シェークスピア 『リア王の悲劇について』

 

はじめに

 暴君であったリア王は、3人の娘たちにそれぞれ自分に対する忠誠心を語らせ、彼女たちの愛情の度合いに応じて領地を分け与えようと考える。ところがリアは二人の姉の追従を信じ、口先だけの甘言を嫌うコーディーリアの愛情を見損なったために、領地を手にした二人の姉たちに追い出され、地獄のような辛酸を嘗める。
 リア王に関する評論をあまり読んだことははないので評論の世界でどのような解釈があるのか知らないが、『リア王』のテーマが上に書いたような裏切られた父性愛であるとか、姉たちの追従を見抜けなかったところにリアの悲劇の原因があるといった見方が、よくなされているように思う。ごく表面的に読むと、利己的で追従の上手な姉二人とコーディーリアの対立や、追従を信じ誠実なコーディーリアを斥けたことに対するリアの後悔がこの作品のテーマであるという印象を受けるかもしれない。しかしシェークスピアが描こうとしたテーマはこのような家庭内の悲劇ではなく、その背後にあるもっと巨大な流れであると考える。シェークスピア研究家のモローゾフはシェークスピアの時代背景について次のように述べている。

数世紀のあいだ永遠にびくともしないとみられていた古い、封建的な世界は、新しい資本主義的諸関係によって、その土台からゆすらぶられはじめていた。

『リア王』の背景となっているのは、このような急激な社会変革の時代である。この背景のもとに、領地を分割することによってリアが何を望み、その望みがどのように打ち砕かれてゆくのかを考えることが、リアの悲劇の意味を解きあかす契機になると思われる。

 

リア王

 老齢に達したリアは王としての勤めを果たすことが辛くなり、また時代の流れについてゆくだけの力量も失っていた。そこで領地を娘たちに譲りわたし、王の称号だけを手元に残して引退することを決心した。リアのこの決心は側近であるグロスターにとっても「虻にでも刺されたように突飛なこと」(斉藤勇訳)であったと書かれている。このような思い切った王権の譲渡は、誰もが予想しないことであった。
 リアは領土を三つにわけ、長女ゴナリルと次女リーガンにはまったく平等なふたつの土地を、もっとも可愛がっていたコーディーリアにはそれより「一段ゆたかな三分の一」(坪内逍遙訳)を分け与えようと考えた。公平な領地の配分によって「永く未来の争根を絶たんがため」(同上)である。当時周辺諸国で実際に生じていたであろう領地をめぐる肉親同士の争いが、リアにこのような方策をとらせたのかもしれなかった。リアは自分の死後娘たちやその婿たちが領地をめぐって醜い争いを起こすことを望まなかった。自分が生きているうちに平等に領地を分け与えることで、一族の平和と安泰が守れると考えていた。
 
 リアは一族の安泰のために領土を平和的に分割する方法を選んだ。しかし国内外の情勢が不安定なこの時代にあって、このやり方は為政者として賢明な方法ではなかった。外国の侵略を防ぎ国力を増すためには、国家のさらなる統一が必要であった。リアのやり方は娘たちに中途半端であてにならない権力を与えることを意味していた。一族の安泰と平穏な余生願うリアの望みと時代の流れがぶつかり、悲劇が生じる最初の結び目がこの時出来上がった。

 第一幕の王権譲渡の場面では、露骨な追従を口にする姉たちと誠実なコーディーリアの対比や、リアとコーディーリアの対立が前面にあらわれ、リアをとりまくこのような社会的背景は背後に押しやられている。リアを諌めるケントの忠告も、領土を分割し王権を譲り渡すこと自体に反対しているのか、コーディーリアの勘当に反対しているのかはっきりしない書き方になっている。
 ところでこの場面でコーディーリアやケントに激しい怒りをあらわすリアは、愚かな暴君のように見える。逍遙が述べているように、リアの振る舞いは頑迷でわがままである。しかしリアの行動を全体として見るとき、その内容は暴君とは言いがたいものであることに注意する必要がある。

 リアは一族の結束や愛情を重んじる人間であり、リアのこの価値観をもって考えたとき、三人の娘たちに自分の愛情通りに領地を分け与えてやり、一切の国務執行権を与えてやり、このような娘たちへの愛情に対して当然娘たちの方も自分に対して深い感謝の念と愛情を注ぐであろうと考えることは、リアにとってはごく自然なことであった。リアは自分に対する愛情の度合いによって領地を分け与えようとしたのでも、娘たちの愛情をためそうとしたのでもない。領地を譲渡することも領地の配分の仕方もリアにとってはすでに決定ずみのことであった。ただ、このような巨大な恩恵と娘たちへの愛情に対して、王として長年敬われ続けてきた人間らしく、耳ざわりのよい感謝の言葉を聞きたかっただけである。

 この気まぐれはリアにとっては些細なことであり、3人の娘たちは当然自分への愛情を誓うであろうとリアは考えていた。ところがリアの知らないうちに娘たちはリアとはまったく違った価値観を身につけていた。二人の姉たちは一族の結束や愛情といった、リアが全盛の時代には国の安泰とも一致していたであろう価値観よりも、個人の利益の方を重要視するようになっていた。一方のコーディーリアは我が身の利益のためにはおべっかも辞さない姉たちへの批判意識を身につけ、リアと対立してでもその信念を貫こうとした。リアが名実共に王として君臨していたころには表面に現れなかったこういった価値観の対立が、リアの引退を契機にして表面化することになった。

コーディーリアは勘当され、フランス王に嫁いだ。王権の譲渡から幾日もたたないうちに、世間では早くもゴナリルの夫オールバニ公とリーガンの夫コーンウォル公のあいだに戦が始まるという噂が流れていた。楽隠居を決め込んでいたリアの耳には、世間のそんな噂も入らなかった。リアは父親として当然娘たちの手厚い世話を期待していたし、また広大な領地を譲ってやった返礼として自分が余生の慰みに従えている百人の騎士を養うことぐらいはたやすいことだと考えていた。しかし中途半端な権力を与えられ、不安定な地位にいるゴナリルにとって、リアの従える百人の騎士は脅威であり、リアが手元に残している王の称号は目障りであった。

武士を百人も! 事がありゃ直ぐ役に立つやうに、武士を百人も附けておくといふのは、ほんとに用心のいゝ、聡明な為方です。はい、聡明な為方ですよ。たわいもない邪推や空想や噂や苦情の起るたびに、気に入らんことのあるたびに、あれらを老耄の後押に使はせて、わたしどもに対する生殺与奪の権を握らせておくといふのは・・。

 ゴナリルは騎士の数をめぐってリアと仲違いしたあと、リーガンが自分と同じようにリアを拒絶すればそれでよし、「若しわたしの忠告に関わらず、彼女が父と其百人のお附きとを歓迎するやうなら・・・」と、妹夫婦との衝突をすでに計算に入れている。一方のリーガンは父親と姉のどちらにつく方が得策かをうかがっている。一族の結束を何よりも重んじ、国家の平安もこのような結束の上に築かれると信じてきたリアには、新たな時代の動きの中で生じてきた娘たちのこうした欲望や打算がまったく理解できなかった。騎士の数をめぐって二人の娘たちとリアの間に言い争いが起こったとき、リアは娘たちの態度の中に父親に対する忘恩と裏切りのみを見た。

こんな晩に閉め出すとは! ・・・おゝ、リーガン! ゴナリル! 汝等の齢を取った、慈愛ぶかい父を、惜気もなく、有ッたけを与れてやったものを……おゝ、そんな風に考へると気が狂ふ。

 娘たちが抱いているさまざまな思惑は、リアにはまったく思い及ばないことだった。誠実なコーディーリアを斥けたという後悔と、巨大な恩恵と愛情を注いでやった娘たちに裏切られたという思いがリアを狂気に陥れる。娘たちの冷淡な仕打ちに苦しみ涙をこぼすリアは、コーディーリアやケントを斥けた高圧的なリアとはイメージが違うように見える。しかしリアが何度も自分のことを「慈父」と言っているように、実際リアは愛情深い父親であり、その愛情に従って行動している。ただリアの価値観からすれば王たる自分への服従と一族の結束や愛情、さらには国家の安泰とは切り離せないものであり、王の命令に従わない人間を見過ごすことはできなかった。リアが王として君臨している間は、その権力を恐れ、あるいは打算から多くの人間がリアに本音を見せなかった。その権力を失ったとき、今まで自分に忠実に見えた態度が実際はみせかけだけの愛情や追従にすぎなかったことを、リアは初めて理解した。

おゝ、小さい小さい過失が、どうしてコーディーリャの場合には醜悪に見えたぞい! 拷問機械か何ぞのやうに、其小さい過失めが予が本具の性情を正当の位置から捻ぢ曲げ、予の心から悉く慈愛を抜き去り、苦い、酷い心ばかりを附加へをった。おゝ、リーヤ、リーヤ、リーヤ!

 リアは娘たちのために自分の持てるものすべてを投げ出した。リアが権力を娘たちに譲り渡さず、領地を与えることもせず、相続の決定権を死ぬまで手元に残していたら、リアは娘たちにもっと大切にされたかもしれないし、こんな苦しみを嘗めずにすんだかもしれなかった。道化が冗談めかして何度も言っているように、手元に何の保証も残さずすべての権力を娘たちに譲り渡したリアは愚かであった。しかし一族の争いを避けたいというリアの望みに対しては、リアのとった方法が間違っていたとも言えないことに注意する必要がある。リアが権力を持ち続け王として無事余生を全うしたとしても、リアの死後いずれ一族の争いは生じたかもしれなかった。リアはそれを避けるために、自分が生きているうちに領地の分割を遂げようとしたのである。

 リアの窮状を救うために、フランスへ嫁いだコーディーリアが軍を率いてブリテンに上陸する。社会の変動は「都会には暴動、地方には騒擾、宮中には謀叛人・・」という状況を生み出しており、この現状に不満を抱く者たちがリアの側につき、乱世の様相が深まる。コーディーリアはこの戦が「功名を目的の慢心なんぞ」の為ではなく老齢のリアを「元の通り、王位にお即け申したいと思ふ」孝行心からであることをはっきりと述べているが、コーディーリアの意図がどうであれフランス軍の侵攻はブリテンの領土を狙う侵略戦争であると見なされる。ゴナリルの夫オールバニ公は歳老いたリアを追い出した妻の所業を憎み、リアに忠義を尽くしたいと考える。しかしフランス軍が国の安泰を脅かしているという事態を前にしては、とりあえず妻たちと手を組んでコーディーリアの軍勢と戦うことを余儀無くされる。リアの嘆いた「運命」の導きによってすべてが争いの中に巻き込まれ、悲劇的な結末へと向かっている。結局リアが避けようとした一族同士の血で血を洗う争いは生じるのであり、オールバニ公が再びブリテンを統一することで「リア王」の悲劇はようやく幕を閉じる。

 時代の転換期に生きたリアには家族の愛情のなかで「身になり、静かに死の近づくのを」待つことは許されず、一族や反目する諸侯たちの血みどろの争いを避けることはできなかった。「有ッたけをくれてやった」娘たちに裏切られたという思いがリアを狂気に陥れたが、その裏切りをおぎなってあまりあるコーディーリアの愛情もリアの悲劇の解決にはならない。リアの悲劇を生み出し解消してゆくのは孝心や忠義といった個人的な誠意の手にあまる「運命」の力である。

どうぞ泣いて下さるな。お前さんが毒を飲めといへば、わしァそれを飲みまする。お前さんはわしを愛してはをらん筈ぢゃ。何故なれば、姉のやつらは、たしか、わしを酷い目に遭はせをったやうに思ふ。お前はわしを憎む理由があるが、あいつらには無いのぢゃ。

 リアにもっとも残酷な苦しみを与えたのは、娘たちの不実と、不実を取り繕う甘言を信用し誠実なコーディーリアを追放したという自らの過ちに対する激しい後悔である。リアがこのことを繰り返し嘆いているために、リアの悲劇の原因は真実の孝心を見抜けず偽りの甘言に乗せられたことにあるように見える。しかしリア自身が次第に自分の悲運はそのような単純な原因だけでは説明できないことに気付いてゆく。リアの運命は過酷であるが、自分の「運命」が何かもっと動かしがたい、大きな流れの中に置かれているということを漠然と感じたとき、リアは心の落ち着きを取り戻す。

あの金燦爛の蝶々めを笑うたり、憫然な奴輩が来て宮中の噂をするのを聞いては、其相手になって、誰は勝つの、誰は負けるの、誰は盛えるの、誰は衰へるのと、神様の斥候でゝもあるやうに、世の成行の秘密をも予言せう。さうして四方壁の牢屋の中で長生をして、月の光りで満干する頭領連の党派争ひや其衰滅の跡をも見よう

 コーディーリアの介抱で正気を取り戻したあと、捕虜としてブリテンに捕らえられたリアはこのように語っている。ここにはちょっとした行き違いからコーディーリアを追放した頑迷なリア、あるいはわが子の不実を憎み嘆くリアとは違う、自らの「運命」を理解しはじめたリアの新しい姿が浮かびあがっている。

 奸計によってコーディーリアが殺され、長年リアに忠義を尽くしたケント伯やグロスター伯も表舞台から消える。リアもまたその過酷な「運命」の中で力尽きる。

一等齢を取ったお人が一等難儀をなされた。齢の若い吾々は、決してこれほどの難儀もすまいし、又、これほどの長生もすまい。

 若いエドガーの台詞で終わる悲劇の幕切れは、リアの悲劇を経て、新しい時代が到来することを予感させる。

(1998/12/7-24 NIFTY SERVE 文学フォーラム 13番会議室 (一部修正))

 

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