父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第9章「もや (喪屋)」を4回に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)

(T)
 「もや」という語は、古事記にみえる語であるが、不思議にも、これが奄美方言には、今日までも生きて
いて、喜界島では、そのまま「モヤ」として用いられ、奄美大島では「モーヤ」となまっている。そして、この語にからむ習俗も近代まで残っていたらしく、これによって、日本の古代葬儀様式をも垣間見ることができる。なお、これに関連して「イャンヤ」という語が、大島本島南部ではよく用いられている。「イャンヤ」は「岩屋」のなまりで、これには著しく、天岩戸神話の反映が認められる。「モヤ」または「モーヤ」は、その示すべき対象が「イャンヤ」と呼ばるべきものと混同されて、本来「イャンヤ」と称すべきものを、モヤまたはモーヤと呼ぶようにもなっているが、これは、つまりは葬儀様式の発展を示すものであろう。

 「もや」という語は、この島の方言の事例からして、わが国古代の風葬様式を示すものであろう。古事記が伝承の記録であるからには、たとえ、その神代巻に「水田」の記事があったとしても、水田米作が、わが国の大昔からの米作法であったと信ずることはできない。伝承というものは、現在の事物事象と結びつき、場合によっては、その神話的説明になる場合が多いからである。これと同じく、「もや」が古事記の神代巻に現れても、これは、古事記作成前後の風習でもあったとみることもできる。
 古事記神代巻に「天若日子が死せる時、その妻(め)、下照姫の哭かせる声、風のむた響きて、天(あめ)に到りき。ここに、天(あめ)なる、天若日子が父、天津国玉(あまつくにたま)の神、又その妻(め)子供(こども)聞きて降り来て、泣き悲しみて、すなわち其処に、喪屋(もや)を作りて、河鴈(かはかり)をきさりもちとし、鷺を箒持(ははきもち)とし、翠(そに)鳥を御食人(みけひと)とし、雀を碓女(うすめ)とし、雉(きぎし)を泣き女とし、かく行ひ定めて、日八日(ひやか)、夜八夜(よやよ)、を遊びたりき」とある。昔は人が生まれたときは「産屋(うぶや)」を作り、人が死んだ時は「喪屋(もや)」というものを作ったらしい。この記事からもわかるとおり、人が死んだときは、その棺を喪屋に安置し、八日八夜というもの「あそび」すなわち歌舞遊宴をしたのである。今日のわれわれからみると、人が死んだとき歌舞遊宴するのは、どうも奇異に感ぜられるが、昔の人は、どうもそうすれば、死人が「蘇生」しはしないか、とのあわい希望をつないだものらしい。
 ここで注意すべきは、「遊ぶ」という語であるが、この南の島々では、それがそのまま、この古い意味に使用される場合が多い。動詞形は、特に「八月踊り」民謡以外は、今日では使用されることは稀であるが、名詞形の「アソビ」は口語で、よく用いられる。これをこの島の習俗なりに解釈するならば「酒肴を設け、歌三味線で踊る」となる。ざわめき踊ることは、邪を払い、神霊を招誘し、死人をも「よみがえ」らせる力があるものと信ぜられたのであろう。ここで思い合わすべきことは、天の石屋戸神話の「天(あめ)の宇受姫(うづめ)の命の舞いである。

 ところで、興味のあることは、以上のべた古事記の葬儀そっくりのことが、沖永良部島のある僻遠な部落では明治の初年まで行われたらしく、明治一〇年鹿児島県の「沖永良部諸改正令達摘要録」には次の記事がある。
 「死人葬式儀は随意に任すといえども、先ず地葬、火葬の二つに有之、当島に於いては近年神葬式に相改め候。爾来地葬すべきは当然に候処或る処は其棺を墓所に送り、モヤと唱ふる小屋内に備置き、親子兄弟等此モヤに到り、其棺を開き見る数回、終に数日を経、屍の腐敗するも臭気を不厭趣に相聞、右は人情の厚きに似たれども、其臭気をかぐものは甚だ健康を害し候は勿論、近傍通行の者といへども、其臭気に触るれば病を伝染し或は一種の病気を醸すものに有之、衛生上甚だ不宜事に付、自今右様の弊習は屹度相改め、死する者は速に埋葬に致す云々論達す」
 この棺を開けて、その臭気をもいとわず、死人の顔をのぞき拝する習俗には、骨肉の情愛堪え難く、七日の間ひたすらその「蘇生」をねがうあどけない原始民的心理がよくよまれる。ここでただちに思い合わされるのは、古事記神代巻の次の記事である。
 「かれ伊邪那美神は、火の神を生みませるに因りて遂に神避ましぬ。 (中略)
 ここに(伊邪那岐命)其妹伊邪那美命を相見まく思ほして、黄泉国に追ひ出でましき。即ち殿騰戸(とのど)より出でむかへます時に、伊邪那岐命かたらひ給はく「愛(うつく)しきあが那邇妹(なにもの)命、吾汝(あれみまし)と作れりし国、未だ作り竟へずあれば還へりまさね」と宣り給ひき。ここに伊邪那美命の申し給はく「悔(くや)しきかも、速(と)く来まさずて、吾(あ)は黄泉戸食(よもつへぐ)ひしつ。然れども愛しき我が那勢の命、入り来ませる事かしこければ還りなむを、先づつばらかに黄泉神とあげつらはん。我(あ)をな見給ひそ」かく申して、其殿内(とのぬち)に帰り入りませる程、いと久しくて持ちかね給ひき。故(かれ)左の御美豆良(みみづら)に刺(ささ)せる湯津津間櫛の男柱(をはしら)一つ取り闕(か)きて、一つ火ともして入り見ます時に、蛆(うじ)たかれとろろぎて、御頭(みかしら)には大雷(おおいかづち)居り、御胸には火雷(ほのいかづち)居り、御腹には黒雷居り、み陰(ほど)には折(さく)雷居り、左の御手には若雷居り、右の御手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足に伏雷居り、并せて八(や)くさの雷神なり居りき。」
 この中には、確かに風葬の面影が、うかがわれるであろう。奄美大島本島下方の「イャンヤ」には、またこの反映がうかがわれる。
 日本本土では、信濃の「うばすて山」の伝説が事大きく浮かび上がっているが、これもつまりは、風葬の名残りにすぎない。

 奄美の島々に行なわれたと思われる風葬様式には、どうやらほぼ二つの型が認められる。私は便宜上これを「いわや」型と「もや」型に大別して見ることにする。この二つの型は、名称もまた葬儀そのものも混態をなしている場合もあるが、大体において「いわや」型は、部落を離れた山間や海岸の岩窟が、死体の葬所であり「もや」型は大体において、部落内部の平地の草木に覆われた荒地であったろうと思われる。
 何だか英語のチャーチ・ヤードとセメタリ―の区別に似ている。
 ここで、考えなければならぬことは、「文化」というものは、短波ラジオ受信のようなものであるということである。心のスイッチをひねって、諸外来文化を吸収することを知らない孤島、その孤島内でもまた「ひだり島」と称して交通の不便な部落は、それだけ古い文化が保持され、また同じ部落内でも、心のスイッチを入れて、諸外来文化を吸収する階層と、そうでない階層の間には、驚くべき文化的水準の相違がある。それはまったく時代を超越する。
 この島のわれわれが古事記を読み、身近に感ぜられるのも、千年は一日の如く、新しい文化の電波を受信しなかったためであり、同じこの島内部でも、経済を基礎とする部落部落の階層により、また交通不便な部落で、つい近代までも風葬が守られたのも、こうした事情によるものであろう。

 まず「岩屋」型から記してみる。何だか、これが古い型のように思われる。
 本島の下方の古仁屋の西方沿岸に位する手安(てあん)部落と須手(すで)部落の間の山間に「イャンヤ」と称する岩窟があるが、これには人骨が納められてある。
 伝説によれば、昔この地方が敵に攻められ、須手部落の者たちは、難をのがれて、この岩窟に隠れ、岩屋の戸をとざして、息を殺していると、未明に、その近くで鶏が鳴き出し、敵の知るところとなって、洞中の者は皆殺しにされた。その遺骸が今日見られる人骨だとのことである。そのため、須手部落では今日までも鶏は育たないといわれている。鶏が鳴くと夜が明けることから岩戸が開くと懸ける信仰からくるものであろう。これですぐ思い合わされることは天岩戸神話の「常世(とこよ)の長鳴鳥」である。
 ついでではあるが、南島方言には「スデュル」(すでる)という語がある。蛇やえびなどが「脱皮する」、卵が「孵化する」を意味する語である。「スデゴ」(すで皮)といえば蛇やえびなどの脱皮したあとの抜け殻をいう。なお「すでる」には、生まれる、よみがえるという比喩的意味もある。孵化しない卵を「スモリ卵」、蘇鉄などの実がもう木になったまま朽ちて、叩いても破れにくいものを「スモリ」(巣守)というからには、「巣出る」がその語源であろう。これは、ここで思い合わすべき語で、生が「すで」ならば、死は「スモリ」であろう。ところで、この須手という部落名は、その音が「スデル」と同じいので、そこに類推がはたらいて、いろいろの民間説話を生じている。たとえば須手の女が蛇の子をぞろぞろ生んだというなどが、その一例である。
 次に本島宇検湾入口にある無人の小島「伊里離れ」には、モーヤ、または、イャンヤと称する小型の岩窟が、いくつもあって、人骨が納められてある。本島上方戸口部落に近い離れにもこんな洞窟があり、人骨がカメに納めて並べてあるらしい。
 徳之島平土野部落近くの海岸の絶壁の上には「インノジョウフタ」(岩屋戸の意味であろう)と称する岩洞があり、人骨が納められ、近頃は、その前に鳥居まで建てられ祭られている。伝説によれば、慶長一四年島津氏が琉球征伐の際、この島を攻め、村人はよく策をめぐらして島津勢を悩まし、その多くを薙ぎ倒した。その遺骸が今日この洞穴に納められた骨だという。また、これは当時琉球から派遣された援兵の遺骨だともいっている。今日でも時とすると、この洞窟から、泣き声と交じって歌三味線の声が聞こえてくる。その歌三味線の調子が琉球のそれなので、これは、きっと琉兵の遺骨に違いないとも伝えられる。
 これこそ、実は、この部落の祖先たちが骨肉の死に会って、七日の「あそび」をなした際の歌三味の余韻が「無意識」の伝統となって、村人に、時々かかる仮幻を生ずるのであろう。
 次に喜界島の塩道部落の奥地に「鬼がま」と称する岩窟があって、人骨が入れられてあるとのことである。伝説によれば、昔ここに人喰男が住んでいて、村里に出て人をさらっては、ここで煮て喰うので、鬼と呼ばれていた。ある日、その妹が、自分の兄は山に入って鬼になっていると聞いて、兄を捜して山に入ったところ、果して、兄を捜し当て、互いに涙を流して再会を喜んだ。見ると側(そば)では、大鍋にごとごと何か煮ている。兄は妹にこの鍋の蓋(ふた)をあけてはならないよといい捨てて、自分は包丁を研ぎに側の小川へ下りていく。妹は好奇心にかられて、鍋の蓋をあけるとびっくりしたことには、それは人間の肉である。入墨をした手甲がみえたので、これはきっと若い女だと知り、いよいよびっくりしているところへ兄が帰ってきて、「あけるな」とかたくいいつけた蓋をあけているので、大いに怒り、妹に襲いかかった。妹は、この鍋の蓋を頭にかざして、一生懸命に逃げたが、その鍋の蓋の呪力で難をのがれたとのことである。これもつまりは、風葬の跡であろう。
(つづく)

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更新日/2001年5月18日
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