Valkyrie’s tale
 第1章
 
 

「あの者しかおらんな……」
「そうだな。あの者しかおらぬ。」
 蝋燭の灯りを囲んで数人が口々に同じ意味のことを呟きあう。その場にいた者に共通点を見出すとするならば誰もが齢を重ねているところくらいだろう。
「あ奴にこの世界の運命を委ねよう……」
 しわだらけ達がうなずきあった。
「決まりだな。」
 ここまで一言も発しなかった、この中では最高齢の老人が口を開いた。
「あの男を勇者に……!」
 それで全てが決まったように蝋燭の炎が消された。暗闇の中一人、また一人とこの場を離れていく。やがて沈黙だけが場に満ちた。

「と、言うわけだ。」
 その老人が言うと、言われた若者は、
「と、言うわけだ。」
 と、口調を真似して静かに言い返す。老若の視線がわずかに絡み合うと、一拍の間をおいて若者の方が激昂して立ち上がる。
「じゃねえっ!」
 立ち上がった若者は上背も高く、それでいて身長を感じさせぬ均整のとれた体躯の持ち主だった。テーブルにバシンと手を叩きつけると上に乗った飲み物がわずかに浮くが、それでも目の前の老人は動じた様子もなく、相手を苛立たせるようなゆっくりの動きで茶をすする。
 もしかしたらワザと怒らせようとしている可能性を考え、ゆっくり腰を下ろし自分もお茶に手を伸ばす。老人の指が茶菓子代わりの漬け物をつまむ。ポリポリという音があたりに響く。再びお茶をすすり、空になった湯飲みを若者に向ける。
「もう一杯もらえるかな?」
「待てえぇぇっ!」
「お茶請けは甘いモンの方がええのお。」
「くぉらあぁぁぁっ!」
 ふむ、と喚く若者を興味深げに眺める老人がポツリの口を開く。
「怒ってばかりおると長生きせんぞ。」
 ピタリと若者の動きが止まる。呆れたようにため息をつくと、おとなしく座り直して額に手を当てる。
「やっと理解できた、お前ら爺さん連中にどうしてお迎えが来ねえのか。
 まあ、そんなことはいい。すまねえが、もう一度言ってくれるか。」
 毛穴からも吹き出しそうな憤りを抑えながら、若者は絞り出すように言う。対する老人の飄々とした態度はまるで崩れない。
「よし、しようがない。もう一度言うから耳の穴かっぽじって良くきけよ。」
「ああ。」
「おぬしはこの村の勇者に選ばれた。よって魔王を倒すために冒険の旅に出るのじゃ。」
「…………」
 最初に聞いた話と全く変わらないのを再確認するとガブリとぬるくなったお茶で口の中を潤す。さっきから大声を出していたせいで喉がカラカラだった。
「なんで俺が?」
「お前の瞳には勇者の光が見える。」
「ほぉ、」
「今のは冗談だ。」
「だろうな。」
 いい加減、怒鳴るのも飽きたのか老人の言葉に素っ気なく返す。冷めた目で聞き返す。
「本音は?」
「お主の父親の時と同じじゃよ。残念ながらこの村に『勇者』として外の世界に出せる人材がおらんのじゃ。」
「勇者、か。」
 若者――フィックスはそのあまり使われない単語をしみじみと呟いた。
 

 剣の世界ワーズライト。
 しかしこの名で呼ぶ者はいない。
 今はこの世界はワーズダークと呼ばれている。

 50年前。突如として現れた世界で唯一の魔術師ザウエル。彼は魔王ザウエルを名乗り、世界の支配を宣言した。
 無論そのような戯言が通じるはずもなく、討伐に各地の王達が動き出した。
 しかし、魔将を筆頭とする魔神や妖魔と呼ばれた存在は武器による攻撃を全く受け付けず、魔法という物が存在しない以上、人間に勝ち目はなかった。
 街は破壊され、建物はがれきの材料に過ぎなかった。人の命が風前の灯火であることを世界中が知った。
 全ての抵抗力を失わせた後、魔王は再び世界の支配を宣言した。

 そして50年。人々の生活は元に戻ったように見えた。人々は魔王に貢ぎ物を強要され、そして魔王に逆らう者には平等に死が与えられた。

 しかし……
 人々にはまだ希望があった。
 人の姿をとると言われる武器の精霊。
 ヴァルキリーと呼ばれる神秘の存在。
 唯一、魔に対抗できるもの。
 それが人間にとっての最後の希望だった。
 

 このワーズダークは大きく四つ分けられる。
 一つの大陸と、小島群が存在する海の世界。シー・クォーター。
 森林が多くを占める森の世界。フォレスト・クォーター。
 世界の峰アズウェルト山を中心とする山岳地帯。マウンテン・クォーター。
 空虚の砂漠がほとんどを占める砂漠の世界。デザート・クォーター。
 フィックスの住むレルトの村はシー・クォーターに位置している。このクォーターには珍しい山間の村で、鉱業と鍛冶で成り立っている。
 フィックスはさほど多くない身の回りのものをまとめると、住み慣れた家の中を見回した。特に感慨らしきものはわいてこないが、生まれてからずっと育った家だ。この家を離れるとなると、やや寂しいものを覚えても仕方がないだろう。
 家の中にあった酒瓶を二、三本だけ残すと、残りを抱えて外に出る。
 村のあちこちの煙突から煙が立ち上るのが見える。鍛冶の村らしい光景だ。
 その中の村はずれから立ち上る方に向けて歩き出す。
 一軒の小屋がちんまりと建っていた。近づくにつれ中からごうごうという炎の音と、カンカンと金属を打ちならす音が聞こえてくる。フィックスは板作りの粗末な扉をノックした。返事を確認しないで中に入る。
「爺さん、入るぞ」
 炎と金属の音が更に大きくなる。なれてない人間なら耳をふさぎたくなるやかましさだ。
 中には一人の老人が鎚を振るっていた。その齢にも関わらず、その身体は厚い筋肉におおわれている。腕が振り下ろされる度に鋭い金属音が響き渡り、鋼に命が吹き込まれていく。
 老人は一本の小剣を鍛えていた。細かく形を整えると、また熱い鋼のかたまりを水につけた。磨き粉でこすり、刃を研ぐ。あらかじめ作っておいた優美な鞘におさめると、そこで初めて老人は手を休めフィックスに振り返った。
 その瞬間、身体から発せられていた闘気にも似た気配が消え失せ、全身の筋肉のうねりも鳴りを静める。しかし顔からはその鬼神のような険しさは消えない。
「お前か。」
「ああ、今日は挨拶に来た。」
「そうか。」
「俺は旅に出ることになった。荷物になるからこれはやる。」
 と、酒瓶を床に置いていく。
「ほぉ…… いい身分だな。これからは地方の地酒を楽しむつもりか。」
「かもな。」
 ふっ、と老人の顔から険がとれる。
「……飲むか。」
「ああ……」

 小鳥の声が朝の到来を告げる。
 わずかに痛む頭を押さえ、フィックスは身を起こした。半眼で部屋の隅に置いてある水瓶から水を一杯汲む。部屋にこもる熱気でぬるくはなっていたが、その一杯で意識がハッキリしてきた。
 そこで部屋の様子の変化に気付く。空のも含めて酒瓶は全て片づけられていた。部屋の真ん中には武器屋の店先のように武器が並べられていた。
 小剣に始まって大型の斧、杖、などなど。全てが戦闘用に作られたものだ。しかしその中にも儀礼用としても通じるくらいの優美さを持っている。
「これは……」
「お前、父親のことを憶えているか?」
 背中を向けて眠っていたと思っていた老人が不意に問いかける。
「あんまり……」
 フィックスの父親は旅先で自分の妻を見つけてきて帰ってきた。そしてフィックスが生まれ、平和な生活が始まった。
 そして、フィックスの記憶では血相を変えた父親が外に出ていったのを最後に両親がいなくなり、その後父方の祖父であるこの老人に育てられたのだ。
「あ奴は腕のいい鍛冶だった。才能から言えば儂よりもずっと上じゃ。しかし……」
 そこで言葉を切る。
 次に言いたいことは分かっていた。
 この世界は「魔王」に支配されている。
 勇敢な者は自ら魔王を倒す旅に出るが、そういう者はごく少数であり、大抵は自分に災厄が降りかかってきても耐えるものばかりだ。
 しかしそれを好ましく思わない者たちが奇策を思いついた。交代交代で村や町から魔王を倒すための「勇者」を選び、旅に出させるというものだ。
「勇者」は数年間は故郷に戻ることを許されず、傭兵や冒険者と呼ばれる何でも屋や、その他の方法で、故郷を離れ生活しなければならない。
 二十年ほど前、フィックスの父親が勇者に選ばれ、そして今、その息子が勇者として旅に出ることになったのだ。
「……ったく。親子揃って爺不幸者だ。これは餞別だ。さっさと行ってしまえ。」
「…………」
 何か声をかけようと思ったが、止めた。老人の肩がわずかに震えているのに気付いたからだ。無言で床に並べられた武器類を拾う。
「じゃあ、行ってくる。」
「帰ってくるときは美味い酒と…… あとべっぴんの奥さんでも探してこい。」
「ああ……」
 肉親との別れをすますとフィックスはこの日の内に村を出ていった。

「しかし…… 武器なんかもらってもなぁ……」
 フィックスは一人呟く。
 昔から不思議なことに武器の類の扱いが全く苦手だった。道具として使う分には問題がないのだが、武器として使った瞬間、全然使えなくなってしまう。まるで武器が自分を拒絶しているみたいに。
 その代わりというわけでもないのだが体躯に恵まれ、熊ぐらいなら素手で倒したこともある。
「かといって、売って金にするわけにもいかないしなぁ……」
 路銀だって余裕があるわけではないが、それでも爺さんが心を込めて鍛えた武器を売るのは忍びない。
「ま、最終手段か……」
 こういうところがフィックスらしいところだろう。とりあえず、近くの街に行くためにのんびり人気のない山道を……
 いや、人がいた。
 遠目だが、女の子が一人。まだまだ子供だ。それだけだったら別に気に留めないのだが、その周りには数人男がいた。
 薄汚れた衣服を着て、腰には刃の厚めの剣をさしている。藪をこいだりするのにも使う物だ。無精ひげをはやし、真っ昼間なのに顔が赤かったり足下がおぼついていない。酔っぱらいなのは間違いない。
「…………」
 おそらく山賊かなんかなんだろう。酔ったついでに、一人で歩いていた女の子にちょっかいかけていると判断した。
 別に助けてやる義理もないし、悪党を見かけたら退治しないと、と思うほど正義感も強くない。
 が、何か気に入らなかった。
 昼間っから酔っぱらっているのも気に入らないし、あの臭そうな男たちの横を通るのも嫌だ。とにかく癪にさわる。
 で、これで向こうがこっちに気付いて、いちゃもんつけてきたり数に物を言わせて脅してきたら、もうフィックス的我慢ゲージが振り切れてしまう。
「お? なんだなんだ?」
 で、これから最悪の事態になることにも知らずに、男たちの一人が彼に気付いた。
 ふらふらとフィックスに近づいてくる。で、腰にさしていた小剣に目がいった。
「おぉ? なんや兄ちゃん、いいもん持ってるじゃねぇ〜かぁ?」
 それに対し、ニッコリ笑みを浮かべたフィックスがうんうんと大きく頷く。
「分かるか? 俺も良い物だと思ってるんだよ。」
 こんな二人のやりとりに他の男たち、そして女の子も振り返る。
「こんないいもん、お前には……」
 勿体ねぇ、と小剣に手を伸ばしかけた男がいきなり後ろに飛んだ。
「いやぁ、俺はお前みたいな弟は知らないし、更に言えば仲良くされる筋合いもない。しかもこの剣は大事な物だからやらん。」
 今の男がフィックスの容赦ない一撃に吹き飛ばされたのは明白だった。にこやかな笑顔とは対照的に握られた拳は今にも湯気が出そうだった。
 構えもなく、準備動作もなく、いきなりの一撃で大の男が吹き飛ばされたのだ。もう少し男たちの頭に理性があるかアルコールが抜けていたら、不幸になるのは一人ですんだのかも知れない。
「て、てめぇっ!」
「はっはっはっはっは。」
 殺気立つ男たちとは正反対に笑いながら、ドシドシ足音を立てながらフィックスは男たちに近づいた。
 相手がおぼつかない手つきで剣を抜く前に、人数と同じだけの打撲音が聞こえる。いかにも痛そうな音に少女が耳をふさいだ。
「よし。」
 何かをやり遂げた男の顔をすると、荷物の調子を直し、再び歩き出した。後ろは振り返らない。
「あの……」
 後ろから女の子の声が聞こえたような気がするが気にしない。
「あのぉ……!」
 さっきよりも大きい声。
 しかしこんなところでホイホイ振り向いていたら、一歩間違えると近くの山賊を全員ぶちのめさないといけなくなってしまう。
「あ……のぉ……」
 ……もう少し自重しよう。
 そうフィックスが心に誓ったとき、後ろの声の質が変わった。不意にかすれ声になり、ついでに何か軽い物が倒れるような音もする。
「…………」
 見なくても見当はつく。
 しばしの思考。
 ぶん殴った奴らは当分目が覚めないだろうから、放っておいても害はない。しかし倒れた女の子をこのまま置いていくのはよくないだろう。
 肩を落とし、舌打ちにため息まで大盤振る舞いして、フィックスは振り返った。予想通り、さっきの女の子が地面に倒れている。荒い息をついているところをみると、何かしらの病気かも知れない。
 見たことがないのでレルトの村の住人ではないのだろう。年の頃は十二、三だろうか。明るい茶色の髪の美少女だが、特にそんなことに興味はわかなかった。
 背負おうとして、背中に大量の荷物があることを思い出し、仕方なくそのまま抱え上げる。
(はぁ、俺らしくもない。)
 呟きながらフィックスはまた山道を歩き始めた。

「う、うん……」
 フィックスの腕の中で少女が小さくうめき声をあげた。ゆっくりと目を開く。髪と同じ色の瞳が不思議そうにフィックスを見つめていた。
「あの…… ここは……?」
「どこだと思う?」
 問われて少女が周囲を見回し、自分のいる場所に気づき頬を赤らめた。
「あ…… 
 ごめんなさい、すぐ降りますから……」
「無理するな。具合が悪いのだろう?
 近くの街までは連れてってやる。」
 聞きようによっては冷たく突き放した言い方でボソリとフィックスが言う。
「…………」
(この人…… 他人に親切にするの慣れてないのかな……?)
 自分を抱えている男の表情からは何も読みとれない。見られていることに気付いたのか、フィックスがわずかに視線を下げる。
「どうした?」
「あの…… その……」
 困ったような少女の様子をフィックスは何の感慨も見せずに眺めている。
(変な奴だな。
 そういえば、この近くに泉があったな。)
 何が原因で具合が悪いのかは知らないけど、直射日光の下、長い間移動するのも良くないだろう。一、二時間でも日差しを防げればだいぶ陽も落ち着くだろう。
 現に少女は額にうっすらと汗をかき、真上で輝く太陽を眩しそうに見ている。
(しょうがない。)
 旅の初日から順調ではないが、そもそもあてのある旅でもなし、気にすることではない。
 何も言わずに道をはずれ、林の中に入る。
「あ、あの……」
 少女が驚いたような声をあげる。
「お、お兄ちゃん……?」
「はあ?」
 いきなり「お兄ちゃん」呼ばわりされて、フィックスも妙な声をあげる。
「なんだそりゃ。」
「あ、でも…… その……
 まだ名前聞いてなかったので……」
「そう言われればそうだな……
 俺はフィックス。」
「あたしはフルーレ。
 遅れましたけど、助けてくれてどうもありがとうございます。」
 その少女――フルーレが礼の言葉を言うと、フィックスは横を向いて小さく舌打ちした。
「別に助けたつもりはない。
 俺は…… お天道様の高いうちから酔っ払っている奴が嫌いなだけだ。」
 その素っ気ない返事にフルーレはクスリと笑みを漏らした。
「お兄ちゃんおもしろ…… あ……!」
 なんか一回言ってしまったらくせになってしまったようだ。またフィックスが妙な顔をするが、
「好きに呼んだらいい。」
 どうせ、街に着いたら別れるのだろうと気にした様子もなく呟く。
「そお? じゃあ……」
 言いかけるフルーレがいきなり苦しそうに咳き込んだ。背中を丸め何度も咳をする。
「大丈夫か?!」
 フルーレのただ事でない様子に休めるところを探してフィックスは走り出した。
(もう…… 時間が無いんだ……)
 かすむ視界の中、フルーレの呟きが音になったのかは誰にも分からない。

 あやふやな記憶で林の中を走り回り、澄んだ泉のほとりにたどり着いたときには、さすがのフィックスも汗だくになっていた。
 フルーレは更に具合が悪そうに荒い息をついている。
 大木の根本の下草の柔らかいところ、そして直射日光の当たらないところを探し、ゆっくりフルーレを横たえる。
「ふぅ……」
 熱は無いので冷やす必要はないだろう。しかし意識が戻らない。
 走り回ったりして疲れたのか、それとも風が熱くなった体に気持ちよかったのか、不意にフィックスは眠気を感じた。
 フルーレの隣に腰をおろし、木にもたれかかる。
「フルーレ……」
 言いかけたところで、フィックスも眠りの世界へと落ちていった。

 苦しい息の中、少女はうっすらと目を開いた。
 体中の力が全て抜けていったようだ。
 もう彼女には時間が無かった。
 このままでは消滅してしまう……
 助かる方法は知っていた。
 しかし、隣で寝息を立てている男の言葉が思い出された。

『この剣は大事な物だからやらん。』

 …………
ごめんなさい、お兄ちゃん。

 意を決したように身を起こす。
 這うようにフィックスに近づくと、その腰に手を伸ばす。そこには質素ながらも精巧な作りの鞘に収められた小剣がある。
 鞘と柄を見ただけでも業物であることが分かる。フルーレが震える手で柄をつかむとゆっくり引いた。
 剣は一瞬抵抗を見せたが、すぐにその刃を光の元にさらす。
「きれい……」
 まるでそれ自身が光り輝くような刀身。無駄な重さを感じさせない絶妙なバランス。薄く鋭く、それでいて強固な刃。
 それを表現する言葉を探そうとして、結局一言しか言えなかった。
 身体を襲う脱力感が少女を正気に戻す。
 剣を一度鞘に戻すと、最後の力を振り絞って立ち上がる。
 チラッと寝ているフィックスの方に視線を向けてから、ゆっくりと服を脱ぎだした。
 一枚、また一枚と薄い布地が少女の足下に舞い落ちる。その間も身体が細かく震えていた。
(もう本当に時間がない……)
 最後の一枚が地面に落ちると、改めて剣を抜く。ため息が出そうな優美さにしばし目を奪われるが、小さく頭を振り誘惑から逃れる。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。」
 もう一度謝ると、深呼吸してから小剣を胸元に掻き抱いた。
 光が溢れ、一陣の風が吹いた。
 ことん、と一本の剣が脱ぎ散らかされた服の上に落ちる。
 少女の姿はどこにもなかった。

「うん……?」
 少し冷えてきた風がフィックスを揺り起こした。自分が寝てしまったことに気付くのに数秒。その後、ゆっくり身体を起こした。
 腰が軽いような気がして、ふと見ると鞘だけになっている。
「あれ?」
 更に辺りを見回す。
「なんだ?」
 少し離れたところにフルーレの服だけが落ちていた。ご丁寧に下着までも。
 脱ぎ捨てられた服の真ん中には小剣が一本置いてあった。
「…………」
 できるだけ服――特に下着を見ないように剣を拾い上げる。それを鞘に戻そうとして、
「?」
 その剣が違う輝きを放っているような気がした。じっくりと眺めてみるが、やっぱり祖父からもらった物に相違ない。
「気の…… せいか?」
 首を傾げ、小剣を鞘に戻す。そうして次の懸念に注意を向ける。
「フルーレはどこ行った?」
 服を脱いでいった理由が全く思いつかない。荷物は持っていなかったから着替えたというのもおかしい。
「水浴び……でもしているのか?」
 相手は子供だから覗きに行っても仕方がないのだが、この辺でも危険な動物が出ないとも限らない。
「行くだけ行ってみるか……」
 荷物を下ろし、立ち上がる。
 軽く耳をすます。水音も何もしない。
 誰か人がいるなら、しかも沐浴しているなら大なり小なり水音がするはずである。
「どこ行ったんだ……」
 泉にたどり着いても波紋の一つも見えない。底まで見えそうな透明な水が涼しげだった。優しいそよ風が吹くと、水面がわずかに乱れる。
「…………」
 その光景を眺めているが、事態はまるで進展しない。
 一回戻ろうと思った瞬間、不意に辺りの空気が変化したような錯覚におちいる。
 いや、実際に空気の質が変わっているようだった。さっきまでの澄んだ泉が急にどす黒い色に変わる。
 水の底から何かが沸き上がってくるようだった。激しく泡立ち、その「何か」が姿を現そうとしていた。
 それと同時に腰の小剣が何かを訴えるように震えだした。
 二つ同時に起きた不可解な出来事に、フィックスはとりあえず危険度の高そうな前方に集中することにする。
「何か」が水面から身を乗り出した。
 それをどう表現したらよいだろう。強いて近いものを挙げるとするならば、爬虫類だろうか。色と大きさを除けばトカゲかなにかのようだった。
 しかし色は闇よりも深い黒で、大きさといえば巨漢のフィックスですら丸飲みできそうである。
「ふ〜ん。」
 困ったようにポリポリと頬を掻く。
「こういうのは相手したことないなぁ。」
 ぼやいてから真後ろに跳ぶ。
 その巨大な頭だけが近づいてきた。その謎の怪物は巨大な頭に小さな手足がついただけの姿をしていた。それが泉の中から見かけにそぐわない敏捷性でフィックスに迫る。
 寸前で黒い怪物の一撃を避けると、逆に一歩踏み込んだ。そのまま鼻面に体重を乗せたパンチを叩き込む。
 会心の一発だった。たとえ相手が摩訶不思議な化け物だとしても、これだけの打撃を喰らえばただじゃ済まないはずだ。
 そんな思いこみが隙を生んだ。一瞬、怪物から目を離した時、何事も無かったかのようにフィックスに襲いかかってきた。
〈お兄ちゃん、危ない!〉
 聞こえてきた声に反射的に跳ぶ。直前までいた場所に怪物の口があった。もう少し反応が遅かったらスゴいことになっていただろう。
「フルーレ…… か?」
 どこから聞こえてきたかは分からないが、間違いなくさっきまで一緒だった少女の声だった。しかしそんなフィックスの呼びかけにも返事はない。
 とりあえず今の声は空耳だったということにして、怪物に向き直る。さっきの一撃でも相手にはこたえた様子がない。
「参ったな……」
 どうやら根本的にフィックスの攻撃が効いてないようだ。何かがおかしい。
〈お兄ちゃん……〉
「フルーレか? どこだ!」
 どこからともなく聞こえてきたフルーレの声には真剣の色が混じっていた。
〈あたしを信じて腰の剣を抜いて!〉
「……先に言っておくが、俺は剣が苦手なんだぜ。」
 何が起こっているのか理解していないが、嬉しそうに口元を歪める。どうやら目の前の怪物はただならない相手のようだ。そんなスリルがフィックスの中で膨らんでいく。
 一度間合いを開くと、刃を抜いた。
 木漏れ日を浴びた刀身が鮮やかな光彩を放った。フィックスの感じたとおり、さっきとは刃の輝きが違っていた。具体的にどう違うと聞かれても答えられないが、ただでも業物の小剣に更に磨きがかかったようだ。
 怪物を牽制するように横に一振りする。空気を斬り裂く音が鋭く響く。
(なんだ?)
 よく「武器は腕の延長」というが、まさにそんな感じだった。面白いように腕が動く。知識ではなく、身体が剣の扱い方を憶えているようだ。全く動きに迷いがない。心なしか身体も軽く感じられた。
 ニヤリ。
 フィックスの男臭い顔にクッキリと笑みが浮かぶ。いきなり間合いを詰め、剣を怪物の眉間と思われる部分に振りかぶった。
 斬られた怪物が苦痛に仰け反る。切り口からは一滴の血も流れず、黒い蒸気のものが吹き出していた。
 仰け反ったところで、喉元に見えるところを水平に斬り裂く。素早く剣を左手に持ち替えて、拳を叩き込む。ダメージを与えられなくても、衝撃で怪物が吹き飛ばされた。
〈今よ、お兄ちゃん!〉
「フルーレ?」
 さっきよりもハッキリした声が聞こえてくる。
〈いいから剣を正面に構えて!〉
「お、おう……」
 あの少女らしからぬ強い調子の声に、思わず言われたとおりにする。
疾風よ来たれ! 嵐よおきよ!
 凛とした声が響く。
 剣を中心に風が巻いた。  
我は風の民。我が風により、眼前の者に自由なる者の怒りを!
 お兄ちゃん、お願い!〉
「おう!」
 風をまとった剣を頭上に掲げ、怪物めがけ振りかぶった。
 疾風は刃となり黒い怪物に襲いかかる。全身を切り刻まれ、漏れ出す黒煙も風に吹き散らされる。
 嵐が過ぎた後、あの怪物は消え失せていた。泉と木々に静けさが戻る。
「さて……」
 額に浮かんだ汗を拭うと、刃を目の高さに持ち上げる。
「フルーレ。どういうことが説明してくれないか?」
 フィックスは祖父の与えてくれた小剣に問いかけた。
 

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