニヤリ、と人を不安にさせる笑みを浮かべた。
「どうやらラシェルはこういうのには明るくないようですね。」
「そうね……」
 だいたい、宇宙船が空を飛ぶご時勢では国の特色自体が曖昧になって「どこそこ料理」なるものも廃れた感がある。それでも家では「フランス料理」が多かったような気がした。
「なるほど…… うちに来たときに色々食べさせてあげましょう。」
 これでなぁ…… ああいう笑い方さえしなければ期待できるんだけどねぇ…… ま、リーナちゃんが料理するわけだから不味い物がでるわけじゃないけどね。
 カプ。
 あたしは二つ目にとりかかった。
 しばらくして昼食が終わる。ジェルは次の講義があって急いで校内に戻って行った。リーナちゃんはあたしの隣でスコッチと遊んでいる。
 うーん。天気がいい。
 ゴロン、と寝ころんだら気持ちいいだろうなぁ…… と思ったところでプッツリ記憶が途切れている。

 何かくすぐったいような感覚で目が覚めた。どうやら陽気で眠ってしまったらしい。体を起こそうとして黒い物が鼻先にぶつかりそうになった。
 胸の上に黒い毛玉が乗っている。規則的に膨らんだり縮んだりを繰り返している。どうやら髭があたしの鼻を刺激したらしい。
「こら。」
 声をかけるとそれが身じろぎをしてから身を起こす。黒一色の中から口が開き、次に二つの目が開く。フワァ〜と大きな欠伸をしたスコッチが身を伸ばした。
 太陽が少し傾きかけている。時計に目を落とすと…… ヤバッ、次の講義にすっかり大遅刻じゃない。
 まあいいや。そんなに真面目に出ていた講義じゃないし、落とす心配のないやつだし……
「ふぅ〜」
 小さく息をつき、スコッチを両手で持って半身を起こす。すると今度は黄色い物と顔を付き合わすことになった。
 目の前に黄色のスポーツカーがとまっている。普通に売っているホイールカーにはこれと同じデザインの物はない。陳腐な言い方をすれば宇宙に一台しかないマシンである。でも……
「あんた、何やってんのよ。」
〈何、と言われましても……〉
 その車――ダッシュパンサーが人間なら口ごもるような口調で応えた。朝乗ってきたやつだけど…… 迎えに来たとか……?
 ふと気になって辺りを見回す。こいつがいるのなら近くにいてもおかしくないはず。でも見あたらない。芝生に腰掛けたままパンサーに聞く。
「ねぇ、ジェルは?」
〈博士ですか? 今お仕事中…… と言いたいところなんですが……〉
 時間的にまだ講義の真っ最中ね。
〈中で寝ています。〉
「……たたき起こして。」
〈は?〉
 口調を変えないあたしの発言にパンサーが確認のためか間抜けた声を出す。でもあたしは本気だ。ゆっくり立ち上がり、それを教えるためにことさら大きく縦に首を振る。パンサーの運転席では幸せそうな顔でジェルが眠りこけている。
〈いいんですね。責任は…… 取って下さいね。〉
 しつこいくらいに念を押すパンサーの口調に思わず笑いたくなるのを堪える。よほどジェルのことが怖いらしい。手をヒラヒラさせて行動を促す。
〈後悔しても……〉
「早くしなさい!」
 さすがにイライラしてきた。いきなりあげた大声に腕の中のスコッチがビックリしたように身をすくめた。多分パンサーも身をすくめたかったのだろうが、金属製のボディではすくめようがない。それでも一瞬震えたように見えた。
〈じゃあ…… 少し下がって下さい。〉
 そういえば「たたき起こして」とは言ったものの、どうやってするかまでは考えてなかった。いくらジェルでも車に手を生やすようなマネはしないだろう…… きっと。
 とりあえず言われた通り、スコッチを抱えたまま後ろの二、三歩下がる。
 ほとんど音らしい音もたてずにジェルの寝ているリクライニングシートが上がった。それと同時に運転席の上の屋根がゆっくり開く。ジェルはまるで目覚める様子がない。
 屋根が開ききると空気が吹き出るような音と共にシートが勢いよく持ち上がりジェルは短時間ながら大空の人となった。
 まるで図ったかのようにあたしの足元に落ちてきた。芝生の上で数度バウンドしてから驚いたように、いや、これで驚かないわけがなくジェルが起きあがった。
「パンサー! お前ねぇ……」
 ジェルの怒鳴り声が途中で凍り付く。あたしの睨むような視線に気付いたのだ。あたしが一歩近づくとジェルが一歩後ずさる。
「ハ、ハハ、ハハハハハ……」
「ごめんねジェル。お休みのところ。
 でさ、一つ聞きたいんだけど……」
 ニッコリ微笑みながらジェルに詰めよる。そしてありがちなパターンだけど、当然ながら目だけ笑ってない。
「ねぇ…… ジェルさぁ……」
 もう一歩足を踏みだした。下がったジェルの背がパンサーのドアに当たる。
 更に一歩。もうジェルに猶予はない。
 雰囲気と相手さえ良ければ映画のヒロインが主人公に告白するシーンにも見えなくもない。大きく息を吸う。無論、緊張や思い切りをつけるためではない。
 自分では形がいい、と思っている唇をゆっくり開く。声帯が震え、その振動が音に変わる。
「何考えてんのよ、このボケェ! いい加減にしないとぶっ飛ばすわよ!」
 あたしのカミナリがジェルに落ちた。
 でも、良く考えるとなかなかに平和な光景なのかも知れない、な。

 

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