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秋田蘭画の発祥の基盤 / 小田野直武と秋田蘭画

秋 田 蘭 画 発 祥 の 基 盤

角館の武家屋敷      

角館の見学スポット  

芦名家と佐竹北家    

小田野直武と秋田蘭画

角館の祭りと名産品  

18世紀後半の秋田は江戸から遠い奥州にありながら、文化交流という見地に立てば決して辺境の地ではなかった。

一つは北前船(「金沢・長町武家屋敷跡」参照)の存在である。

瀬戸内海・日本海を経て奥州の地へ上方文化を運ぶ北前船は、時として長崎から京へ送られた南蛮の品々をも遠く秋田の地へと運んだのである。

京との関係が濃い久保田藩、角館支藩は藩主自身が積極的に上方文化を導入する旗手となったので、藩全体が上方文化に浸る機会に恵まれていたと言える。

第二は参勤交代による江戸文化の流入である。

当時、江戸での新興文化といえば蘭学であった。

蘭学は徳川吉宗が1720年(享保5年)、キリスト教関係書以外の書物の輸入を解禁し、オランダ語の書物が入ってきたことを契機として興った。

オランダ語研究は次第に人々を蘭学そのもの、医学、天文学、動植物学という実用的自然科学の研究へと導いた。

特に蘭学書物に描かれた詳細な挿し絵は、その正確さで人々を驚嘆させた。

日本における蘭学研究に洋画が必要不可欠となったのは、蘭学書に描かれた精緻な挿し絵が、人々の蘭学修得に果たした役割があまりにも大きかったからである。

しかし洋画技法修得のための技術指導を外国人から受けることは出来ず、又、洋風画そのものの必要性が美術とは直接無関係の蘭学という分野から興ったため、その画風は西洋画主流とも異なったものとなり、従って、画法研究は蘭学書の挿し絵の模写、即ち銅板画を写しながらの陰影法、遠近法の修得に頼らざるを得なかった。

蘭学とのつながりは当然、自然科学的に事物をとらえようとする傾向を強め、洋画は「理論による画法の成立」を目指し、新しい洋画法によって従来の東洋画を改革しようという動きになっていった。

こうした江戸での新興文化の勃興に加えて平賀源内(1729〜79)の存在がある。
 

蘭学の創始者でもある平賀源内は同時に、有名な物産学者・本草学者でもあった。

源内はオランダ人の江戸宿舎で見た洋書の挿し絵の精緻さ、見事さに感嘆し、ドドネウス著「本草書」、ヨンストン著「動物図譜」を苦心の末手に入れて、洋画の研究を始めた。

源内は1763年(宝暦13年)集大成した「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」に挿し絵を入れるべく、親友の宋紫石(そうしせき)に依頼した。

宋紫石はこの仕事により西洋画に興味を抱き、源内からヨンストン著の「動物図譜」を借り、ここから洋画法を修得すべく研究を重ねた。宋紫石は青年期の司馬江漢の師でもあり、小田野直武にも少なからず影響を与えている。

一方、多方面に多忙を究めた源内は自身で洋画法研究をする暇が無く、本格的洋画研究を目指す人物を他に求めていた。

こうした江戸での気運は参勤交代を通して陸路、秋田にも届いた。

更に、後の秋田蘭画の担い手となる久保田藩主・佐竹義敦(よしあつ)(号:曙山)は江戸藩邸で生まれ、18歳まで江戸で過ごし、江戸文化教養を身につけていた人であった。

藩主に備わった江戸文化基盤が後の秋田蘭画の誕生の誘因となった。

 

 


小 田 野 直 武 と 秋 田 蘭 画


小田野直武(1749〜1780)は角館城代・佐竹義躬(よしみ)の槍術指南役を勤めていた下級武士、小田野直賢(なおかた)の四男として生まれた。

直武は年少期より画才を発揮し、15歳で久保田藩の御用絵師から狩野派の画法を学んだ。直武と同じ年の城代・義躬は直武の後ろ盾となり、直武に浮世絵画法、琳派画法、漢画画法等、種々の画風を学ばせ、自らも直武を師としてそれら画法を修得した。

直武は17〜18歳で神社の奉納絵馬も作成するようになり、その名前は角館外にも聞こえるようになった。

直武17歳の作品「大威徳明王像図」は大威徳神社に残され、12年に一度、丑年の旧盆に公開される。

23〜24歳頃にかけ、直武の作品には写実的要素が加わってくる。

写実傾向の見られる作品として23才で画いた「柘榴図」が有名である。当時の江戸では宋紫石(1715〜1786)に代表される緻密な装飾的写生画体の南蘋派がもてはやされ、「宋紫石画譜」が参勤交代を通して遠く秋田まで運ばれ、直武に大きな刺激となったと考えられる。「柘榴図」ではまだ陰影法などは取り入れられていないが、精密な写実絵画の基礎を見出すことができる。

主藩・久保田藩は財政立て直し政策の一環として鉱山開発に着手する準備として、この事業に精通している平賀源内と鉱山技師の吉田理兵衛を1773年(安永2年)、藩に招いた。

阿仁銅山の調査に向かう途中、角館御用商人・五井孫左衛門の家に宿をとった平賀源内は直武の屏風絵を見てその優れた写生技術に目を留め、直武を五井家に呼び寄せた。

源内と直武の出会いについて、次のような言い伝えが残っている。

直武は源内から「鏡餅を真上から見た図を描くように」と言われ、困ったあげくに二つの円を描いた。これを見た源内は「これではただの円か盆かわからない」と言って、直武に洋風の陰影法を教えたと言う。

源内から西洋画の陰影法・明暗法を教えられた直武は洋画技法に驚嘆し、源内が秋田にとどまっている間中、源内に同行し、洋画の他にも物産学・本草学についても学んだ。直武の運命を変えた24才の出来事であった。

源内から教授された洋画技法は小田野直武を通して藩主・佐竹義敦に伝えられ、その画法を中心として洋画を志す角館城代・佐竹義躬や藩士・田代忠国が集まり、秋田蘭画隆盛の基礎が築かれていった。

当時、諸国物産の詳細・精緻な報告書の作成を試みていた源内は、秋田を去った後、直武にそれら物産の絵を描かせたいと藩主・佐竹義敦に願い出て許され、直武は3年間、江戸の源内の下で仕事をすることになった。義敦には直武に洋画を学ばせたいという意図もあったと思われる。

江戸に出た直武は源内のもとで西洋銅板画を範として画法の研究を行った。この時期の直武の作品にはヨンストン著「動物図譜」を写した「ライオン図」「白蛇図」等が残っている。





ヨンストン

宋紫石

小田野直武


翌年、杉田玄白が「解体新書」の図版を描く画工を探していることを知り、源内は直武を推薦した。

この仕事に携わる中で直武は、詳細な遠近法や明暗・陰影法に基づく洋風画法を修得し、更に蘭学にも触れる機会を得た。

解体新書の出版後、再び源内のもとで新しい画風を学び、技術を磨いた直武は独自の写実性の高い画風を確立し、「東叡山不忍池図」(重要文化財・秋田県立近代美術館蔵)「唐子図」「蓮花図」等の作品を次々と完成していった。江戸後期の洋風画の大家・司馬江漢も直武にその技法を学んだという。

1777年(安永6年)、直武が故郷へ戻ると、藩主絵御相手として久保田藩本城詰めを言い渡された。

秋田では直武の絵画が一躍流行し、安永期から天明期(1781〜1789)にかけての秋田を席巻した。

久保田藩主・佐竹義敦も角館城代・佐竹義躬も書画に優れ、かねてより参勤交代で江戸詰めになると直武を師として蘭画を学んでいた。

義敦(号:曙山)には「松に唐鳥図」(個人蔵・秋田県立博物館寄託)「竹に文鳥図」(秋田市千秋美術館蔵)「岩に牡丹図」「湖山風景図」(秋田市立千秋美術館蔵)等、義躬には「岩に牡丹図」「紫陽花図」(青柳家所蔵)等の作品があり、現在数少ない秋田蘭画として高い評価を得ている。

佐竹曙山「椿に文鳥図」
(神戸市立博物館蔵)




佐竹義躬「紫陽花図」
(青柳家蔵)

義敦は1778年(安永7年)「画法綱領」「画図理解」という日本最初の洋風画理論書も著している。彼の著した画論は、後に司馬江漢に継承され、明治にまで受け継がれていった。

直武は御側小姓という役につき、藩主の参勤交代にも同行するまでになったが、

1779年(安永8年)、勤務怠慢という理由で突然謹慎を言い渡された。勤務怠慢の意味する詳細は不明。

角館で謹慎し、赦免状を待ち受けていた直武は、平賀源内の江戸での牢死を聞いた後、死亡。享年32歳。病死か自殺か定かではない。

直武、義敦、義躬の描き出した秋田蘭画の世界は、洋風の博物学的写実性や遠近法・陰影法が取り入れられ、東洋と西洋が混在しあった気品ある独自の世界を展開している。

秋田蘭画では画題としてはるか遠く西洋へのあこがれを表した物を採り入れることもあったが、東洋風な画材構成に洋風技法を加えた作品が多い。

鎖国下の日本で、しかも江戸から遠く離れた東北の地で、秋田蘭画は直武と曙山(佐竹義敦)によって花開き、2人の夭折とともに短い開花期を終えた。

しかし、「富嶽図」「不忍池図」に見られる風景画は、後の司馬江漢に多大な影響を与え、更に曙山作「松に唐鳥図」、直武作「鷹図」の前景を極端に拡大し、近景と遠景だけで構成する画法は、江漢を経て北斎・広重へ、そして北斎や広重を学んだゴッホやモネ等の近代絵画にも大きな影響を与えた。

佐竹曙山「松に唐鳥」
 




小田野直武「鷹図」

 

秋田蘭画を世に紹介したのは小田野直武と同じ角館出身の画家・平福百穂である。
平福百穂の歌を2首
 

いちはやくおらんだぶりを画(えが)きしは

吾が郷人(くにびと)よ小田野直武

壮(わか)くして逝きにし人の阿蘭陀絵は

 世に稀なれやくりかへしみつ


 


 

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